第五章2 『穏やかな日常』
朝の光が、薄い布越しに部屋へと差し込んでいた。
どこか湿り気を帯びた空気。遠くで鳴く鳥の声と、絶え間なく流れる水音が、静かに耳へ届く。
目を開けた瞬間、違和感があった。
見慣れた天井ではない。
木目の荒い梁、壁の隙間から差し込む淡い光――ここは、いつもの宿屋ではない。
「……そうか」
ゆっくりと記憶を手繰る。
鱗の盗賊との戦闘。
燃やした遺体。
学者の少女の応急処置。
――そこから先が、曖昧だ。
「……倒れたか」
独り言のように呟く。
身体を起こそうとした瞬間、腹の奥から鋭い痛みが走った。
思わず息が詰まる。
視線を落とすと、上半身には何重にも巻かれた包帯。血が滲んだ跡が、まだ新しい。
「……誰かに拾われたか」
そう考えた、その時だった。
扉が軋む音を立てて開く。
「――あら、おはよう。やっと起きたのね?」
入ってきたのは、農家の装いをした女性だった。手には湯気の立つ器と、素朴なパン。
「あぁ……」
短く返す。
女性は軽く笑い、部屋の中へと歩み寄る。
「まだ状況、飲み込めてないって顔ね」
器を机に置きながら続ける。
「ここは街から少し外れた村よ。戦火からは離れてる場所だから、他よりはずっと穏やか」
柔らかい声だった。
「あなた、本当に運がいいわ」
「……どういうことだ?」
問い返すと、女性は肩をすくめる。
「教会で倒れてたんですってね。ちょうど通りかかった“聖騎士様”に助けられたのよ」
その言葉に、わずかに目を細める。
「……そうか」
そこで、再び扉が開く音がした。
今度は、もう一人。
同じ女だが、纏う空気が違う。
清潔な装い。簡素ながらも整った衣服は、どこかシスターや宣教師を思わせる。だが、その奥にあるのは、明確な“武”の気配。
視線が合う。
「……あんたが、聖騎士様か?」
女は静かに頷いた。
「ああ」
無駄のない返答。
「身体に問題がなさそうで何よりだ」
ゆっくりと部屋の中へ入り、こちらを見据える。
「君に、あの場で何があったのか聞かせてもらおうと思ってな」
声は落ち着いているが、探るような響きがある。
「もし体調が優れないなら、また後日でも構わない」
一拍。
「……どうする?」
「問題ない」
即答だった。
これ以上、時間を空ける理由もない。
聖騎士はわずかに頷き、近くの椅子に腰を下ろす。
「では、聞かせてもらおう」
その視線を受けながら、口を開く。
語るのは事実。
だが、すべてではない。
鱗の盗賊との戦闘。
影のカラス。
ロザリオの仕組み。
そして、討伐に至るまでの流れ。
だが、“鬼子の闘志”については伏せる。
あれは隠すべきだ。冒険者として、余計な札を見せる理由はない。
必要な情報だけを選び、不要な部分は削ぎ落とす。
言葉を組み替えながら、淡々と話していく。
聖騎士は口を挟まず、ただ静かに聞いていた。
表情は変わらない。
だが、その瞳だけが、僅かに鋭さを増していた。
「……そういうことだったか」
女の聖騎士は、小さく息を吐いた。
「なるほどな」
わずかに目を伏せ、話の流れを頭の中で整理しているようだった。
こちらはそれ以上語ることもなく、視線を逸らす。
「……あとは、あんたに助けられるまで記憶がない」
短く、それだけを付け足す。
聖騎士はゆっくりと頷いた。
「ありがとう。貴重な情報だ」
一拍置いて、少しだけ柔らかくなる。
「この話は、私の記憶の中だけに留めておこう」
まっすぐにこちらを見る。
「盗賊が相手では、情報が外に出回るのは酷だろう?その程度の分別はあるつもりだ」
その言葉に、軽く息を吐く。
「……助かる」
それだけ返す。
ふと、彼女の視線が机の上へ落ちた。
湯気の立つスープと、まだ手をつけられていないパン。
「……腹が減っているのか?」
「いや」
首を振る。
「仕事中だ。空腹ではあるが、聖騎士が任務中に食事に手をつけるなど――」
言い終わる前に、先ほどの女性の声が飛び込んできた。
「聖騎士様、あなたの分も用意しますよ!少し待っててくださいね!」
「あっ――いや、お構いなく……」
止める間もなく、女性はぱたぱたと部屋を出ていく。
しばしの沈黙。
聖騎士は額に手を当て、小さくため息をついた。
「……まいったな」
そして、少しだけ苦笑する。
「まあ……今日くらいは、いいか」
空気がほんのわずかに緩む。
だが次の瞬間、彼女の表情が引き締まった。
「実はな」
そう言って、胸元へ手を差し入れる。
取り出されたのは、一つのロザリオ。
光を受けて、静かに揺れる。
「今回こうして話を聞きに来たのには、もう一つ理由がある」
指先でそれを持ち上げる。
「君も戦いの中で見ただろう。我々は――死にかけた際、このロザリオに魂を定着させることで、延命と復活の機会を得る」
