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婚約破棄の瞬間に「前世の記憶」が戻りまして。〜ヒロインの座は譲りますので、私は推しキャラの側仕えを目指します!〜  作者: 綾瀬蒼


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104/127

第104話 出張先のホテルで手違い発生。オタクには刺激が強すぎる相部屋イベント

 社長の地方出張というものは、現地入りする前の『事前準備の段階』で、すでにすべての勝負が決まっている。


 完璧な秘書である私は、常々そう思っている。


 会議の膨大な資料。

 最短の移動導線。

 現地での会食の有無と、先方の食の好みのリサーチ。

 重役たちとの打ち合わせの順番。

 交通機関の遅延リスクに備えた、代替ルートの確保。

 宿泊先のホテルから、視察先への導線。

 翌朝の出発時刻から逆算した、分刻みの起床・支度時間。


 そしてもちろん。


「本日の宿泊先のホテルの予約確認、すべて抜かりなく完了ですわ」

 私は新幹線のグリーン車の車内で、手元のタブレットをパタンと閉じ、有能な秘書の顔で小さく頷いた。


 通路を挟んだ向かいの席では、九条CEO――今世の私の最愛のクライス様が、静かにノートPCへ視線を落としている。

 本日の出張先は、都内から離れた地方都市にある、大手製造系パートナー企業の巨大な本社だ。

 午前に現地の視察。

 午後に社長同士の重い協議。

 その後、先方の重役たち主催の長時間の会食。

 そして翌朝、現地工場を視察してから東京へ戻るという、分刻みのハードなスケジュールである。


 つまり、一泊二日の『お泊まり出張』。


 ……ええ。

 その字面だけで、すでに限界オタクの心臓には少々刺激が強くてよろしくありませんわね。


「藤咲」

 PCの画面から目を離さずに、低い声が落ちる。

「はい、社長。何でしょう」

「現地着後の、車移動の段取りは」

「先方の黒塗りのハイヤー手配で、十六時十分着の予定です。乗車位置も確認済みです」

「夜の会食会場は」

「宿泊先のホテルから、徒歩三分です」

「明朝の工場視察は」

「八時半にホテルを専用車で出発、先方の専務が同席予定です」

「……」

「何か、ご不安な点が?」

「いや」

 九条CEOは、PCから少しだけ目を上げて、私を見た。

「全く抜けがない。完璧だ」

「当然です」

 私は、心の中でガッツポーズをしながら穏やかに微笑む。

「私の愛する推し――コホン、社長の貴重なお時間を、1秒たりとも無駄にはいたしません」

「……」

「それが、プロの秘書の矜持ですので」

「そうか」

「そうですわ」


 ええ。

 本来なら、ここでこの出張の話は滞りなく終わるはずだった。

 予定は完璧。

 手配も完璧。

 私の仕事に、少しの抜かりもない。


 ない、はずだったのだ。


 ◇ ◇ ◇


 オタクにとっての致死量の問題(神イベント)が起きたのは、長い会食を終えて、夜遅くにホテルへ戻った直後だった。


 地方都市とはいえ、そこそこ格式のある高級シティホテル。

 エントランスのロビーは静かで落ち着いていて、照明も上品に薄暗い。

 遅い時間のせいか、他のお客の姿も少ない。


 本来なら、ここで私は九条CEOへ彼の部屋のルームキーをお渡しし、「お疲れ様でした。おやすみなさいませ、明朝は七時にお部屋までお迎えに上がります」と優雅に一礼して、自分の部屋へ戻って寝る(推しの尊さを噛み締める)だけで済むはずだった。


