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後編

 森の匂いというのは不思議なもので、何時だって嗅ぎ慣れないものだ……と、タイタスは考えている。

 足を踏み入れて少しは、慣れた匂いだと思うのだ。むせ返る程の木々の匂い。何もかもを溶かそうとする様な、微かな腐敗臭。その合間に漂う獣の匂い。

 森は最初、それらの匂いを綯交ぜにして鼻孔へと叩き付けてくるが、暫くすれば、それは複雑さを増して行き、遂には見知らぬ臭いへと変化する。

(それに飲み込まれた時、人は森に迷うんだ)

 タイタスは閉じていた目を開いた。目に映るのは森の緑だ。時間は昼。夜に森を歩くなどもっての他である。人間は夜に活動する様には出来ていない。一方で、森の獣たちは夜こそが本場だろう。

 相手が有利な状況で戦う馬鹿もいない。人間は知恵と地の利を使うから獣と互角以上に戦えるのだから。

(……魔物の方に、その知恵が無いと良いんだがね)

 そろそろ、別の場所で開拓民達も動き始めている頃合いだろう。場所は魔界に近い。つまり、魔物の縄張りに近いと言う事。

(まったく、馬鹿な事してるよな。危険な場所に足を踏み入れて、何をするかと言えば、わざわざ相手を苛つかせて、襲われるのを願ってるなんてよ)

 意識を研ぎ澄まして行く。油断など欠片も出来ない。死角からがぶりと噛まれてお終いと言う状況でもある。

 出来ればその状況だけは避けたいのであるが、それでも、作戦を成功させるためには、自身の動きだけは迂闊であらねばならない。

(木の枝を踏む時は出来るだけ音を立てて、足元は覚束ない様子で、服装も、森には溶け込まない色のものを選んできたんだ。これくらいすれば目立つってもんだろ)

 この近くを縄張りにする獣がいれば、さぞや苛つかせる存在である事だろう。あえてそれを演じ、魔物を誘き出さなければならない。魔物討伐の作戦は、既に始まっているのだから。

(そうだ。もう始まっている。開拓民の訓練は終え、森の中に幾つか罠を張った。そのだいたいの位置についても、俺は把握できている。森の中の……俺の位置すらも)

 この感覚が何時、身に付いたのかは分からない。もしかしたら才能の類で、初めてスカウトとしての訓練を始めた頃から、既に自分の中にあったと言う可能性もある。

 手っ取り早く言ってしまえば、方向感覚を維持できる才能だ。それさえあれば、後は地図で大まかな位置さえ把握すれば、迷う事も無く、狙った場所へと進める。

 道具でそれを補えば、他の人間だって出来るだろう。それだけの事であるが、道具が足りない開拓地においては、やはり稀有な才になるのだろうか……。

(そう言えば、以前に森の中で見た人影も……そんな才能を持った人間って事なのかね?)

 状況が切羽詰まっているからか、余計な事まで頭の中に浮かんでくる。幽霊か何かだと片付けた話であったが、今さら、あれは何だったのだろうかと疑問に思い始める。

(魔物がうろついてる森の中、特段、警戒した様子も無かった人影……子どもくらいに見えたな確か? 森に子ども? 馬鹿げてる。もしかしたら猿か何かが……)

 思考を止める。くだらない事を考えていたため、上手い具合に迂闊さを演じられたらしかった。

 つまり、魔物の気配を感じ始めたのである。

(この気配ってのも……妙だよな。別に、相手が特別な力を放っているわけでも無いだろうに)

 恐らくは、微かな足音、風の動き、獣の匂い等が、タイタスの直感を刺激しているのだと思われる。

 そのどれが一番の原因かを決めつけられないから、気配という言葉でまとめてしまう。それで困る事も無いのだから仕方ない。

「案外、ガバッと来るもんだと思っていたんだがな」

 相手の出方を探るため、声を出してみる。意思疎通なんて出来るはずも無いが、魔物の方は、存在が気付かれたと取るかもしれない。

(さて、俺はさらに動くぞ? 言っとくが、こっちは待つ側じゃあない)

 足を進めていく。向かう先にあるものは、勿論、魔物用の罠である。あるはずだ。タイタスの頭の中の地図ではそうなっている。

 そうして、残念ながらまだまだ距離があった。

(気配ってのも、まあ役に立たねえもんだよ。予告だけはしてくるんだが、正確なものは分かりゃしねえ)

 魔物は近くにいる……はず。だが、その正確な距離も、方向も分からない。曖昧な事ばかりを言う予言者みたいなものだ。

 言い放つだけ言い放ち、それが起こってから、漸く予言であったことを理解する。今の状況もそんなものだろう。

 もしかしたら、魔物なんて近くにいないかもしれない。気配を感じたと思い込み、タイタスはただ怯えているだけの可能性も無くはない。

(準備をしている時に限って、それは無為になる事が良くある。そうであったとしても、必要な事であるのは違いないんだが……人間って奴は自分の無駄な行動にうんざりしていくもんだ)

 腰に下げたクロスボウを握り込む。足は止めずに、さらに前へ。息は深くなっていく。動きは変えないが、その一つ一つの動作に気が入る感覚。

 意識の主体が顔周辺から体全体へ。踏み込む足は落ち葉の一つ一つを感じ取り、空気の中を泳ぐ様に、腕は風の抵抗を掻い潜って行く。

(錯覚でしか無いが……その錯覚だって、行くところまで辿り着ければ、現実を見据えられるもんだ―――

 思考が流れ去り、体が前方へ走る。思考すらも越えた場所にある反射神経。そうとしか思えない行動で、タイタスは走り抜ける。

 同じく前方に現れた魔物の姿がそこにあった。

(俺はこれを察していたか……!)

 思考が体の動きに遅れて追い付く。だがその時点で、タイタスの体は次の動作を始めていた。

 目は現れた魔物を見ている。恐らくは、タイタスを待ち伏せしていた魔物だ。前方の脇、大きな木陰から現れたが、何時からそこにいたのか。あの巨体に気付かなかった自分の不能を責めたい気分だが、そんな事は後にしておく。

 後悔すらもまだまだ先の出来事。今は刻一刻と迫る死の感触に、抵抗するべき時間である。以前、見た時よりもさらに近くにそれはいるのだから。

(間違いないな。あの時と同じ奴だ……!)

 鹿の様な体躯。鹿よりも遥かに大きなその体。鱗塗れのその体の上には、鋭い牙だらけの口が開いていた。

 その口元がタイタスの体へ喰らい付くより早く、タイタスはさらに前へと進んでいる。思考よりも、体の反応がもっと素早い。

 姿勢は低く、しゃがみそうな程。転ばないのは、それでも前に進もうとする勢いがあるからだ。

 そのまま相手の足と足の間を潜り抜ける。魔物の骨格からは、絶対に口が届かない場所へ。前方から敵の後ろ脚をさらに通り抜け、尾の方から抜け出す。

 その時点で、タイタスは勢いのまま転ぶ。無理な体勢は何時までも続けられるものでもない。

(逃げるだけなら、それでもなんとかなるがね!)

 転んで不味いのは動きを止める事だ。転び、前転する様にさらに前へ。途中で身体を捻り、勢いのままに地面に手を付いて、すぐさま起き上がる頃には、タイタスは魔物の方を向いていた。

「そういう体型の動物ってのは、後ろをすぐ振り向くのが苦手だよな?」

 それが魔物にも通用するかは分からないが、タイタスが次にやるべき事はどちらにせよ決まっていた。

 立ち上がる前に、腰に下げたクロスボウを魔物に向け、撃ち放つのだ。

 バチリと音が軽快に鳴り響き、既に装填された矢が魔物の胴体を叩いた。

「はっ、前の時、迂闊に攻撃しなくて良かった」

 タイタスは振り返り、魔物に背を向けると、再び走り始める。クロスボウの矢は魔物にぶつかった。ぶつかった結果、魔物は鹿の様な、それでいてより低い声で鳴き、さらには姿勢をやや崩した。

(それだけで終わりだ。もうちょっと、なんとかなって欲しかったよな!)

 走りながら、タイタスは自分の目に映った光景、頭の中で反芻する。矢は魔物の鱗すら貫けず、地面に転がった。効果は酷く薄い。

 その光景を確認するや否や、タイタスは自分で仕留めるという選択肢をすぐさま捨てたのである。

 ただ逃げる。それに全力を尽くさなければならない。そうする事くらいしか、魔物に何らかの影響を与えられない。無駄な行動はこれより一切が無くなるのだ。

 魔物を誘き出すために、迂闊を演じる必用はまったくなくなっていた。当たり前だ。そんな余裕なんて、既に欠片だって無くなっているのだから。

(いや、それにしたって、今の行動に意味があるかどうかっ……!)

 前へ走る方向から、体を無理に曲げ、横に跳ぶ。すぐ傍に何かが通る風を感じて、横目で見れば、魔物の胴体がそこにあった。

(隙は突いた……全力で走った……相手は、少なくともすぐに追ってくる体勢でも無かった)

 それでも、そうだとしても追い付かれる。二足で走る人間は、どう考えたところで、4足で走る動物に速度で敵わないのだ。

 だが、抗う事はできる。

「簡単に逃げられるとは思っちゃいないが、お前も簡単に俺が食えるなんて思ってくれるなよ?」

 すぐさま同じく腰に下げていた短剣を鞘から抜いた。さっきまで持っていたクロスボウは既に捨てている。

 刃物の輝きが危険なものと写ったのか、魔物は一旦、タイタスから距離を置いた。それにしたって、1歩や2歩程度であるが。

(このまま逃げ出すって様子じゃあねえよな。逃げられるってのも問題はあるしな)

 強大な魔物相手に短剣一本。絶望的状況であるが、さらに絶望したくなるのが、これが望むべき状況でもあると言う事だ。

(こうやって、襲われるために森を歩いていたんだ。このまま、追ってくれるのが望ましい)

 タイタスが逃げ切れればの話であるが。様子を見るに、獲物としてはまだ見逃されていないらしい。

(幸運だ。幸運ってことだよな、畜生。俺以外の誰かが襲われたって事も無さそうだ。ああ、そうだ。後は俺が逃げて、罠のある場所まで誘き出せばそれで良いんだ。ハッピーエンドじゃねえか)

 それでも、今の状況こそがもっとも難しい。しかしだ、何の準備もしていなかったと言えば嘘になる。

「言葉なんてわかんねえだろうが、こういう状況も、あり得るとは思っていたんだ。当たり前だろ? 罠がある場所で、丁度良く、お前が来てくれるなんて思っちゃいないし、だったら、お前と相対した後、上手くやる方法ってのは幾らでも考えていた。それこそが、人間の知恵ってやつだ」

 その知恵が、今からの行動を促していく。タイタスは手に持った短剣を投げた。投剣の技能があるわけでも無いが、相手は巨体だ。どこなりとも当たる。当たって、そのまま地面に落ちた。

 その瞬間―――

(やっぱり獣だな? 挑発には乗り易い!)

 すぐ脇を魔物の顎が通り過ぎた。実際、タイタス目掛けて、魔物が襲って来たのである。それを避ける事が出来たのは、来るだろうなと予想していたからに過ぎない。

 単純な反射神経で対応できる程に、魔物は生易しい相手では無かった。

(それでも、巨体のせいで驚く程ってわけでも無いな)

 まだ、例えば猫科の動物の方が早い気がする。比べられる状況でも無いが。

(それで十分だ。やれる事はまだまだある!)

 着込んだ服のポケットの一つ。そこに手を突っ込み、黒い塊を取り出す。それをそのまま、すぐそばにある魔物の顔に叩き付けた。

 と、低いが大きな声が森に響く。叩き付けたのは泥団子だ。刺激的な毒物を仕込んだ泥団子であった。

(体格がデカい分、毒も効きにくいだろうが、片目は潰せただろっ)

 少なくとも痛覚は刺激できたらしく、その場で魔物は暴れ狂っている。泣き叫んでいるとも表現できた。

 その体の動きに巻き込まれれば元も子も無いので、タイタスは走って逃げ出した。だが、完全には逃げない。

 ある程度の距離が開いたと感じたら、その場で立ち止まる。振り返れば、暴れる魔物の動きが止まっていた。

 息は荒く見える。体全体を震わせている様だった。まあ、つまり怒っている。泥団子をぶつけた側とは反対の目を見開き、タイタスを許さないと言った目線を向けている。

「ははっ。怖いなおい」

 手足が震えて来そうだ。ただ、狙い通りではあったため、武者震いと言う事にしておく。そうだ。震えて来そうではなく、実際に震えていた。

「じゃあついて来いよ。俺をかみ砕きたいって気分なんだろ? それとも踏みつぶしたいか?」

 タイタスは魔物が動ける様になっているのを確認してから、再び背中を向けて走り出した。泥団子で倒せていればやはりそれで良かったが、ダメージこそあっても致命的では無かった様だ。

 だからこそ、やはりタイタスは逃げる。ただし、逃げるにしても逃げ切らない。ひたすらに、タイタスの背中を追わせ続けるのだ。そのために万事を尽くすのがタイタスの役目である。

 手段は幾つも用意していた。自分よりどう考えても上の存在を相手にする場合、選択肢を多く用意しておくべきであろう。

 魔物や獣を問わず、自然環境の中で野生の何かに襲われた時、逃げる方法を幾つも用意しておくのが大切だ。

 先ほどの泥団子にしてもそうであるし、逃げる時はまきびしを撒く事もできる。時には倒木を利用して足を止めさせる事も出来るだろう。

 何にせよ、選択肢を常に持ち、探し続けることこそが生きるための道であり、尚且つ、魔物を倒すための道しるべでもあった。

(結構、逃げる余裕がある。ちょっとばかり、順調なのが怖いな……)

 逃げ続け、幾つかの行動の後に、タイタスはふとそんな思いを持ち始める。

 魔物は追ってきているが、タイタスへは追い付けない。それくらいの調子が続いていた。罠が配置されている場所まであと少しと言ったところか。

 そうだ。こういう時が怖い。何時だって、何事も順調な時に罠が仕掛けられている。

 タイタスが思い出すのは過去だ。ずっと過去。遥かな過去に思えるが、それは十年そこらの過去の出来事である。

 戦争があった。人と人とが武器を取り合って戦う戦争があったのだ。恨みのない相手を、手に持った武器を使い、命を奪う。それを繰り返す事で、漸く自分一人の命が先延ばしされる。そんな非合理な戦争の記憶を、タイタスは思い出していた。

(ありゃあ何時だったか……雪の道を行軍していた時だ。先んじて偵察をしていて、道を知っていた俺は、一個小隊を案内する役になった)

 そこは敵国の領地であったが、守り難く攻めやすい地形であり、早々に放棄されていた。自身が偵察した時も、敵兵らしき相手は見つからず、実際に順調そのものだった。

 ある程度まで歩き続け、このままなら問題なく、いや、想像以上に早く仕事が終わる。そう一息吐こうとした時、隊員の一人が悲鳴を上げた。

 敵の攻撃ではなかった。雪の道に穴が開いていた。雪が積もったそこは、凍った池の上であった。大人数が歩いても割れないと、タイタスが予想していた場所であったはずの場所だったのだ。

 だが、それが割れていた。偶然、そこだけ氷が薄くなっていた。そうして、そこを起点として亀裂が大きくなる。手始めに一人の隊員を飲み込んだその亀裂は、次にタイタス達をも

―――

(なんだ? どうなってる?)

 浮遊感がタイタスを襲う。足が地面を付かない。着地の予想を外れるその足が、空を踏もうとし、外れ、上半身だけが前に出た。

 バランスを崩した体は地面へと叩き付けられ、しかし勢いは止まらない。地面を数度転がったところで、どうやら坂道になっている場所を転がっている事に気が付いた。

 飲み込まれる。そうタイタスはそう思った。深い深い穴の中に飲み込まれ、そのまま脱出できず、タイタスは闇の中へ―――




(馬鹿を言え! ここは戦場じゃあない!)

 自らを叱咤し、タイタスは状況を再認識する。自分は転んでいる。勾配のキツい坂がそこにあり、自分はその坂のせいで足を踏み外したのだ。

 そうして転び、無様に地面へ体をぶつけ、さらに坂を転がり落ちて行く。それでも意識があると言うことは、まだ生きていると言う事だろうか。

(くそっ。なら、今は止まる事だけを考えろよ、俺!)