淡々とした説明。
だが、その重みは軽くない。
「君が戦った跡を確認した時、大量のロザリオが散らばっていた」
視線がわずかに鋭くなる。
「……すべて、回収させてもらった」
ゆっくりと続ける。
「そのほとんどが、これまで“行方不明”とされていた聖騎士のものだった」
静かな声だったが、確かな感情が乗っていた。
「君のおかげで……彼らは、ようやく戻ることができた」
ロザリオを握る手に、わずかな力がこもる。
「誰が討伐したのか――そこまでは伏せている。君の立場を考えれば、それが最善だろう」
一歩、距離を詰める。
「だが、それでも」
真っ直ぐにこちらを見据える。
「私個人として、礼をさせてほしい」
静かに、だがはっきりと。
「……何でもいい。望むものがあれば言ってくれ」
特には何もない。
そう言い切った瞬間、部屋の空気がわずかに止まった。
「……は?」
女の聖騎士は間の抜けた声を漏らし、まじまじとこちらを見る。
「いや、聖騎士だぞ?この王国でそれなりの権限を持つ私が“なんでもする”と言っているんだ。金でも地位でも、装備でもいい。何かあるだろう?」
「ないな」
即答だった。
一切の迷いもなく、ただ事実を述べるように。
「……そこまで言うか……。いや、待て。私の聞き方が悪いのか?」
額に手を当て、ぶつぶつと考え始める聖騎士。
「違うな……いや違うはずだ……。おかしい……。私にできることならなんだっていいんだぞ?それだけのことを、君はやったんだ」
窓の外では川のせせらぎが流れ、鳥の声が穏やかに響いている。
あの教会の濁った空気とは、まるで別の世界だった。
「……学者の少女には何か言ったのか?」
話を変えるように、そう尋ねる。
「あぁ。彼女はすぐに答えたよ。ローブと靴だ。両親に届けてほしいと頼まれた。昨日には目を覚まして、今は別室で休んでいる」
「そうか」
短く返す。
それだけの言葉なのに、どこか安堵が滲んでいた。
「いや、だからよくないんだ。君の話をしているんだ、君の」
そう言われて、少しだけ考える。
欲しいものがないわけじゃない。
ただ、それを今ここで受け取る理由がないだけだ。
「……じゃあ一つだけ」
顔を上げる。
「俺が王都で困った時に、一度でいい。助けてほしい」
「……それだけか?」
「あぁ」
あまりにも軽い願いに、聖騎士はしばらく黙り込んだ。
やがて、ふっと息を吐き、どこか可笑しそうに笑う。
「拍子抜けだな……だがいい」
姿勢を正し、胸に手を当てる。
「その願い、必ず叶えよう。聖騎士の名にかけてな」
その言葉には、嘘も飾りもなかった。
「では、私は――」
立ち上がろうとした、その時。
バン、と扉が開いた。
「聖騎士であれば、食べ物を粗末にしないでくださいね?」
有無を言わせぬ声音。
農家の女性がずかずかと入ってきて、皿を机に置く。
「いや、その、私は仕事中で――」
「関係ありません」
ぴしゃりと遮られる。
「……はい」
完全に言い負けた聖騎士は、観念したように椅子へと座り直す。
「教官殿より厳しいな……」
小さくぼやきながら、パンに手を伸ばした。
その様子を横目に見ながら、視線を窓の外へ向ける。
静かな朝だ。
戦いの気配は、どこにもない。
――だが、終わったわけじゃない。
食事を終え、皿が片付けられると、女の聖騎士は静かに立ち上がった。
一度こちらをまっすぐ見据え、わずかに息を整える。
「君は、よくあの“鱗”に立ち向かった。本当に、賞賛に値する」
その声には、作り物ではない敬意が滲んでいた。
「いつか私も……君のような戦士になれるよう、努力するよ」
その言葉に、思わず口を開く。
「俺みたいには、絶対になるな」
間を置かず返すと、聖騎士は一瞬きょとんとしたあと、小さく笑った。
「ふふ……謙遜が過ぎるな」
軽く首を振り、それ以上は追及しない。
そのやり取りの中に、どこか柔らかな空気が流れた。
ふと、何かを思い出したように彼女が言う。
「ああ、そういえば……私、まだ名乗っていなかったな」
姿勢を正し、胸に手を当てる。
「私の名は――“泉の聖騎士”」
「聖騎士は皆、神より自然の名を賜ることになっているんだ」
静かな誇りを含んだ声だった。
「また何かあれば、いつでも言ってくれ」
「その約束、忘れていないからな」
そう言い残し、彼女は踵を返す。
扉を開け、振り返ることなく部屋を出ていった。
廊下の向こうから、かすかに声が聞こえる。
「ちゃんと全部食べましたか?」
「た、食べたとも……!」
農家の女性と聖騎士のやり取りに、わずかな苦笑が漏れる。
やがてその声も遠ざかり、部屋には静けさが戻った。
身体の奥に残る鈍い痛みと、張り詰めていた糸が緩む感覚。
ゆっくりとベッドに身を預ける。
