第38話 領地に到着。しかし、そこは代官に荒らされた貧乏領地だった
辺境への旅路は、思っていたよりもずっと賑やかで、そして思っていた以上に致死量レベルで甘かった。
密室の馬車の中で推しに膝枕をされ。
盗賊襲撃イベントでは、推しの圧倒的な剣技をVIP席で観覧し。
夜営では当然のように隣(ゼロ距離)へ座らされ、朝になれば「寒い」と言い訳されて同じ外套へ包み込まれ。
……ええ。
新婚旅行としては、オタクの残機がいくつあっても足りないほど大変素晴らしかったですわ。
領主の赴任の道中としても、まあ、順調だったと言えるでしょう。
けれど。
そんな甘すぎる旅路の終わりに見えてきたフェルド辺境伯爵領は、私の胸を躍らせる“神聖なる聖地”とは、だいぶ違う顔をしていた。
「……見えてきた」
クライス様が低く告げる。
私は馬車の窓辺へピタリと身を寄せ、外を見た。
緩やかな坂を下りた先、広くひらけた平野の向こうに、領都の分厚い城壁らしきものが見える。
そのさらに奥には、少し高い位置に建つ威風堂々とした石造りの館の影。
周囲を囲む峻険な山と、深い森。
春の空の下に広がる広大な景色そのものは、確かに美しい。
(まあ……あれが……!)
クライス様の故郷。
私の最愛の推しが生まれ育ち、木剣を振り、伯爵家の跡取りとして生きてきた土地。
その事実だけで、本来なら私はもっとこう、胸の前で手を組んで感極まり、尊さに涙を流していてもおかしくなかった。
だが、窓越しの景色を冷静に観察した瞬間。
私の中の高揚感は、全く違う種類の『底冷えする感情』へと置き換わっていた。
「……おかしいですわね」
私がポツリと呟くと、クライス様がこちらを見た。
「何がだ」
「畑ですわ」
私は窓の外を指差した。
「春の種まきの時期のわりに、あまりにも土が痩せて(死んで)おります」
街道沿いに見える農地は、まばらだった。
手入れされた区画もあるにはある。だが、その多くが中途半端に放置されて荒れている。
土の色は栄養を失って薄く、畝の間隔も素人仕事のように揃っていない。
生命線であるはずの水路も、ところどころ崩れたまま放置されていた。
前世からあらゆる領地資料を読み込んできた私の目には、ハッキリと分かる。
これは“辺境で土地が貧しいから仕方ない”というレベルの、自然な荒れ方ではない。人災だ。
「……ああ」
クライス様の声も、地を這うように低かった。
「俺も、そう思っていた」
馬車はそのまま領都へ近づいていく。
すると今度は、城壁外の集落が見え始めた。
家々の壁はくすみ、屋根の一部は補修が間に合っておらず雨漏りの跡がある。
子どもたちは走り回っているが、服が痩せている。
いや、服がではない。服の中身が、だ。
肩や頬の線が、栄養不足で薄い。大人たちも、活気というより『明日の見えない疲労』が先に立っている。
通りを歩く領民たちが、豪華な馬車であるこちらを見る。
その視線に浮かぶのは、新しい領主への期待や好奇心より先に、怯えたような警戒と、諦めに似た暗い色だった。
「…………」
私は無意識に、ギリッと唇を引き結んでいた。
新しい領主夫妻が赴任してくるのだ。
本来なら、もっと街全体にざわめきがあってもいい。期待でも、不安でも、何でもいいから、もう少し『生きた空気』が流れるはずだ。
それがない。
あるのは、“また自分たちから搾取する偉い奴が来た”という、冷え切った受け止め方だけ。
「ルシア」
「はい」
「顔が怖いぞ」
「そうでしょうとも」
私はニッコリともせず、氷の令嬢の顔で答えた。
「だって、愛するクライス様の領地が、明らかに『不自然に痛んで』おりますもの」
「……」
「痛んでいる、で済めばまだよろしい方ですわね」
クライス様は何も言わなかった。
けれど、その横顔の輪郭が、戦場で魔物と対峙する時よりも鋭く、冷酷に見えた。
この人も気づいているのだ。
自分の故郷が、自分が守るべき領地が、正常ではない(誰かに食い物にされている)と。
◇ ◇ ◇
領都の正門をくぐる時、出迎えは一応、形だけは整っていた。
一応、である。
門兵は並んでいる。役人らしき男たちも頭を下げる。
だが、その列はどこかチグハグだった。
制服の手入れが不十分でシワだらけ。靴は泥が乾いたまま。掲げられた伯爵家の旗の端はほつれている。
歓迎の言葉を口にする声にも、全く張りがない。
その中心に立っていたのは、よく肥えた腹の出た中年男だった。
艶のありすぎる、辺境には似合わない悪趣味な服。
太い指にいくつも嵌められた金ピカの指輪。
髪には香油を塗りたくったような照り。
顔には権力者に媚びへつらうような笑み。
そして、その奥の濁った目だけが、まるで笑っていない。
「ああ、これはこれは! クライス様! そして奥方様! ようこそ、ようこそ辺境フェルド伯爵領へ!」
男は芝居がかった大仰な仕草で、深く頭を下げた。
だが、その動作にはどこか『若い新領主を舐め腐った』ような軽薄さがあった。
「長らく留守を預かっておりました、代官のグレゴール・バルデンにございます!」
「……」
クライス様は馬車から降りたまま、その男を絶対零度の目で見下ろす。
「久しいな」
「ええ、ええ! クライス様が王都で華々しくご活躍なさる間、この私が誠心誠意、血の滲むような思いで領地を守ってまいりましたとも!」
その瞬間。
私のこめかみで、何かがピキリと音を立てて引きつった。
誠心誠意?
