第106話 九条の見る夢。銀髪の魔法使いと、愛した女性の残滓
高熱に浮かされて見る夢というものは、たいてい輪郭が曖昧だ。
現実のストレスと過去の記憶が、無秩序に混ざり合う。
意味の分からない場面転換を繰り返し、重い目が覚めた後には、熱っぽさと不快な疲労感だけが泥のように残る。
少なくとも、九条柊介はそう思っていた。
だが、その夜に見た夢だけは、全く違った。
ひどく鮮明で。
ひどく静かで。
胸が締め付けられるほどに、狂おしいほど妙に『懐かしかった』。
◇ ◇ ◇
深い闇の中で、最初に見えたのは、美しい『銀』だった。
夜のように深い異国の空の下、あたたかい風に揺れる長い銀髪。
月明かりをそのまま紡いで溶かしたような、冷たくもやわらかな光沢。
その美しい髪が、振り返る動作に合わせてフワリと宙を舞う。
一人の、女がいた。
いや、“女”という単純な言葉では、少し説明が足りない。
恐ろしいほどに強い。
息を呑むほど美しい。
なのに、どこか危なっかしいほど、感情がコロコロと顔(瞳)へ出る。
そして、そのすべてを上書きして余りあるほど、なぜか絶対に目を離すことができない。
彼女は、自分(九条)を見て、花が咲くように笑っていた。
金でも銀でもない、澄んだ宝石のような瞳を、愛おしそうに細めて。
まるで、この世界に存在する幸福を、全部一人で見つけたみたいな、そんな無防備な顔で。
――誰だ。
そう思考が問うのに。
問うた瞬間には、脳より先に魂(胸の奥)が、勝手に『知っている』と激しく告げている。
名前を呼べそうで、呼べない。
そのやわらかな銀髪に触れたことがあるはずなのに、感触を思い出せない。
なのに、彼女が少しでも自分から遠ざかると、世界が崩壊するほどひどく困る気がした。
ふっと、場面が変わる。
白い石造りの、荘厳な長い廊下。
見上げるほど高い天井。
ステンドグラスから差し込む、清々しい朝日。
その先を、銀髪の女が分厚い書類の束を抱えて、少し怒ったように早足に歩いている。
「待て」
夢の中の自分が、背後からそう言った。
声は低い。
だが、現在の三十路の自分のそれより、少しだけずっと若く、硬質で不器用だ。
軍靴のような足音が、石床に静かに響く。
女はピタリと止まり、クルリと振り返った。
「何でしょう、クライス様」
――クライス様。
その、聞き慣れない呼び方に、九条の胸の奥がドクリと大きく鳴った。
クライス。
誰だ、それは。
いや、分からない。
分からないのに、その名が彼女の口から自分へ向けられた瞬間、深く息がしやすくなるような、完全にピースがはまる妙な感覚があった。
彼女は、書類を抱えたまま、少しだけ不満そうな顔をしていた。
だが、その不満さえ、自分への隠しきれない好意と敬意へ向いていることが本能で分かる。
見上げてくる目が、ひどく真っすぐで、熱い。
「その書類の束は、重い」
夢の中の自分が言う。
「俺が持とう。よこせ」
「お気遣いありがとうございます」
銀髪の女は、ニコリと完璧な淑女の笑みで微笑む。
「ですが、側仕えである私の尊い仕事を、主であるあなたが奪わないでくださいまし」
「……」
「それに」
彼女は少しだけ得意そうに、ツンと美しい顎を上げた。
「これくらいのマルチタスク(激務)、昔から嫌というほど慣れておりますので。お任せを」
そこでまた、パッと場面が変わる。
見渡す限りの、広大な荒れた農地。
吹き抜ける風。
どこまでも高い青空。
それから、一面に広がる圧倒的な緑。
女は、乾いた土へ片手を触れていた。
次の瞬間、死に絶えていた地面が、まるで大地そのものが命を吹き返すみたいに、一斉に緑の作物を芽吹かせる。
見たこともない、神の領域のような規格外の規模の魔法。
理屈ではなく、世界(自然)の方が彼女の圧倒的な力へひれ伏して従っているみたいな光景だった。
周囲の民衆から、割れんばかりの歓声が上がる。
だが、彼女はそんな周囲の賞賛など気にも留めず、少し離れた位置に立つ『自分の方』ばかりを見ていた。
「クライス様!」
花が咲いたように、心底嬉しそうに大きく手を振る。
「見てくださいまし! できましたわ!」