瞼を閉じると、意識はすぐに沈んでいった。
――少しだけ、休もうと思った。
起きると、夜はすでに深く沈んでいた。
月明かりだけが部屋に差し込み、白く静かに床を照らしている。
外からは虫の声と、風が草を撫でる音が絶えず届いてくる。
――静かすぎる夜だった。
耳を澄ませば、空気の流れる音さえ聞こえてきそうなほどに。
ゆっくりと体を起こす。
まだ痛みは残っている。だが、動けないほどではない。
ベッドから足を下ろし、床に体重を預ける。
……立てるな。
小さく息を吐き、扉へ向かう。
廊下に出て、手探りで階段を降りる。
一段、一段、確かめるように。
下へ降りると、大きな居間と食事の空間が広がっていた。
土とレンガで作られたコンロには、まだ微かな熱が残っている。
つい先ほどまで、誰かがここで過ごしていた気配。
その温もりが、妙に胸に残る。
そのまま外へ出る。
扉を開けた瞬間、ひやりとした夜気が流れ込み、部屋の空気を一気に攫っていった。
一歩、外へ。
背後で扉を閉める。
そこには、屋根付きの小さなウッドデッキと、使い込まれたベンチ。
ゆっくりと腰を下ろす。
軋む木の音が、やけに心地いい。
見上げれば、雲一つない空に月が浮かんでいる。
「……いつ以来だ」
誰に向けるでもなく、ぽつりと呟く。
こんな夜を感じるのは。
瞼を閉じる。
すると――
そこにいたのは、妻と娘だった。
大きいとは言えない家。
それでも、三人で暮らすには十分すぎる木造の家。
妻が気に入っていたキッチン。
朝のためにと用意してくれていたキャベツのスープの鍋が、まだほんのりと温かい。
娘が好きだった窓。
そこから見える景色は、季節ごとに変わって、
そのたびに、楽しそうに物語を聞かせてくれた。
「今日はね、森の奥に竜がいてね――」
拙い言葉でも、一生懸命に語る声。
それを優しく見守る妻の横顔。
何でもない日常。
何気ない時間。
――それが、どれほど尊いものだったのか。
今なら、痛いほどわかる。
胸の奥が、静かに軋む。
戻れない。
そんなことは、とうに理解している。
それでも――
あの温もりだけは、確かにそこにあった。
夜風が頬を撫でる。
まるで、遠い記憶を優しく撫でるように。
「あなた、どうしたの?疲れちゃった?そんなところで寝てると風邪をひいちゃうわよ?」
――妻の声だった。
耳の奥に、柔らかく落ちてくる。
泣きたくなるほど、優しくて、残酷で。
あの頃の陽だまりを、そのまま連れてくるような声。
ゆっくりと目を開ける。
そこにいたのは――農家の女性だった。
毛布と、湯気の立つマグカップ、それに一冊の本を抱えて立っている。
一瞬だけ、胸の奥に空白が生まれる。
……そうか。
ほんの少しだけ残念に思いながら、薄く目を細めた。
「すまない……ここは君の場所だったか?」
「いえいえ、お構いなく!」
明るく首を振りながら、彼女は一歩近づく。
「寒くありませんか?」
差し出された毛布の温もりが、夜気とは対照的だった。
「……ありがとう。大丈夫だ」
そう言いながらも、受け取ると指先にじんわりと熱が移る。
「ならよかったです」
ほっとしたように微笑み、少しだけ空を見上げる。
「でしたら……よかったら、一緒に夜を楽しみませんか?」
月明かりに照らされて、赤髪がやわらかく揺れた。
その色が、ほんの一瞬だけ、記憶を掠める。
「あぁ、構わない」
短く頷く。
「だが、まだ寝なくて大丈夫なのか?」
「本当は明日も朝から掃除やらなんやら、大変なんですけどね」
少しだけ肩をすくめて笑う。
「でも……こんな美しい夜を、寝て終わるなんてもったいないじゃないですか?」
夜空を見上げるその横顔は、どこか無防備で、まっすぐだった。
「……確かに、君の言う通りだ」
視線を同じように空へ向ける。
「こんな夜が、まだこの世界で見られるなんてな」
ぽつりと漏れた言葉は、自分でも驚くほど静かだった。
「斧使いさんって、街で暮らしてるんですよね?」
「あぁ」
「やっぱり、ああいう場所だと……こういう景色って、あまり見られないんですか?」
少しだけ考える。
煙と、喧騒と、血の匂い。
夜はあっても、“こういう夜”はなかった。
「……そうだな。ほとんど、ない」
「ですよね」
彼女は満足げに頷く。
「だから今日は、ちょっとだけ贅沢しましょう」
そう言って、隣に腰を下ろす。
木のベンチが小さく軋む。
二人分の重み。
静かな夜に、並んで座る影が伸びる。
湯気の立つマグカップが差し出される。
「どうぞ。温まりますよ」
受け取ると、手のひらに広がる温もり。
ゆっくりと口をつける。
……優しい味だった。
何も言わず、ただ夜が流れていく。
虫の声と、風の音と、
隣にいる誰かの気配だけが、確かにそこにあった。