 済む、はずだったのだ。


「……誠に、誠に申し訳ございません!」


 フロント係の女性が、血の気を失った顔で、カウンターの向こうで深々と頭を下げた。


「本日、私どものシステムの重大な手違いによりまして」

「……」

「藤咲様から頂戴しておりました、二部屋分のご予約の内容に不備オーバーブッキングが発生しておりまして」

「……」

「現在、当ホテルでご用意できるお部屋が」

「……」

「最上階の『スイートルーム一室』のみと、なっております」


「…………」


 沈黙。


 ホテルのロビーの空気が、ピタリとエラーを起こして止まった。


 私は、数秒、まばたきを忘れて完全にフリーズした。

 隣の九条CEOも、無言でスッと目を細めている。

 フロント係の女性は、今にも大理石の床へ土下座で頭を擦りつけそうな勢いで震えて青ざめている。


「……大変失礼ですが」

 私は、氷のような絶対零度の声で、静かに確認した。

「当方、一か月前から『エグゼクティブツインを二部屋』で、確実に予約しておりましたわよね」

「はい……! 記録には残っております……!」

「社長用と私用、完全な禁煙ルーム、隣接フロア、朝食付きで」

「はい……! 本当に、こちらの完全な不手際で……!」

「そのうえで」

「……ヒッ」

「現在、このホテルで空いているのが、その『スイート一室だけ』だと?」

「その、はい……誠に申し訳ございません!」

 あらまあ。


 あらまあ、では済みませんわね。

 私の完璧なスケジュールが、こんな三流のヒューマンエラーで崩れるなど、許しがたい失態ですわ。


 私は深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。

 落ち着きなさい、藤咲瑠衣。

 こういうイレギュラーな危機的状況でこそ、有能な秘書の真価が問われるのだ。オタクとして動揺している場合ではない。


「他の代替案は」

「本日、周辺ホテルが大型の学会イベントの関係で、どこも全館満室となっておりまして……」

「タクシーで行ける圏内のビジネスホテルは」

「すべて確認済みです、全滅です。近隣の市まで出ないと……」

「……」

「本当に、申し訳ございません……!」


 私はチラリと、隣の九条CEOを見上げた。


 この方は、感情を顔にほとんど出さない。

 だが、妻の私には分かる。

 今、眉間の皺がわずかに深くなっており、だいぶ“面倒なことになったな”と思っていらっしゃる。


 当然だ。

 接待の長い会食後だ。

 移動の疲労も溜まってお疲れだ。

 一刻も早くシャワーを浴びて、広いベッドで休むべき時間帯である。


 そして、その絶望的な状況で。


「藤咲」

「はい」

「そのスイートは、お前が使え」

「却下です」


 私は1秒の迷いもなく即答した。


 フロント係の女性が、「えっ、社長に逆らうのこの秘書……!?」と目を丸くする。

 だが、他人の目など今は気にしていられない。


「明日も激務の社長を、地べた(他のホテル)へ放り出して探させるなど」

 私は真顔で、絶対に引かない圧で言った。

「万死に値します。私が外へ出ます」

「……」

「藤咲」

「はい」

「言葉の選び方(言い方)が、極端すぎる」

「私の推し(社長)への愛と本音です」

「そうか」

「そうです」

 九条CEOはやれやれと、小さく息を吐いた。


「俺は、そのスイートのソファでいい」

「よろしくありません」

「スイートのベッドは一つだろう」

「そうです」

「なら、お前がベッドを使え」

「論外です。切腹ものです」

「……」

「社長を地べたに――いえ、狭いソファに寝かせて、ただの秘書の自分だけがふかふかのベッドを占領するなど」

 私は胸元へ手を当て、殉教者のような顔で言った。

「秘書として、オタクとしての『死(解釈違い)』を意味します」

「死ぬな。たかが一泊だ」

「私の誇りと、気持ちの問題です」

 フロント係が、「なんかすごい次元の痴話喧嘩始まっちゃった……」と、だいぶ困った顔でオロオロと見守っている。

 あら。

 お見苦しいところをお見せして、失礼いたしました。

 でも、ここはオタクとして絶対に譲れないのだ。


「申し訳ございません」

 私はフロント係へ向き直り、現実的な妥協案を探る。

「こちら、スイートへの『寝具の追加エキストラベッド』は可能ですか」

「はい、簡易ベッドでしたらすぐにご用意できますが……」

「どこへ置けます?」

「スイートですので、寝室ではなく、手前のリビング側へ置く形に」

「そのマットレスの厚みと硬さは」

「……通常よりは薄く、少し硬めに……」

「却下だ。そんなもので疲れが取れるか」

