エピソード10 〇〇が来店する日常
落としてしまったような、ガゴンと響く音を立てて洗い場のシンクの中にカップを置いてしまったのは山内。
店長須藤とタイムカードの処理を終えて帰ろうとしていた野村がぐっと表情が変わらぬように堪えて、店内にいるお客に対して『失礼しました』と一声かけた。
須藤と野村の心で呟いた内容は一致していた。
山内くん、動揺しすぎだよ。
である。
なぜ山内が動揺しているかというと、お客として彼女が来店したからだ。山内曰くひと言も来ることは言ってなかったしそぶりもなかったと。
要するに彼女は山内を驚かせたかったのである。それに付き合っている彼女の友人は時折山内に視線を送ってはニヤリとし、彼女が恥ずかしそうに小声でやめなよ、と咎めるというのを繰り返していた。
扉を開けて入ってきた二人を見て。
「いらっ、しゃ……あー」
と突然日本語がヘタクソになった山内は以降挙動不審である。お客が帰って空いたテーブルを片付けて洗い場に入って少しは落ち着くかと思ったがカップをほぼ落としたも当然で音を立てたことから動揺はきっと彼女が帰るまでは続くと判断した須藤と野村である。
「昨日山内くんの彼女さんが来たって野村さんからLINE来ました」
「ネタにされてる」
「ニヤニヤしそうになるのを止めるのに必死だったって」
須藤は開店前の準備が早く終わったので三崎と共に一息つこうと珈琲を淹れていた手が笑ったせいで震える。
「店長めちゃくちゃ震えてますよ」
焙煎してから日の浅い状態のいい珈琲はお湯を注ぐとよく膨らむ。せっかく綺麗に膨らんだのに手が震えお湯が揺れ、台無しになるのを見ながら三崎がフッと笑う。
「動揺が凄かったらしいですね」
「終始挙動不審でしたよ」
お湯が落ちきれば本来ペーパーフィルターの上部に珈琲の粉で綺麗な円の縁取りができるが、今日は笑ったせいで崩れた。それでも淹れたて珈琲を飲めるので三崎は須藤がカップに注いでくれた珈琲を受け取る。
「でも分かりますけどねー。私も旦那が突然来たら動揺すると思いますし」
「そうですか?」
「店長は奥さん来たら動揺しない自信ある感じですね」
「そりゃあ自分の店ですし、奥さん来ても動揺する理由ないし」
三崎の中では勤め先に身内がいると何となく居心地の悪さを感じるので来るなと言っている。
まあ自分の店だもんね、店長はそんなもんかと納得した三崎だが、それが後日完全に覆されることになった。
「店長、大丈夫ですか?」
小声で佐々木が声をかける姿を見て三崎はぐっと顔に力を入れ笑いを堪える。
3人分の珈琲を淹れながら、須藤がカップを温める為に注がれていたお湯をシンクに捨てようとしたらそのお湯はシンクではなくカウンターにぶちまけられた。いつもなら持ち上げたカップを傾けるだけなのに、この時の須藤は何故かカップを傾けるのではなく前に振っていた。
カウンターに座っていた常連のご夫婦がきょと、とした顔をしてカウンターからタラーと床に流れ落ちるお湯を見つめる。
「し、失礼しました」
上擦る須藤の謝罪を耳に、佐々木が無言でカウンター前に行き、まずはカウンターの上を、そして雑巾で床の水を拭き取った。
「ありがと、うん、ごめん」
動揺する須藤を一番離れた席から見守るのは、須藤の妻。
(動揺してんじゃん)
三崎も佐々木も非常に、非常に、ツッコミたい気持ちを抑え、表情を制御し、『私はなにも思ってませんよ』の体でやり過ごす。
須藤の妻が帰り際に会計を担当した三崎にそれはそれは恥ずかしそうに頭を下げた。
「拭き取ってくれたあの男の子に申し訳なかったと伝えて下さい」
と。
「いえいえ、大丈夫ですよお気になさらず。今日はご来店ありがとうございました。またお待ちしております」
「こちらこそありがとうございました」
須藤の妻と互いに笑顔でやり取りした。
しかし三崎は見逃さなかった。
最後にチラ、と須藤を見た彼女の目が笑っていなかったのを。
それでも気の所為かなぁと取り敢えず己に言い聞かせ、今一度ありがとございましたと声を掛けお見送りした。
「あんた動揺しすぎでしょ、よくそんなんでオーナーなんかやってられんねって奥さんにめっちゃ説教されました。ガチの説教でした……」
翌日、野村がその話を聞かされ、勿論ネタとして主婦組に共有された。
『喫茶ゆとり』は身内や知人、恋人が来ると動揺したり居た堪れなくなるメンツが多いのかもしれない。




