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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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115/127

第115話 九条の実家へご挨拶。前世の義両親(転生体)との感動の再会

 日曜の午後。


 私は、都内屈指の高級住宅街にひっそりと佇む『九条家』の立派な門の前で、たいへん静かなポーカーフェイスの裏で、盛大にパニックを起こして取り乱していた。


「……む、むりですわね。逃げ帰りたいですわ」


 九条さんの運転する黒塗りの車を降りた瞬間、私は思わずそう呟いた。


 目の前にあるのは、成金趣味とは無縁の、落ち着いた和モダンな邸宅だった。

 広すぎず、狭すぎず。

 だが、門構えの石の質感から、手入れの行き届いた庭の木々の整え方まで、代々受け継がれてきたような『上質さ』と『気品』が隠しきれずに滲み出ている。


 いかにも、あの完璧な推しを育て上げた“由緒正しき良い家”である。


 けれど、私が深刻な問題として抱えているのは、その敷居の高さではなかった。


「藤咲」

 隣で、休日のジャケット姿の九条さんが、低く呆れたように言う。

「はい」

「さっきから、顔色が赤くなったり青くなったり、忙しいぞ」

「当然ですわ。命懸けの死地に向かう心境ですもの」

 私は真顔で、血走った目で答えた。

「本日は」

「……」

「あなたをこの世に産み落とした、尊い神々(ご両親)にお会いするのですわよ?」

「親を神々扱いするな。変な宗教か」

 私はバクバク鳴る胸元を両手で強く押さえる。

「私にとっては、重大な事実ですわ!」

「何がだ」

「俺の親だ、取って食いはしない」

「よくありませんわ! そんな気安くお会いしていい方々ではないのです!」

 九条さんが、やれやれと小さく息を吐いた。


 でも、その彫刻のような横顔も、いつもより口数が少なく、どこか少しだけ硬く緊張していた。


 ああ。

 はい。

 そうでしたわね。

 いくら完璧なこの方だって、自分の両親へ『恋人(結婚前提)』を紹介するのは、今世の三十年の人生でこれが初めてなのだ。


 そう思ったら、少しだけ、本当に少しだけれど、私の張り詰めていた緊張も落ち着いた。


 ……いえ、落ち着いたというのは虚勢の嘘ですわね。

 限界オタクの理性が、どうにか息を吹き返した、くらいでしょうか。


「九条さん」

「何だ」

「最終確認です」

「……」

「本日は」

「……」

「『社長の有能な秘書』としてではなく」

「……」

「『恋人』として」

「……」

「ご挨拶に伺うのですわよね」

「そうだ」

「正式に」

「そうだ」

「逃げ道なしで」

「ない。諦めろ」

「……ッ」

「今さら、往生際が悪いな」

「やはり、少々、心拍数がエラ―を起こしそうですわ」

「そうか」

「そうです」

「なら」

 九条さんが、私の言い訳を遮るように、ごく自然に私の左手を自分の右手で強く取った。

「行くぞ」

「ッ……」

「震えるなら、手くらいは繋いでろ」

「……」

「恋人なんだろう」

 ああもう。

 その、不器用で男前なエスコートの確認の仕方、本当にズルくて心臓に悪いですわね。


 私は、真っ赤な顔で、そっとその大きくてあたたかい手を握り返した。


「……はい」


 ◇ ◇ ◇


 インターフォンを押し、玄関の重厚な扉が開いた瞬間。


 私は、本気で、息を呑んで硬直した。


「あら、いらっしゃい。お待ちしてましたよ」


 出迎えたのは、花が咲いたような上品な笑みを浮かべた女性だった。

 やわらかな黒髪を綺麗にまとめ、淡い藤色のワンピースを上品に着こなしている。

 年齢を重ねた美しさというものを、そのまま優美な形にしたような人だ。


 そして、その目元。

 人を包み込むような微笑み方。

 相手を一切緊張させない、あのあたたかな距離感。