 手で地面を叩き、それを支えとする。次には体の勢いが止まったが、手で止めたと言うよりは、そこで坂が終わっただけであった。

 全身が痛い。どうにも転んだ拍子にあちこち打ったらしい。

(骨をどこか折ったか? いや、立ち上がれないって程でも無いな……)

 支えとした手を、そのまま体を持ち上げるのに使う。体全体に痛みこそあったが、我慢できない程では無かった。

 それよりも、もう少し危険だと思う事はあるが……。

「よう。そっちはこれが狙いだったのか?」

 ゆっくりと起き上がるタイタスは、合わせて目線を上げて行く。上がる視線は自分が転がった坂の上。そこまで来て、タイタスを見下ろす魔物と目が合った。

 魔物も一緒に坂を転がっていないところを見るに、どうやらタイタスを追い詰める意図の元、加減して追ってきていた事が分かる。

 必死に逃げ回る相手は、その余裕の無さから、何時かは失敗する。それを見越して、ある程度の余力を残して追ってきていたのだとすれば、この魔物は、それなりに頭が回るのだろう。

「ったく……冗談じゃねえよな。力もあって頭も良いなんて、ちょっと反則じゃないか? この森の王様ってわけだ」

 一応、媚びでも売ってみるが、魔物は恐らく、些かも減じぬ怒りの感情を抱いている。少なくとも、鼻息の荒い様子は見せていた。そもそも、言葉が通じる相手ではあるまい。

(……このまま襲われるか? だったら……そこで終わりだな)

 自分の体の状況を確認する。痛い。何はともあれ体中が痛かった。痛み自体は我慢できるものであったが、痛みの具合から、十分に体が動かない状態である事は分かる。

 逃げ切る事は出来ないだろうと判断する。つまり、ここで足止めだ。当たり前の話であるが、魔物も一緒に立ち止まってくれる事は無いだろう。

(さて、どうする? 体の方が十分じゃなくても、頭は働いている。これが不幸じゃなく、幸運だと思えれば良いんだが)

 この状況を、自分にとってどう良い方向へ動かせるか? 思考を巡らそうとするが、魔物はその時間を与えてくれそうになかった。

 魔物が足を曲げている。そのまま一跳びにタイタスへ襲い掛かろうとしていた。あの足が伸びきった時が、タイタスの命が終わる時かもしれないが……。

「……っ。罠を仕掛けたら、魔物がいるかもしれない範囲からは離れろって言っておいたはずだよな?」

 タイタスは言葉を発したが、それは魔物へ向けての物では無かった。魔物を見れば体勢を大きく崩している。

 その理由をタイタスは自分の目で確認していた。魔物の胴体が、矢で強く叩かれたのだ。

 やはり固い鱗のせいで突き刺さりはしなかったそれ。先ほど、タイタスがクロスボウを放った時と同じ様子だった。

 しかし、タイタスは既にクロスボウを捨てているため、当然、違う人間が放ったものであった。タイタスが話し掛けている相手はそれだ。

「記憶に無いな。最近は物忘れが良くある」

「初耳だぞ、マフ」

 少し離れた場所から女の声、マフの声が聞こえて来た。声の方を見れば、弓を構えたマフがそこにいる。

 どうやら、タイタスを襲おうとした魔物を横から撃ったらしかった。大したダメージは無い魔物であるが、マフの方を向く。狙いを別に定めたらしい。

「そっちの装備はどうだ! やれるのか!?」

「さっきの矢で仕留められないとなると……手持ちには無いな」

 となれば、追い詰められた人間が一人増えた形になる。タイタスはタイタス以外の命についても考えなければならなくなる。

「おい、本当に武器も何も無いんだな?」

「ああ、あったとしても、もう少し時間が掛かる」

「なら仕方ないか……おい! そこの獣!」

 タイタスは声を張り上げた。魔物がマフの方へと飛び掛る前に、意識をこちらへ向けさせる。襲うのはタイタスの方としてくれなければならない。

 実際、タイタスの声に、魔物はほんの少しだけ首を傾けていた。

「そうだ。お前だ! 良いか? 良く考えてみろ。おかしいよな? 何でお前はここで、丁度良く、そこの女に矢で撃たれた? どうせ話したって伝わらないからタネ明かしでもしてやろうじゃねえか」

 魔物に声を放ち続けるのは、何もやけっぱちになったわけでは無い。ただ、今は時間が欲しいと思う。思うから、せめて話ぐらいは聞いてくれと願う。

「俺達の狙いはこうだ。お前さんには暫くそこに居て欲しい。そうあってくれれば、俺達の命は保証されるからだ。勿論、馬鹿みたいに突っ立ってくれてる間、襲われないって意味でもあるが……」

 魔物はまだ襲っては来ていない。マフにも、タイタスにもだ。こちらの話を聞いてくれている……という訳では無いだろう。

 品定めと、襲い掛かる際の溜めと言ったところだろうか。それを止める事は出来ない以上、タイタスは最後の言葉を発する事にした。

「俺が無様に転がったこの坂が何であるか? この坂の近くに、別の人間が待ち伏せしていた理由について、お前もそろそろ気付いても良さそうなもんじゃないか?」

 魔物の膝が曲がった。強く跳ねるために、地面を踏み込むその姿勢。恐らくは……それで十分なのだ。それだけで、十分命に届き得る。

「それは……こっちの勝ちって事だ」

 随分久しぶりだと思えたが、タイタスは苦笑意外の感情がこもった笑みを浮かべた。冷や汗こそ掻いているが、タイタスは勝利したのだ。

 大きな音が森に響く。音はすぐ近く、魔物が立っていたはずの坂から聞こえていた。

 いや、坂はもう存在していない。タイタスの目の前には大穴が開いている。タイタスは痛む体を前に進め、その大穴を覗く。

 穴の奥には魔物が見えた。分厚い木の杭に何本も突き刺さっている姿がそこにある。

「ギリギリと言ったところか?」

「お前が土を厚く盛り過ぎなんだよ。中々穴が開かないせいで、随分と焦らされた」

 タイタスが転がった坂こそ、盛り土をされた落とし穴だったのだ。

 穴というより、やや崖になっているところを利用し、下側に杭を打ち、それを隠す土を掛けたと言った形であったのだろう。

 地形を利用したおかげで、魔物を仕留められるくらいに大掛かりな罠になったのだろうが、これも自然の地形を利用したからか、魔物が上に乗った状態でも中々に落ちてくれなかった。

 おかげで、命を賭けた時間稼ぎをする破目にもなったわけだ。

「もしかして、ここで待っていたのも、もしかしたら穴が開くまで暫く上に乗らなきゃいけないくらいに頑丈に作っちまったからか?」

「作っている最中から、しっかりと作り過ぎているのではないかと不安ではあった。許せ」

「許せってお前……ああくそっ。どんな文句を言っても、生き残ってるならそれで良いだろって、言い返されるんだろうな……」

 頭痛の気配がしたので、タイタスは額に指を当てた。

 とりあえず討伐は成功したのだ。それは喜ばしい事で、その事実に対して文句を言ったところで、喜びの火に水を掛ける事にしかなるまい。

「文句を二つ三つ考えるより、先の事を考えた方が建設的ではないか? 例えば……魔物の死体というのは今後、有効活用できるかどうか……とか」

 マフはタイタスと並ぶ程度に近づいて来た。彼女も魔物の落ちた穴を伺うためだろう。タイタスも、再度じっくり覗いてみると、魔物に深々と刺さった杭が赤く濡れているのを確認できる。

 ひくひくと痙攣した様にまだ動いている魔物の体が生々しい。だが、その動きこそが、確実に命を奪えているのだと言う証明にも見えた。その痙攣は、生きている者の動きでは無いのだから。

「毛皮……と言っても鱗か。なんだろうね。街の商人にでも見せれば、珍品として買い取ってくれそうか? マフ、後始末に何人か開拓民を割くから、後で皮を剥がしておいてくれ」

「鹿や熊じゃないから、上手く皮は剥がせんぞ。肉だって食えたものではないかもしれん」

 爬虫類みたいな姿の鹿。いや、鹿みたいな爬虫類か。どちらにせよ、食えるタイプの獲物ではあるまい。もっとも、既に獲物になっているのだから、恐ろしくは無くなっていた。

「既に穴だらけなんだから、幾らか傷が増えるのは仕方ないだろ。激戦があったって尾ひれを付けて売れば、むしろ値段を吊り上げる事も……あ? そういや、光ってた部分が……無いな」

 相手が物言わぬ存在となったからこそ、じっくりと観察できる。以前、見たと思っていた光る紋様が消えているのだ。

「やっぱり……単なる錯覚だったか?」

 今、ここに無い以上、消えたかそもそも存在しなかったと言う事になる。何にせよ、気になっていた事柄が一つ解消した形になるのかもしれない。

「確かに無い。しかし、そういうものが一つでもあれば、お前の言う通り売れるのではないか?」

 開拓民気質と言うか、マフの方もいい性格をしている。魔物退治で名誉をでは無く、実利をと真っ先に考える点で、夢は全く無いなと思う。

「こっちで染色しちまうってのも……いや、わざとらしさがあると減額対象だしな。いや、そういう後ろ向きな意見は先にしておこう」

「前向きに生きる事にでもしたのか? それとも、問題を先送りする癖でも付いたか」

 マフが茶化して尋ねてくるも、今は軽く返せる余裕が生まれてきている。

「夢なんてのは、開拓事業を始めた時点で散々見たんだ。後は現実を叩き付けられるだけだったろ? 今回にしても、楽しめるうちは楽しみたいってな」

「何の事だ?」

 首を傾げるマフを見て、タイタスは苦笑しか返せなかった。

「良い事なんてのは、後ろ側が嫌いらしいってだけの話さ。いいから、今は喜べるからそうしておこうぜ」

「それは……つまり、この後は悪い事しか起こらないと言ってる様なものだな?」

 それは縁起でもない話であった。漸く、先にも楽しみが待っている事もあると思えているのに、その気分も萎えてしまうのではないか。




 そうして、実際に状況はさらに悪い事になっていく。マフのせいではないが、それでも、多少なりとも恨みに思ってしまうのは仕方あるまい。

「だんだん、この会議所こそが俺に嫌がらせをしてるんじゃないかと思えてくるよ」

 タイタスは開拓地の会議所の机に肘を突きながら、頭を指で押さえていた。今回は頭痛の予感では無く、実際に頭が痛い。

「印象が悪い場所ではありますよね。短い間での印象でしかありませんけども」

 秘書みたいに近くにいるフォレノン。魔物退治から帰って来たタイタス達を喜んで迎えてくれた彼であるが、今は悩まし気な表情を浮かべている。タイタスと同種の顔だ。

「で、そろそろ再確認の情報が入ってきてると思うんだが、どうだ?」

「ええ、既にタイタスさんに伝えてくれと言われてます。聞きたいですか?」

 聞きたくはない。絶対にだ。ただ、聞かなければ状況はさらに悪くなるという現実だけがあった。

 事の発端は、タイタス達が魔物を討伐し、その死体の処理を開拓民達が行っていた時の事である。

 森の中で作業をしていた開拓民から、森に異変があったとの報告が来たのだ。その報告の真偽を確かめるため、再度、開拓民を送り込んだ段階が今の状況だった。

 その再度の確認についても、良い結果で無いことは、フォレノンの顔を見ればすぐに分かってしまう。

「聞く前にちょっとした仮定の話なんだが、魔界ってのは、無暗に広がったりするもんなのかね?」

「それ、全然仮の話じゃありませんよね?」

 つまり、そういう事だ。魔物を退治してから暫く、森の奥にあったはずの魔界が拡大し始めたのである。

 拡大した領域の植物は枯れ始め、動物は逃げる様に森の中を移動し続けている。それだけでも開拓地近くが不穏になってくるが、それ以上に、開拓地の便がより悪くなるのが問題だった。

「ただでさえ、魔界のせいで流通が滞ってるんだ。そこからさらに広がったとなると、開拓地そのものの放棄すら考えなきゃならなくなる」

「大問題である事は分かりますよ。魔界の方は、勢いこそ減じてるみたいですが、まだ広がっているそうですし……」

 しっかりとした報告はまだ聞いていなかったが、フォレノンの言葉で、やはり魔界が現在進行形で広がっているという事を確認できてしまった。であればどうすれば良いかだが……。

「相手が魔物だってんならともかく、魔界そのものとなると……頭抱えて、状況が変わるのを待つしかないってのが悩ましいな。柵とか作っておけば、魔界の拡大っていうのがなんとかできるもんなのか?」

「いえ、そういうのは分かりませんけど……そうですよね。天災と同じですし、どうしようも無い事ではあるんですよね」

 人の身で天の采配をどうこうできるはずも無い。タイタスは頭痛を覚える程に頭を働かせてはいるが、だからと言って何かを出来るわけも無かった。

「ああ。だが、苦情とかは来てるんじゃないか? ここ暫く、会議所に籠りっきりだから、外の連中が焦れて突入して来ない限り、次の開拓地全体の会議までは聞かなくても済むんだろうが」

「あんまり、聞かない方が良いですよ。碌でも無いです」

 フォレノンにはずっと、秘書に近い仕事をして貰っているため、タイタスと他の開拓民との間に入って、嫌な事を聞いているはずだ。

 もっとも新しい開拓地の住民に、そんな役目を担わせるのは申し訳なさが先立つが、それにも増して感謝があった。正直、精神的な部分でタイタスも限界に来ている。彼がいなければ、とっくに折れていたかもしれない。

「どうせ、魔物を退治したせいでこうなった……とか言って来てるんだろう?」

「それは……いや、そういう露骨な言葉はまだ……」

「実際そうだ!」

 と、自身の予想より早く、タイタスは激高していた。自分自身でも止められない類のものであったせいで、荒い言葉は続いていく。

「どう考えても偶然のタイミングじゃないだろが! 俺が迂闊だったんだ。魔物と魔界ってのは、言ってみればセットみたいな存在で……どういう理屈なんてわかりゃしねえが、こういう事態にも成り得た!」

 怒鳴り声が会議所に響き続ける。別に、目の前の少年に怒りを覚えたわけでも無い。それでも、怒鳴らなければ心の整理ができなかったのだ。

 フォレノンもそれを分かっているのだろう。特に怯えもせずに、話を続けて来てくれる。

「そんな事こそ分からないでしょう? 魔物はどうせ、退治しなくちゃならない存在だったわけですし……」

 後悔は何時だって後に立つ。フォレノンからの慰めの言葉も、今となれば本当に慰めにしかならない。

「開拓地はこれから混乱する。間違いなくだ。そうだな、俺に出来る事と言えば、それを落ち着かせる事くらいか。嘘でも良いから、開拓民を納得させる理由の一つでも考えなきゃな……」

 なんとか落ち着いて来て、また、やるべき事が頭に浮かんでくる。酷く後ろ向きな選択肢でしか無いが、今は仕事があればそれに没頭したい気分であった。

「タイタスさん。ちょっと……良いですか?」

「なんだ? 悪いが、お前にもいろいろと動いて貰う事になりそうなんだが……いや、それもちょっと無茶か……初めての開拓地がこんな状態になって済まないが、ここが駄目でも、次がある様に国へ紹介を―――

「だからそうではなく。その、やっぱり魔界の広がりが何とかなるなら、そうであって欲しいですよね?」

「そりゃあそうだが……無理だろ」

 解決方法があるというのなら、まず間違いなくそれを試している。だが、そんな可能性も無いからこそ、頭を抱えている。

「そう……ですよね。無理だ。無理なんだ……だから……はい。タイタスさんの言う事は正しいと思います。混乱が起きるから、それを何とかするために動かないと」

「……?」

 フォレノンの顔を伺う。何かを悩んでいる。それは分かるくらいに素直な顔だ。だが、それがどんな悩みであるのかをタイタスは分からなかった。

 悩み事なら出尽くした。さらにそこから、何に悩み始めると言うのか。

「どうした? 何かあるなら、とりあえず聞くだけ聞くが……何が出来るってわけでも無いけどな」

「いえ、はい。その、今のタイタスさんに言うのはちょっと引けるんですが……疲れてるみたいで」

 確かに、お互い疲れが来ていた。森で魔物の相手をしていた分、こちらの方がと言いたくもあるが、それでも、休める時には休んでおいた方が良いはずだ。

「まだ、休めるタイミングではある。これからどんどん魔界関連で開拓民の不満が溜まって来るだろうから、今くらいとも言って良いかもな。疲れてるなら休んでおけ。また、俺の小屋を使って良いぞ」

