第126話 前夜祭。二つの人生を振り返り、互いの愛を確かめ合う夜
結婚式前夜というものは、もっとこう、厳かで、静謐で、神聖なものだと私は信じていた。
少なくとも、一般的な花嫁というものはそうあるべきだと認識していた。
花嫁は心を落ち着け。
明日の大舞台に備えて、早めにゆっくりと休み。
余計な俗世のことは考えず。
肌と髪のコンディションをエステで万全に整え。
深く深呼吸などをして、優雅にその美しい時を待つ。
そういうものだと。
だが、私の現実はどうだ。
「……無理ですわね。一睡もできる気がしませんわ」
私は、都内最高級ホテルの最上階スイートルームで、窓の外の煌めく夜景を見下ろしながら、わりと真剣な顔でそう呟いた。
無理に決まっている。
明日、私は結婚するのだ。
前世の魔法の世界で一度、生涯の夫になった人と。
今世の現代日本で、もう一度。
名前も、生まれた世界も、すべてを越えて、あらためて。
そんな奇跡みたいな供給を前にして、素面で落ち着いていられる限界オタクがいる方がどうかしているではありませんこと?
しかもである。
さらに状況が悪いことに。
今、私がいるこの部屋は、結婚式前夜のために用意されたスイートルーム。
眼下の夜景は完璧。
内装は最高級で上品。
テーブルにはルームサービスのシャンパンが冷えている。
腰掛けるソファは信じられないほどやわらかい。
照明は、ムードたっぷりにほどよく落とされている。
そして、何より。
「ルシア」
低く、静かに、けれど逃げ場のないほど甘く、胸の奥へ直接落ちてくる声がした。
「……はい」
「さっきから、三回目だぞ」
「何がでしょう」
「ブツブツと、“無理ですわね”と」
「四回目かもしれませんわ」
「増えたな」
「オタクの処理できない感情のバグが、刻一刻と増えておりますので」
「そうか」
クライス様が、バカラのグラスを片手にソファへゆったりと身体を預けたまま、小さく息を吐いた。
その何気ない仕草がもう、ひどくずるい。
仕立ての良い黒いシャツ。
ネクタイを外し、少しラフに着崩した室内着なのに、だらしなさが一切ない。
組まれた長い脚。
緩く開いた襟元から覗く、男らしい首筋。
そして、あまりにも落ち着き払った、彫刻のような美しい顔。
何ですのその、結婚式前夜の『花婿』として完成されすぎた大人の男の姿は。
こちらは内心のBPMがだいぶ大騒ぎで、情緒が迷子なのですが?
「ルシア」
「はい」
「今日は、逃げるな」
「逃げませんわ」
「本当に?」
「逃げませんとも」
私は、震える胸を張った。
「ですが」
「……」
「キャパオーバーで、定期的に処理落ちはいたします」
「それはもう諦めた。好きにしろ」
「賢明なご判断です」
クライス様の氷のような口元が、ほんの少しだけやさしく緩む。
ああ。
はい。
そういう、私だけに向ける顔。
前世から本当に、大好きですわね。
◇ ◇ ◇
私は、彼の隣ではなく、少し距離を置いてソファの向かいに腰を下ろした。
ガラステーブルの上には、軽い前菜と、ホテルが用意した高級なシャンパン。
でも、食欲はあまりない。
いえ、お腹が空いていないわけではない。
ただ、それ以上に、明日のことを思うと胸がパンパンにいっぱいなのだ。
クライス様が、静かな手つきでグラスを軽く傾ける。
「乾杯をするか」
「……」
「前夜祭なんだろう」
「ええ」
私は、自分のグラスをそっと取った。
「そうでしたわね」
「何に乾杯する」
「……難しいですわね」
「そうか?」
「だって」
私は少しだけ、グラスの泡へ視線を落とした。
「前世の、あの神殿での婚礼の前夜にも。……きっと私、似たような落ち着かない気持ちだったはずなのです」