「……ッ」


 だめですわね。

 見た瞬間に、魂がすべてを理解してしまいますわ。


「藤咲? どうした?」

 九条さんが、急に固まった私を横で小さく問う。

「……いえ」

 私は、どうにか震える声を絞り出した。

「少々」

「……」

「お母様が、お美しすぎて……後光が射して見えましたわ」

「母が、か?」

「はい」

「……そうか。お前は本当に変わってるな」

「ええ、そうですわ」


 違う。

 血縁的には別人だから、違わない。

 違うのに、魂の本質は全く違わない。


 前世で、親の愛情を知らずに育った私を、本当の娘のように愛してくれた義母上。

 あの、品があって、やさしくて、少しだけ茶目っ気があって、いつも私の味方でいてくれた方。

 そのあたたかい空気が、目の前の女性に、確かに寸分違わず宿っていた。


 そしてその女性が、フッとやさしく目を細めた。


「あら」

「……」

「もしかして、あなたが瑠衣さん?」

「は、はいッ!」

 私は反射で、軍人のように背筋をピンと伸ばした。

「藤咲瑠衣と申します! 本日はお休みのところお招きいただき、誠にありがとうございます!」

 そして、思わず、前世の公爵令嬢として仕込まれた最も美しい最敬礼カーテシーの角度で、深々と礼をした。


 現代日本で、彼氏の実家の玄関先でするには、たぶん少しばかり礼が深くて重すぎた。


「まあ」

 女性――九条さんのお母様が、驚いたように目を丸くし、それからクスリと微笑ましく笑う。

「本当に綺麗なお嬢さんね。そんなに堅苦しく緊張しなくていいのよ」

「……」

「ねえ、柊介」

「何だ」

「この子、とても礼儀正しくて、可愛いわね」

「……そうだな」


「ッ……!」


 ああもう。

 いきなり、開幕からそれですの?

 親御さんの前で、そんな素直に「可愛い」と自然に肯定なさるのですか、あなたは。


 私はその場で、赤面して少しだけ目を白黒させた。

 だが、限界化している場合ではなかった。


 奥の廊下から、もう一人、重厚な足音が近づいてくる。


「来たか」


 低く、腹の底に響くような、穏やかな男の声。


 現れたのは、九条さんによく似た、背の高い恰幅の良い男性だった。

 白いシャツに上質なカーディガンという気負わない休日の服装なのに、ただそこに立っているだけで、妙に場の空気がピリッと締まる。

 きちんとした人だ。

 厳格そうで、不器用そうで、それでいて、瞳の奥底の芯のところに深い『やさしさ』が見える。


 その目を見た瞬間。


「――ッ」


 私は、本気で泣き出しそうで危うかった。


 あの目だ。

 前世の、私の尊敬する義父上。

 寡黙で、少し不器用で、でも、心の底では息子のクライス様も、嫁の私も、孫たちも、誰よりも不器用に溺愛してくれていた、あの大好きな方の目そのものだった。


「柊介」

「父さん」

「こちらのお嬢さんが?」

「……ああ」

 九条さんが、繋いでいた私の手を、エスコートするように軽く引く。

「藤咲瑠衣さんだ。俺の会社の秘書室で働いている」

 そして。

 ほんの少しだけ照れを隠すように間を置いて、真っ直ぐに続けた。


「俺の、大事な恋人だ」


「ッ……!!」


 だめですわね。

 正面からその真剣な『大事な恋人』という紹介、だいぶオタクの心臓への火力が致死量ですわね。

 玄関先で血を吐いて即死するかと思いましたわ。


 私は、どうにか弾け飛んだ理性を総動員し、もう一度、今度は現代人らしく深く頭を下げた。


「藤咲瑠衣と申します」

「……」

「本日は、お忙しい中お時間をいただき」

「……」

「本当に……」

 そこまで言って。


 危なかった。

 本当に、前世の記憶に引っ張られて、危うく。


「……お父様、お母様――」


 と、呼びかけそうになった。


「ッ!」

 私は、慌てて口を噤み、言葉を無理やり飲み込んだ。

 だめですわ。

 だめですわよ私。

 それはさすがに、結婚もしていない初対面の彼氏の実家でやってはいけない、ただの『ヤバい重い女』ですわよ!?


