第101話 残業中のハプニング。推しの至近距離にルシアの心拍数がエラー
その日の『クライス・ホールディングス』の本社オフィスは、嵐の前の静けさのように、不気味なほど静まり返っていた。
時計の針は、すでに二十二時四十分を回っている。
通常勤務の一般社員なら、とっくに全員退社して、家でビールでも飲んでいる時間帯である。
だが、この三十階の社長執務室周辺だけは、ブラック企業の怨念が渦巻く別世界だった。
明日の緊急役員会議の資料の大幅な差し替え。
海外拠点(時差13時間)とのWEB会議の調整。
来週に控えた数千億規模の大型提携案件に向けた契約書の最終確認。
そして何より、社長デスクに山積みの『CEO決裁待ち』の緊急案件が残り三件。
「……ええ、分かっておりましたとも。こうなることは」
私はモニターのExcel画面を見つめたまま、深夜のオフィスに乾いたオタクの溜め息を小さく呟いた。
「月末の締めと、海外の大型案件の山場が重なれば、有能な私たち(最強夫婦)の残業は確定ですわよね。解釈一致ですわ」
「……何か言ったか、藤咲」
執務室のデスクの奥から、集中を切らされた低い地を這うような声が飛んでくる。
「いえ、独人言です」
私は、完璧な秘書の顔で即答した。
「改めて、この深夜まで社長(推し)と共に働ける幸せ(仕事への愛)を、魂に刻んで再確認しておりましたの」
「……そうか。物好きな奴だ」
「ええ、重度の物好き(限界オタク)ですので」
「ならいい。集中させろ」
ああ。
その冷たくて無愛想な“ならいい(勝手にしろ)”という言い方すら、前世のクライス様そのままで、深夜の私の鼓膜にひどく心地よいご褒美なのだから、オタクとは本当に困った生き物だ。
私は支給されたタブレットの予定表を閉じ、差し替えが完了した分厚い役員会議資料を束ね直した。
窓の外は、すっかり東京の夜景だ。
巨大な窓の向こうで、数え切れないほどの光の粒が、まるで私たちの残業を嘲笑うかのようにびっしりと瞬いている。
静まり返った執務室には、私が高速でキーボードを打つブラインドタッチの音と、九条CEOがページをめくる乾いた音だけが、心地よいリズムを刻んで響いていた。
そして、その深夜のシンフォニーの中心に。
九条CEO――今世の私の最愛の夫、クライス様がいる。
高級なスーツの上着は、すでに椅子の背へ脱ぎ捨てられている。
仕立ての良い白いシャツの袖を腕捲りし、邪魔なネクタイも少しだけ緩めている。
その“普段の完璧な鎧を脱ぎ捨てて、仕事に没頭しているせいで少しだけ無防備になった野生の推し”という状態が、控えめに言って限界オタクの心臓への火力が、深夜テンションも相まってカンストして悪い。
「……ッ、だめですわね。萌えすぎて目が潰れますわ」
私はモニターの反射を利用して、そっと胸の内で限界の溜め息を呟いた。
「残業中の、少し疲れた様子の推し……作画コストが高すぎて、供給過多で破壊力が凄まじいですわ」
もちろん、表情には1ミリも出さない。
私は、全大陸最強の辺境伯爵夫人(元社畜)の魂を持つ敏腕秘書である。
仕事中に社長の腕捲りした二の腕ひとつで尊死(限界化)していては、プロの秘書として失格だ。
……内心では、だいぶ萌え転がってキュン死を迎えておりますけれど。
◇ ◇ ◇
「藤咲」
「はい。何でしょう」
九条CEOが、突然デスクから顔を上げた。
深夜の冷たい間接照明の下で見上げるその横顔は、昼間よりさらに鋭く、そして残酷なほど美しく見える。
ああもう。
どうしてこの方は、疲れているはずの深夜の時間帯ほど、フェロモンと格好よさ(顔面偏差値)が増すのでしょうね。ズルいですわ。
「先週の海外法務チームから上がってきた、補足資料」
「はい」
「その中に、契約比較表の『原本』があったはずだ。今すぐ確認したい」