 九条CEOが、私の言葉を遮って低く言った。


「社長?」

「お前をそんな薄い床(簡易ベッド)で寝かせる気はない」

「ですが、私は平気です」

「お前は明日も、俺の隣で分刻みで動くんだろう」

「社長もです」

「俺は男だ。平気だ」

「よろしくありません」

「藤咲」

「何ですの」

「お前、今日これで何回目だ」

「何がですの」

「俺の指示に対する、“よろしくありません(拒否)”だ」

「だって、推し(社長)が無理をするのは、本当によろしくありませんもの」


 ああもう。

 何ですのこの、どちらも相手に快適なベッドを譲ろうとして、全く収集がつかない思いやり(?)の攻防戦は。

 客観的に見ると、だいぶ面倒くさい意地っ張りな二人ですわね。

 ですが、ここで引いて社長をソファに寝かせるなど、私のプライドが許すはずもない。


「では」

 私は静かに、最終通告のように言った。

「備え付けのソファは、私が使います」

「却下だ」

「社長がソファに」

「却下だ」

「……」

「……」

「九条社長」

「何だ」

「前世から、本当に頑固ですわね」

「お前もな。前世というのはよく分からんが」

「存じております」

「なら話が早い。俺がソファだ」


 フロント係が、二人の睨み合いに耐えかねて、おそるおそる震える声で言った。

「あ、あの……! スイートですので、リビングのソファも、お二人寝られるくらいかなり大きくはございますが……」

「社長をソファで寝かせません」

「俺がソファで寝る」

「寝かせません」

「藤咲」

「はい」

「これは社長としての業務命令だ」

「コンプライアンス違反ですので、その命令には従えません」


「…………」


 沈黙。


 フロント係の方の胃痛が、そろそろ限界突破して穴が空くのではないかしら。

 たいへん申し訳なく思います。うちの社長が頑固なもので。

 でも、ここは譲れない。


 九条CEOが、しばらく私の絶対に引かない目を見ていた。

 やがて、小さくため息をつき、ひどく静かで低い声で言う。


「……分かった」

「はい」

「とりあえず、部屋を見てから決める」

「……」

「それでいいな」

 私は一瞬だけ、罠がないか考えた。

 それから、深く一礼する。


「承知いたしました」


 よろしい。

 ひとまず、戦場――いえ、今夜の部屋を確認してから、ベッドの陣取り合戦の第二ラウンドですわね。


 ◇ ◇ ◇


 案内された最上階のスイートルームは、笑ってしまうほど無駄に広かった。


 いや、広いこと自体は良い。

 豪華なリビングもある。

 仕事ができる広い机もある。

 浴室も大理石で立派。

 窓からの夜景も美しい。

 問題は、そこではない。


 問題は。


「ベッドが」

 私は寝室の扉を開けて、絶望して小さく呟いた。

「ど真ん中に、デデンと一台ですわね」

「ああ」

 九条CEOも、腕を組んで眉間を揉みながら短く返す。


 最高級のキングサイズベッド。

 広い。

 たしかに、大人三人が寝転がっても余るくらい広い。

 だが、一台は一台だ。

 どんなに広くても、言い逃れようのない、まごうことなき『巨大な一台』である。


「リビングのソファ」

 九条CEOが確認するように振り返る。

「かなり大きいですし、ふかふかです」

 私は即答した。

「ですが、寝返りが打てないので社長が使うのは却下です」

「俺が」

「却下です」

「……」

「……」


 またしても、終わりの見えない膠着状態である。


 私は、有能な秘書として室内をぐるりと一周した。

 構造と死角の確認。

 寝具追加の余地とスペース。

 エアコンの風向きの位置。

 毛布やブランケットの有無。

 備え付けのクッションの数。

 使えそうなものを脳内で高速で仕分け、計算する。


 そして、導き出されたたった一つの結論。


「……」

「……」

「おかしいですわね」

「何がだ」

「どう合理的に考えても」

 私は、一切の感情を殺した真顔で言った。

「二人とも、このキングサイズのベッドで一緒に寝るしか、お互いの体力を温休する選択肢がございません」

「…………」


 沈黙。


 ええ。

 分かっておりますとも。

 その結論が、現代日本の倫理観において何を意味するかくらい。


 九条CEOが、ゆっくりとこちらを見る。

 その目には、呆れと理性と、そして「本気で言っているのか?」という少しばかりの警戒が混ざっていた。


「藤咲」

「はい」

「今、何を言った」

「導き出された、最も合理的な結論です」

「……」

「このキングサイズのベッドは、十分すぎる広さがあります」

「……」