「あはは。あそこに慣れて来てるってのが怖いんですよねぇ……はい。ちょっと、明日の朝までには、こっちに来ますんで」

 フォレノンはそう言うと、辞儀をしてから会議所を去って行った。一旦、それを見送ったタイタスは、誰もいない事を確認してから項垂れた。

「別に……これから逃げたって構わないんだぜ? お前くらいはよ」

 去ったフォレノンに向けて呟く。本人には言えない事だ。言えば、これまで頑張ってくれた彼への裏切りにもなる。しかし、それでも、開拓地に来たばかりと言える彼なら、この開拓地から逃げたって構わないとタイタスは思えていた。

 もしかしたら、本当に夜逃げするかもしれない。そうなった時、自分は彼を恨むだろうか? それとも、今みたいに仕方ないと考えるのか。

「どいつもこいつも限界か? 俺はこれで、手詰まりか?」

 一度、いや、何度も自分に言い聞かせてみる。理性の方からの答えは、何時だってその通りと言う肯定であったが、心の本音のところでは、また違う声が聞こえてくる。

「ああ、そうだな。どれだけ手詰まりだろうと、頭と手足が動くんだから、そんなもんは錯覚さ」

 出来る事はあるはずだ。そういう思いこそがタイタスの本質であり、そのために行動し始めるのがタイタスのハッタリでもあった。




 一旦、タイタスの小屋へと帰ったフォレノン。自分で冗談を言えるくらいには、本当にこの襤褸小屋にも慣れて来ている。しかし、夜の寒さだけはどうにも堪えた。

「良くもまあ、僕が来る前までずっと寝泊りしてたよね、タイタスさんもさ」

 開拓地では当たり前の苦労。そう言うものなのかもしれないが、過剰な苦労の一つではあるかもしれない。

(うん。するべき苦労以上の事はするべきじゃあない。僕はね、そう思う性質だ)

 フォレノンは自身の荷物を整理している。この開拓地に来てから、物をそれほど出し入れしていないため、荷物袋の中を整頓するだけで済むのはありがたい。

(時間は早い方が良いよね。少しくらい睡眠は取りたいけど、それでも夜の内には出たい)

 開拓地を出る。そのための準備である。今の状況下、人目が付く時間帯に開拓地を出るのは、開拓地そのものに混乱を与えてしまう。

 勿論、目立たなくても、フォレノンがいなくなったと知れれば、それだけ動揺が広がると思われる。

 が、それでもフォレノンは新参者だ。酷い事にはなるまい。少なくとも、タイタスという管理官がいる限りは。

「さて、こんなもんかな……やっぱり、今すぐ出るか」

 詰められるだけ詰め込んだ荷物袋を叩く。準備が出来た以上、別の事に時間を使うのは、思いが揺らぐ事に繋がってしまいそうな気がした。

 荷物袋を背負い、窓から外を見る。薄暗く、誰かに見つからずに行動するなら丁度良い時間帯だろう。

「……夜行になるけど、それだけが不安かな」

 ただ、目的地からはそう遠くない。足の方だって自信はある……はずだ。フォレノンは顔を上げると、思い切って小屋の扉を開き、外へ出た。

 動きは止まらず、さらに一歩、さらに前へと進んで行く。悔いこそあれど、それを振り払う勢いが大切だ。

 心なしか早歩きになり、さらには走り出したい衝動に駆られるも、それは抑えて置く。夜だとしても、走れば足音が大きく鳴って、人に見つかる可能性が生まれる。

 逆に、慎重にしていれば早々見つかる事も無かった。既に開拓地の外側まで達したフォレノンは、次に開拓地を出るための一歩を踏み出そうとしたところ……。

「夜分にコソコソするのは、理由がどうだろうと感心はしないぞ?」

「えっ」

 肩がぶるりと震えた。完全に隙を突かれた形になり、単純に驚いたのだ。

 まさか、誰かに見つかるとは思っていなかった。いや、見つかった時の言い訳くらいなら考えていたが、まさかここに来てとは思いも寄らない。

「待ち伏せとかしてなきゃ、そこにいるはずがない……ですよね、マフさん?」

 声を掛けて来た人物が、木陰から姿を現した。声質からすぐにマフだと気が付いたが、問題は、彼女がどうしてここにいるかだ。

「もし、お前が来たら、止めて置いてくれと頼まれていてな」

「それは……どうして? いや、まさか僕が夜逃げするとか思っていたり……あはは、やだな。そんな事―――

「ああ、思っていない。だいたい、道に出る場所じゃないだろ。だから止めろと頼まれたんだ。むしろ、開拓地の出入口方向なら見逃せとも言われたな?」

 マフは一旦、フォレノンから視線を外している。そんな彼女が見ているのは、フォレノンの進行方向。開拓地に面した森林部であった。

 魔物の討伐が実行された森であり、さらにその向こう側には魔界がある、そんな森を見つめている。

「……逃げるのが目的だと思われていないって事ですか」

「そうであった方が良かったかもしれないな? どこにでもいる人間としては、それで一つ安心できた」

「……」

 次はどんな言葉を向けてみようかとフォレノンは考える。この状況を上手く乗り切れる言葉が思い浮かべば良いのだが……。

「ちょっと、森と一つになりたい気分で……ほら、疲れると、自然に飲み込まれて、土へ還りたいってなりません? 森と一体化! 世界と一つに!」

「それは良く分からんが……」

 だが、ほんの少しばかりマフを引かせる事には成功したらしい。ならば、このまま押し切ってしまおうかと考えるが、そうも行かなかった。

「後は頼み事をしてきた張本人と話をしてくれ。私はお前を怪しいとか何者だとか思うが、こいつはまた、別件で話があるそうだからな」

 そう言って、マフが隠れていた木陰から、もう一人が出て来た。誰だろうかとは思わない。予想は出来ていたし、実際、予想通りの人間が出て来た。

「……えっと、タイタスさんも……偶然ですね? お疲れさまです?」

「おう。お疲れついでに、ちょっと話でもしないか? 森で散歩なんて、自然に飲み込まれそうで、丁度良いんじゃねえか?」

 軽そうに言うタイタスであったが、その表情は、どこか固い物が感じられた。




 タイタスにとって、その少年はどういう存在か。短い期間でその評価を出すのは難しい。

 思いの奥まで話し合う様な仲でも無い。だから出来るのは、散歩をしながらの世間話くらいだろう。

「てっきり、完全に止められるものだとばかり思っていました」

 フォレノンが歩きながら、同じく、隣で歩いているタイタスに話し掛けて来た。マフは付いて来ていない。

 付き合いきれないと言った様子であったから、置いて来たのだ。確かに、馬鹿らしい事をしていると自分自身思う。

「お前がどういう意見で、どういう意味を持って森の中に入るのか。それはさっぱり想像できない。だから……一度止めて、それでも進もうとしてるお前を、止められるだけの理由が無かった」

 一度目は、夜に森の中は危ないぞとの注意で済むが、二度目からは、どうして森の中へ入ろうとするのか尋ねなければならない。

 勿論、ただ事ではない理由がある事だけは分かるのだから、おいそれと聞けはしない。

「その割に、結構、ピンポイントで待ち伏せしてましたよね」

「マフが言ってたろう? 逃げるなら見逃すから、そっちを見張る必要なんて無いわけだ。お前さん、会議所から去る時、どう見ても普通の様子じゃなかったしな。逃げるか……それ以外か……どちらにせよ行動を起こすと思った。それだけだ」

 その勘が当たるとも思っていなかったが、当たって欲しく無さそうな一番の事にだけは対策して置こうとした。その結果が今だ。

「……僕が、命を捨てたりする気だと?」

「さて。何だろうな。お前が話さない限り、そうだとも言えないな。本当に、謎なんだよ、フォレノン。お前の経歴についても良く分からねえし、なにより、この後に及んで、やっぱり魔界を目指してるって事の理由も分からない」

 散歩を続けるのは、フォレノンが歩き続けているからだ。進行方向は良く分かっていた。間違いなく魔界がある方向だ。

 そういう事もあるかと、山歩き用の装備はしてきたタイタスだが、それにしたって、魔界そのものへ向かう準備など出来るはずも無かった。

「だって言うのに、理由を直接聞くつもりは無いんですね」

「聞いて答えられるもんかね? 開拓地の住民ってのは、多かれ少なかれ、何かしら話したくないもんを抱えてるもんだしな。いや、開拓民に限った話でも無いか」

 誰だって、秘密の幾らかは持っている。開拓民に特殊な部分があるとすれば、普段は文句ばっかり言ってくる癖に、そういう繊細な部分には踏み込まないという機微を持っているところだ。

 タイタスにしてもそうだった。目の前のフォレノンがどういう存在だったとしても、自分から話さない限りは、何かを促す事は無い。

(ただ、こうやって散歩する時間くらいは……あったって構わないんじゃねえか? 人間同士の関係って、それくらいの情緒はあるだろ)

 もしかしたら、フォレノンが何かを話し始めるかもしれない。そうでない可能性だってあったが、それでもフォレノンはタイタスに、自分自身の事柄についてを話し始めた。

「……別に、特別、秘密にするつもりは無かったんですよ。ただ、変な話になりそうで」

「魔物を退治したと思ったら、次に魔界は広がり始めた。で、お前さんはその状況で魔界に入ろうとする。そういう変な話か?」

「そうですね。それくらい変な話です」

 つまり、彼は彼の行動理由について話してくれるらしかった。

 長い話になるだろうか? 既に幾らか森へと入っている。魔界までは、その長話をできるくらいに距離はあるが、それでも夜の森は危険だ。話をしている最中も、野生の獣等には注意を払わなければならない。

 もっとも、話を中断する気だって無いのであるが。

「勇者って知ってます?」

「……戦時中。そういうのがいるって噂を聞いたな。与太話にしても、もうちょっとまともなのがあるだろうと思ったもんだが」

「どういう類の与太話だったか聞いても?」

「なんでも、戦争の原因となってる黒幕なんてもんが居て、そいつを倒すために立ち上がった正義の人間とか……馬鹿を通り過ぎて、願いみたいなもんに思えたな。誰だって、戦争は嫌なもんだろ」

 相手の国が悪者だ。などと、戦争の末期になれば誰も思わなくなっていた。

 ただ、自分が生き残るために武器を取って戦い、戦い続け、その先のゴール地点は自分の死。それがあの戦争の大半の在り方だったのだ。

 そんなやるせない世界の中で、何もかもを解決してくれる勇者が現れてくれる。そうであって欲しいという願い事なのだろうとタイタスは思っていた。

「その噂、意図的に流されたものです」

「あん? 誰が」

「国が。この国と、また、他に戦争を続けていた国々が共同で、そういう噂を流したんですよ」

 その言葉の内容を受け入れる中で、額に指を置きたくなった。実際に置いていた。ここに来て、陰謀論染みた話を聞かされればそうもなるだろう。

 頭痛はずっと前から続いているので、状況が悪くなったわけでは無いのが幸いか。

「悪いが確認だけはさせてくれ。冗談じゃあないんだな?」

「僕も、最初はそう思ったもんですよ。ただ、聞いた時はもうちょっと内容が違ったかな。僕を……僕だけじゃないんですけど、僕みたいな人間を勇者とする。そう言われたんですよ」

「……それも国にか」

「はい。詳しく説明するには、やっぱり最初から話す方が手っ取り早いですよね。だから話すんですが、最初の最初。10年程前に終わったかつての戦争は、そもそもどうして始まったのかって話から始めましょうか」

 本当に最初からである。長く続いた戦争であり、始まりは10年前よりさらに前になるだろう。タイタスが産まれた頃からかもしれない。

 その頃からの話を、自分より人生経験が浅そうな少年がすると言うのだ。それは不思議な光景に見えた。

「確か……西方の大国が、周辺国家の領土を侵犯し、本来は征服だけで終わるはずが、積み木崩しの様に周辺国家も他国を侵略し始めた……とか何とか聞いてたけどな」

「動きとしてはそれが正しいです。ですがあくまで、人間側の動きとしては……ですね」

 まるで人間以外がいるかの様にフォレノンは話をしている。タイタスにとっては、妙な世界に迷い込んだと言った印象を受けてしまう。

「西方で、魔界が広がったんですよ。それも国家の領域を犯し、その国に住む国民が自活できない程の規模で。結果、その国は他国に生きる術を求めた。侵略と言う形で」

「魔界の拡大……」

 今、この開拓地で起きているという状況と同じ事が、その国でも起こったと言う事か。だとしたら、また戦争が起きる程の事態になるとでも言うのか。

「根本の原因はそこなんです。魔界が拡大化したから、国家同士のバランスが大きく崩れ、戦争が起きた。しかもです。西方国家で拡大した魔界。それ以外にも、他の国で魔界が発生し、幾つもの国家が大混乱に巻き込まれた」

「とんでも無い話だな……悪いが、真実だと思えなくなって来た」

「けど、今起きている事はそういう事が起こるという証明じゃないですか?」

 フォレノンが戯言を話しているのではなく、タイタスが事実を突き付けられている。フォレノンはそう言いたいらしい。

「タイタスさんが知っての通り、戦争はずっと続きました。続き続けて、結局、やはり根本をどうにかしなきゃ意味がない。色んな国の偉い人たちはそう考えたみたいですね」

「それが……勇者の話とどう繋がるってんだ?」

「だから勇者です。戦争の原因を抜本的に排除する存在。それは勇者と名付けられ、そういう役職となった。僕以外にも……幾人かの候補者がいて、全員が訓練を受けた。戦争の末期頃の話ですね」

「筋は通っていそうに思えるが……」

 本当にそうかとタイタスは自分に言い聞かせた。この話題は、初めからここまで、すべて嘘っぱちと言われた方が納得できる話だ。

 フォレノンとて、そう思われている事を理解しているはず。それでも話すのは、彼が希代の詐欺師が、どうしようも無く真実を知っているからか。

「そもそも、魔界の拡大は、今回もそうだが自然現象だろう? 何とかしようとして、何とかできるもんなのか? 事実なら、それこそ方法を知りたいもんだな」

「方法自体は確立されていました。僕が勇者候補として選ばれた時点で。というか、既に最終段階だったんでしょう。候補者を選び、訓練を施し、魔界へと送り込む。確かに、すべての準備が出来てないと、その段階にはならない」

「待った。魔界だと? あそこは人間が……」

「普通は無理です。数日入れば確実に人体に支障が出る。だから人を選んだんですよ。数万人に一人の割合だそうですが、いるそうですよ? 魔界の環境に適応できる人間っていうのが」

「……ちょっとばかりだが、現実的な話になってきたな」

 何となくであるが、理解が及ぶ。勇者だの何だので現実離れしていそうに思えたが、実際、魔界を何とか出来るのは、それこそ魔界の中で調査をする必要があるし、そのための選抜が成されたのだろう。

 そうして、選ばれた人間を勇者と呼ぶと言った事についても、名称だけなら、別に有り得ない話でもあるまい。

「じゃああれか、勇者なんて噂を流したのも、お前さん達の活動が機密だったからとかそういう事か」

「ええ、その通り。魔界を出たり入ったりしなきゃなりませんからね。それを普通の人間が見たら……絶対に怪しい噂が流れる。出来れば、僕らの活動は秘密にしたかったそうです。前もって、与太話みたいな噂を流しておくって、そういう事なんでしょうね」

 フォレノンは笑っていた。気恥ずかしさの混じった笑みだろう。自分が勇者と呼ばれ、噂される。そんな事は、恥ずかし気も無く話せる事でもあるまい。

「しかし、やる事は立派だろう? 魔界をどうにか出来れば上等だ。誰だって反対はしねえだろうし、大手を振って活動すれば良い。それも、魔界拡大をなんとかする方法と関係があるってのか?」