「……」
「でも、今世は今世で」
「……」
「また別の意味で、奇跡みたいで胸がいっぱいで」
「……」
「何へ乾杯すべきか、尊い事象が多すぎて迷いますわ」
クライス様は、私を真っ直ぐに見つめたまま、低く静かに言った。
「なら」
「……」
「この、俺たちの『二度目の奇跡』に」
「ッ……」
ああもう。
さらりと。
息をするように、何でもない顔で。
そういうことをド直球でおっしゃるの、本当にやめていただきたい。
心臓が持たないでしょう。
「……はい」
私は、赤くなった顔で小さく笑った。
「では」
「……」
「私たちの、二度目の奇跡に」
グラスが、静かに触れ合う。
チン、と澄んだ美しい音が、スイートルームの静けさへ甘く溶けていった。
シャンパンをひとくち含む。
細かな泡が舌へほどける。
ひんやりとしているのに、胸の奥は彼への愛しさでひどくあたたかい。
「美味しいですわね」
「そうだな」
「ですが」
「……」
「今の私は、味覚の半分くらいしか正常に稼働しておりませんわ」
「なぜだ」
「あなたが正面にいるからです」
「それは、前世からずっとだろう」
「そうなのですが」
私はグラスを持ったまま、正直なオタクの心を吐露した。
「明日が、あなたとの二度目の『結婚式』だと思うと」
「……」
「この空気は、だいぶ、心臓に危険です」
クライス様の目が、やわらかく細まる。
「明日の式が、楽しみか」
「それはもう、言葉にならないほど」
「……そうか」
「……」
「不安は」
「……少し」
「何がだ。式の段取りか」
私は少しだけ、言葉を探して考えた。
不安。
そう、結婚式そのものへの不安ではない。別の不安がある。
人間は、あまりにも幸せすぎる時ほど、少しだけ足元が怖くなるのだ。
こんなに満たされて、いいのだろうかと。
こんな御伽話の奇跡みたいなことが、本当に私の現実なのだろうかと。
「……夢みたいで」
「……」
「時々、ひどく怖くなります」
「……」
「前世で、私はあなたの隣で、あれほど幸せだったのに」
「……」
「それでも一度、私たちは死によって『終わり』を迎えたでしょう?」
「……」
「だから、今も」
私は、震える手で胸元へ当てた。
「こんなに幸せだと」
「……」
「ふとした瞬間に、またこの奇跡が、朝起きたら夢のように消えてしまうのではないかと」
「……」
「少しだけ、思ってしまうのです」
言ってから、自分の声が思ったより震えて、小さかったことに気づいた。
でも、それは偽らざる私の本音だった。
前世で、私は幸運にもクライス様と夫婦になれた。
家族になれた。
白髪になって老いていく時間まで、一緒に歩けた。
これ以上ないほど、人生で幸福だった。
けれど、その幸福にも、絶対に抗えない『死』という終わりは来たのだ。
天寿を全うする、穏やかな別れの終わりであったとしても。
だから、今世でまたこうして、信じられないような同じ幸福を手にしていることが、時々、ひどく奇跡的すぎて怖くなる。
クライス様は、しばらく黙っていた。
その沈黙に、言葉に詰まって逃げるような気配はない。
ただ、私の弱音の言葉の重さを、真っ直ぐに受け止めてくれている時の、誠実な沈黙だ。
やがて、彼はグラスを置き、静かに立ち上がった。
「……クライス様?」
「こっちへ来い」
「……」
「立て」
「はい」
私は促されるまま、素直に立ち上がる。
クライス様は窓辺へ歩き、そのまま広大な夜景の前で振り返った。
都会のネオンの光が、彼の美しい横顔の輪郭を静かに縁取っている。
「ルシア」
「はい」
「前世の俺たちの生は、確かに一度、終わった」
「……」
「だが」
「……」