「瑠衣さん?」

 お母様が、言葉に詰まった私を見て不思議そうに首を傾げる。

「は、はい」

「どうしたの? 具合でも悪い?」

「いえッ!」

 私は秒速で、誤魔化しの完璧な営業スマイルを作った。

「少々、初めてのご挨拶の緊張で、頭の中の語彙が迷子になりまして」

「まあ」

 お母様が、私の素直な焦り方に、またフフッとあたたかく笑う。


 そして、お父様の方は、私の顔をじっとしばらく見つめたあと、ぽつりと不思議そうに言った。


「……お嬢さん、初めて会った気がしないな」

「ッ……!」


 やめてくださいまし。

 そのセリフは、涙腺崩壊ボタンなのでだめですわ。

 だって、私も魂の底から、全く同じことを思っておりますもの。


 ◇ ◇ ◇


 案内された広いリビングは、やはり九条家の質実剛健な雰囲気によく似ていた。


 落ち着いている。

 上質だ。

 だが、客に見せつけるような嫌味な派手さは一切ない。

 本棚の整然とした並び方も、ソファの座りやすい位置も、季節の花のさりげない飾り方も、全部が生活に寄り添って程よくて、静かに整っている。


「……」

 私はソファの席へ着くまでの間、胸に手を当てて何度も深呼吸した。


 落ち着きなさい。

 今の私は、九条さんの『恋人』であって、前世の『嫁』ではない。

 初対面の義両親へ、再会の感動の涙を流して抱きつくタイミングではない。

 まだ違う。

 今は、現代日本の“彼氏の実家に初めて挨拶しに来た、少し緊張気味の彼女”を演じるのだ。


「お茶と、少しお菓子をどうぞ。柊介の好きなやつなの」

 お母様が柔らかく言う。

「ありがとうございます。いただきます」

 私は美しい所作で微笑んだ。


 運ばれてきたお茶菓子を見て、私はもう一度、オタクの涙腺が危うくなった。


 シンプルな焼き菓子。

 柑橘の香りが少しだけする。

 甘すぎず、でもバターの風味が品よくまとまった、大人な味。

 前世で、義母上がよく「クライスはこれくらいの甘さが一番好きなのよ。内緒よ」と私にこっそり勧めてくださった手作りのお菓子と、系統がそっくりだったのだ。


「……ッ」

「瑠衣さん?」

「はい」

「お口に合わなかったかしら? 大丈夫?」

「いえ、大丈夫です。とっても美味しいです」

 私は、どうにか泣きそうなのを堪えて笑顔を保つ。

「ただ」

「……」

「大変、彼に似合う、彼らしい素敵なお茶菓子だと感動しておりました」

「まあ!」

「よかった」

 お母様は、私が息子の好みを完全に理解していることに、本当に嬉しそうに笑った。


 ああ。

 その笑い方。

 本当に、前世と全く同じで似ていらっしゃるのですわね。尊いですわ。


 ◇ ◇ ◇


 最初の会話は、ごく普通のアイスブレイクだった。


 仕事での関係性のこと。

 出会い(最終面接)のこと。

 いつから付き合っているのか。

 九条さんが会社でどんな様子で働いているのか。


 ……ええ。

 途中までは、とても平和で普通だった。


「へえ」

 お父様が、腕を組んでお茶を飲みながら、静かに言う。

「あの仕事人間の柊介が、自分から『恋人』として実家へ連れてくるとはな」

「……」

「うちにとっては、珍しいどころの騒ぎじゃない。明日雪が降るかもしれん」

「そうなのですか」

 私は思わず、九条さんを見ながら聞き返してしまった。

「ええ、そうなのよ!」

 お母様が、我が意を得たりと楽しそうに頷く。

「この子、小さい頃から変に大人びてて、何でも自分一人で片づけるでしょう?」

「……」

「他人に弱みを見せたり、人へ頼るのが絶望的に下手で」

「……」

「自分が本当に大事にしているものほど、絶対に他人になかなか見せないし、隠すのよ」

「母さん」

 九条さんが、たまらず低い声で制止する。

「何?」

「余計なことは言うな。恥ずかしい」

「事実でしょう? 瑠衣さんにも知っておいてもらわないと」

「……」


 ああ。

 はい。

 その不器用な秘密主義の辺りも、本当に昔から変わりませんのね。


 私は、思わず口元を押さえてフフッと笑った。

 だめですわ。

 それだけで、推しが愛おしくて胸があたたかくなる。

 少々困りますわね。


「でもね」