「原本ですわね。承知いたしました」
私は脳内のファイル検索システム(チート魔眼)を一瞬で起動させた。
法務部、海外案件、先週提出、比較表、原本、A4ファイル。
「あら」
「何だ」
「それは、隣の資料保管庫の棚、最上段の奥ですわね」
「今すぐ使う。持ってきてくれ」
「承知いたしました。ただちにお持ちします」
社長執務室の隣には、厳重に管理された秘書課専用の『機密資料保管スペース』がある。
入社以来、私がExceル筋を駆使して整理整頓はかなり完璧に進めてあるが、それでも使用頻度の低い古い原本ファイルなどは、どうしても地震対策も含めて高い棚の最上段へ置かれがちだ。
私は資料室へ入り、該当の黒い棚のてっぺんを、ヒールを鳴らして見上げた。
「……だいぶ、高いですわね」
もちろん、部屋の隅には安全な折りたたみ式の脚立がある。
あるのだが。
「……今、複合機で明日の役員会議資料の最終版も大量印刷中ですし、脚立をいちいち取りに戻って広げる時間が少々惜しいですわね。合理的ではありませんわ」
私は棚を見上げたまま、前世の効率厨(社畜)の顔で真剣に考えた。
前世の私は、それなりに魔力も身体能力も規格外に高かった。
公爵令嬢時代も、あの地獄の領地経営(魔境)時代も、ヒールで走ったり、窓から飛び降りたり、だいぶ無茶な動きをしてきた実績がある。
今世の私の身体は、そこまで過酷に鍛えていない、普通のOLだ。
だが、棚から薄いファイル一冊を抜き取る程度なら、近くの椅子に乗って、腕を限界まで伸ばせば、物理法則的にどうにかなる気もする。
「……大丈夫ですわよね。私ですもの」
私は近くにあったキャスター付きの事務チェアを引き寄せた。
「ほんの少し、5秒だけですもの」
誰に対する言い訳なのか、自分でも少し分からないまま、スカートの裾を気にせず椅子の上へ飛び乗った。
キャスターの不安定な椅子へヒールで片足をかけ、最上段の奥へ、目一杯手を伸ばす。
指先が、目当ての分厚いファイルの角へ、ギリギリ届く。
「あと、少し……ッ!」
取れそうだ。
いける。
オタクの執念でファイルを指にかけた、その瞬間だった。
私の体重移動に耐えかねて、キャスターがフローリングの上を、ツルッ! とほんの少しだけ滑った。
「あっ」
しまった。
完全に物理法則を舐めていましたわ。
体勢が崩れる。
ファイルは掴んだ。
だが、その代償として、自分自身の身体が重力に従って床へ真っ逆さまに落ちる。
まずい。
チート魔法(氷防壁)を展開しようとしたが、ここは魔法のない現代日本。
死を覚悟した時には、すでに遅かった。
ぐらり、と視界が斜めに傾き、ヒールが空を切る。
――ッ、終わった……! 三周目の人生、初残業で転落死とか、笑えませんわよ……! クライス様、さようなら――
と、覚悟を決めて目を閉じた、次の瞬間。
「危ない!!」
低い、焦ったような声。
そして、私の背中と腰へ同時に回る、熱いほどに強い、頼もしい腕。
「――――っ!?」
私は、床へ激突しなかった。
というより。
椅子から落ちる寸前で、完璧なタイミングで、何者かに完全に抱きとめられていた。
「…………」
数秒。
オフィスの時間が、エラーを起こして完全に止まる。
私の目の前にあるのは、最高級のシャツの、あたたかい胸元。
近い。
近すぎる。
1ミリの隙間がないほど、近すぎて、私の限界オタクの思考回路が完全に追いつかない。
片腕は私の背中をしっかりと支え、もう片方の大きな手がしっかりと腰を抱き寄せている。
私の不意の落下の勢いを、己の身体を張って殺すためだと、理屈では分かる。
分かるのだけれど。
――近いですわよ!? 推しとの距離がゼロどころか、めり込んでいますわよ!? コンプライアンス的に大丈夫ですのこれ!?