「俺たちの魂は、消えてはいない」
「……」
「お前も、俺の愛を覚えている」
「……」
「俺も、お前との日々を全部思い出した」
「……」
「その二つの魂が、今、確かにここに繋がっている」
彼の声は低い。
でも、その低さの中に、私を縛り付けるような確かな『熱』があった。
「だから」
「……」
「これは、儚い夢ではない」
「……」
「二度目だ」
「……」
「消えたのではなく」
「……」
「俺はお前の元へ、必ず戻ってきたんだ」
「ッ……」
私は、堪えきれずに思わず目を閉じた。
ああ。
そうですわね。
消えたのではない。
終わってしまったのではなく、また巡ってきたのだ。
あの人と生きた愛しい時間が。
愛した記憶が。
そして、二人の続きを生きる、新しい機会が。
「ルシア」
「はい……」
「お前が不安で怖くなるなら」
「……」
「何度でも言う。何度でも証明してやる」
「……」
「俺は、確実にここにいる」
「……」
「明日も」
「……」
「明後日も」
「……」
「この先の永遠も」
彼は一歩、私へ近づく。
「俺は、お前の隣にいる」
「……ッ」
私は、大粒の涙がこぼれそうになるのを、どうにか笑って誤魔化した。
「……ずるいですわ」
「またか」
「またです」
「何がだ」
「そのように」
私は、少しだけ震える声で言った。
「私が一番欲しかった絶対的な言葉を」
「……」
「1ミクロンの迷いもなく、一番痛いところへ置いてくださるところが」
クライス様の目が、少しだけ愛おしそうにやわらぐ。
「お前が欲しがっていると、分かるからだ」
「ッ……」
「昔から、お前の顔を見ていれば」
「……」
「お前が何を不安に思っているかくらい、大体のことは分かる」
駄目ですわね。
本当に。
こういうシリアスな時のこの人、言葉の温度がひどく深くて重い。
◇ ◇ ◇
私は、窓辺へ立つクライス様の隣へ移動した。
東京の高層階の夜景が、眼下に果てしなく広がっている。
光の海。
車の流れ。
遠くのビル群。
前世の王都のガス灯の灯りとはまるで違う。
なのに、どこか同じように、私の胸へ静かに沁みる。
「……綺麗ですわね」
「ああ」
「前世の、神殿の丘から見た王都の灯りも好きでした」
「……」
「でも、今世のこういう都会の景色も」
「……」
「あなたと一緒に見ると、やっぱり私には特別ですわ」
クライス様が、小さく息を吐く。
その横顔へ、ほんの少しだけ意地悪な笑みが差す。
「ルシア」
「はい」
「昔も今も」
「……」
「お前は、景色より『俺の顔』を見ていただろう」
「…………」
私は、図星を突かれて完全に沈黙した。
沈黙したが、否定はしない。
否定できない。
だって100%事実だから。
「……少しは景色も見ておりますわ」
「半分くらいだな」
「七割くらいは見ております」
「残りの三割は俺か」
「……九割かもしれません」
「素直で正直だな」
「今さら強がっても無駄ですので」
クライス様が、喉を鳴らして低く笑った。
ああもう。
笑うだけで空気が甘くなるの、本当にずるいですわね。
「では」
私は少しだけ胸を張る。
「クライス様は、いかがでしたの?」
「何がだ」
「前世も今世も」
「……」
「景色と私、どちらを多く見ていましたの?」
そこで、クライス様がこちらを見る。
真正面から。
静かに。
けれど、ほんのわずかに不敵に、独占欲を滲ませて。
「聞くまでもないだろう」
「ッ……」
「俺は、お前だ」
「…………」
私は、その場で完全に無言になった。
ああ。
はい。
今のカウンター、心臓へだいぶきれいにクリティカルヒットで入りましたわね。
「ルシア?」
「少々、お待ちください」
