第五話 後編
― 五 後編 ―
瞳を開けた先は暗闇だった。
数瞬前までは光で満たされていたというのに。ふと春は寂しい思いが込み上げてくる。
(真冬の温もりがないからだ)
春は寂しさの原因にすぐに気が付いた。春が眠ってもずっと握り続けてくれた大きな手。温かくて優しい真冬の手が今は包んでくれていないのだ。
(寂しい)
兄が握ってくれた左手を胸の前で握り締める。少しでも優しい兄の温もりを思い出すために。
そして。
今から春が見るであろう残酷な夢に負けないために。いつもの笑顔を真冬へと向けられるように。
「ようこそ。織部春」
涼やかな声が背後から響く。背後など見ずとも誰が声を掛けてきたのかはすぐに分かる。
「僕が生きているのが悔しい?」
不敵に笑うと共に問う春。これまで散々悪趣味な夢に付き合わされたのだ。これくらいの言葉を浴びせても文句を言われる筋合いはない。いや、むしろこの程度の言葉を浴びせねば気が済まなかった。
「まさか前世の君が力を貸すとは思わなかった。そこまで想っているようだな、実の兄を」
返ってきたのはどこか小馬鹿にした声。世間一般的には兄妹の恋愛は許されない。監視者のような反応が向けられるのは当然である。もしかすれば今まで身近にいた者ですら、まるで手の平を返したかのように春を見る目が変わるかもしれない。だが、それくらいの事はすでに覚悟しているのだ。そして、監視者は春の心を揺さぶるためにあえて述べているであろう事はすでに分かっている。分かっているのであれば抗うのみである。
「僕は真冬が大好き。誰に何を言われても曲げるつもりはないよ」
春は振り向いて断言する。言ってしまえば楽なもので、もう春の心には迷いなどなかった。気持ちを固めてくれたという面では感謝してもいいくらいの気持ちである。
「そうか。まあ……せいぜい今を楽しむがいい」
監視者は一度真紅の瞳を細める。彼女から伝わってくるのは確かな怒り。だが、どんな視線を向けられても春は臆するつもりはない。春は彼女が示す運命に抗ったのだから。
「全員が全員。お前のように強くはないのだからな」
その言葉を最後に監視者は姿を消す。何もない漆黒の空間に残されたのは春のみ。緊張から解放された春は一つ息を吐く。それと共に次に起こるであろう出来事に備えて心を落ち着かせる。
(……光)
春は自らを包む閃光を見つめる。包む光が示すのは夢の始まり。次に命を落とすであろう誰かと、春達が倒さねばならない穢れとの戦いの夢である。次は誰が狙われるのか。確かめねばならないが春は同時に知りたくないと思ってしまう。春が助かったように次は助けられるかどうか分からないのだから。
瞳をきつく閉じて夢を拒絶しようとした瞬間。周囲を照らす閃光が晴れていく。
漆黒の空間に立っているのは二人。袴姿の護士と、長い黒髪が目印の巫女。前世の真冬と雫だった。これは前世の記憶。当然、前世では死んだ事になっている春がその場にいる訳はないのである。
(二人で戦ったんだ)
春は心中でつぶやき二人を見つめる。春の心に流れ込んでくる感情は恐怖だった。身近な者を失う恐怖に怯え彼らの足は確実に鈍っている。動きが鈍れば監視者が喜ぶ事は分かっているというのに。
「……守らないと」
護士はつぶやくと共に駆ける。心の中を満たす恐怖を吹き飛ばすために。護士の想いに答えた巫女は彼に力を与える。海のように青い鞘に収まった一振りの刀として。
護士が対峙するのは西洋甲冑だった。中身は無いようで甲冑だけが動いているという印象である。頭部がないにも関わらず動いている甲冑はどこか心霊現象にも見えて不気味だった。
護士が一歩、二歩と距離を縮めていく。その間に穢れは動きを見せない。まるで近寄ってくるのを待っているかのように。
――穢れまでの距離は残り三歩。
護士は手に握る刀を振り上げる。高速の一閃と共に戦いを終わらすために。
(勝てるの?)
見守る春は胸の前で両手を握り締める。このまま穢れが動かなければ勝利は目前。だが、こんなに甘い相手でない事は分かりきっている。こんな弱い穢れとの戦いをわざわざ心を折ろうとしている相手に見せるとは思えないからだ。
穢れとの距離は残り一歩。後は刀を振り下ろすのみとなった状況で穢れに動きが見えた。西洋甲冑の胸部が突如割け、真紅の瞳が開かれたのである。
「くっ――!」
護士は一瞬躊躇する。
その瞬間を穢れは見逃さない。開かれた瞳はすぐさま護士を睨み、両手を振り上げる。両手に握られている物は裂け目から取り出した漆黒の剣。振るわれた剣を覆うのは霧だった。穢れを形成する鮮血のような赤い霧ではなく、青く輝く霧である。
鮮血が舞う。そして即座に聞こえたのは巫女の悲鳴だった。不意打ちを受けての始まり。だが、これくらいであれば力を受け取った護士が後れを取るとは思えない。
(何があるの?)
春は戦いを注視する。皆で生き残るために。だが、希望を掴み取ろうとする春を夢の世界は絶望へと叩き落とす。
目の前で広がるのは一方的な暴力だったのだ。
力を得た護士が穢れを一方的に倒した訳ではない。その逆だった。どういう訳か動きが鈍った護士を穢れが容赦なく斬りつけるという光景だったのである。
「どうして!」
春は思わず叫んでいた。遠目だが穢れの剣はさほど速いようには見えない。おそらく春でも薙刀さえ形成すれば数撃なら防げる速さである。
だが、護士はその攻撃を避けきれずに一歩、また一歩と後退していく。状況が理解出来ない春は即座に巫女へと視線を移す。まさか彼女が力を断ったとでもいうのだろうか。
痛みをその身で引き受けた巫女は膝をついて荒い息を繰り返している。表情は蒼白で意識を保っているだけでも賞賛に値するかのような有り様だった。
(傷から霧が?)
春は巫女の傷から溢れている霧に注目する。溢れる霧は穢れが握る剣を覆う霧だった。あの霧が巫女の力を奪っているとでもいうのだろうか。
巫女殺しの力を持った穢れ。一撃でも浴びれば勝敗は決まってしまう。それが次の相手だとでもいうのだろうか。対応策がなければとてもではないが敵わない敵。だが、春達には希望がある。
「変えられるとしたら……僕だけなんだ」
春は穢れを睨みながら強い口調でつぶやく。この戦いには存在しない春が戦いを変えればいい。それが唯一の希望である。二度も変えさせてくれるかは分からない。だが、諦める訳にはいかないのである。
「絶対に皆で生き残る!」
春は溢れる意志を言葉へと変えて叫ぶ。輪廻の鎖から解き放たれた春の心にはもう迷いはなかった。