私は心の中で、スタンディングオベーションどころではないボリュームで、壮大に悲鳴を叫んだ。
叫んだが、身体は尊さへの恐怖で硬直していた。
だって、無理でしょう。
こんな少女漫画のような展開。
高い棚の資料を取ろうとしてバランスを崩したドジ秘書を、隣室にいた社長(推し)が異変に気づいて反射的に駆けつけ、無言で完璧に抱きとめる。
しかも、その無駄のない洗練された一連の動きが、あまりにも前世の無敵の騎士時代そのままで、解釈が一致しすぎて尊いのだ。
「藤咲」
頭上から、少し怒ったような、でも心配そうな声が降る。
「……は、い」
「無茶をするな、バカ者が。脚立を使えと言っただろう」
「…………」
その声の致死量の近さに、私はさらに思考を失った。
ああ。
知っている。
この愛おしい腕の強さ。
この、自分の腕の中から落ちるものを絶対に取りこぼさず、守り抜こうとする激重な抱き寄せ方。
前世でも、何度かあった。
戦場のテントの中で。
結婚式の夜のベッドで。
暗黒大陸の野営地で。
私が危うく転びそうになった時、クライス様はいつだって、脳で考えるより先に、騎士の身体が反射的に動いて、私を庇ってくださった。
そして今。
記憶のない現代のオフィスでも。
彼は、私が傷つくのを許さず、同じように私を庇ったのだ。
「ッ……」
尊さに撃ち抜かれて息を吸った瞬間。
鼻を突いたのは、懐かしい彼の匂いだった。
高級なスーツの清潔な布の匂い。
微かな仕事道具のインクと紙の匂い。
その奥にある、私が人生を懸けて愛した、落ち着いた体温の匂い。
前世の騎士団長の匂いと、まったく同じではない。
でも、魂の根源は同じなのだ。
科学的に説明できないのに、私のオタク細胞が、ちゃんと“この匂いは、世界で一番大好きなあの人だ”と、理性より先に理解してしまう匂い。
「……」
「藤咲? どうした」
「……っ」
「おい。意識はあるか」
「……あります。ありまくります」
私は、限界の尊さに涙目になりながらどうにか答えた。
「だいぶ、あります」
「だいぶ?」
「だいぶ、致死量レベルでございます……ッ」
九条CEOが、私の意味不明な返答に、ほんの少しだけ怪訝そうに眉を寄せる。
「なら、自分で立てるか。いつまで抱きついている気だ」
「…………」
その問いへ、私は即座に「はい」と答えて離れることができなかった。
立てる。
理屈では、腰の力が抜けていなければ立てる。
だが、問題はそこではない。
今、私の脳内サーバーは、推しとの至近距離接触により完全に過負荷エラー(オーバーヒート)を起こしているのだ。
【緊急事態発生】
・最愛の推しの腕の中(現在進行系)
・推しの致死量の匂いと体温
・推しの反射神経と抱き寄せ方が、前世(クライス様)と完全一致
・距離、マイナスゼロ
・耳元で囁かれる声が近い(最高)
・深夜のオフィスで二人きり
何ですのこの、全オタクが羨むSSR確定の萌えコンボは。
前世でもこれほどの至近距離接触は、夜の営みの時くらいでしたわよ!? コンプライアンス的に致死量ではありませんこと?
「藤咲」
「はい」
「顔が、異常に赤い。熱湯に入った茹でダコみたいだぞ」
「…………気のせいですわ」
「どこか頭を打ったか。脳震盪か」
「いえ」
「なら」
九条CEOは少しだけ言葉を切った。
その組まれた腕に、さらに力がこもる。
「……急に熱でも出たのか。身体が熱い」
「それは」
私は、爆発寸前の理性を必死にかき集めて答えた。
「多分、環境の問題ではありませんわ」
「問題?」
「ええ」
「何の問題だ」
「心拍数の、問題です」
「……心拍数?」
「はい」
「……」
「社長との、あまりの解釈一致の至近距離に。私の心臓が、少々サーバーエラーを起こして、臨界点を突破して異常動作しておりますの……ッ」
「……は?」
沈黙。
やってしまいましたわね。
あまりの尊さに、オタクの脳内独白がそのまま口から出てしまいましたわね。
九条CEOは、数秒、私の茹でダコのような顔を見下ろしていた。
その蒼い目にあるのは、呆れでも苛立ちでもなかった。
ただ、純粋に、私の発した『異常動作』という単語の意味が、社会人として理解しきれていないような戸惑いの色。
ああ。
ええ。
そうでしょうね。
ごもっともですわ。
社長秘書が、抱きとめられた直後に頬を真っ赤にして“心拍数がサーバーエラーです”などと真顔で報告してくるのは、現代ビジネスにおいてだいぶ意味不明で不気味ですものね。