「中央へ、この大量のクッションで『ベルリンの壁』を築けば、物理的距離と不可侵条約は確保可能です」

「……」

「かつ、どちらかが身体を痛めるソファ問題も解決」

「……」

「お互いの睡眠の質を担保する、完璧なソリューションですわ」

「完璧ではない。大問題だ」

「どこがでしょう」

「男と女が同じベッドだ。全部だ」

 私は少しだけ、小首を傾げた。


「ですが」

「……」

「私の推し(社長)を地べた――いえ、狭いソファに寝かせて身体を痛めさせるよりは、はるかにマシです」

「それ以上言うな」

「はい」

「お前、さっきから顔が茹でダコみたいに赤いぞ」

「空調の温度設定の問題ですわ」

「このホテルの空調は、最新式で極めて快適だ」

「……」

「全く言い訳になってない」

「そうですわね。限界オタクの動揺です」

「……限界、なんだと?」


 ああもう。

 分かっておりますわよ。

 分かっておりますとも。

 私だって、こんな破廉恥な提案、平然としているように見せかけて、内心では心臓が口から飛び出そうなほどだいぶ大惨事である。


 だって、最愛の推しと、一つ屋根の下で同室である。

 しかも、キングサイズベッド一台を前にして、“物理的距離を確保すれば一緒に寝ても問題ありません”とか、どの口が真顔で言っているのだ。

 何ですのこの、煩悩を試される過酷な修行は。

 現代日本のホテル業界、オタクの心臓に厳しすぎませんこと?


 九条CEOは「頭が痛い」と額へ手を当てた。

 ああ。

 あの仕草。

 前世でも“私の突拍子もない行動に、少し本気で困った時”によくなさっておりましたわね。尊いです。


「……一つ、確認する」

「はい」

「お前」

「はい」

「上司の男と隣同士で、本当にそれで寝られるのか」

「…………」


 それは。

 かなり私の痛い核心を突く、鋭い問いだった。


 寝られるか。

 理屈の上では、疲れているのだから寝られる。

 多分。

 いえ、多分ではないですわね。

 気絶する勢いで努力すれば、寝たふりくらいはできるかもしれない。


 でも、問題はそこではない。


 私の限界オタクの心臓が。

 推しの寝息を隣で聞いて、朝まで破裂せずに『もつかどうか』である。


「……死ぬ気で、努力いたします」

 私は誠実に、悲壮な覚悟で答えた。

「正直だな。顔に『無理かもしれない』と書いてあるぞ」

「この局面で、社長に嘘はつけません」

「……」

「ですが」

 私はキッパリと、彼を見上げて言う。

「社長へソファを使わせて疲労を残させるくらいなら、私はどんな拷問(添い寝)にも全力で耐えてみせます」

 九条CEOが、私のその真っ直ぐすぎる目を見て、ほんの少しだけ驚いたように目を見開いた。

 それから、根負けしたように長く息を吐く。


「……分かった」

「はい」

「ベッドの中央に、クッションで壁を作る」

「はい」

「互いに、絶対に手を出さない」

「はい。不可侵条約です」

「俺は、変な意味(下心)で言ってるんじゃないぞ」

「分かっております」

「本当に?」

「分かっておりますとも! 全幅の信頼を寄せております!」


 だめですわね。

 その「俺を信じろ」という不器用な問い方自体が、すでに私の心臓に少し悪いですわね。


 ◇ ◇ ◇


 それぞれ交代でシャワーを浴び、最低限のホテルの寝巻きで身支度を整えた後。

 私は寝室の入口で、完全に石像のように立ち尽くしていた。


 巨大なベッド。

 広い。

 でも、いくら広いからといって、平気なわけではない。


 中央には、ふかふかのクッションが一列に綺麗に並べられ、完璧な『不可侵の境界線』が築かれている。

 完璧なはずだ。

 物理的には。

 理論上は。


 だが。


「……」

「いつまでそこに立っている。入らないのか」

 すでにベッドの片側(左半分)へ腰を下ろしていた九条CEOが、本を読みながら低く言う。


 いつもの隙のないスーツではなく、ホテルの少しだけはだけたガウン姿。

 黒髪はシャワーのあとで少しだけ湿って色気を放ち、仕事用の眼鏡を外している。

 何ですのそれは。

 オフの姿の破壊力(戦闘力)が高すぎませんこと? 直視できませんわ。


「入ります。入りますとも」

 私はどうにか、震える声で答えた。

「ですが」

「……」

「少々、飛び込むための『心の覚悟』が必要なだけです」

「戦場にでも行く気か。大げさだな」

「社長」

「何だ」

「ご自身の破壊力フェロモンを、過小評価なさっておりますわ」

「……は?」

「その色気ダダ漏れのお姿で、同じ部屋のベッドの隣に入れと言われて、平常心で冷静でいられる頑丈な秘書が、この世のどこにいると思っていらっしゃるのです。私がただのオタクでよかったですわ」