「何だ」
「今の」
「……」
「だいぶ、深く急所に刺さりました」
「そうか」
「そうです」
「なら」
「……」
「俺はお前しか見ていないと、一生覚えておけ」
「そうやってサラッと追加ダメージを入れないでくださいまし!」
◇ ◇ ◇
しばらくして、私たちはソファへ戻った。
シャンパンは少し減り、部屋の照明はさらに落ち着いた、ムードのある色になっていた。
スイートルーム全体が、妙に静かで、やわらかく甘い。
私はソファの端へ座り、グラスを膝に乗せる。
クライス様はそのすぐ隣へ腰を下ろし、少しだけ間を空ける。
でも、そのわずかな間すら、今の私には彼の体温を感じて、ひどく意識してしまう距離だった。
「ルシア」
「はい」
「前世で、お前は」
「……」
「婚礼の日、神殿で皆の前で言ったな」
「……」
「『一生、俺を愛し続ける』と」
「……ッ」
私は両手でグラスを包み込みながら、真っ赤になって言った。
「王都の大神殿のど真ん中で」
「……」
「国王陛下も、お義父様たちも、騎士団の部下たちも、全員が静まり返って見ている前で」
「……」
「よくあそこまで大声で言えたものだと、我ながら呆れます」
「お前はあの時、かなり興奮していたな」
「とても。推しが尊すぎて限界でした」
「知っている。顔に書いてあった」
「ご存じでしたわね」
クライス様は、少しだけ目を伏せた。
そして、大切な宝物の思い出を確かめるみたいに、ゆっくり言った。
「だが、俺は、嬉しかった」
「……え?」
「お前が、誤魔化さずに隠さなかったから」
「……」
「俺を好きだと。俺の顔がいいと」
「……」
「皆の前で、堂々と」
「……」
「誇らしげに、言ってくれたことが」
「ッ……」
私は、言葉を失った。
前世の私は、羞恥も何もかも吹き飛ぶほど推しと結婚できるのが幸せで、限界オタクの勢いのまま言ってしまったのだ。
でも、そうか。
あの私の狂った愛の言葉は、ちゃんとこの人の心の奥へ、あたたかく残っていたのか。
「……クライス様」
「何だ」
「今世でも」
「……」
「必要なら、また明日の式で言いますわよ」
「何を」
私は、彼を見上げた。
そして、少しだけ悪戯っぽく笑う。
「『この方が、私の宇宙一の最推しです』と」
クライス様の目が、ほんのわずかに驚きに揺れる。
その後で、低く呆れたように笑った。
「必要ない」
「なぜですの」
「会社の連中は皆、もう知っている」
「……え?」
「お前が俺を見る顔を見ればな」
「それは」
私は、真顔で抗議した。
「少々、社会人として恥ずかしいです」
「今さらだ」
「本当に、いつもそればかりおっしゃいますわね」
「事実だからな」
「でも」
私はそっと、グラスへ視線を落とした。
「今世では」
「……」
「前世のオタクのノリより、もっとちゃんと」
「……」
「あなたを深く愛したいです」
「……」
「あなたの妻としても、恋人としても」
「……」
「一人の女性として」
「……」
「全部、誤魔化さずに」
クライス様は、黙って私の言葉を聞いていた。
その沈黙の中にある熱が、ひどくやさしい。
「前世では」
私は続ける。
「最初、私は純粋な“推し”という一方的な気持ちから始まったでしょう?」
「ああ」
「今世も、もちろん、あなたは私の最推しです。それは変わりません」
「……」
「でも、ただ神棚に飾る『推し』という偶像だけでは、もう足りませんの」
「……」
「あなたの不安も、喜びも、不器用な弱さも、わがままも」
「……」
「全部、私に寄りかかってほしい。ちゃんと受け止めたい」
「……」
「それが、今の私の『妻』としての望みです」