あまりにも素直で、自分にだけ向けられた特別な声だった。
すると、夢の中の自分は、少しだけ呆れて困ったような、それでいて、世界で一番愛しいものを隠しきれない誇らしげな目で、彼女を見ていた。
その時の己の感情(愛の重さ)だけが、不思議なくらい生々しく、現在の九条の胸に伝わってくる。
ああ。
そうだ。
この女は、多分、いつもこうやって周りなど見ずに、俺のことばかりを見るのだ。
真っすぐで、一切の遠慮がなくて、呆れるほど限界で、眩しいほどに。
そして、自分はそんな彼女の熱の篭った視線に、昔からどうしようもなく弱かったのだと、まだ記憶の混濁した夢の中だというのに、痛いほど分かってしまう。
◇ ◇ ◇
また場面が、不規則に飛ぶ。
今度は、冷たい夜だった。
パチパチと燃える野営の焚き火。
星のない暗い空。
少し離れたテントから聞こえる、愛おしい子どもの笑い声。
銀髪の女は、騎士の分厚いマントにくるまって、ひどく不満そうな、怯えた顔をしている。
「……別に、怪談など怖くなどございません」
震える声で、強がって言い張っている。
だが、どう見ても涙目で怖がっている。
夢の中の自分は、そんな意地っ張りな彼女の後ろへ無言で回り、自分のマントごと、その華奢な身体を背後からすっぽりと抱き込んだ。
「俺がいるから、安心しろ」
その甘く低い言葉が、自分の口から自然に落ちる。
ひどく自然で、息をするのと同じくらい当たり前の動作だった。
そうしない理由がないみたいに、頭で考えるより先に、騎士としての身体が先に動いて彼女を守っていた。
腕の中の銀髪の女が、ピタリと大人しくなる。
耳の先までリンゴのように赤い。
それでも、守られていることが心底嬉しそうで、自分の動揺に困っていて、どうしようもなく愛おしい。
――愛おしい。
その、胸が張り裂けそうな激重の感覚に、夢の中の九条は、ようやく気づいた。
これは、ただの高熱が見せる夢(幻覚)ではない。
自分は、間違いなくこの女を知っている。
この鈴を転がすような声を。
このコロコロと変わる表情の顔を。
この忙しい感情の動き方を。
ひどく有能で強いくせに、変なところでポンコツで脆いところを。
こちらが少し甘い言葉をかけたり、至近距離に寄ったりするだけで、すぐ限界になりそうな赤い顔をするところを。
知っている。
魂の奥底まで、細胞のすべてが知っている。
知っている、はずなのに。
どうして、俺は一番肝心な『彼女の名前』を、思い出せない。
夢のフラッシュバックは、さらに濁流のように続く。
白い花びらの美しく舞う、星降る丘。
泣きそうに笑って頷く、ウェディングドレス姿の彼女。
自分の腕の中に抱かれた、二人の小さな子どもたち。
世界を滅ぼす赤い空。
禍々しい黒い城。
二人で手を重ねて放った、空間ごと斬り裂く圧倒的な光の剣。
それから、白髪になった老いた二人が、平和な中庭で散歩をする、あたたかい午後。
どれも細切れの断片だ。
どれも時系列がばらばらだ。
けれど、そのすべての中心にいる『銀髪の女』だけは、どの場面でも同じだった。
俺を見て笑う。
俺のために怒る。
俺の無事で泣く。
俺の不器用な言葉に照れる。
俺の名前を呼んで叫ぶ。
俺を神様か何かのように、拝むように見つめてくる。
そして、その全部が。
どうしようもなく、俺の枯渇した心(人生)を、完璧に満たしていた。
◇ ◇ ◇
「……ルシア」
夢の中で、九条は初めて、無意識にその名を口にした。
その途端、幸せだった風景が一気に崩れた。
光がノイズのように裂ける。
音が遠ざかる。
銀髪の女が、驚いたようにゆっくりと振り向く。
その顔が、ひどく近くなる。
優美で整った顔立ち。
でも、どこかで確実に見覚えのある、少し気の強い口元。
やわらかく、芯の通った瞳。
そして、何より――。
今の、自分の優秀な秘書の顔と、完全に重なった。
藤咲瑠衣。
自分の傍で、いつも完璧に激務をこなし。
妙にこちらの無意識の身体の好みを、知り尽くしていて。
必要な言葉と資料を、必要なだけ完璧なタイミングで差し出し。
だが時々、自分の些細な行動に対して、理解不能なほど真っ直ぐな熱を目の奥へ宿す女。
