8.箱舟の沈むとき
「……」
・・・・・・
ぼんやりと照らされた計器。根元から先へ、だんだん細くなっていく指針。その針先が示す数字。ゆらり、ゆらりと辺りが揺れている。
大きく息を吐いて気だるい身体を座席に預けると、ガタンと音がした。横目で見ると、立て掛けられていた酸素吸入器が倒れていた。
インジケーターの表示が赤になっている。これはもう酸素が残っていない。
一緒に倒れたもうひとつの酸素吸入器は緑の表示……まだ使える。
頭の後ろにかけていたゴムバンドを外し、マスクを床に転がす。新しい酸素吸入器を引き寄せ黄色いマスクを引き出すと、一瞬気体の流れる音が聞こえた。
マスクを口に当てがって息を吸うと、サーッと眠気が覚めて頭がすっきりとした。
「――!」
いけない! 酸素が切れていた!
ぼくは酸素が尽きた酸素吸入器のマスクを口に当てたまま座り続けていたらしい。いつから、どのくらいの間そうしていたのだろう。
隣を見ると、そこに座る彼は背もたれに深く沈んで座席からずり落ちかけた姿で、首だけ前にうなだれている。黄色いマスクと、そこから伸びる透明なチューブが見えている。
ぼくは座席から離れて自分の酸素吸入器を脇に抱え、彼のそばに近寄った。床に置かれた酸素吸入器のインジケーターは、赤。
ぼくは彼の肩をたたいて声をかけた。
「おい、しっかり。眠っちゃあいけません」
彼は答えず、嫌がるようにゆっくり首を振った。
彼もぼくと同じだ。酸素がほしい。
ゆっくりと続く揺れの中、辺りに乱雑に置かれた酸素吸入器をひとつずつ起こしてインジケーターの表示を確かめていく。元々たくさんあったんだ、どこかにまだ使っていないものがある。だってさっき、ぼくのすぐ横にひとつあったんだから。
ひと通り確かめて、二度目は調べ終わったものをひとつずつ横倒しに。三度目は倒した酸素吸入器たちを引っ掻き回して表示を調べた。
「……」
ぐったりと座席におさまっている彼の横顔を見た。
さっきぼくの横には、未使用の酸素吸入器があった。ぼくのすぐ横に。
助けられたと思うべきか、それとも放り出されたと思うべきか。彼は最後の酸素吸入器をぼくのために残してくれたらしい。
助かったには助かったが、命が長らえたのはこの酸素吸入器ひとつ分の時間だけ。大して長くはない。意識が混濁した彼はもはや何もできない。この先、最後の酸素が尽きるまでの時間はぼくひとりきり。彼はぼくをこちら側に置き去りにして、目を閉じて深く眠っている。
ぼくのマスクを彼の口に押し当てて目を覚まさせようかとも思ったが、やめた。目を覚まして意識がはっきりしたら彼は、そのマスクを外してぼくに押し付けてくるだろうから。どこまでも深く眠る彼と、最後の酸素に意識を保つぼく。互いの最後の時間、それをマスクの押し付け合いで使い切りたくはない。
背もたれに身体を預けて、ゆっくり息をする。動かない計器たちを見ながら、ぼくはひと息ずつ、酸素が尽きるまでの時間を歩んでいく。
・・・・・・
――!
突然、甲高いブザーの音が鳴ってぼくは座席から飛び上がった。
音のした方を見ると、真っ暗な空間の先に赤い光が見えている。
隣に座る彼をちらりと見たが、座席に沈み込んだまま動かない。ゆらり、ゆらりと揺れる船に、揺りかごであやされるように眠り込んでいる。
それなら、いいか――そう思ってぼくは点けっぱなしのライトを持ち、酸素吸入器を抱えて座席を離れた。座ったままの彼の姿は光源を失って、ふっと暗闇の中へ消えた。
足元を照らしながら赤い光を追って歩いていくと、赤い表示灯が点灯した制御卓に行き着いた。
赤い表示灯――これは電気の光。
……この制御卓には今、電気が来ている?
ライトと酸素吸入器を下ろし座席に座った。赤く照らされた制御卓には「主幹電気系統制御卓」と書かれたプレートが付いていた。
真っ赤な光を放っているのは「主回路遮断機」横の「遮断」の表示灯。それと船内の送電経路を示した図。「主発電機」から「主回路遮断器」まで赤い線が繋がっている。
この表示、主発電機が回転している……誰かが主発電機室にいて、発電機を起動し送電しようとしている?
まだ、そこに誰かいるのか――?