そこで初めて、クライス様が深く、感情を抑えるように息を吐いた。
ああ。
そうですわね。
あなた、今、かなり魂に響いていますわね。
「ルシア」
低い声。
けれど、少しだけ情欲で掠れている。
「はい」
「……それ以上は」
「……」
「今、俺にそれを聞かせると」
「……」
「理性を飛ばして、抱きしめたくなる」
「ッ……!!」
何ですのそれ。
何ですの、その、理性がぎりぎり残っていることを前提にした、危険なオスの発言は。
「クライス様」
「何だ」
「結婚式前夜の、この今夜の密室の空気に」
「……」
「そういう爆弾のような言葉を重ねるのは」
「……」
「オタクの心臓に、大変よろしくありませんわよ」
「そうか」
「そうです」
「だが」
「……」
「俺はこれでも、かなり我慢している方だ」
「本当に?」
「かなりな」
「……」
「明日、お前が疲れた顔で式に出ると困るからな」
「ッ……」
ああもう。
そういう、“本気で抑えている”という甘い情報まで、さらっと追加なさらないでいただきたい。
私の顔がカッと熱くなる。
恥ずかしくて視線を逸らしたくなる。
でも、逸らしたくない気持ちもある。
恋人で。
婚約者で。
明日、永遠を誓う夫婦になる。
そういうゼロ距離のこの人と、前夜にホテルで二人きりでいるのだ。
甘くならない方が、どうかしている。
◇ ◇ ◇
「ルシア」
「はい」
「一つ、聞く」
「何でしょう」
「今」
「……」
「幸せか」
私は、その問いに一瞬だけ目を見開いた。
幸せか。
そんなの。
そんなの、聞くまでもなく決まっているではないか。
でも、この人は、こういう大事な問いを、決して雑にしない。
私の本当の答えを、本当に聞きたい時の真剣な声だ。
だから私は、きちんと妻として答えることにした。
「はい」
「……」
「とても」
「……」
「前世で、あなたの妻になれたあの日も、幸せでした」
「……」
「でも」
「……」
「今世で、もう一度ここまで辿り着けたことは」
「……」
「また別の意味で、奇跡みたいで、圧倒的です」
「……」
「だから」
私は、まっすぐ彼の蒼い目を見た。
「今の私は、幸せです」
「……」
「泣きそうになるくらい」
「……」
「胸がいっぱいで、破裂しそうになるくらい」
「……」
「どうしようもなく」
クライス様は、何も言わなかった。
ただ、静かに私のグラスを持つ手を取った。
その手の体温が、じわりと私へ伝わる。
「俺もだ」
短く。
けれど、深く。
そこへ含まれている感情が多すぎて、私はまた少し泣きたくなった。
「ルシア」
「はい」
「前世の『終わり』を知っているからこそ」
「……」
「今世では」
「……」
「一日も、一瞬も、無駄にしたくない」
「……」
「お前と過ごす時間を」
「……」
「全部、俺の腕のなかで大事にしたい」
「……」
「明日も、その先の永遠も」
「……」
「ずっとだ」
私は、震える唇を噛んで、どうにか幸せに笑った。
ああ。
はい。
もう、本当に。
この人はずるい。
「……私もです」
「……」
「一日も」
「……」
「一秒も」
「……」
「無駄にしたくありません」
「……」
「あなたといる時間を」
「……」
「全部、大事にしたいです」
クライス様の親指が、そっと私の手の甲を撫でた。
それだけで、高鳴っていた気持ちが嘘のように落ち着く。
前世でも、そうだった。
今世でも、それは全く同じだ。
◇ ◇ ◇
ふと時計を見ると、もうだいぶ夜更けのいい時間だった。
明日の長丁場のためには、そろそろ休むべきなのだろう。
頭では分かっている。
でも、まだ少し、こうしていたい。
「ルシア」
「はい」
「今日はもう休め。自分の部屋へ戻れ」
「……」