守ってきた?
あの痩せた領民と、荒れた畑の有様で?
私は馬車の窓から、代官をジッと観察する。
服地は最高級。腹回りは贅沢の極み。靴も王都の流行りの上等な品。
しかも、すぐ後ろに控える書記役らしき小男は、怯えた目でしきりにこちらと代官の顔色を窺い、口をつぐんでいた。
……分かりやすすぎますわね。三流の悪役のテンプレですわ。
クライス様は短く言った。
「屋敷へ案内しろ」
「もちろんでございますとも!」
代官グレゴールは、揉み手でもしそうな勢いで道を開ける。
「すでに豪華な歓迎の宴も準備しておりまして! いやあ、辺境ゆえ質素ではございますが、都会育ちの奥方様にもきっとご満足いただけるかと!」
私はその言葉に、ようやく淑女の微笑みを浮かべた。
「まあ、それは楽しみですわね」
「はい?」
代官が一瞬、キョトンとする。
「ええ。何しろ、領地の現状(民の生活)がこれほど“素晴らしい”のですもの。今夜の宴のお金が『どこから捻出されたのか』、わたくし、とても興味がございますわ」
「…………」
代官の脂ぎった笑みが、わずかに引きつった。
よろしい。
今のジャブで、何かしら腹の底に刺さったようですわね。
クライス様の横を歩きながら、私は誰にも聞こえない声で静かに囁いた。
「真っ黒ですわ。確定です」
「ああ」
「しかも、隠蔽工作がだいぶ雑です」
「それも分かる」
「安心いたしましたわ」
「何がだ」
「私だけが怒り狂っているのではないと、分かりましたもの」
クライス様は一拍置き、それから地を這うような声で低く答えた。
「俺の方が、殺したいほど怒っている」
「……それは大変結構ですわ」
思わず口元が少しだけ緩む。
怒っている時のクライス様は、氷点下なのに妙に雄みがあって頼もしい。
そして今の限界オタクの私は、その推しの怒りへ、全力で便乗して暴れ回る気満々だった。
◇ ◇ ◇
屋敷へ通されて、まず私が見たのは。
不自然なほどピカピカに磨かれすぎた、正面玄関だった。
「…………」
私は無言になる。
玄関『だけ』が綺麗なのだ。
いや、綺麗すぎるとすら言っていい。
床は鏡のように磨かれ、飾り壺には真新しい高級な花、壁の燭台も不自然なくらい念入りに磨かれている。
けれど、本当にそれだけだ。
少し奥の廊下へ目を向ければ、長年使われないまま擦り切れて傷んだ絨毯。
端のほつれた安物のカーテン。
隅の装飾棚には、うっすらと拭き残しの埃。
並んで出迎える使用人たちの制服も、一応揃ってはいるが、よく見ればツギハギや補修の粗が見える。
玄関だけ見栄えを整え、見えない奥は放置(予算削減)。
典型的な“中央の監査(上)へは誤魔化し、現場(下)の予算は削って自分の懐に入れる”手口である。前世のブラック企業で散々見た光景だ。
「よくお戻りでございました、旦那様」
列の先頭で、白髪交じりの老家令が深く、痛切な思いを込めるように頭を下げた。
その震える声を聞いた瞬間、私は少しだけ救われた気持ちになった。
この方だけは違う。動作に、この伯爵家への深い誠実さと忠誠心がある。
クライス様も、この日初めて、わずかに表情を和らげた。
「変わりないか、ハインツ」
「変わりなく、と申し上げたいところですが……」
老家令ハインツは、チラリと代官の方を見て言葉を濁した。
それを見て、代官グレゴールがすかさず間へ割り込む。
「いやいや、多少の混乱はございましたが、全て私の完璧な采配で丸く収めておりますとも! 辺境ゆえ、些細な不都合はつきもの。ですがクライス様には何もご心配なく!」
「そうですの?」
私はニッコリと、一切の光のない目で笑った。
「では、屋敷の過去三年の補修記録と、領都の税収推移グラフ、昨年からの食糧備蓄量の正確な推移、それから『代官決裁で動かした臨時支出の全一覧』を、今夜中に拝見できるという理解でよろしいかしら」
「…………は?」