 お母様が、まっすぐ私の瞳を見て言う。

「今日、瑠衣さんを見ていたら、母としてよく分かるわ」

「……」

「この子が、あなたをどれだけ大事に、特別に思ってるか」

「ッ……!」


 私は、本気で飲んでいた紅茶を吹きそうになった。


「母さん」

「だってそうでしょう?」

「……」

「今日は、さっきからずっと、あなたが無意識に瑠衣さんの隣を気にして、目で追ってるもの」

「……」

「しかも」

 お母様は、ニコニコと悪戯っぽく追撃する。

「今朝なんて、『あいつが来るから、茶葉はあれを出してくれ』って、ちょっと落ち着かなかったし」

「ッ……」

 私は思わず、隣に座る九条さんを見た。


 九条さん、無言。

 だが、耳が真っ赤に茹で上がっている。


 ああもう。

 本当に。

 親御さんの前でも、その分かりやすい反応なのですか。

 何ですのその、無言で図星を肯定して照れてしまう不器用なスタイルは。可愛すぎますわ。


「……」

「……」

「何ですの、社長。朝から落ち着かなかったのですか?」

 私は、どうにか平静を装って、わざとらしく問う。

「……いえ、違う。誤解だ」

 お母様は、私たちのやり取りを見て、ひどくやさしい目で笑った。

「よかったなって、本当に思うのよ」

「……」

「この子が、あなたみたいな素敵な、ちゃんと好きな人を連れてきてくれて」

「ッ……」


 だめですわ。


 そのやさしい言い方は、だめですわ。


 だって、まるで。

 まるで前世で、親のいない私が初めてこの家へ嫁いできた日に、あの方たちが涙ぐんで言ってくださったのと同じ、深いあたたかい温度なのだ。


「瑠衣さん?」

 お父様が、今度は少しだけ低い、心配そうな声で呼ぶ。

「はい」

「……泣くほどのことか?」

「……ッ」

 私は慌てて、ポロリと溢れた涙を指で拭い、目元を押さえた。


「い、いえ、違いますわ」

「いや、完全に泣いてるな」

 九条さんが、ハンカチを差し出しながら静かに言う。

「気のせいです。ゴミが入りましたの」

「そうは見えない。目が真っ赤だぞ」

「少々」

 私は、真っ赤な顔で真顔で言った。

「公式からの『愛情の供給』が多すぎるだけです」

「……また、お前のそのオタクの言い方か」

 九条さんが、やれやれと額へ手を当てる。

 だが、お母様は、オタク用語の意味がよく分からないまま「ふふっ、おもしろいお嬢さんね」と笑っているし、お父様もなぜかほんの少し、嬉しそうに口元が緩んだ。


 ああ。

 はい。

 この、よく分からなくても“困惑しながらも、私のすべてをあたたかく受け入れてくださる感じ”まで。あまりにも、私の大好きな前世のご両親らしいですわね。


 ◇ ◇ ◇


 その後、一緒に食卓を囲んだ食事の席では、さらに涙腺が駄目だった。


 九条家の夕食は、豪華絢爛な派手さはないのに、素材を活かした一品一品がひどく丁寧だった。

 和食中心で、味つけはホッとするように落ち着いている。

 それもまた、前世の義両親との食事風景と少し似ていて、私は何度も「懐かしい」という感情の処理へ失敗しかけた。


 そして何より。


「柊介」

 お母様が、ごく自然に言う。

「瑠衣さんのお皿、そっちからだと取りづらいでしょう。あなたが取ってあげなさい」

「……あぁ」

「自分でできますわ」

 私は反射で遠慮して言った。

「できますけれど」

 お母様はニッコリ笑う。

「こういうのは、男の人にやってもらう(甘える)のも、女の子として大事なのよ」

「ッ……」


 言い方。

 その少しお節介な言い方も、本当に義母上らしくてだめですわね。


 九条さんは、小さく息を吐いてから、私の前へ料理を取り分けて寄せた。

 自然だ。

 あまりにも、息をするように自然だ。

 前世でも、この方は結婚後、私が忙しい時など、何でもない顔でこういう世話焼きを不器用にしてくださったのだ。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして」

「……ッ」


 今、どういたしましてって、やさしくおっしゃいました?

 親御さんの前だから、見栄を張っているのですの?

 それとも、休日彼氏モードだからですの?