「そうなんですよね……ここが肝と言いますか……魔界拡大は人為的なものだったんですよ。いや、ちょっと違うな……魔族の仕業だったんです」

 フォレノンはまったく躊躇せずに話を続けている。だが、その言葉に、タイタスはまたしても引っ掛かりを覚えてしまった。

「待て。一旦、待て。魔族ってのは俺も知ってる。あれだろ? 魔物みたいに魔界に住んでいるが、人間と同じ知性を持った存在もいるっていう……物語とかに登場する存在じゃねえか!」

 昔々、魔界から悪い魔族がやってきて村を襲いました。そんな風に語られる存在のはずだ。それこそ、荒唐無稽な話になってくるだろうに。

「そうなんですよね。けど、思えませんか? 魔界拡大が自然現象だって言うのなら、対処なんて被害に備える事しかできませんが、原因に意思があるっていうなら、勇者という存在が解決する事もできるって」

 もし、何者かの意思があるとするなら、その意思の根本を何とかすれば良いとは思える。しかし、その意思とやらが魔族などと言う存在とは思いも寄らなかった。

「些か、信じられませんか?」

「悪いがな。お前さんが嘘を並べ立ててると思った方が、まだ真っ当に思えてる。それでも止めないのは……なんだろうな。信頼とも違うんだが……」

「証拠がもうすぐ近くにあるって思ってるからじゃないです? けど、タイタスさんにはこの先へ進んで欲しく無いですね」

「……」

 立ち止まる。別にフォレノンに言われたからではない。周囲の草木が異質な物になっていたからだ。

 その多くは枯れているが、その景色の奥には、むしろ鬱蒼とした木々が見える。異質なのは、それらの植物の大半が緑ではなく、紫や赤、黒や黄色で彩色されており、そのどれもが毒々しい印象を受けた。

 通常の生物が生きられない環境。そこでも繁栄を続ける生物の禍々しさがそこにあった。話を続ける内に、タイタスは辿り着いてしまったらしい。

「魔界に来ました。ここから先は……タイタスさんは進めないでしょう?」




 フォレノン・フェルナイトが勇者として選ばれたのは、本当の意味での、生まれ持っての素質に寄るものだ。

 魔界環境に耐える事ができる。その一点のみだけが求められていたものだったのだから、まさに才能と呼べる類のものだった。

 後の資質に関しては、兎に角訓練を続ける事で身に付けた……と、少なくともフォレノンは思っている。

 そうして勇者として完成した後、魔界へと送り込まれる事になる。フォレノンだけで無く、他の勇者も含めてだ。

 やるべき事は、魔界の奥にいる魔族を討伐する事。既に国家群は、魔界拡大を魔界の奥に存在する魔族が原因であると言う情報を得ており、それを勇者としての役割を担わせた存在で解決しようと試みたのだ。

 勇者……などと言われているが、要するに暗殺者だ。戦争をしようにも、魔界に大半の人間が踏み込めない以上、少人数による暗殺しか手が無い。

 狙うは魔界拡大を画策している魔族。その魔族を、魔王と呼称する事になったのは、フォレノン達を勇者と呼ぶ事になったセンスと同種のものだろう。

(勇者が魔王を倒す。願掛けにしたって、出来過ぎてむしろ恥ずかしいよね。けど、僕にとっての恥って言うのなら、その先にこそあった)

 その先。魔界への潜入。フォレノンはそのための技術を叩きこまれていた。その技能が実際に発揮されたかと問われれば……。

「お前さんの立場を見る限り、何か失敗したのか? 戦争そのものが終わっている以上、作戦全体は成功だったんだろうに。だったらお前は正真正銘の英雄で、開拓地に労働力として送り込まれるなんて事も無いはずだろう?」

「そんな話は兎も角として、何でまだ付いて来てるんです? タイタスさん。一般人は魔界の環境は毒なんですよ?」

 フォレノンが魔界に踏み込み、さらにその奥を目指そうと言う段階で、タイタスは変わらず隣に付いて来ていた。

 短時間であれば体に不調が出る程度だろうが、それでもこの環境が毒である事は変わりあるまい。長時間に及べば、勿論、タイタスはその命を落とす可能性もある。

「確かに……気分は悪くなってきたな。何だろうこの感覚は……そうだ、丁度、1週間くらい睡眠時間を3時間程にした時に似ている……」

「なんでそんな無茶を……って、だから毒なんですって。十分影響を受けてるじゃないですか! 引き返してくださいよ! 何もタイタスさんまで付き合う事は無いでしょうにっ」

 タイタスを見れば青い顔をしているし、口元に手を置いているから、吐き気だってあるだろう。すぐさま命を奪われる事が無いだけで、着実に寿命をすり減らして来る。それが魔界という場所だ。

「まだ……話は終わってないだろ。お前、この先に魔族がいるって、そう考えてるのか?」

 タイタスは先ほどの話の続きを所望しているらしい。話すべき事など、もう殆どないと思うのだが。

「戦争時もそうでした。魔族は、魔界を広げる技術を持っている。というか、その技術を持ったから、魔界拡大が始まったんでしょうね。だから、その魔族を倒すんです」

「魔族を倒しさえすれば、魔界の拡大が止まる?」

「あるいは、魔界そのものが消失する可能性もあります。実際、戦争が始まってから現れた魔界は、その技術に寄って作られたもので、魔族を倒し、その技術による拡大を阻止したら、ぱったりと消え去りましたよ」

 拡大の中心になっている魔界へ入る前に、幾つか小さな魔界へ入った事もあった。

 そうして、実際に解消できた結果、本番に挑む事になった。フォレノンにはそういう過去の記憶もある。

「なるほど……実際にそうだってのか。だったら、お前さんがやろうとしている意義に関しては理解したが……」

「まだ、何かあるんですか?」

 本当は、話をする時間ですら惜しかった。前に進む足も止めている。これ以上、タイタスをここに居させるわけには行かないと、フォレノンは強く思う様になっている。

「方法があるとして、危険な事だろ。それ」

「……ですけど、誰かがするべきです。違いますか?」

「フォレノン。何がお前にそうさせるんだ。だいたい、この開拓地でそれほど長くないお前が、誰かの犠牲でなんて考える事自体、おかしな事だろうに」

「……」

 タイタスが聞きたい事の本質はそこなのだろうと理解する。前からずっと言われていた事である。

 新参者であるフォレノンが、命を賭ける必用なんて無いのだと。

「赤ん坊が産まれた時の事なんですけど」

「あれか……」

「僕も達成感を覚えちゃったんですよね……だからここに居ます」

「……」

 沈黙が返って来た。呆れられたかとタイタスの様子を伺うも、そんな様子は無かった。ただ、すぐ近くの彼は、大きく溜め息を吐いたのだ。

「なら……仕方ないか」

「ええ。達成感って言うなら、タイタスさんの方が深く感じてそうでしたよね。あれ、正直羨ましかったです。僕だってって……まあ、思ってしまったわけですよ」

 もし、引き際があるというのならあの時点だったとフォレノンは思う。苦労が続き、未来もさして明るくは無いロードリンクス開拓地。

 何時、見捨てても良かった。ここに居続ける義理なんてこれっぽっちも無かった。けれど、思いを詰めてしまったのは、開拓地で産まれる赤ん坊を見てしまったせいだ。

 あの瞬間、隣に立つ男の表情を見てしまった。開拓地をクソッたれと思いながらも、この土地を愛している男の顔だ。

 自分も……そういう顔になってみたいと思ったのだ。そのためなら、命を天秤に乗せたって構いやしないとも。

「それじゃあ、俺も止めるわけには行かないか。同類だしな」

「それって、僕に付いて来るのは止めないって事ですか?」

「そうでもある」

 青い顔のまま、笑って言ってのけるタイタス。ネジが外れていると思うのだが、それもまた、開拓地で生きるための知恵なのだろうか。

「それに、奥にいる魔族については、お前さんが倒してくれるんだろ? 勇者さま?」

「僕は勇者なんかじゃないです。いえ、遠慮とか、後悔と言った感情から来る話ではなく、正真正銘、魔族を一度も倒した事が無い」

「……なんだと?」

 嘘じゃないだろうなと視線を向けられるが、本当なのだから仕方ない。小さな魔界を解消する時は、他の仲間が魔族を退治する役をしていたし、最終目標の魔界へと入った時は、もっと酷い状況になった。

「実を言えばですね、今も不安があるんですよ。魔族そのものにではなく、僕自身に」

「……ぴんぴんしてる様に見えるが。俺より大分マシだ」

「はい。当時もそうで、魔界にだって恐れなく入ったんですが、そこで記憶が途切れると言うか……」

「何かあったのか?」

「らしいです。突然、気を失って、そのまま10年程目を覚まさなかった。で、最近になって目を覚ましたわけで……どうにも、気を失ったまま、魔界のどこかに置き去りにされてたみたいでその……」

「そういや、マフの奴がなんだかんだ言ってたな」

 ここからはフォレノン自身の厄介な話になる。恐らく、フォレノンはタイタスと同年代くらい年齢なのだ。

 だが、10年程前、魔界の解消が行われた作戦の際、フォレノンは魔界で突如気を失い、そう多くも無い仲間達から見捨てられ、そうして最近になって目覚めた後、すごすごと本国へ帰還したのである。

 気を失っていた間、完全に年を取っていなかったせいで、それこそ魔族なんじゃないかと怯えられたが、困っていたのはフォレノンも同様である。

 周囲は何時の間にか10年を経過しており、故郷に戻るにしても、やはりそこで幽霊が出たと怯えられる。何せ、10年ほど前に徴兵され、戦争で死んだ事になっていたのだから。

「医者に診てもらったところ、何かこう、仮死状態ですか? 魔界の環境が作用して、そんな風になっていたみたいでして……あれですね。一見、魔界の中でも元気に動けると言っても、案外、そういう落とし穴があったみたいです」

「……つまり、今から突然気を失う可能性もあるってのか。おい、ほんとに大丈夫かよ!」

「そうですよね……な、なんだか急に怖くなってきました」

「勘弁してくれ、頼むから……」

 今さらながら後悔の念が浮かび上がって来る。やはり無茶をし過ぎただろうか。だが、行動の前にその感情が無ければ、実際には意味が生まれない。

「建設的な話をしましょう。魔族についてです」

「倒せば何とかなると思ってるんだが、違うのか?」

「問題が二つ。まず一つ目なんですが、魔族を倒す事は必須なんですけど、魔族を倒せばそれで終わりってわけではありません」

「魔界拡大は技術に寄るものって話だったが、それと何か関係があるのか?」

「一応、国家機密の類ではあるんですがね……」

 再現されて魔界が作られても困るという類の機密である。

 しかし、フォレノンがそれを知りつつ、こんな開拓地へ放置されているのは、知っていて、さらにバラされたところで、あまり意味の無い類の秘密でもあったからだ。

「魔族特有の力か何か……魔力って言うんですかね? そういうのがあって初めて発動するから……あ、やっぱり魔族を倒しさえすれば停止する事になるのか……」

「さっぱり分かれねえが、技術に寄るものなら、それを壊せば何とかなるんだな?」

「そうです。こう、光る紋様みたいなものでして、それがどこかにあるはずなんです」

「光る……紋様?」

 タイタスには思い当たる節があるらしいが、フォレノンはその発想を首を横に振って否定する。

「例の魔物にあった紋様は、似た物ですが、違う物でしょうね。魔法陣って言うものらしいんですが、その魔物の物は、死んだ後に消え去っていたんでしょう?」

「ああ、自分で確認したから間違いない」

「だったら、多分、その紋様は、魔族に魔物の死を知らせる物だったんじゃないですか? 魔法陣というのは、それはもう、色んな用途があるそうで」

 フォレノン自身も深くは知らない。魔法陣には多数の用途があり、魔界拡大もその魔法陣に寄る技術の物であると言うくらいだ。

 ただし、魔法陣を作れるのは魔族のみであり、さらに定期的なメンテナンスも必要と聞いているので、開拓地近くの魔界に魔族が居る事は確実視出来ていた。

「魔族の力の一つってわけか……魔物の死をそれで知った魔族が、ここの魔界を広げ始めたって事になるのか?」

「タイミング的にそうかも。けど、その意図までは知りませんね。奴らはこう……僕らより考え方がちょっと違う。いや、かなりかな?」

 魔族を倒した事は無いが、接触した事は何度もある。そうして、彼らの異質さを、フォレノンはしっかりと記憶していた。

「どう違う? これから会いに行く奴が話の通じる相手でさえあればそれで良いんだぞ、俺は」

 別に魔族が相手だからと、タイタスは思うところが無いらしい。平等の精神というより、相手を選り好む余裕が無いのだろう。

「話ですか……どうかな」

「やっぱり言葉とかが通じないもんか?」

「さっきも言った通り、考え方そのものというか、文化が……いや、直接見て確かめてください。話してる暇は、もう無いらしいです」

 フォレノンはタイタスより視界を外す。見るのは魔界の醜悪な世界。そうして、そこを歩く人影。

「あれが……?」

「ええ。魔族って奴です。びっくりでしょう? 見た目はほんと……僕たちとそんな変わらない」

 頭があり四肢があり、両の足で歩く。服だって着ている。魔界の中にあって、不気味な程に白い布のそれだった。

 だが、真なる不気味さは別の部分にこそあった。服というより布に穴を開けたと言った程度のそれを着込んだその魔族は、どう見ても、人間の少女の姿をしていたのだ。

「……おい。前に見た事があるぞ。あれ」

「そうですか。まあ、向こうは魔界だけでしか生きられないってわけでも無いんで、森の中を散歩する事もあるんじゃないです?」

「一度、追いかけてみたが、すぐに行方を暗まされた。それも何か……魔法陣みたいな技術なのか?」

「いえ……それは……違いますねっ」

 言い終わるや否や、フォレノンは走り出した。向こうからこちらへ歩いて来る魔族が、走り始める素振りを見せたからだ。

(こいつらを相手にする時は……何時だって先んじて動かなくちゃあならない!)