 九条CEOが、私の言葉にポカンとしてしばらく黙った。


 それから、呆れたように低く言う。


「……今のお前の発言は、上司に対する『セクハラ』に入るか」

「いいえ」

 私は真顔でキッパリと答えた。

「ただの、純粋な事実の陳述(推しへの賛美)です」

「そうか。お前の頭の中はどうなってるんだ」

「推しへの愛でいっぱいです」


 私は意を決して、ベッドへ潜り込む。

 右端。

 落ちるギリギリの、可能な限り一番端へ寄る。

 シーツの布団を、顔の下まで防弾チョッキのようにきっちり上まで引き上げる。

 視線は、一切横を見ずに天井の模様へ固定。


 よろしい。

 完璧ですわね。

 これなら大丈夫。

 距離はある。

 クッションの壁もある。

 何一つ問題ない。


 ……問題ない、はずなのだ。


 隣で、九条CEOがパチンとメイン照明を落とす。

 部屋が一気に、足元だけを照らす暗闇になる。


「……」

「……」


 静かだった。


 ホテル特有の、微かな空調の稼働音。

 遠くで鳴る、深夜の車の微かな走行音。

 そして、クッションの壁のすぐ向こうから聞こえる、もう一人分の、あたたかくて規則正しい呼吸。


 だめですわね。

 近い。

 物理的には近くないのに、存在感が圧倒的に近い。

 物理距離はちゃんとあるのに、彼の体温と匂いが、シーツ越しに伝わってくるようだ。


「藤咲」

 暗闇の中で、低く、少し掠れた声が響いた。

「はい」

「本当に大丈夫か。息が詰まってないか」

「ええ」

「お前の顔、暗くて見えなくても分かるくらい、全身がガチガチに固まってるぞ」

「気のせいですわ。リラックスしております」

「今は『空調のせい』って言い訳しないんだな」

「ホテルの空調は完璧で快適ですので」

「そうか」

「ええ」

「……」

「……」

「無理して眠れなければ、俺がリビングのソファへ移る」

「その時は」

 私は、シーツを握りしめて小さく答える。

「私が移ります」

「だから」

「ここは譲れません。不可侵条約です」

「お前は、本当に頑固だな」

「社長ほどではございませんわ」

「いや、お前の方が圧倒的に上だ。敵わん」

 あら。

 不器用なあの人からその評価を頂けるとは、少し意外で光栄ですわね。


 暗闇の中、ほんの少しだけ、隣の九条CEOの気配がふっとやわらぐ。

 多分、声には出していないけれど、笑ってはいない。

 でも、口元くらいは少しだけ、呆れて動いた気がした。


 それだけで。

 私の胸の奥が、ふっと熱く、甘くなる。


「社長」

「何だ」

「今日は」

「……」

「本当にお疲れさまでした」

「……ああ」

「長時間の会議も、面倒な会食での立ち回りも、すべてお見事でしたわ」

「そうか」

「ええ。世界一格好よかったです」

「お前も」

「……」

「今日は、俺のサポートによく動いた。助かった」

「最高の光栄です」

「……」

「ゆっくり休んでください。おやすみなさいませ」

 少しだけ、夜の静寂の間があった。

 そして、耳元で溶けるような低い声が落ちる。


「……ああ。おやすみ、ルシア」


「ッ……」


 だめですわね。


 そのたった一言が。

 無意識に前世の名前ルシアで呼ばれたこと。

 深夜のホテルで、同じ部屋の暗闇の中で、彼から聞くやさしい“おやすみ”が。

 あまりにも、あまりにも私の魂の奥底に効きすぎるでしょう。


 私は布団の中で、限界を超えた心臓を抑えるように、そっと胸元を強く押さえた。


 限界オタクには刺激が強すぎる相部屋(神)イベント。

 添い寝未遂。

 中央クッションのベルリンの壁あり。

 私の理性は、かろうじて無事。

 だが、心拍数はもうずっと、翌朝まで正常値へ戻る気配がなかった。


 ――現代日本の出張イベント、オタクへの致死量の危険度が高すぎますわね。



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― 新着の感想 ―
記憶が戻りつつ・・・
あれ?ルシア呼び?
こんばんは。 ルシア呼び……あ、これクライスさんだった前世の記憶戻ってる(もしくは転生してから既に認識してる)な社長? そして知らないふりをして楽しんでるっぽい?
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