「……」
「主回路遮断器」の文字の下、透明なカバーを開いて中にある「投入」ボタンに指をかけた。
いまから……いまさら送電をして、意味はあるだろうか。電気を送っても、それを受けてメインシステムを立ち上げてくれる人は残っているだろうか。漏れてしまった空気をもう一度船内に満たしてくれる人は、壊れた船を直してくれる人は――
……いる。
「投入」ボタンをぐっと押した。
「遮断」表示灯が消え、送電経路図の赤い線が緑に変わる。モニターのひとつが点灯し、画面上に並んだ小さな計器たちが一斉に動き出した。
きっと、いる。ぼくたちと同じように、息をひそめてこの時を待っている人が。今ぼくはここにいるし、発電機を回した誰かもそこにいた。ぼくが受け取りぼくが回すバトンを受け取る人は、いるはずだ。
「主回路遮断器」から先の送電経路図に、赤い線が伸びていく。1本、また1本と半ばで途絶え、そこで送電線が切れていることを示していく。
そして1本、いちばん長く伸びた赤い線が、緑に変わった。
電圧計の指示値が一気に下がり、モニター表示が消える。送電経路図の線が暗くなって、少し間をおいてまた明るくなる。モニター表示が再び灯る。
どこかで大電力が使われた時の動きだ。なにか大きな機械が、起動した。
真っ暗だった室内に、無数のモニターの光が一斉に浮かび上がった。「起動中」の文字が全ての画面に表示され、あちこちから機械の動作音が湧き上がってくる。
中央モニターが点灯し、光に思わず目を細める。「READY」表示が大きく映り、そして――天井の照明が全て灯った。暗闇が、払い去られる。
メインシステムは起動された。続けて補助系のシステムが起動準備に入っていく。くぐもった金属音が止まり、静かになったところへ空調の人工の風が音を立てて吹き出し始めた。
非常ブレーキはついに緩んだ。金属音は、もう鳴り出さない。
『警報、気圧が低下しています。酸素吸入器の位置と避難場所を確認し、指示があるまで待機してください。警報、気圧が低下しています――』
環境制御システムの気圧警報が鳴動する。酸素吸入器なしでは意識が保てないくらいに気圧が低いから、当然そうなる。
いま、それはいい。それよりも――
酸素吸入器を抱え立ち上がる。急ぎ通信席へ、場所は分かっている。
通信制御卓へ飛びついて、マイクをとる。タッチパネルで「全船放送」を選択し、マスク越しにマイクに向かって大きな声で呼びかけた。
「こちらは第2シミュレータ室。現在ブリッジ機能を代行中。ブリッジへの連絡は、通信先を『第2シミュレータ室』に変更して行え」
ぼくの声が、大きな船の隅々まで響いていく。
『こちら動力炉制御室、炉は正常に動作中。船長は意識不明、残存人員4名』
『主発電機室、異常なし。残存3名、これより第2シミュレータ室へ向かう』
『主コンピュータ室、メインシステム起動完了。残存6名、まだ手が足りない、応援を求める』
次々に答えが返ってきた。しぶとく息をひそめていた者たちの声が、堰を切ったように。
連絡によれば船長が倒れ人手も足りないらしい。しかしたった今まで停電し気圧も下がっていたこの船の中から、新たな人手を探し出すのはまず無理だ。となれば、求めるのは船の外――
並行して宇宙空間を進んでいる2号船と3号船。そちらから技術者や作業員を送ってもらうのがいい。向こうもそれくらいは援助してくれるはずだ。
並んだモニターを見渡して、外部との通信ができる席を探した。
そして見つけたひとつのモニター。映っているのは宇宙。外部カメラの映像が点けっぱなしになっている。
……?
なんだ? 変な映り方をして――
「……っ!」
・・・・・・
外部映像――宇宙を映しているそのモニターに、星の光が妙に少ないなと初めに思った。
次に、「漂流物」を示す赤マーカーがたくさん表示されているのに気付いた。それでも初めは、損傷したこの船から出た残骸だろうと思った。
しかし、映像の半分を埋めるほどの大きな赤マーカーの意味を悟って、ぼくは立ち尽くした。
そこにいるはずの2号船と3号船の灯火がひとつも見えない。そしてその場所に、漂流物にしては巨大すぎる赤マーカーが表示されている。見ているうちに、新しい小さな赤マーカーがいくつか、そこから分離した。
ぼくたちの船は、それほど急に動くことはできない。だから2隻がこの短時間で視界外へ遠ざかるはずはない。絶対に、そこにいるはずだ。
信じがたい、信じたくないことだが……この巨大漂流物は、2号船と3号船。
巨大な赤マーカーはひとつ。そこから次々に、小さな赤マーカーが現れてくる。
衝突したのか――? なぜ?
……詳しいことは分からない。でも、理由を予想できなくはない。
この船が不具合を起こす瞬間まで、2隻は異常なく安定して宇宙飛行をしていた。それから――半日も経っていないだろう、今は灯火のひとつもなく、システムに「漂流物」と判定されている。多数の残骸らしき漂流物を生み出しながら。
この船はメインシステム起動からちょうど500年となった今日、その瞬間に非常ブレーキ動作とフリーズが発生した。かかった負荷により船体の一部が破損し、気密が破れた。
2号船と3号船もこちらと全く同じ構造で、同じシステムで動いている。システム稼働時間も、同じだ。つまり――たぶん、同じ不具合で3隻同時に機能不全に陥ったんだ。
衝突している理由は分からない。大きく破損した船体が遠心力で振られ、隣の船にぶつかったのだろうか。
『こちら動力炉制御室。行動指示願います』
『主コンピュータ室。酸素吸入器が足りない』
『主発電機室を出た。コールサインは「チームD」。第2シミュレータ室到達までおよそ40分』
このモニターの向こうに、この船の外殻よりも外にはもう人が生きられる空間はない。いちばん近い生存可能空間は、500年の彼方にある地球――
助けは来ない。逃げ場もない。いま動いている人間も、気圧低下で気を失っている人間も、あと丸一日も経てばその命を失う。
手に持っていたマイクが、制御卓の上に落ちた。
・・・・・・
酸素吸入器のマスクを、外した。
ここまで頑張った。けど、さすがにくじけた。
そうだ、深く息を吸えばいい。この気圧――酸素が足りなくなった脳はすぐ意識を保てなくなる。眠ることができる。
『第2シミュレータ室、応答してください!』
ごめんよ……