 私はまたしても、尊さに胸元を押さえるしかなかった。


 すると、お父様がぽつりと、不思議そうに言った。


「瑠衣さん」

「はい」

「君」

「……」

「初めて来たはずなのに、うちに馴染むのが早すぎないか」

「ッ……!」


 その問いは、鋭い急所だった。


 私はしばし固まり、それから、言葉を選んで慎重に答える。


「……そう、見えますか」

「ああ」

「……」

「初対面特有の、お客様のぎこちなさが、君には少ない」

「……」

「悪い意味ではない。図々しいわけじゃない」

「……」

「むしろ」

 お父様は少しだけ目を細め、やさしく言った。

「初めからこの家にいるみたいに、妙にしっくり来る」

 ああ、だめですわね。

 それは、私も魂の底から、まったく同じことを思っておりますのに。泣いてしまいますわ。


「父さん」

 九条さんが、私を庇うように少しだけ咎めるように言う。

「何だ」

「彼女を面接みたいに詰めるな」

「詰めてない。ただの感想だ」

「詰めてるように聞こえる」

「だが」

 お父様は、私の顔を見たまま言う。

「瑠衣さんが、俺の言葉に困っているようには見えんが」

「……」

「むしろ」

「……」

「少し、嬉しそうだ」

「ッ……」


 完全に、図星でしたわね。


 私は、言葉に詰まりながら、それでも誤魔化さずに正直に答えた。


「……はい」

「……」

「少し」

「……」

「いえ、だいぶ」

「……」

「そう言っていただけて、嬉しい、です」


 お母様の目が、やわらかく、本当の娘を見るように細まる。

 お父様も、私のその真っ直ぐな言葉に、それ以上は何も詮索しなかった。


 その代わり。

 お母様が、フッと笑って言った。


「じゃあ、いつでも、また来てね」

「……」

「今度は、もっと家族みたいに気楽に」

「……ッ」


 ああ、もう。


 それをやさしい声で言われた瞬間。

 私は本気で、立ち上がって五体投地で拝みそうになった。


「は、はいッ!」

 私は勢いよく、涙声で頷く。

「ぜひ! 何度でも!」

「……」

「必ず!」

「……」

「お、お父様、お母――」

「瑠衣」

 九条さんが、低く、しかし鋭く止めた。

「……ッ」

「今、感極まって、何て言いかけた」

「……」

「俺の聞き間違いか?」

 私は、そっと両手で口元を押さえた。


 ああ。

 限界突破して、やってしまいましたわね。

 いくら何でも、初対面で「お父様、お母様」は重すぎますわね。


 お母様は一瞬キョトンとし、それから、なぜかパァッと嬉しそうに笑った。

 お父様も、さすがに少しだけ驚いて目を見開いている。


「……あら」

 お母様が、小さく、満更でもなさそうに言う。

「その呼び方、それも、悪くないわね」

「母さん、調子に乗らせるな」

「だって」

 お母様は、楽しそうに九条さんを見る。

「なんだか、この子にそう呼ばれても、すごく昔から呼ばれてたみたいにしっくり来るもの」

「……」

「不思議ねえ。ねえ、お父さん?」

「……」

 お父様まで、腕を組んで低く一言。

「……たしかに。悪くない」

「父さんまで。いい加減にしろ」

「……」


 ああ。

 はい。

 もうだめですわ。

 この九条家、あまりにも、あまりにも私の愛した前世そのままで、居心地が良すぎますわ。


 ◇ ◇ ◇


 帰り道。


 九条さんの運転する車の中で、私は助手席でしばらく黙っていた。

 嬉しさと、感動と、公式からの供給過多で、胸がいっぱいでちょっと言葉が出なかったのだ。


 隣でハンドルを握る九条さんが、夜の道路を見つめながら低く言う。


「……どうだった」

「……」

「行く前は、あんなに死にそうな顔で緊張していた割には」

「……」

「よく喋っていたし、笑っていたな」

「……」

「むしろ、俺より母さんの方が、お前を娘みたいに気に入ってたな」

「……」

「父さんも、初対面の相手にあんなに最初から空気が柔らかいのは、珍しい。奇跡だ」


 私は、そこでようやく、張り詰めていた糸が切れたように小さく息を吐いた。


「……だって」

「何だ」

「とても、やさしかったのですもの」

「……」

「涙が出るほど、懐かしいくらいに」

 九条さんが、信号待ちで一瞬だけこちらを見る。


「懐かしい?」

「……」

 私は少しだけ迷った。

 でも、彼にも、ご両親にも、嘘はつきたくなかった。


「はい」

「……」

「初めて会った気が、全然しませんでした」

 九条さんは、しばらく何も言わなかった。

 やがて、前を向いたまま、ぽつりと静かに返す。


「……俺もだ」

「ッ……」


 ああ。

 だめですわね。


 今日は、最初から最後まで、どうしてこう、私のオタクの魂に刺さることばかり起こるのでしょうね。


 私は窓の外の流れる夜景へ視線を逃がしながら、小さく、幸せに笑った。


 今世で初めての、恋人の実家へのご挨拶。

 それは、ただ緊張して取り繕うだけの、形式的な時間ではなかった。


 時を越えて。

 名前を変えて。

 世界を変えて。

 それでも、また出会えた『私の大好きな家族の気配』へ、静かに泣きそうになるような、あたたかい時間だった。


 ――ええ。

 今世でも、あの方たちに愛されるハッピーエンドの予感しか、いたしませんわね。



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