 フォレノンは持ってきた武器、短剣を一本鞘から引き抜き、その動作と同時に前方へ走り始めた。

 その一瞬後にすぐ隣を、驚いた表情をした魔族の少女が通り過ぎる。

 少女のそれは、まるで瞬間移動でもしたかの様な移動であったが、彼女の位置取りを見るに、フォレノンを狙い、蹴り付けるための動きである事が分かる。

 魔族の少女は強く地面を蹴って、その勢いのままに、フォレノンへ襲い掛かろうとしていたのだ。

「おい……マジか」

 タイタスの声が聞こえる。彼はすぐ隣に移動していた魔族の少女を見て、茫然としていた。彼にしてみれば、突然現れた少女が、さらに化け物染みた動きをした様に見えたはずだ。

 そうして実際、身も蓋も無く、その通りの行動を少女は実行していた。

「お前の敵はこっちだ。分かるだろ?」

 タイタスに幾らか言っておきたい事もあるのだが、それより先に、フォレノンは少女に話し掛けた。抜いた短剣を見せつけ、フォレノンの立場を明らかにするためだ。

 これは魔族に会った時、必ずしなければならない行動である。特に、いきなり襲い掛かって来る魔族に対しては。

「アハハ……まズ、あナたガ、あいテをしテくれるノ?」

 少女は子どもらしい声と、やや活舌の足らなそうな喋り方で、タイタスとフォレノンを交互に見ていた。

「そうだ。僕が相手だ。そっちの人は敵じゃあない。タイタスさん。気になる事もあるでしょうが、とりあえず従ってください。でないと……死にます」

「お、おう……」

 こと、魔界と魔族に関してはフォレノンの知識と経験が勝っている。それが分からないタイタスでも無いだろう。冷や汗を流してこそいるが、じっとそこで留まってくれていた。

「僕たちは……魔界の拡大を阻止するためにやってきた。やっているのはお前か?」

「ソうだヨ? うン。だっテ、そうスれバこうやっテ、おもシろいヒトがきテくれるシ……ネッ」

 言いつつ、少女は地面を足で抉った。尋常では無い強さと速さで抉られた土は、そのまま幾つもの土片となってフォレノンがいる場所へと襲い掛かって来る。

 一つでも体にぶつかればタダでは済まないだろうその速度。だが、それらがぶつかるのはフォレノンがいたはずの地面であり、フォレノンでは無い。

 フォレノンはまた、魔族の行動を予測し、先んじて動いていたのだ。

 足と手。体全体のバネすらも利用して、体を横に飛ばしていた。そこにあったのは太い一本の捻じれた木の幹。飛んだ勢いで身体を捻じり、その幹を足場にしながら、さらに跳ねる機動を変えた。

 フォレノンが次に跳ぶのは魔族の少女を横側に見る地面の上であり、その場所で手に持った短剣を投げつけた。

 短剣の刀身は少女の頭部を狙ったものであったが、それは少女の腕に阻害される。手では無く腕だ。

 少女はただ、顔と短剣の間に自分の腕を挟み込んだだけであり、短剣は少女の腕を貫き、そこで止まる。

「へェ」

 自分の腕に刺さった短剣をしげしげと見ている少女。痛みは無いのか。あったとしても気に留める程でも無いと考えているのか。

 そのどちらであってもおかしく無い感性を魔族と言うものは持っている。

 ただ、興味が戦いから別の方へと向かっているらしい魔族を見て、フォレノンはある種のチャンスだと思う事にした。

「タイタスさん。見てましたか? これが魔族です。人間離れした身体能力を持っていて、タイタスさんが全力で追い掛けたって、多分、すぐ見失うくらいに素早く動ける」

「いや、お前も大概だろ……」

 そんな事は無い……はずだ。自分は訓練を受け、魔族と戦うための技能を手に入れた。あくまで後天的なものであり、向こうとは違う。

 そうして魔族は、先天的にそんな力を持った存在だと言う事を説明したい。迂闊に近寄れば、すぐにその牙を突き刺してくるのだ。

 ちょっとした付き合い方を知れば、それでも多少はマシになるが、今の事態がその多少、マシになった状況である。

「魔族っていうのは、凄い力を持っているからか、何と言うか、自身の力を試したい性質なんですよ。そうして、力を使う事に関して言えば、フェアな部分がある。一対一の勝負を望めば受け入れてくれたりもする」

 魔族の文化と言うものなのだろう。部外者である人間には、完全に理解する事は出来ないものの、利用する事は出来る。

「とりヒきだヨ? わタしとしょウぶしテ、カてタなラ、マかいをヒろげるのをトめてあげル」

「良く言う……そもそも、これが目的だろうにっ!」

 フォレノンは懐から、もう一本短剣を取り出す。さらに短く、細いタイプの短剣だ。構えを取ると、さらに相手の出方を待つ。

 魔族との戦いはこれに尽きる。相手の動きを素早く察知し、その目的を予測し、さらに相手より早く行動を開始しなければならない。

 後の先を取るという形になるが、それが生易しいものでは無く、訓練で精度を高める事は出来るものの、言ってしまえば、勘に頼る戦いをし続ける事になる。

(そんな戦い方が長く続くはずも無いから……)

 必然的に、フォレノンは戦い続ければ続ける程に不利となる。戦いは短時間の内に、自分の敗北という形で終了するだろうとの予測が出来てしまう。

 だとしたら、考えるべきはその時間を有意義に使う方法だ。

 例えばもう一度、少女が手を振り上げ、猛スピードでこちらへ襲い来る事を察知し、その腕の軌道を避けるために屈む事など、真っ先に思考し、行動に移す事である。

(だけど、真に重要なのはその後だろう?)

 頭部の少し上あたり。髪の毛を少し掠りながら通り過ぎる少女の腕を感じ取りながら、手に持った短剣で少女の心臓部を狙う。

 やられる前にやる。とても単純な理屈で持って、時間を有効活用するのだ。

 行動には何時だって隙が生まれる。その僅かな隙を狙える様に、その隙の内に短剣を突き刺せる様に。それが勇者という名称を与えられ、訓練を受けた者の技能であった。

(暗殺者って言った方が、余程適当だろうけどっ)

 短剣から届く確かな手応えを感じながら、自分のやっている事を確認する。

 魔族とは言え、少女の姿をした相手を刺殺した。これは間違いなく勇者と名付けられた存在のする事ではあるまい。

 事実、自分は勇者などでは無かった。いや、暗殺者ですら無かった。何せ短剣は少女の胸へと届く前に、少女が上げた足の太ももに刺さっていたのだから。

「あハっ」

 少女のしてやったりと言った表情と笑い声。それを見聞きした記憶は、反転する視界によって塗り替えられる。

「がっ……!」

 自分は宙に浮いていた。その前に激しい衝撃が体を襲った感覚があるため、少女に投げ飛ばされたか殴り飛ばされたのだろう。

 痛みが無いのは、ただ体が戦いに順応しているからか。それとも、既に大半の機能を失ってしまったからか。

 その答えが出る前に、フォレノンは地面へと叩き付けられた。

「いや、その割には随分と衝撃が……」

「よ、よう。まだ大分元気そうじゃねえか」

 地面にぶつかる直前、想像したのとは違う感触があった。丁度、間にクッションを挟んだような感覚だ。

 下を見れば、間に挟まっているのはクッションでは無くタイタスだった。どうやら、フォレノンが落下の衝撃を防いでくれたらしい。

「ということは、あっちは手加減をされた?」

「ううン? ちょっト、かたウでトかたアしをサされテ、バらんスがくずレちゃっテ」

 魔族に教えられる形で、叩き潰すつもりが、放り投げる程度で終わったのだと判明する。何にせよ、タイタスの補助もあって、フォレノンの体は、まだ万全と言える状態ではあった。

「とりあえず、退いてくれねえもんかな?」

「あっと、すみません。庇って貰ったみたいで」

 すぐにタイタスの上側から体を持ち上げる。彼に圧し掛かる事への遠慮というよりは、何時までも転んだ様な姿勢でいると、少女が襲い掛かって来た時に対処できないという判断が強い。

「庇ったってより……こっちに飛んで来たってだけだな。こりゃ」

「それは不運ですね。ちょっと、この人は巻き込まないって約束だったろ?」

 視線を少女へと向ける。無茶な文句だったし、ただの冗談のつもりで話し掛けたのだが、少女は真剣に悩んだ表情を浮かべていた。

「ちゅうイがタりなナかったネ。ごメんなさイ。ツぎからハ、キをつけるヨ」

 少女はそう言って悩んだ後、すぐにまた笑みを浮かべ、そうして構えを取り始めた。今度からは単純に突っ込んでくるつもりは無い様子。

 と言うより、今まではこちらの小手調べやハンデだったのだろう。

 身体能力で圧倒している自分は、それより劣る相手には気を使わなければならない。そんな考え方をしているのだと思われる。

「タイタスさん。分かりますか? これが魔族って存在です。他者を圧倒する力と、妙にフェアな精神を持っている。だから……僕が戦っている間は、タイタスさんは安全です」

「……」

 沈黙しているタイタス。多少なりとも安心してくれれば良いと思う。出来れば、逃げてくれればとも思うのであるが、それはしない相手だとも知っている。

「けど、戦いは戦い。何時巻き込まれるか知れたものじゃあない。さっきは助かりましたけど、出来れば離れておいておください。なあ、それくらい待つのは出来るだろう?」

「そっちのヒとはタたカえないノ? じゃア、しかタないネ」

 少女の了承を取り付ける。魔族は凶悪であるが、フォレノンが戦う事を選んでいる限り、その他の事には寛容になってくれるはずなのだ。

「……フォレノン」

 何かしら重い感情の籠った声で

「何です? 湿っぽい話になるなら、泣く準備が出来てないんで後にして欲しいって言うか」

「そうじゃねえ。これからまた戦うってのなら、さっきみたいな……兎に角、あいつと話せ」

「話し合いで解決しろと? 馬鹿な事言わないでください」

「だったら、話しながら戦え。魔族を出来るだけ喋らせろ」

 タイタスが何を目的としているのかが分からない。単純に、平穏無事が一番などと言っているわけでは無さそうであるが……。

「話しながら戦うなんて器用な事できませんよ。少なくとも全力では戦えない」

「だったら全力でなくても良い。あの魔族の口から、あれやこれや聞き出せればそれで良いんだ」

「……」

 今度はこっちが黙る番だった。どうするべきだと自身の心に尋ねてみると、当たり前の様に、彼の要求は拒否するべきだと返って来る。

 実際、そう答えようとしたのだが、安易に否定の言葉を声に出来ない自分がいた。ここに来て、タイタスが自分達にとって不利にしかならない事を言うはずも無いのだ。

 何か考えがある。だが、その考えが分からなかった。タイタスはこの状況で、何を狙っているのか。

「あのサー」

「おい、ほら、話したそうにしてるぞ。何か喋れ」

 魔族の少女を指差し、タイタスが言う。

「しゃ、喋れって言われても……」

「だらダらしてルなラ……コっちかラいくヨ?」

「……っ!」

 少女が自分の太ももに刺さった短剣を抜き、投げ返えそうとしていた。フォレノンはタイタスを手で押し、その反動で自分は反対側へと移動する。というより、無様に転がった。

 両者、それぞれ別方向に転がるわけであるが、その二人の間に、少女が投げた短剣が、猛スピードで地面にぶつかる。

 刺さらずにひしゃげ、刀身が柄ごと破壊された短剣を見て、その威力に唾を飲み込んだ。

「つぎイくヨ?」

 フォレノンが少女に刺した短剣は二つ。もう一本の方も飛んでくるであろうことはその言葉だけで知る事が出来る。

 そうして狙っているのは、フォレノンだろう。なら、フォレノンは短剣を避ける動作を何より優先しなければならない。

 転がった状態のまま、なんとか足を地面に引っ掛け、無理矢理に体を跳ねさせる。挫きそうになる痛みが足を襲ってくるものの、刃物が当たる痛みよりは大分マシだろう。

 近くに、というかさっきまで居た場所へと投げられた短剣が、あり得ないと思える鈍い音を立てて壊れるのを視界に収めた。

(はっきり言って、こうやって避けるのが精一杯なんだけどっ)

 心の中で毒づきながら、先ほど、タイタスから頼まれた事を思い出していた。

「随分と酷いお返しじゃないか。借りたものは元のままか綺麗にして返すって文化が無いのか?」

 姿勢を立て直しながら、次の動きの準備をしつつ、フォレノンは少女に話し掛けていた。これが一体何の意味を持つのかは知らないが、それでも、状況を変える要素になるのではないかと望みを掛けていたのだ。

「カりたモのって、すぐこわれチャうよネ! ワたしたチはモのをアたエられたら、もっとスごいモのでカえすんだヨ!」

 短剣二本では終わらないらしい。さらには、何時の間にか握っている石礫を贈呈しようとしている様子。

(くそっ。ちょっと……距離を開け過ぎたか!?)

 あちらは石を飛び道具に出来るらしいが、こちらは近づかなければダメージを与えられない。

 出来るだけ姿勢を低くし、前に出ようとするが、少女が手の中で石をすり潰しているのを見て、行動を改める。

(なんてことが出来るんだ、あいつは!)

 むしろ、距離を置かなければならない状況だ。前方へ進む足を止め、後方へと跳ねると、すぐ近くの木陰へと飛び込んだ。

「飛び道具ばっかりって言うのはズルいじゃないか!?」

 叫びながら、木の幹に出来るだけその体を隠そうとする。お喋りをすると言うよりも、一言文句を言ってやりたい気分だったのだ。

 そうして隠れた木の幹に砕かれた石片がぶつかる音に混じる、少女の声を聞いた。

「じゃア、ツぎはチかくでのつよサ、みせテあげル!」

 石がぶつかる音と少女の声が止んだ後、次に地面を強く叩く音がした。その音が、少女が地面を蹴って跳ねた音だとはすぐに気が付いたのだが、その少女の狙いに気が付くのは、そこからさらに後になる。

 隠れていた木の幹。それがミリミリと裂け始めているのを見て、漸く、少女が体ごと木にぶつかり、それをへし折ろうとしている事が分かったのだ。

 その木の幹は、フォレノンが隠れるくらいの太さはあるはずなのに。

「あんまり見たくないね、女の子のそういう姿! 男の夢が台無しだ!」

 少女が完全に木をへし折り、引っ掴んだままのそれを振り回すまではまだ時間がある。

 彼女自身の腕力でもって、直接襲い掛かって来る方がまだ脅威だと思う事で心を落ち着け、次の手を考える。

(距離を置く……のは愚手だろうね。せっかく近づいてくれたんだ。ここを狙わなければジリ貧だろうさっ)

 少女に一歩、近づく。恐らくは向こうにとっても正解の選択肢だったのだろう。楽しそうに笑う顔が見えた。互いを遮っているはずの木が取り除かれたと言う事でもある。

「かっこイいでしょウ?」

 振り回される丸太は格好良いものでは無く、恐るべきものだ。

 視界の左端から右端へと迫るその丸太の影。それが視界の中央付近まで来たところでフォレノンの体は弾け飛ぶだろうから、その前に屈む。

 両の足を折り曲げ、出来うる限りの低姿勢で、丸太が頭を掠めるのを感じ取りつつ、さらに前へ。

 狙うは丸太を振り抜いた少女の首。短剣はもう所持していないため、腕と指の力で喉を突くくらいしか、ダメージの与え方が無かった。

「丸太ってさぁ! 武器としちゃあ難点があるよね!」

 丸太を一度避ければ、そこには振りぬいた勢いで姿勢を崩す少女が一人。隙だらけとなったその首筋に手を近づけ様として―――

「っとぉっ!」

 咄嗟に腕を引く。少女が大きな口を開きながら、伸びるフォレノンの手へ、顔を近づけようとしていたからだ。

 バチンと音が聞こえそうな勢いで口が閉じるのを見るに、そのまま腕を突っ込んでいれば、指が噛み千切られていた事だろう。

「やるネ!」

 本当に楽しそうに、少女は呟いた。それはフォレノンが手を引いたタイミングを指しての事だろうか。

 それとも、喉を狙うのを諦めて、すぐさまに少女の足を引っ掛けに狙った判断を言っているのか。

「そのままスッ転んでいてくれないかな……っ」

 少女の足は驚く程簡単に払う事が出来た。もう少し粘るかと思えたが、少女は手に持った丸太を落とし、無様に転んだ姿を見せる。

「このぉっ!」

 続く動きで、転んだ少女の頭部を躊躇せず蹴り上げようとする。残酷な方法かもしれないが、相手に同情する余地をこの少女は与えてはくれないのだ。

 足に響く感触は、確かに少女の頭を蹴った物であった。蹴られた勢いで地面をさらに転がっていく少女。

「ぐぅっ……」

 呻いたのはフォレノンの方だった。勢いを付けて固い頭を蹴ったためか、足に痛みが響いた。さっきから酷使し続けている四肢が悲鳴を上げ始めている。

 一方で、少女の方を倒せたかと言われれば、そうでも無い。

「フみつけナかったのハ、イいハんだんダったとおもうヨ」

 転がっていた少女が、ゆっくりと顔を、体を上げて行く。少女の表情は、額から血をダラダラと流しながらも壮絶に笑っていた。

「フまれテたラ、ソのまマ……おシかえせタんだけド」

「不死身かな……君」

 立ち上がった少女は、短剣の刺し傷もあって血塗れだと言うのに、十分に動けていそうに見えた。

「ちゃあンとだめージはうけるヨ? がんジょうなダけでネ。すごイでしょウ?」

「凄いって言うか……怖いかな……」

「うーン……そのコたえハ、キたいハずれだネ」

 不満げな言葉を口にする少女を警戒しつつ、どうすれば良いかを考える。

 素手でこれ以上のダメージを与える事は出来そうに無い。武器については……実は短剣二本以外持ってきていなかった。魔族を倒せるとしたら隙を突く以外は無いため、大袈裟な武器は必要ないと考えていたのだ。

(実際……そんな物があってもすぐ破壊されていただろうね。ってことは……今の状況は、単なる僕の実力不足か)