「……離すぞ」
「はい」
「ちゃんと床に足をつけて立て。ふらつくな」
「はい……承知いたしました……ッ」
名残惜しいとか、そういう甘っちょろいオタク用語では到底足りない、この腕の中から離れたくないという激重な感情をどうにか理性で押し込みつつ。私は茹で上がった足を床へつけた。
だが、尊さのあまり膝の力が完全に抜けていて、小鹿のように少しだけ危うい。
完全に、脚立を使わなかったオタクの自業自得である。
九条CEOは、私がガクガク震えながらもちゃんと立てたのを確認してから、ようやくそのあたたかい手を私の腰から離した。
だが、その心配そうな視線は、まだこちらに残っている。
「怪我は」
「……ございませんわ。無傷です」
「本当に? 足が震えているが、どこか捻ったんじゃないか」
「はい。身体は無傷ですが」
私は尊さに撃ち抜かれた胸をギュッと押さえつつ答えた。
「ただ」
「……」
「少々、別の方向の致命的な損傷が」
「どこだ。骨か」
「私の限界オタクとしての、心臓ですわ」
「……」
「比喩です」
「……そうか。ならいい(よくわからんが)」
ああもう。
よかったですわね。
完全に公私混同の不審者扱いされて解雇されるところまでは、行っていないようですわね。推しの包容力(鈍感さ)に救われましたわ。
九条CEOは、私の手から落ちかけていた、目的の分厚い原本ファイルを受け取った。
それから、何でもない動作のように、私が無茶をした棚の上段を静かに見上げる。
「次は、必ず脚立を使え。俺の指示だ」
「はい」
「あるいは、近くにいる俺か、誰かを呼べ」
「はい」
「……一人で無茶をして、全部片づけようとするな」
「……」
その聲音は低い。
でも、深夜のオフィスに響くその声は、叱責というより、不器用な『心配』の気配が隠しきれずに滲んでいた。
前世でもそうだった。
この不器用な氷の騎士は、私が無茶をして怪我をしそうになった時、絶対に怒鳴らない。
ただ、静かに、重い声で、“次は俺を頼れ、無茶はするな”と、行動で教える。
それが逆に、私の魂にひどく沁みて尊いのだ。
「申し訳ありませんでした、社長」
私は茹で上がった顔を伏せ、素直に頭を下げた。
「脚立を取りに行く時間を、合理的でないと惜しみました」
「……知っている。お前はそういう無茶を、平気でする奴だ」
「ですが」
「……」
「以後、肝に銘じて気をつけます」
九条CEOは、短くフンスと頷いた。
それから、少しだけ照れたように視線を逸らし、ぽつりと重い一言を呟く。
「……取れなかったら、最初から、素直に俺を呼べばよかっただろう。俺なら、椅子なんてなくても届く」
「ッ……!!!!」
だめですわね。
だめですわよ、今のは。真夜中のオフィスの特大のフラグですわ。
“最初から俺を呼べばよかった”。
何ですのその、自然で、無意識で、少しだけ独占欲と保護欲の滲むスパダリな言い方は。
記憶がないのに、どうして前世の夫と同じ『重い愛の台詞』を、当たり前みたいな顔で投げてくるのですか!? ズルいですわ!
今の私は、ついさっきまであなたの熱い腕の中(マイナスゼロ距離)にいた直後で、瀕死のコンディションなのですけれど!? 追撃の供給の加減というものを、少しは考えていただけませんこと? 尊死してしまいます!
「藤咲」
「はい」
「また、茹でダコみたいに真っ赤になってるぞ」
「気のせいですわ」
「そうは見えない。湯気が出そうだ」
「多分」
私は沸騰した脳で真顔で言った。
「この資料室の暖房が、少々効きすぎですのよ」
「俺に合わせて、このフロアの設定はかなり低めだ」
「……」
「全然、言い訳になってない」
「そうですわね。萌えです」
「萌え?」
「燃え(熱気)です」
九条CEOが、呆れたように小さく息を吐いた。
その時だった。
彼の大きな指先が、ふと私の茹で上がった額の前へ、迷いなく伸びる。
「……?」
何か、今世初の前髪へのデレ(ファンサ)かとオタクの期待が跳ねる間もなく、前髪の端に軽く触れられる。
「……資料の、紙切れだ」
九条CEOが、それを摘まんで見せた。
さっきファイルを掴んだ時に、端っこに引っかかっていたらしい。
「ついてた」
「……」
「……」
「ッ……!!!!(限界到達)」
ああもう。
無理ですわ。致死量ですわ。
至近距離でのお世話第二弾ですわね!?
