夜の漂泊者
季節が終わるように時は流れ、眺めれば自身の奥底、朽ちていくのは心と体、哀れにも無自覚に過ごし、時を享受する。
昔が良かったなどと人は言い、思い出を美化し、懐かしむ。
現実が満たされない人間はいつも過去という場所を逃げ道にする。
沈む間際のまぶしい夕日を背に、それはぽつりとある。
ひっそり思い出を隠すかのように。
世界を裏返したその場所。
――辿りつく前に潰えた夢の残骸、置き去りにしてきた約束…。
裏切りにあった心は完全に癒すことが出来るの。
報われない密かな思いはどこへ行けば消せる、永遠に枯れることのない愛はあるの――
人の内に秘めるその魂は、強い感情に感応し、時として美しく色彩形状を変え狂おしく訴えかける…それは奴らの目にあまりに甘美に映る。
奴等?
一つの影が禍々しい何かに気付き走り出した。
今日もまた黄昏がやってくる。
そしてそれを抱く闇が…。
片目の黒猫がゆっくりと夜を往く。
見上げれば、暗く沈みかえった夜の雲間から、黄金の月が妖しく姿を覗かせている。
残された片目は何かを追うように、対象のない空を眺め続けている。
深夜一時、暗闇を澄み渡った空気が、はるか遠くの、電車の走る音を郊外にまで伝えている。
ここ【滝の見】と言う街は都心から少し離れ西に位置している。
人口は約二十万人を有している。
ベッドタウンにも関わらず滝の見駅周辺はこの時間になっても人で賑わい絶えることはない。
駅再開発によりもたらされた恩恵とでも言うのであろうか。
二年前から駅、駅周辺は再開発により、様変わりした…良くも、悪くも。
駅から少し離れた工場跡地では工場の移転により市街化区域となり、住宅街として現在も開発が進んでいる。
網の目に区画整備され立ち並ぶ建売住宅がまだ見ぬ入居者を待つように、売約済みの看板を立て存在している。
人気のない不気味な住宅街に夜光虫だけが街灯に群がり賑やかに戯れている。
コツン、コツ、コツ、コツン、冷え切ったアスファルトにヒールの乾いた音が不規則に近づく。
その音におびえ退散することなくひらひらと虫たちは舞い続ける。
高いヒールを履いた女は泥酔しており意識朦朧と帰路に就くところであった。
顔を朱に染め揚々の女は、いつものようにガランドウの住宅街を抜け、月明かりだけが照らす薄暗い小道を、ヒールの音を響かせ歩いていた。
ザワーッ秋風が通り過ぎる、ふと背後から何かが近づいてくる気配がして、女は振り返った。
「気のせいよ…ね。」
そこには空の戸建てが並んでいるだけで、女は安堵の溜息を吐き向き直ろうとした。
しかし、刹那ブワッと激しく大気が巻きあがり、自分の背後へ何かが回りこんだのを、女は感じた。
何かはわからない、しかし得体のしれない何かであった。
そして、瞬間から女は自由が奪われたように硬直した。
動いたら死ぬ、女の直感が告げる。
一瞬で体中のアルコールが分解されたかのように酔いが醒め、全身から冷や汗が噴き出した。受け入れがたい現実に女は顔を歪め、背後に意識が集中した。
蠢いている…。
そしてそれは、首筋を伝う冷汗を舐め回した。
ひぃと短い悲鳴を聞くとそれは興奮したように吐息を荒げた。
女は見えないものに蹂躙される恐怖に意識を失いかけながらも、ひたすら救いを祈り続けた。
「タスケテ。」
わずかに肺に残った50ccの酸素を絞り出し、かすかな音に変えた。
すると……
カツン、カツン、また一つ乾いた音が響き渡る。
音はだんだんと近くなり、正面にゆらりと黒いレザーコートの男を連れてきた。
闇を纏い、口元と両手だけが不気味に浮かび上がっている。
「鬼さんこちら、手の鳴る方へ。」
男はオクターブ低い声でそう言うと、女に向かって少し大げさ手を叩き、真っ赤な唇でふっと残酷に笑った。
正確にはその後ろで蠢く闇の者に向かって…。
男の片方の瞳は女の後ろにいる人では捉えることのできない者を映していた。
悪鬼。
それは2メートルを超す体長で、人に似た形状をとり全身が毛で覆われ、魚類のように鋭利なノコギリ状の歯をもち口から涎を垂れ流し、女を恐怖させ楽しんでいた。
恐怖に歪む魂は鬼の好物である。
しかし鬼は男の声に反応し、女の魂を凌辱するのをやめて男の方を向き直した。
街灯が怪しく男を照らし、すらりと高く伸びた体は柳のようにぶらり揺れながら近づいてくる。
人と思っていたその男を見て、女はまた驚愕した。
左半身の周囲は夜の冷気に反して陽炎のように景色が歪んで見えるのである。
青白い焔、鬼の目にははっきり映っていた。
それは現世のものでなく幽世の半透明で冷たい焔、鬼は男がただの人間でないと認識し、そして自分を排除しようとしている侵入者ということを理解した。
「ヴォーーー。」
それは吠えると瞬時に女を飛び越し本能に従い襲いかかった。
鬼は獣のような速さで数十メートル先の男に迫っていた。
グロテスクな異形の怪物。
しかし男は危機が迫っているにも拘わらず、襲い来るそれから視線を外すのだった。
「…お前等の存在が自然の摂理だとしたら、俺は悪魔か何かかもしれないな。」
ぼそっと、つまらなそうに呟いた。
鬼は鋭利な爪で男の首を刎ねようとした、しかし刹那、男は強く地面を踏みしめると、残像を残すほどの速さで体をひねり強襲を回避した。
時が止まったような静寂が辺りを支配する。
レザーコートが遠心力で美しい半円を描いている。
「…絶界の惨禍、解き放つは聚斂せし蒼白の炎妖…」
最中、男は数フレーズ言葉を発していた。
すると、かすかに前髪から見え隠れする瞳がぼんやり赤く揺らめき、左手に宿る焔が一層激しく燃えたつのを鬼は確認しただろうか。
そしてすれ違い様、回りこんだ鬼の頭蓋をとらえ、力をこめ唱えた。
「――火曜星――、臨轟――!!」
すると、男の掌は巨大なバーナーのように瞬時に多量の焔を吹き出し、爆音と共にそれを瞬く間に焼き尽くした。
「クギャーーー。」
赤子の泣き声のような絶叫を残して鬼は果てた。
標的が消滅し男が一人佇む。
わずかな光がキラキラと天へ登り還っていくのを眺める。
そしてすべてが終わるとコートを払い小さく息を吐いた。
「もう苦しまなくて…いい…。」
男は決まり事のようにそう呟いた。
ぼんやりしたシルエットと空間の歪みによって、女にも多少のことを知覚することができた。
何か得体のしれない者に命を奪われそうな所を、この男に助けてもらったのだと、しかし女は恐怖により体がこわばって動かなかった。
「またはずれか…月読。」
一人、ここにいない誰かに呟き、そして気付いたように女に近寄った。
「大丈夫か?」
男は手をさし伸ばすが、焦燥しきった女にとって男は闇に招く死神のように見えた。
女の震えは止まらず手を伸ばすこともできなかった。
「……そっ。」
男は察したかのように手を戻すと、振り向き再び闇に消えた、振り向きざまにかすかに見えた男の表情は先ほどまでの軽快な態度とは違いどこか悲観しているように見えた。
そして、全てが終わりそこには女と闇、街灯に群がる夜光虫だけがそこに残った。