「ご提示いただけますでしょう? 完璧な采配なのでしょう?」
「い、いえ、それは、その、長旅でお疲れでしょうし、まずはお休みに――」
「お気遣いなく」
私は笑顔のまま、逃げ道を塞ぐように言い切った。
「わたくし、どれだけ疲れていても裏帳簿の数字は読めますのよ」
「……ッ」
「それとも、わたくしに読まれると、何か致命的に不都合なことでも?」
代官の頬が、ピクピクと痙攣するように引きつる。
よし。
とても分かりやすくて助かりますわね。
クライス様が、横から静かに、絶対的な王手を告げた。
「俺の妻が、見る」
「……は」
「今夜中に、言われた書類を『誤魔化しなく』全部揃えろ」
「し、しかし旦那様! 長旅の直後に、奥方様へそのような面倒な雑務を――」
「雑務ではございませんわ」
私は優雅に扇を広げるように返す。
「領地の現状把握(監査)は、次期伯爵夫人として当然の仕事ですもの」
「……ッ」
「それとも代官殿は、わたくしが数字も読めぬ、ただのお飾りの妻だとでも?」
「め、滅相もない!」
「でしたら話は早いですわね」
私はニッコリと微笑んだ。
代官は、その完璧な笑みに、うっすらと冷や汗をにじませていた。
◇ ◇ ◇
夜。
歓迎の宴なるものは、案の定、見栄えの質だけはやけに良かった。
高級な肉料理、王都から取り寄せた濃い酒、見た目ばかり華美な皿の数々。
だが、それらを一目見ただけで私はハッキリと理解した。
ああ、これは完全に“上(領主)の目を誤魔化すための、一時的な金の使い方”ですわね、と。
領民の顔は痩せ細っている。
畑は荒れ果てている。
魔物から守る城壁の補修も甘い。
それなのに、この食卓だけが無駄に豪華。
何ですのこれ。
私(限界オタク)に、喧嘩を売っていらっしゃるのかしら?
クライス様も、不快そうにほとんど料理に手をつけなかった。
私も最低限の貴族の礼儀だけで一口で済ませる。
代官だけが一人、愛想笑いを浮かべながら、焦りをごまかすように酒を煽っていた。
そして宴が終わり、ようやく執務室へ案内させた時。
机の上にドサリと積まれた帳簿の量を見て、私は静かに笑った。
「なるほど」
そこには、一見すれば綺麗に整っているように見える帳簿の山があった。
年次収支、領都管理費、農地税、備蓄記録、交易収入。
紙の質は揃えられ、字面もきれいで、印もきっちりと押されている。
だが、綺麗すぎる。
『プロの横領犯』が作った、完璧なダミー帳簿だ。
「クライス様」
「何だ」
「これは」
私は一番上の帳簿をパラパラとめくりながら答えた。
「相当、徹底的に荒らされておりますわ」
「……そうか」
「ええ。しかもかなり悪質です」
「どれくらいだ」
私は、冷たい怒りを込めて薄く笑った。
「私の尊い推しの領地(聖地)を、ここまで好き放題に食い物にされたの、わたくし、前世のブラック企業時代を含めても、久しぶりに本気で腹が立ちましたわ」
クライス様が黙る。
その沈黙の温度が、背筋が凍るほど低い。
私はページをめくる。
数字の並びを追う。書き方の癖を見る。
欄外のインクの色の微細な差、月ごとの不自然な予算の増減、食糧支出と民から搾り取った税の全く噛み合わない矛盾。
ああ。
ええ。
そうですわね。
これはもう、言い逃れできる類いの横領ではない。
「代官グレゴール・バルデン」
私は静かに帳簿を閉じた。
「あなたの人生は、次で完全に終わりですわよ」
そして、私の目に、青白い怒りの火が点いた。
愛する推しの領地。
推しが育った神聖な故郷。
推しがこれから命を懸けて守るべき、罪なき民たち。
それを荒らし、食い物にし、私腹を肥やして見栄えだけを繕っていた輩がいるというのなら。
次期辺境伯爵夫人としても。
元・王宮の最強実務担当としても。
そして何より、推しの『限界オタク妻』としても。
――絶対に、五体満足で許すわけがなかった。