 経験がもう少しあれば、上手くやれただろうかと後悔する。これからやれる事と言えば、先ほどと同じ様に、少女へと接近しつつ、効き目の無さそうな攻撃を繰り返す事くらい。

 一方で、あの魔族が一撃でもフォレノンの体に拳をぶち当てたら、その時点でフォレノンの敗北である。

「負け戦になってきたけど……それでもまだ動けるのは幸か不幸か」

「しあわセなことだヨ。つよサをミせれるのハ、とってモしあわセなこトなんダ」

 笑っている。幸せそうに少女は微笑み掛けてくる。それが本当に、フォレノンには恐ろしい。

「魔族って言うのは何時もそうだ。やっぱり、僕らとは根本が違う」

 そうして、そんな魔族を打ち破って来たのが勇者であり、そうできなかったのがフォレノンなのだ。

 今回、魔界へと入ったのは、魔族を倒せる機会があったからと言うのも、動機の一つだったかもしれないと、フォレノンは思い直していた。

 かつての自分が出来なかった事を、今、ここで果たしてみせようなどと考えてしまったのかもしれない。

(それで……欲張ったあげくがこのザマって言うのは……無様そのものでしかないな)

 苦笑を浮かべそうになった。それはきっと、タイタスの物と良く似ているのだろう。疲れた感情を持ちながら、それでも行動を止められない人間の笑みだ。

(無様なら無様なりに……意地くらいは見せてやるさ)

 フォレノンは負ける可能性の高い戦いに挑もうとし、構えを取ったその瞬間、思いも寄らぬものが飛んで来た。

 手に納まるくらいの、木の枝だった。

「アげル」

 それを放り投げて来たのは魔族の少女であり、攻撃のためで無かったのは、軽く手で受け止められた事から分かる。

「……何の真似だ?」

 木の枝は、先端が鋭く折られていた。丁度、槍の代わりになるかもしれない。それでも木の枝は木の枝であるが、素手で戦うよりかは何倍もマシだろう。

 それこそ、少女と刺し違えるくらいは出来そうな凶器には成り得る。あって有り難いものではあるものの、何故、少女がそれをフォレノンに寄越して来たのかが気になった。

「ソっちがスでのマまじゃア、ワたシ、ぜったイにかっちゃウでしょウ?」

「それじゃあフェアじゃないとでも言うつもりだって?」

 苦笑を止め、少女を睨み付ける。向こうはまだ、笑みを浮かべたままであったが。

「うン。ぜったいニかてルあいてにカってモ、イみなんてナいじゃン」

 これが魔族か。これが魔族なのだろう。命の危険を自分で生み出してまで、勝負の平等さに拘る。自分の力を示したがる。

 確かに、こうまでしてフォレノンに勝利したと言うのであれば、彼女の強さは証明できると言うものだが。

「礼なんて言わないし、それでも言わせて貰うなら、かなり間抜けに映っているよ。そっちはさ」

「ドーかナ? ホんとのトころハ……ワたしノこト、すごイっておもっテるでしょウ?」

「……」

 図星を突かれた程では無いが、この力の見せつけ方は、心のどこかで憧れるものがあった。だからフォレノンは沈黙する。ただ、少女を見る。

 相手への憧れは相手への殺意を消してしまうかもしれないからだ。

 丁度良く、武器が転がって来たのだから、それを使う。それでもって、それでも微かだろう勝機を掴む。そのためにこそ、フォレノンは心を黒く染めて行く。

(全力で走ろう。そうするべきだ)

 もしかしたら途中で妨害のための何がしかを使ってくるかもしれないから、目は瞑らず、五感のすべてでもって、前へ進む事に全力を尽くす。

 後は……少女の体のどこかにでも、この木の枝を突き入れるだけで良い。それだけしか道が無いのだからそうする真似だ。

(5……4……)

 心の中でカウントダウンを開始する。姿勢を低く、足は何時でも走れる様に。心は戦う事だけの一心に。

(3……2……)

 呼吸を深く一息。恐らく、これが決着するまでの最後の呼吸だ。存分に味わおう。

(1……0っ!)

 バネで弾かれた様に、フォレノンは少女へ突進した。警戒していた妨害は無かった。あるのは少女の笑顔と、こちらの一撃と相対するため、構えを取るその小さな体のみ。

 相手は数歩の距離にいる。自身の脚力ならば、数秒も掛からない距離にある相手へ、その木の枝を突き入れようと―――

「何をっ……!」

 再度、突進が妨害された。今度は少女からでは無い。その事は、少女が驚いた表情で別の方を向いている姿が証明していた。

 別方向からの矢が一本、眼前を通ったのだ。丁度、フォレノンと少女の間、二人の決着を妨害する様に。

 しっかりとフォレノンと少女の目に映る形でだが、それでも、当たらない程度に的外れな場所を矢が通った。

「いったい何のつもりです?」

 フォレノンもまた、矢が放たれた方向を見た。そこにいるのはタイタスである。ずっと、フォレノンと少女の戦いを見ていたはずの男が、クロスボウをこちらへ向けていた。

 彼が戦いを妨害してきたのである。

「何のつもりかって話の前に、お前ら二人共、俺の存在忘れて無かったか?」

「……別にそんな事はありませんけども」

 すっかり少女との戦いに集中していたため、忘れていた部分はあった。そういえば、戦いの最中に少女と喋れなどと無茶振りされていたのだったか。

 幾らか、その願いは叶えられたのではと思うのだが、相手が満足しているかどうかは分からない。

「ごメンだけド、ワすれテたヨ。けド、あとデあいてにシてほしいってコとでいいのかナ?」

 危険だと思った。少女の興味がタイタスの方へ向くと言うのは、彼までが戦いに巻き込まれると言う事なのだから。

 そうして、タイタスに魔族と戦う力はあるまい。

「悪いが、相手をして貰うって言うのなら今だ」

「だから、そういう台詞はヤバいんですって!」

 タイタスの言葉に危機感は高まっていく。その原因とも言える少女を見れば、そこには満面の笑みを浮かべた少女がそこにいた。

「あハ、ダったラさきニ―――

「だが、拳でのやり合いなら俺の負けだ。ハンデをくれ」

「ハ?」

 向けていたクロスボウから手を放すタイタス。完全に無防備となったわけだが、だからこそ、少女は安易に襲い掛かろうとしていなかった。

(何かを狙っている……んだよね?)

 まさに、今のこの状況がタイタスの狙っていたものと言う事か。それは、これからの展開を見ていれば分かるのかも。

「ハンデだよ。フェアにやろうじゃねえか。俺は戦うのは苦手だ。幾らか心得はあるんだが、どうにも得意とまでは言え無くてね。だからまず、話し合いをしよう」

 良くもまあ、言えたものだと思う。彼は確か元兵士であり、一般人と比較すれば、それこそ戦える側の人間だろうに。

 だが、そうであっては少女と戦う事になるだろう。彼が自身の無力を言葉にするのは、戦う事を避けたいのだろうか。

「ハなしテどうするノ? ワたシ、くちさきダケのオとこはキらいだナ」

 そういう人間ならば今すぐ排除するぞ。そんな意図が少女の言葉から感じられる。先ほどまで自らの命のやり取りをしていたと言うのに、フォレノンはタイタスの行動にハラハラしてきていた。

「俺はタイタスだ。タイタス・ライド。こう見えて、君が散々脅かしてくれたロードリンクス開拓地の管理者をしている」

「ン?」

「分からないか? 自己紹介だよ。友好な話し合いならまずそれが必要だ。好きなものは分厚いハンバーグ。ソースはたっぷり掛けて欲しいが、中に赤身が残っているのは嫌だね」

 矢継ぎ早に言葉を向けているタイタスであるが、それでもフォレノンは危機感が収まらない。

 状況の中心となりつつあるタイタス。それはつまり、何かあれば、何もかもが彼へ向かう事になるのだから。

「ベつニ……あなたのスきキらいなんてシりたくないネ」

 少女が姿勢を変えた。フォレノンと戦う構えでは無く、その標的をタイタスへと変える動きだ。

「タイタスさん。迂闊な事は―――

「だから自己紹介だ。何度も言うぞ? フェアじゃあない。突然現れて突然戦い始める。俺にとっちゃあ、君は災害と同じさ。だが、君は人格を持っている。自分の意思で持って動いてる。そうだろ?」

 フォレノンの言葉を遮って、タイタスは物怖じせずに話し続けた。というより、少女が行動を始めるより先に、すべてを話し切ろうと考えているのかもしれない。

「ナにガいいたいっテ?」

「そっちの名前さ。初対面の、名前を知らない相手に馴れ馴れしい態度なんて、あんまり無いだろ。こっちが名乗ったんだ。そっちだって名乗らなきゃフェアじゃない。そういうもんじゃないか?」

 理屈としては正しいのだろうか。いや、それでも圧倒的優位の相手にふてぶてしく発せる言葉ではあるまい。

 だが、どうにもタイタスの態度に思うところが生まれた。

(もしかして……この人は……)

 フォレノンはタイタスと少女を交互に見た。険悪さを感じる部分はあれ、少女の様子は少し変わった。

 今すぐ襲い掛かろうとする雰囲気。それが少しばかり和らいでいたのだ。

「ゼイヴィス。ゼイヴィスってイうんダ。ワたしはネ」

 少女、ゼイヴィスは、タイタスに届かせようとしていた手を、今度は自分の胸に当てていた。彼女の中でも、タイタスへの敵意が興味へと変わりつつあるのかもしれない。

「じゃあゼイヴィス、提案だ。この戦い、ちょっと中止しないか?」

「そんナはなしはキけナいネ」

 敵意は薄れたかもしれないが、それでも消えてはいない。目の色は常に戦いの意思で染まっているゼイヴィスであるから、フォレノンは常に戦いを再開できる姿勢を続けていた。

「代わりに提供できるものがあると言ったら? 勿論、そちらが望むものだ」

「え? あの開拓地に何か有益なものが小指の先程にも存在していたんですか!?」

「何でお前が驚いてんだ!」

 そりゃあ驚きもする。この場面で交渉などと。しかも魔族相手だ。金銀財宝が山ほどあったところで、何かを聞いて貰える保障なんて無いだろうに。

「ふぅン。とリあえズ、ナにをモらえるかダけでもキこうカ?」

「嬉しい返答だな。涙が出てくる。で、やれるものなんだが、そりゃあまあ、戦いの場だ」

「へェ……ムぼうなテいあんってワけでもナさそうだネ。うン。くれれバ、うれしいモのかもしれなイ」

 魔族は戦いを好む。タイタスが言葉にしたものは、確かに彼らの望むものではあるだろうが……。

「開拓地を戦いに巻き込むつもりですか? そんなのは……おかしい。間違ってますよ!」

「何時だって、開拓地なんてのは戦いの中にあるもんだけどな。提供するものってのは、ちょっとこの場のそれとは質が違うがね」

「だからって……」

 そんな酷い提案はするべきではない。タイタスは、あの開拓地に愛を感じないのだろうか? いや、確かに辛い事ばかりかもしれないが、それにしたって情は深くなっていると思っていたのに。

「勘違いしないで欲しいのは、この場の戦いに開拓地を巻き込みたいわけじゃあない。むしろ、ゼイヴィス。既に開拓地にある戦いにこそ、君の力を借りたい。って言ったら、頷けるかい?」

「は? なっ……なんてこと……」

 ここに来て、タイタスの提案の意味が分かった。彼はなんと、開拓地の、あの七面倒くさい事ばかり起こる事態に、この魔族まで巻き込もうと言うのだ。

「そんなの、絶対に受け入れるわけないじゃないですか! 提供って、病気の詰まった宝箱を、握り拳付きで貰う様なものですよ!」

「そこまで酷くないだろ……いや、そこまで酷いか……」

 貰って嬉しいものではな絶対に無く、それこそ渡されるならば他に代価が必要な物であるだろう。もしくは、騙されて開拓民させられるか。

(ああ、つまりこの人は……魔族を騙し切ろうとしているんだ)

 だが、それにはまだ論拠が足りない。いったい、タイタスはどう魔族を騙すつもりなのか。

「……カいたくちっテ、ヒとがいっぱいイるトころだよネ? あそこニ……たのシいタたかイがあるっていうノ?」

 食いつきはしているが、適切な言葉を返せなければ、また戦いが始まるだろうとの予感がした。

 だが、それでもフォレノンは、先ほどまであった危機感が薄くなっている。タイタスが、考えなしの行動をしていないと確信できたからだ。

「楽しい? 違うな。そうじゃない。ゼイヴィス、君の求めているのは戦いを楽しむ事じゃあないだろ? 君らは……力を見せつける事が義務みたいなものなんだ。喜ばしい事でもあるんだろうが……」

「ワかったようなコとをいうよネ。アなたニ、ワたしやわたシたちのきもチがワかるっテ?」

「そりゃあ何もかもは分からない。人間関係だって、長く付き合ってすら分からないものが幾らでもあるしな。だが、短い間だったとしても、分かる事もある」

 それを知るために、タイタスはフォレノンに頼んで来たのだろう。魔族と話をしながら戦えなどと言う無茶な頼みを。

「君らは……少なくとも目の前にいる君は……単純な戦闘狂ではないんだろうな」

「ナにヲこんキょニいっテ?」

「やる事がいちいち回りくどい。自分が戦いたいだけなら、さっさと魔界を出て、それこそ開拓地を襲えば良かったんだ。2、3人襲ってみろ? 次々に討伐役がやってきて、最終的に、こいつみたいな奴らもたくさん来るはずだ」

「僕みたいなやつって、どういう理解の元で言ってらっしゃいます?」

 化け物みたいなものだとでも言うつもりか。ちょっと個性的な動きは出来るものの、あれは訓練で身に付けたものだと言うのに。

「ともかく、こいつと戦いたいってだけじゃあ分けわからないやり方が多かったな。例の魔物にしてもそうだ。一応聞いておくが、あれはお前さんのペットか何かか?」

「たルくってなまエがアるんだヨ。もうシんじゃったケどネ。ちょっとカなしいかナ。オはなデもそなえてアげないとサ」

 悲しいと言う風にはさっぱり見えない。しかし、魔物をペットなどと言える神経が理解できない。あれこそ、まさしく化け物の類だと言うのに。

「そのペットに、君は開拓地の人間の挑発を指示したってわけだ。あれはそういう事だろう?」

「挑発って、なんでそんな……」

「この状況を作るためだ。周囲を荒らせば怒った奴が魔界に来るかもしれない。そうでなくても、魔界を拡大すれ突撃してくるだろう。危険を冒してでも、原因を排除しようとするマッチョな奴が」

「マッチョ……」

 どちらかと言えば肉体の面積は小さい方だと思うものの、魔界に単身挑もうとしていた時の自分の精神性を思えば、そういう部分はあるかもしれない。

「って、だから何でそんな回りくどい事をいちいち!」

「マけるのはサ、イやなんだヨ。だいセいかいだヨ、タいたすダっケ? なんテんほしイ?」

 少女は……今までに無い表情を浮かべていた。敵意でも興奮でも喜びでも無い、あえて表現するなら諦観を思わせる笑みがそこにある。

(そういえば……彼女はずっと魔界に居たんだろうから……幾つなんだ?)