私は反射的に一歩下がりかけたが、後ろは重厚な資料棚だった。
つまり逃げ場がない(壁ドン状態)。終わりですわ、私の理性。
「す、すみません、社長」
私は沸騰した声で、どうにか絞り出す。
「気づきませんでした。ありがとうございます」
「そうだろうな。お前はいつも詰めが甘い」
「はい。推しの至近距離には、甘くなります」
「……まだ、動揺して混乱してるな」
「しておりません。通常運転ですわ」
「してる。目が泳いでる」
「……」
「顔に出すぎだ」
「…………」
あらまあ。
公爵令嬢として鍛えた私の鉄壁のポーカーフェイス、そんなに崩れて顔に出ていますの?
私はここ数年、感情を殺した完璧な社畜OLとして、表情管理には自信がありましたのに。推しの至近距離、恐るべしですわ。
「藤咲」
「はい」
「落ち着いたら、その原本資料を持って俺のデスクへ来い」
「……」
「今の茹で上がったお前のままだと、仕事(俺の指示)が全く頭に入ってなさそうだ」
「……ごもっともで、その通りでございます」
私は、尊さに撃ち抜かれた顔で即答した。
九条CEOが、私の正直すぎる限界っぷりに、ほんの少しだけ驚いたように目を見開いた。
だが次の瞬間、その氷の仮面のような口元が、ごくわずかに、愛おしそうに緩む。
笑った。
ほんの少しだけ。
でも、前世と同じ、気を許した私だけに見せる不器用な笑みで。
「……そうか。なら、一分だけ時間をやる」
「ありがとうございます」
「給湯室で冷たい水でも飲んで、深呼吸してこい」
「承知いたしました。一分で限界オタクの心臓を再起動して戻りますわ」
私は完璧な角度で一礼して、茹で上がった顔で資料室の外へ出た。
重厚な扉がパタンと閉まった瞬間。
私はその場で、崩れ落ちるように廊下の壁へそっと寄りかかる。
「……ッ、むりですわ……! 萌えすぎて死にますわ……!!」
胸がうるさいほどドクドクと鳴り、止まらない。
呼吸も少し浅くて熱い。
彼の体温を感じた腰と背中が、未だに熱い。
だって、今のハプニングは反則でしょう。
深夜の静かなオフィス。
高い棚。
落ちる寸前の危機。
完璧なタイミングで抱きとめられる。
懐かしい推しの匂いと体温。
心拍数エラー。
その上、照れながらの“俺を呼べばよかっただろう”という特大の殺し文句まで来るのだ。
何ですの、この致死量の供給過多(神イベント)は。
現代日本、残業中にまでこんな素晴らしいオタク向けのイベントを仕込んでくるなのですか? 労基署へ感謝の通報をしたいですわ。
私は両手で真っ赤になった頬を押さえ、深夜のオフィスの天井を仰いだ。
でも。
私の限界オタクの胸の奥では、別のあたたかい熱もじわりと広がっていた。
あの危機を察する反射神経。
あの迷いのない抱きとめ方。
あのお前を守るという手の伸ばし方。
記憶はなくても。
名前が違っても。
生きる時代が違っても。
私の最愛のクライス様は、今世でも。
私が理不尽に落ちる前に、ちゃんと、誰より速く駆けつけて捕まえてくださるのだ。
「……本当に、ズルいですわ」
そう呟いた時、茹で上がった自分の口元が、幸せすぎて少しだけ泣き笑いに緩んでいることに気づいた。
ええ。
だめですわね。
本当に。
今世の私の最推しも、やはり、ひどくズルくて、世界一格好いいではありませんこと。
(私は一分後、完璧な社畜秘書の仮面を貼り直して、執務室へ戻った。)