「明日、お前が式で倒れられると困る」
「倒れませんわ」
「前科があるだろう」
「それは」
私は真顔で言った。
「主に、あなたの供給過多のせいです」
「知っている。俺のせいだ」
「でしたら」
「だから言っている」
「……」
「今日は、明日に備えて少しでも寝ろ」
私は、少しだけ拗ねた気持ちになった。
「……クライス様」
「何だ」
「せっかくの、前夜祭なのに」
「……」
「もう少しだけ、こう」
「……」
「二人で、しみじみと余韻に浸りたいのですが」
クライス様の目が、やわらいだ。
そのやわらかさは、完全に私という人間への愛しさへ向けたものだ。
「……俺は、もう十分にした」
「それは」
「……」
「そうかもしれませんが」
「ルシア」
彼は低く、しかしあたたかく言った。
「今夜、無理に長く一緒にいなくても」
「……」
「明日から、死ぬまでずっと一緒だ」
「ッ……」
その一言で、胸の奥がジーンと熱くなる。
ああ、そうでしたわね。
この人はいつだって、今この瞬間だけではなく、その先の“ずっと”を含めて安心する言葉をくれる。
だから私は、この人の言葉に弱いのだ。
「……はい」
私は、ようやく素直に頷いた。
「それなら」
「……」
「今夜は我慢いたします」
「偉いな。いい子だ」
「子供のように褒められると弱いので、おやめくださいまし」
「無理だ」
「そうでしたわね」
クライス様が立ち上がる。
私もそれに続く。
私の泊まる隣の部屋の入口まで、彼がエスコートして送ってくれる。
ほんの数歩の距離なのに、その数歩すら、ひどく名残惜しい。
「ルシア」
「はい」
「おやすみ」
「……」
「また明日」
たったそれだけ。
たったそれだけの挨拶なのに。
どうして、こんなにも甘いのだろう。
「おやすみなさいませ」
私は、少しだけ笑った。
「クライス様」
「何だ」
「明日」
「……」
「とても楽しみですわ」
「俺もだ」
「……」
「世界で一番、綺麗な花嫁(お前)を迎える」
「ッ……!」
ああもう。
最後の最後に。
最後の最後に、そういう致死量の爆弾を落としていく。
私は、顔を真っ赤に茹で上がらせながらも、どうにか口元を引き締めた。
「……では」
「……」
「世界で一番、格好いい完璧な花婿を迎えるため」
「……」
「今夜はちゃんと休みますわ」
クライス様の口元が、フッと満足げに緩む。
「そうしろ」
その甘い一言へ背中を押されるように、私は自分の部屋へ戻った。
◇ ◇ ◇
ふかふかのベッドへ入っても、興奮ですぐには眠れなかった。
でも、不思議と不安はもう1ミクロンもなかった。
さっきまであった、夢みたいで怖い、というざわつきも、今は静かに凪のように落ち着いている。
クライス様が、何度も確信を込めて言ってくれたからだ。
夢ではない。
俺は戻ってきたのだと。
明日も、その先も、ずっと一緒だと。
私は、そっと左手を胸の上へ置いた。
薬指のサファイアの指輪が、暗がりの中でもかすかに星のような気配を持っている。
「……幸せですわ」
小さく呟く。
前世の最悪の出会いも。
戦いも。
婚礼も。
別れも。
そして今世の奇跡の再会も。
全部が、明日へと繋がっている。
二つの人生を振り返り。
二つ分の想いを重ね。
その上で、また同じ人と永遠に結ばれる。
そんな夜の前に、私はちゃんと、愛しているとお互いに確かめられた。
だからもう、大丈夫だ。
明日、私はまたこの人の隣へ立つ。
半歩後ろではなく。
世界で一番近くの、私の『特等席』へ。
「……おやすみなさいませ、クライス様」
そうして私は、ようやく静かな幸福の中で、明日の夢を見るためにゆっくりと目を閉じた。