 今、ゼイヴィスが顔に浮かべているそれは、子どもが浮かべられるはずも無い表情のそれだ。

 幾らか人生というものを経験し、思い通りになる物事なんて殆ど無い事を知りながら、それでも生き続けなければならない。それを知っている人間の表情がそこにある。

「点数なんかじゃあ意味なんて無いだろ。それにしたって、宿業ってのは面倒なもんだ。魔族って言うのはあれだ、力を見せつけるのが好きなんじゃない。力を持ってして、勝利する事が誇りなんだ」

「……人間だって、勝つ事を目的にしている人間はいるでしょう?」

「力を持ってしてってのが問題だな。丁度良い勝利なんて中々に無いもんだ。特に、限界ギリギリの勝利なんてのは希少とさえ言える。だが、魔族ってのはそれを貴ぶんだろうよ。多分な」

 タイタスにしても、予想でしか無いのだろうと思うが、それでも自信を持ったもの言いだった。

 確信を抱いているのか、それともハッタリなのか。判別がつかないところが上手い部分だと思う。

「ハじなんだヨ。あっトうシてシょうリするのモ、じぶンのチからをハっきデきずにおわルのもサ」

「だから……自分にとって丁度良い相手を呼び寄せるために……これまでの事をしてきたって……?」

 魔物をうろつかせたのも、魔界拡大も、タイタスから聞いた、この少女を森の中で見掛けたと言うのも。そのすべてが、自分の力量に見合った、けれど自分が一方的に負けない様な相手を呼び寄せるのが目的だったしたら……そのためにすべての労力を割いていたとしたら……。

「そんなのは……それこそ人間離れしている価値観だ」

「だから魔族なんだろ。君らが何て名乗ってるかは知らないけどな」

「ワたしたちモ、わたシたちをマぞくってよんデるヨ。ふしギだよネ。まるデ、じぶンたちがオかしいっテ、ジぶんたチでいってルみたいダ」

 彼女ら自身が自覚して厄介だと思っている分、重い性質なのだろう。だが、だったらどうすると言うのか。その業を抱えた存在と、自分達は共存する事が出来ると思えない。

「別に……そういうのが居てもは良いんじゃねえかと俺は思うがね。仕方ないだろ。現実が厳しいなんてのはお互い様だ」

「だからって、開拓地へ誘うなんてのは……」

「幸運な事に、まだ人的被害は出ていない。取り返しがつくって事だな。そりゃあ魔物や魔界のせいで損害が出てはいるが……その後の働き次第で挽回できる部分ではある」

 働き……それこそ、単純な作業において、魔族の力は役に立つだろう。そういう意味で、開拓地側は受け入れられる体勢にあるかもしれないが、問題はゼイヴィスの方にある。

「あなたタちハ、いツものほほンとしてるヨうニみえル。ワたしガまんゾくできるタたかイがアるとはおもエないナ」

「そりゃあ考え違いだ。のほほんとしてるだって? 俺は何時だって胃に穴が開きそうな日々を送ってるよ。なあ、開拓地に来てくれと頼んだのは、しっかりとした理由がある。それに気が付くために話し合わせてもらった」

 死闘とセットにしてだけれども。フォレノンはそう続けたかったが、話の腰を折りそうに思えたため、自重しておいた。こういう気使いは、後になって感謝して欲しいところである。

「気付いた事は一つだ。君が望む力の見せつけ方ってのは、何も戦いの中だけじゃあないって事。方法として一番取りやすいから戦いを呼び込んでるってだけに見えるな」

 タイタスの言葉に、フォレノンも思い出してみる。その戦いの節々に、力を見せつける事そのものを目的とした、非効率な動きがあった事を。

 あれらはつまり、戦闘そのものを最優先していたわけでは無いと言う事か。

「開拓地での戦いってのは色々ある、こうやって戦ったりする事だってあるが、その多くは、くそ面倒で解決の難しい類のものだな。人間関係だったり、物理的に物が無いから、なんとか、どんな手を使っても調達したりと言ったもんだ」

 その戦いは……やり甲斐においてはこの上無いものではあると思う。力を見せつけられる事請け合いだろう。その力にしても、魔族の力だって不足する可能性のある問題が多々あるだろうが……。

「わタしガ、そうイうのをノぞんでルなんてオもってル?」

「違わないだろ? 言って置くが……生半可な覚悟で参加すれば、それこそ、無様を晒す事になる。開拓地はそういう場所だ。厳しくって、ギリギリの力ってのを試される場所なんだよ」

 タイタスは犬歯を見せつける様な笑みを浮かべていた。

 フォレノンには詐欺師のそれに見えたが、事実、詐欺みたいな物であるし、一方のゼイヴィスは、その詐欺師にもう少しで騙されそうに見えた……が。

「マいったヨ。すごク……スごくミりょくてきニおもえるワたシがいるヨ。けド……はイそうですかっテ、うけイれるにハ、きぶんガわるイ!」

「―――っ!」

 フォレノンは跳ねた。自分の脚力を全力にして、タイタスへと飛び掛ろうとしたゼイヴィスを、横っ腹から抑え付けようとしたのだ。

 だが、魔族の力はやはり強大だった。なんとかタイタスへと飛ぶゼイヴィスの体をズラす事が出来たものの、そのままフォレノンの方が跳ね飛ばされそうになっている。

 それでもフォレノンはなんとかゼイヴィスに腕一本でしがみつき、脱臼しそうになる腕でもって、二人して地面を縺れ転ぶまでに持っていく事が出来た。

 それは身体能力に寄るものか。それとも、フォレノン自身、何か分からぬ思いが湧いて来てしまったからか。

 どちらにせよ、その思いはすぐに言葉となって噴出した。

「魅力に思うなら! 提案に乗れば良いだろう!! そんな風に疲れた顔をしている癖に!」

 我知らず、フォレノンは叫んでいた。転がった状態だからか、舌を幾らか噛んだかもしれない。正面にゼイヴィスを捉えてすらいない叫びでもあった。

 それでも、近くにいるのだから聞こえるはずだ。フォレノンは形振り構わず言いたかったのだ。何を格好つけているのかと。お互い、そんな立場でも無いだろうにと。

「ナっとクはベつなんダ! ワたしハまダ、なっトくなんてシていなイ! コれまデ、サンざんニ! ブざまニ! つヅけてキたんだヨ! セんそウをハじめるとキ、ワたしはここデ、ノぞむタたかイがアるってツれてこられタ! けド、そんなものはズっとナかったんダ!」

 この地の魔界において、何がしか戦闘があったという記録は無い。少なくとも、タイタスからは聞かなかった。そもそもからして、この場所は最近になって発見されたものなのだ。

 この魔界が、ゼイヴィスによって作られた物なのだとしたら、彼女はずっと待っていて、そうして、何も起こらない日々を送って来たのだろう。

 力を見せつけ、力をもって勝利を導く事を目的とする魔族にとって、それはどれ程の苦痛だったのか。

 フォレノンには理解こそ出来ないが、それでも、ジレンマと言うものを魔族だって持っている事だけは分かった。だが、フォレノンとて言いたい事がある。

「待てるだけ良いだろう! 僕なんて……目が覚めたら何もかも過ぎ去っていたんだ! 目的だって、他の誰かが果たしていて、残っているのは10年も前の記憶だけ! こんなのってあるか! ずっと生きていた方が、まだ諦める事も出来た!」

 もう戦闘などと呼べない罵り合いだった。転がっていた状態から止まり、ゼイヴィスが下、フォレノンが上の状態で向き合っていた。

 戦いをまた始める事も出来たが、手よりも前に言葉が先に出る。

「チャンスがあるなら……それが何だろうと掴まってみろよ! 僕みたいに……何をするべきか探す事から始めるなんて馬鹿らしい生き方する前にさぁ!」

 本当に、馬鹿らしい話だった。何より自分を愚かだと罵りたくなる。

 結局、この魔界に来たのも、昔の事に踏ん切りを付けるためだったのだと、今にして思い知ってしまった。

 だが、結果はこんなものだ。魔族を倒す事も十分に出来ず、相手の悩みを知って、自分まで悩み始める始末。

 そうして、遂には口喧嘩だ。格好つけたところで、自分の有様なんてのは変わらない。むしろ、肝心な場面に、その本性を現してしまう事になる。

「ダったラ! ワかるダろウ!? オろカだからっテ、すぐニやめるこトなんてデきないンだヨ!」

 ゼイヴィスにしても同じだった。手より先に言葉がある。魔族を理解できぬフォレノンであったが、こういう部分だけは人間にそっくりである事を知る。

(そんなのは……やるせが無さすぎるだろう?)

 目の前の魔族とは、もしかしたら、共有できる部分があるかもしれない。そんな風に思わせる部分が、こんな無様なものだったなんて。

 泣きそうになるフォレノンの耳に、また違う声が聞こえて来た。少女のそれでは無く、何か……疲れた男の声が。

「あー……今のままじゃあ納得できないって言うなら、まだ、こっちにも提案できる事があるぜ? それで納得できるかどうかは……お前ら次第だがな」

 呆れが半分混じった様な口調でタイタスが近づいて来た。彼にしても、フォレノン達の姿を見て、もう戦闘中とは思えない様子だった。

「イったイ、これイじょウ、ナにをイうっテ?」

「勝負は俺達の勝ちだって事だ。一応言って置くが、君が襲って来て、そこのフォレノンが相手をした戦闘についてだぞ?」

「ナにをコんきょニ……!」

 既に勝負も何もあったものじゃあない状況であるが、先ほどの戦闘に関しては、フォレノンの方が不利だったと思う。少なくともフォレノン自身はそう認識していた。

「君の戦い方なんだが……傍から見ていると、途中から明らかに動きが拙くなって来ていた。具体的には、フォレノンの攻撃を受けてから、石を投げつけたり、力を見せつけたりで、繊細さを欠く動きばかりになったな」

「……」

 そう言えばそうであった……と、フォレノンもここに来て気が付く。

 あえて攻撃を受け、隙さえも作りながら、余裕を見せつけていたと思っていたのだが、それでも、攻撃は通っていた。

「力を見せつけて勝利する……本当に厄介な情動だと思う。相手が自分にとって、都合良くダメージを与えてくれるなんて限らないからな。予想よりキツい攻撃を受ければ、それ相応に無理が蓄積する。だから……それに対処するためのハッタリだって必要なわけだ」

 フォレノンが、最後にゼイヴィスと刺し違えようと選択したあの瞬間。あれこそ、ゼイヴィスにとっても望むべきものだったのだ。

 フォレノンを相手にし、あえてダメージを喰らい、それをハンデに対等な戦いをしようとしていたのだろうが、その実、想定以上のダメージを負い、ゼイヴィス自身も危機の中にあったという事か。

「今はまだ勝負が付いていないかもしれないが、俺がこう助言すれば終わる話だ。フォレノン、暫く逃げ続けろってな。血も、大分失ってるんじゃないか?」

 時間さえ稼げば、ゼイヴィスは体力を失って敗北する。確かに、その助言だけでフォレノンはさらに戦える事だろうし、ゼイヴィスは追い詰められる事になるだろう。

 頭から流れた血をゼイヴィスが拭わなかった理由も分かる。壮絶な外見に反して、碌に血止めもされていない状態である事を隠すと言う機知を働かせた物だったのだ。

「そうサ。ソうだヨ……いまがセいイっぱイ。カてるタいみんグなラ、いくらデもあっタんダ。けド、それじゃアいみガなイ。イみなんてナかったんダ」

 人が、無意味とすら思われる価値のために命を賭ける事がある様に、魔族もまた、妙な因果を背負っているのだと、フォレノンはそこまでを理解できた。

 そうしてタイタスが彼女に、また、フォレノンに何を言うのかも、何となく予想出来ている。

「ゼイヴィス、君は戦いで敗北した。ギリギリの勝負で力を示したが、それでも、そこのフォレノンに負けた。フォレノン。お前にしても、漸く魔族に勝てた。昔、それが出来なくて、今、後悔していたんだろうが、それも終わりだ」

 そうだ。何かが終わったのだ。ずっと続いていると思っていて、ずっと引きずらなければならないと思っていた何がしかが、ここに来て終わってしまった。

 その点に関しては、目の前の魔族と自分は同質であった。

「二人とも、ここで人生の目標とやらが片付いちまったって事なんだろうが、それで、これからどうするんだ? ここはどこぞの舞台の上じゃあない。幕なんて引かない。生きている以上は生き続けなけきゃならない。それが俺達の生きる世界だ」

 終わってはくれない。それは残酷な事であり、それでいて、ほんの少しの希望が残っている。

 微かで、くそったれな希望かもしれない。タイタスが提案してくるであろう、開拓地でこれから生きて行かないか? などと言う希望は。

「僕はもう決めてますよ。決着が後回しになりましたけど、僕は……あの開拓地で生きて行きます。なんて言うか、前途多難ですけど」

 すべてが終わったのなら、そんな始まり方も悪く無いと思える。本音の部分で言えば、ものすごく面倒そうだなと思わなくも無いが、生きるってそういう事だ。

「ふん? まあ、ここで人生をすっぱり終わらせますなんて言われなくて助かったってところか。まあ、一度関わった以上、逃がすつもりなんざないけどな。労働力は貴重だ」

「その言い草! 完全に悪人ですよね? あ、いいです。返答とか期待してませんから。絶対、その通りって返して来る気でしょう? 実際、悪い奴ですよね、あなた」

 とりあえずは、フォレノンについての話はここで終わりだった。

 昔の栄光を取り戻そうとして、みっともない姿を晒し、それでいて、ちょっとした目的は果たした後、高くつけられた借りを返さなければならない人生が始まった。それで終わりだ。

 ならばもう一人、自分と似た部分のある目の前の魔族はどうなのだろう。とっくにフォレノンは彼女の上から体を退かしていたが、彼女は倒れたまま、森の空を見つめている。

 魔界の……薄暗く不気味な空を、涙しながら見つめていた。

「こノままじゃアしねなイ。しヌつもりモなイ。もシ、つぎガあルってイうのなラ……」

 ゼイヴィスから零れるのは、とても後ろ向きな……それでも前に進むという発言だった。だと言うのなら、彼女はもう敵ではあるまい。

 フォレノンと彼女はこの瞬間から、開拓地を共に生きる仲間になるのだから。

「余韻に浸ってるところ悪いが、開拓民になるってんならやって貰う事がある。分かるな?」

「マかいナらカいしょウするヨ。すコしムこうヘいったサきニ、マかいをヒろげテるまホうジんがあル」

「そうか……なら、フォレノン。それの破壊を出来るだけ早く頼めるか? 悪いが、十分に動けるのはお前くらいしかいない。解消できるとしても、早めにしなけりゃ開拓地で暴動でも起きそうだ。それと……ゼイヴィス」

「なニ?」

 力無く、未だに倒れたままの彼女が、顔だけをタイタスへ向けていた。そんな彼女に対して、やはりタイタスは悪人としての顔を見せている。

「血をさっさと止めろ。それでまだ単独で動ける力があるってのなら、自分で立って開拓地へ向かってくれ。出来るなら……これから倒れる俺を背負ってくれれば有難いんだが」

「ヘ?」

 間抜けに疑問符を浮かべたのはフォレノンかゼイヴィスか。フォレノン自身にも分からなかった。多分、二人ともだろう。

 目の前でタイタスが突然に倒れたのである。




 自分が魔界の空気に体調を崩し、気分が最悪の中で頭を働かせたため、みっともなく気を失った事を、タイタスは憶えている。

 倒れるまでの記憶を、しっかりと憶えているのであるが、では、これを思い出している今の状況はいったい何時の何処だろうか。

 目は瞑ったままだ、開く事も出来るのだろうが、疲労感からか、もう少し後にしたかった。

 体は柔らかい何かに包まれているから、この心地よさにもう少し浸って……いや、言うほど柔らかくない。むしろ体中がちくちくする。はっきり言わせて貰うならとても不快だ。

 さらに言えば少しばかり寒い。どこからか風が吹き込んできている様だ。駄目だ。こんなの、何時までも眠ってなんていられない。

「って、俺の小屋じゃねえか!! くそっ。せめてベッドくらい良いのにしておくべきだよな!」

 何時もの藁のベッド(それをベッドと呼べるのであればだが)から、タイタスは上半身を起き上がらせた。

 見慣れた景色であったが、フォレノンに貸していた関係上、最近はここで寝泊りをしていなかった。

 恐らくは、魔界の中で倒れた後に、この小屋に運び込まれたのだろうと予測できる。

 丁度良い事に、ベッドの脇に置かれた椅子にマフが座っているため、事情を聞いてみることにした。

「マフ。今、どれくらいだ。俺とフォレノンが魔界に向かってからどれくらい経った。開拓地の様子はどうなってる?」

「眠りから覚めて真っ先にそんな言葉が飛び出すのか、お前は。もうちょっと……寝惚けるなりの可愛げを見せた方が良いと思うが」

 開いた目が、周囲の景色に馴染んで来る。近くで座っているマフのその表情は、呆れ半分と言ったものであった。

「悪いが……そういう情緒なんてもんには縁遠い生活でな。で、今は何時だ。何処だってのは聞かねえぞ? 良く知った場所だよ、ここは」

 出来れば、良く知らないもっと良い部屋になっていれば良いなと思いながら眠りに付くも、何時だって変わらない愛しの我が家だった。

 そんな小屋に普段はいない相手であるところのマフは、聞こえそうな程の深い溜め息の後に、話を始めた。

「お前達が森に入った夜が明けて、朝が来て、そうして昼になったのが今だな。安心しろ。それほど時間は経っていない。開拓地の混乱も、そう広がってはいない」

 答えを聞いて、胸を撫でおろした。気を失って、目が覚めたら何年も経っていたなんてどこかで聞いた状況になっていなくて、本当に良かった。

「今が酷い状況じゃあないって言うなら上等だ。多分、これからは悪くならない」

「その件だが……あの少女は何なんだ? フォレノンと一緒に、森からお前を運んで来たが……それも、魔界はもう広がっていないし、むしろ何日かしたら無くなるなんて話付きでだ。それは本当か?」