面接で初めて会った時から、どこか奇妙で強烈な既視感があった。
一切の無駄がない、合理的な動き。
少し古風な、言葉を選ぶ癖。
適温の紅茶を差し出す、完璧なタイミング。
そして、自分の“快適な執務環境”を、まるでずっと昔から何十年も知っている妻みたいに整えてくる、あの魔法のような手つき。
あれは、単なる優秀な秘書の手腕ではなかったのか。
今なら、少しだけ分かる気がする。
夢の中の銀髪の女が、最後に愛おしそうに笑う。
次の瞬間、その顔が、藤咲瑠衣の現在の顔へと、完全に溶け合うように変わった。
「ッ――」
そこで、九条はハッと息を呑んで目を覚ました。
◇ ◇ ◇
見慣れた、暗い天井。
高性能な加湿器の、微かな作動音。
遠くで、深夜の東京を車の走る気配。
自室だ。
ここは現代日本。
高層マンションの、自分の寝室。
身体は鉛のようにまだ重い。
熱も、完全には引いていない。
「……夢、か」
そう呟いた瞬間、自分の声が熱でひどく掠れていることに気づく。
だが、それ以上に、ベッドの上で跳ねる胸の鼓動が、異常なほどおかしかった。
速い。
いや、速いだけではない。
ひどくざわついている。
まるで、長いあいだ厳重に鍵を下ろして閉じていた記憶の部屋の扉を、内側から誰かが激しく叩き壊そうとしているみたいに。
「ルシア……」
また、その名が自然と唇からこぼれた。
誰だ。
夢の女だ。
銀髪の、規格外の魔法使いのような、強くて美しくて、少し危なっかしい女。
自分は、間違いなくその女を、命に代えても愛していた。
単なる夢の残滓ではない、確信に近い激重な感情の質量が、胸に確かにあった。
そして同時に。
「……藤咲……」
今、自分のすぐ傍にいる、有能な秘書の名前も、無意識に口をつく。
銀髪ではない。黒髪だ。
魔法など使わない。パソコンを使う。
現代日本の企業で、完璧にスーツを着こなし、自分の秘書として涼しい顔で働いている。
だが。
夢の中の女が笑った時の、あの目元。
少し強気に、自信満々に顎を上げる癖。
こちらが過労で疲れている時、誰よりも早く先回りして、何もかも完璧に整えてくる献身的な感じ。
それに、あの“初対面から、すべてを知っているようで、知らないはずの奇妙な距離感”。
全部、妙に、あの銀髪の女と寸分違わず重なる。
「……何だ、これは」
九条は、熱い額へ太い手を当てた。
まだ少し熱い。
ただの高熱が見せた夢のせいかもしれない。
ただの都合の良い幻想かもしれない。
だが、ただの幻想で片付けるには、自分の中に残った愛情の質量が、あまりにも生々しすぎた。
胸が痛いほど、あの女(藤咲)が懐かしいのだ。
今すぐ、どうしようもなく会いたかったような気がしてならないのだ。
いや、違う。
今も、すぐ近くにいる気がしてならない。
寝室の扉の向こうの暗いリビングで、カチャリと、グラスを置くような微かな物音がした。
誰かがいる。
いや、誰かではない。
分かっている。
今夜、このプライベートな城(部屋)へ足を踏み入れることを許した人間は、世界に一人しかいない。
自分の秘書、藤咲瑠衣。
九条は、ゆっくりと熱を帯びた目を閉じた。
熱に浮かされた重い頭でも、今、思うことはただ一つだった。
どうして彼女は、あんなに自然に、初日から自分の懐へ入り込んでくるのか。
どうして自分は、他人を極度に警戒する性格なのに、彼女の世話を不快だと思わず、むしろ心地よいと安堵してしまうのか。
どうして、夢の中で深く愛した女と、今の秘書が、ここまで同一人物に見えるのか。
明確な答えは、まだ分からない。
だが。
「……藤咲」
その名を暗闇で呼ぶ時の、胸のひどく甘い痛みが。
決して、ただの雇い主が『優秀な秘書』へ向ける種類のものではないことだけは、もう自分でも誤魔化せなかった。
熱にうなされながらも。
夢と現実の境界が曖昧なままでも。
九条柊介は、三十年の人生で初めて、ハッキリと感じていた。
自分はきっと。
出会うずっと前から。
いや、もしかすると、もっと途方もなく遠い昔から、魂のレベルで。
――彼女(藤咲)のことを、深く知って、愛している。