 どうやらタイタスが眠っている間に、フォレノンあたりが事情を説明してくれているらしい。もっとも、どれほどの事が伝えられているかはまだ不確かだが。

「暫くは経過観察が必要かもしれないが、俺はもう、魔界に悩ませる事が無くなったとは思ってるよ。んで……一緒に来た少女についてだが……今、どこにいる? ゼイヴィスって名前だ。中々にギラギラした感じだろう?」

「名前はどうか知らないが……目がギラギラとはしていたな。そっちに関しては、他の開拓民が訝しんでいたから、早めに説明しておいた方が良いぞ」

 起きてすぐに仕事の話なんて可愛げが無いなどと言って置きながら、さっそく、用事がある事を思い出させてくる。

 もっとも、今の状況で元気に話せている事を考えるに、体調的には問題ないのだと思う。というか気絶とは言え、久しぶりにぐっすりと眠ったせいか、むしろ気分が良い方だった。

「場所は会議所だ。急遽来た人間はあそこにしか落ち着ける場所は無いだろう?」

「ああ。俺にとっても落ち着ける場所ではあるな。あそこはよ」

 ベッドから完全に抜き出しつつ、その落ち着ける場所を思い浮かべる。

 あそこは躊躇なく寝泊り出来るくらいには親しんだ場所であったが、一方で、何時だって仕事が待っている場所でもあった。




「私が聞きたいのはだね、何時の間にか発生していた、その少女が何処の誰か。と言う事なのだよ? 分かるかね、フォレノン君」

 フォレノンは現在、開拓地の会議所にて追い詰められていた。恐らく、ここ最近で最大のピンチだと思われる。

 目の前にいるのは眼鏡の男だ。名前を何と言ったか……思い出せないが、こちらは知らないのにあちらは把握していると言う状況は、どうにも不公平だと思う。

「はい、分かりません。その……はい、分かりません」

「さっきからその分かりませんを繰り返すのだけはどうにかならないのかね?」

「分かりません!」

 仕方ないのだ。これを繰り返すしか今は選択肢が無い。とりあえず、後十回ほど繰り返せば、この眼鏡の男は去ってくれるだろう。

 また、別の開拓民が来るかもしれないが、それはそれだ。また分からないを繰り返そう。あと2、3日くらいは保たせてやろうとも。

「ぜんブ、サいしょかラはなセばイいんじゃなイ? ソっちのホうガ、ハなしがハやいヨ?」

「ああもう! 絶対に無駄に混乱するからそれは嫌なんだってば! さっきも言っただろう? ここはこう……第一の責任者の目が覚めるまで、時間を稼げるだけ稼いで、万が一問題になったら、その人に責任をすべておっ被せようって決めたんだよ!」

「そういう話は、大声で無く小声にするべきだと私は助言するが……」

「分かりません! ええ、分かりませんからね!」

 半泣きになりながら、眼鏡の男と、フォレノンの後ろで隠れる位置に立っているゼイヴィスを交互に見る。

 魔族相手に短剣二本で挑んだ我が身であるが、今後についての悩みであれば、こちらの方が重い様に思えた。

「あー、後にした方が良いか?」

 頭を抑えつつ、何もかも考えず、部屋の隅で蹲ろうかと考え始めたところで、会議所の扉が開く音がした。

 音だけで無く、声も発していたそれは、頬を掻きながらこちらを見つめるタイタスだった。

「あなたを待ってたんですよ! あ、そうだ! 体は……大丈夫なんですか!?」

「後遺症なんかは特に無しだな。だからさっそく、仕事に取り掛かる事になっちまった。もうちょっと、悪い体調でも良かったかもしれないな」

 それはそれでフォレノンが困ってしまう。今、漸く肩の荷が降りようとしているのに。

「ああ、管理官。いったいどうなってるのです。魔界が広がり出したと思えば、あなたが倒れたと森の中から運ばれてきて、しかも、何やら見知らぬ少女が」

 フォレノンを追い詰めていた眼鏡の男も、感情的にはフォレノンと似た様な状況だったのだろう。縋る様にタイタスを見ているが、タイタスの方が心底うざがっている表情である。

「質問を並べ立てられると、どれから答えれば良いか迷うよな。明日の天気についてから答えれば良いか? 今日は曇りだから……きっと雨だ」

「茶化している場合でしょうか? 魔界はこの瞬間にも、刻一刻と」

「それだけどな。多分、解決したぞ。後で調査の人員を選んで送ってくれ。経過観察は必要だろうから、今後も何回か行ってもらう必要があるな」

「あ、あ……え?」

 いきなりの事に混乱している眼鏡の男。こういう事態に関しては、フォレノンとて同情してしまう。

 事実が酷く怪奇な結果になっているのだから、それすらも知らないのであれば猶更だ。

「俺が倒れた事に関しては、魔界云々の解決のために魔界に突っ込んで、ちょっと無茶したせいだ。文句はあるんだろうが、リターンはデカかったんだから許せ。そうしてそこの少女についてだが……」

 一番厄介な話題について、さっそく説明するらしい。それが出来ないからこそ、フォレノンは窮地に追いやられていたのであるが、タイタスはどう考えているのだろうか。

「えっと……その、少女については?」

 タイタスの勢いに押されてはいるものの、聞くべきことは聞くつもりらしい眼鏡の男。混乱したまま、会議所を出てくれれば良かったのにと真剣に思う。

「その少女の名前はゼイヴィスだ。姓は……どうだったか?」

「ナいヨ。シらなイ」

「らしい。まあ、ゼイヴィスって呼んだら良いんじゃねえかな」

「名前だけでは何も分かりませんが……」

 眼鏡の男もフォレノンと同じ事を言い始める。結局、当事者でない限り、何も分からないと言い続けるしかあるまい。

「それ以外は、とりあえず聞くな」

「はい?」

 戸惑いの声を漏らしたのは眼鏡の男ではなくフォレノンの方だった。

(ここは……相手を丸め込む様な嘘八百を並び立てるところじゃあ無いのか?)

 真実が厄介なのだとしたら、そうするしか無いとフォレノンは思っていたし、タイタスはその嘘を上手く吐いてくれると思っていたが、その思い込みが外れた。

 タイタスがフォレノンの言葉に反応し、横目で見て来るも、相手をするのは後と判断したのか、眼鏡の男に向き直った。

「ゼイヴィスの事については、暫く不問だ」

「……それは、管理官としてのお言葉で?」

「おお。この開拓地の管理官としての言葉だ。このゼイヴィスって奴は……とりあえず、開拓地のために働いてはくれる奴だ。それだけは保証するさ」

「とりあずと言う事は、次はまた変わると?」

「ああ、そうだな。あくまで今は……だ」

 視線を混じ合わせている二人。これから、喧々諤々の言い争いが始まるのかと思えたのだが、どうにもそんな雰囲気では無くなっている。

「分かりました。とりあえずは、様子を見ます。それでよろしいですね。言っておきますが、働けない人間を置く余裕はありません」

「ああ。それは俺が一番分かってるよ。彼女、結構働いてくれると思うぞ?」

「うんうン! ワたしハ、けっコうハたらくヨ? ムしロ、ゼひにデもハたらいテ、わタしのちカらヲみせツけたいトころだネ」

 軽口を叩いて大丈夫かなと思うものの、眼鏡の男は溜め息を吐いた後に納得したらしい。

「では、暫くの面倒は管理官にお任せしますので、その様に。他の開拓民にも知らせて大丈夫でしょうか?」

「やってくれるのなら、その方がありがたいね。手間が一つ省ける」

 タイタスの言葉を聞くや、眼鏡の男を一度頷き、会議所を出て行った。驚く程に、簡単な話し合いに終わったわけである。

「えっと……結局、ゼイヴィスの事に関しては、何の説明もしませんでしたね?」

「名前の紹介はしただろ? それと、俺の保証も付けた」

「それだけですが」

 それで納得できると言うのだろうか。怪しい少女が幾つかの事件と一緒に現れたという状況を、その言葉だけで受け入れられるのか。

「アやしいひトをミるみたイなシせんハ、サいごマでツづけてイたネ。まダ、ウけいれテくれてナいみたいダ」

 ゼイヴィスは眼鏡の男の眼鏡の奥を見ていたらしい。目敏く、相手の感情を察したのだろう。出て来たその言葉は、当たり前の物ではあったが。

「そりゃあそうだ。一朝一夕に信用なんてのは得られないさ」

「だったら、なんで追及を途中で止めれるんです?」

「痛い脛って話なら、誰でも持ってんだよ、ここは。フォレノン、お前もだ」

「……」

 あまり思い出したくない過去。他人に話したくない思い出。確かに、そういう話をフォレノンとて抱えている。

 それは、フォレノンが他者とは違う点だと考えていた。だが、そうではないという事だろうか。

「わざわざ街を出て、開拓なんてことを始めた連中だ。他人を責めれば、自分に返って来る事を痛いほど身に染みてる。だから、他の開拓民が認めてるんなら、暫くはそれで良いって、先延ばしにするのさ」

「……なんだかそれはそれで、悲しい気がします」

 誰も、深みには入らず、安全圏にいられるかもしれない。例え事件が起こったとしても、ここはそういう場所だからと無理に納得して、本当の思いを隠している。

 そうでなければ、フォレノンやゼイヴィスはここにいられないのだから、自分達とて受け入れなければならない。

 だが、それで良いじゃないかと心の中で言えない自分も居た。

「……お前ら、この後、時間あるか?」

 苦笑を浮かべているタイタスが、フォレノン達に尋ねて来た。

 今まで、タイタスが起きるのを待っていたので、彼から何かを命じられるまでは暇ではある。

「ン? ドこかニいくノ? イまかラ?」

 フォレノンもゼイヴィスと動揺の疑問を抱く。せっかく森から開拓地へと帰って来て、倒れた人間も起き上がったと言うのに、また場所を移動するのかと。

「すぐそこだ。そんなに時間も掛からねえよ。本当は、もうちょっと早めに案内するつもりだったが、いろいろあってまだだった」

 フォレノンに言っているのだろう。この開拓地にとって、重要な場所なのだろうかと首を傾げるものの、先に何があるのか分からず、フォレノンとゼイヴィスは、タイタスの後ろを付いて行く事となった。




 そこは開拓地近くの小高い丘だ。開拓地すべてを見渡せる……という程では無いが、視界は広がり、開拓地の中にいるよりは広く周囲を見通す事が出来る。

 そんな場所だからか、風も他より強く、そして冷たい。その冷たさを感じて、タイタスは震えそうになるが、実際には、なんだか良く分からない笑みが浮かぶのみだった。

「目的地はここだ」

 一度、景色を見るのを止めて、付いて来た二人。フォレノンとゼイヴィスを見た。

「ミはらしハいいトころだネ」

「それだけとも言えるけど……なんだか、こう、石碑でもあるのかと思ってました」

 二人して、拍子抜けしたという顔をしていた。出てくる言葉もそんなものだ。

 彼らの態度にがっかりはしない。二人とも、この場所の意味なんて知らないし、それが当たり前なのだから。

「記念碑くらいは立てても良いんじゃないかって話も出たんだが、そんな労力があるのなら、まずは実質的な事で働けって文句も出てな。とりあえず……月一で俺が落ち葉なんかの掃除や雑草の処理だけしてる」

「そう言われれば、ここだけ妙に拓けてますね」

 フォレノンが周囲をぐるりと見渡す。少しばかり、林を抜けた先にある場所であるから、ちょっと場所を整理しただけでも、目立つ場所にはなっているのだ。

「コこをタいせツにおモってルってこトだよネ? ナにかあったノはタしかでショ?」

「そうだな……記念すべき場所なんだよ、ここは。開拓民が、この土地を開拓するって決めた場所がここなんだ」

 大まかな場所自体は、国から指示されてやってきたタイタス達だったが、では、開拓に適した場所はどこかとなれば、範囲が広すぎて、決めかねていた。

 どうせ始めるなら良い土地にするべきだ。そう思い、まずはこの丘を見つけ、開拓地を調べてみることにした。

「最初は勿論、今の開拓地程には土地が広がって無かった。丁度、ここからも見えるだろ? あの会議所の辺りだけ、植物が少な目だったんだよ。いや、そうでも無かったが、そう見えたんだ。とりあえずあそこから始めようと、みんなでまず、草刈りから始めた」

 食料の心配などは、今よりもっとあった気がする。だが、それ以上に野生の獣の心配をしなければならなかったし、冬場は眠った後に、起きられるかどうか不安に思ったりもした。

 今まで、死人が出なかったのは奇跡であろうし、こうやって、無事のままの開拓地を見られる事は、間違いなく幸運な事のはずだ。

「今だって、碌な日常送ってないし、最近にゃあ、開拓地存亡の危機ってのを誰かさんが引き起こしたりしたわけだが」

「ナんのコとだろうネー。ワたシ、サいきンにナってキたばカりだカらナー」

 目線を外すゼイヴィスを気にせず、タイタスは続ける。

「それでも、立ち止まらず、明日に進めてるって事だけは、ここに来て、開拓地を見る度に思うんだよ。多分、だから続けられてるんだろうな」

 他にも、この開拓地にいる理由なんて幾らでもあるが、大切な理由の一つでもある。そんな景色を、新人の開拓民とは共有しておきたかった。

「ワたしタちモ、コこからハじめロっテ?」

「悪いか? 魔族的には、そういう情緒はナンセンスに見えるかもな」

「ソんなこトはナいとオもウけド……たダ……ねエ、あソこのヒらけタばしょカらハじめメたってイってたけド、イまみタいニなるまデ、タいへんダっタ?」

 ゼイヴィスの言葉の意味について考える。大変だったら、彼女はどう思うだろうか。考えてみて、考えるまでも無い事だったと思い直す。

 彼女の尋ねている事なんて、とても単純で分かり易いものなのだから。

「おお、そりゃあもう大変だったし、これからだってそうさ。君の力を借りれるなら有難いが……それでも勝利までは遠いかもしれねえな」

 彼女は、自らの力を発揮できるかと尋ねている。そうして、苦労の果てに勝利はあるのかとも。

「魔界の心配が無くなったから、開拓地をさらに広げられる様になる。だが、それより前に食料の調達をしなきゃあな。飢えて死ぬのはごめんだし、君は力持ちだから、物資を街から運んでくるなんてのを頼めそうだが……」

「ソれくらイなラ、いクらデもだヨ!」

 目に見えて、ゼイヴィスは元気を出し始める。そりゃあそうだ。魔族が力を見せつけるのも、それにより勝利を導こうとするのも、誰かに認めてもらうためだろうから。

 彼女はきっと、それこそ全力で働いてくれるはずだ。タイタス達が、彼女を評価し続ける限りは。

(そう思えるってことは、幾らかは前向きになってくれたって事かな?)

 少なくとも、ゼイヴィスの姿を見ればそう感じる様になったのは確かだ。では、フォレノンの方はどうだろうか?

「まーた、詐欺を働かれてるって感じしますね。そこの彼女を見てると」

「なニ? ワたしがダまされテるってイうノ?」

「気を付けた方が良いよ。その人、開拓地の管理官してなかったら、きっと詐欺師してるはずだ」

「おーおー、言ってくれるじゃねえか」

 二人とも、この開拓地へとやってきてしまったのが悪い。そういう結論をタイタスは出して置く。

 相手の考えなんて知った事ではない。前向きになれるのなら、そう思い込むべきだ。

「何にしても、遣り甲斐なら嫌程感じますね。目の前に働くべき場所があるって言うのは。うん。この瞬間だけは悪く無い。悪く無いです」

 フォレノンが言葉を返す先は、タイタスではなく、開拓地の景色である。悪態だって吐きたくなる場所であったが、それでも、ここには明日があった。




 この世界には剣と魔法が存在しているし、勇者と魔王が戦ったりもしているが、この物語において、主役を張るのは、明日を信じて歩き続ける人間である。


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