第五話 中編
― 五 中編 ―
「――前世と違う道」
つぶやいて空を見上げたのは雫である。どれだけ頭の中で考えてもすっきりしないために言葉として発してみたのだ。だが結果は一緒だった。雫自身も現状を信じられないのだから。春を救うために今まで全力を尽くしてきた。それでも心のどこかで不可能だと思っていたのである。
だが、変わってしまった。
主な勝因は前世の春が力を貸してくれたからである。春の諦めない気持ち、いや真冬を想う気持ちに応えてくれたからだ。これは奇跡ではなく春と真冬が切り開いた道。そして、次同じ事をしろと言ってもおそらく不可能だろう。皆が皆それだけ強い気持ちを抱いている訳ではないのだから。
「ふぅ」
一度溜息をついて巫女服を身に纏った雫は境内にある樹齢千年を超える大木へと背を預ける。ここは雫のお気に入りの場所である。なぜかここにいると落ち着くのである。まるで心が洗われていくような気がするから。
(次に命を狙われるのは誰? 春? それとも私?)
雫は胸に手を当てて問う。当然、答えは返ってこない。今すぐにでも知りたい事ではないため別段と困る事はない。だが、どうしても気になってしまうのもまた事実である。
(まあいつか見ますかね)
雫は内心で結論付けて再び心を無にする。監視者が何をしてくるのかを予測するために。
いつまでそうしていただろうか。雪月に入り冷え切った空気が全身を容赦なく冷やしていく。体の震えを感じた雫は再び一つ溜息をついて大木から体を離す。
その瞬間に階段を上ってくる二つの足音が耳へと届く。二つという事は真冬と春だろうか。そう勝手に予測した雫は確かめるために雨月神社へと上る唯一の道へと足を伸ばす。だが、すぐに雫は足を止める事になる。階段から上ってきた相手が意外な人物だったからである。
「こんにちは。雨月さん」
片手を上げて陽気に挨拶をしたのは真っ赤な髪と長身が印象的な男。雫と、そして真冬のクラスメイトの一人だったのである。相手は名前を憶えているようだが、雫は申し訳ないとは思うが彼がどんな苗字だったかを記憶していない。それだけ目の前にいる彼とは接点がないのである。
「おっと……まさか名前知らない? 藤堂。藤堂久隆ね」
藤堂と名乗ったクラスメイトは苦笑いを浮かべながら真っ赤な髪を掻く。名前を聞いた瞬間にもしかしたらそうだったかもと思い出した雫である。失礼な話ではあるが目の前にいるクラスメイトは特に気にした様子はなく終始笑顔を向けている。
「ほほ。藤堂はモテんのう」
二人のやり取りを横目で見ていた老齢な男性が一度笑う。その彼へと視線を向けるが雫は彼を見た事もなかった。おそらく夢にも登場しない人物。
(何が起きているの?)
雫は騒ぐ心を抑える事が出来なかった。不安が心を埋め尽くす。あまりにも監視者が用意したシナリオと違い過ぎる。不確定要素が多すぎるのだ。監視者の描いたシナリオに乗るつもりはさらさらないが、こうも変わってしまっては対策を講じる事が出来ないのである。行き当たりばったりで強大な穢れと戦うなど予想するだけでも恐ろしい。
「俺はこれからだって」
「そうかの」
不安で沈んでいく雫をお構いなしに軽口を叩き合う二人。そんな二人を雫は一度睨み付ける。冗談を言い合いに来たと言うのなら早く帰ってほしい。今の雫には不真面目な手合いと関わっている時間はないのだから。
雫の鋭い視線を受け止めた藤堂は一度溜息をついてから表情を引き締める。そして、ゆっくりと口を開いた。
「さて……冗談はこれくらいにして。俺達は真冬達の状況を知っている。それを雨月さんに知っていて欲しい」
藤堂の言葉は雫を震わせるには十分だった。
「どうして?」
雫はすかさず問う。
なぜ彼らが雫達の事を知っているというのだろうか。可能性があるとすればどちらかが護士なのだろう。だが、護士であるならば知っている筈だ。この件に部外者が首を突っ込めば真っ先に監視者によってその命を消されてしまうという事を。
「ワシは元護士じゃ。当然、お主等の事は知っている。関われば消される事もな」
老齢な男も表情を引き締めて種明かしをする。だが、雫はまだ彼らの考えが読めない。なぜ彼らは自らの命を犠牲にしてまでこの件に関わろうとするのだろうか。正常な人ならば雫が声を掛けようものなら逃げ出すようなこんな事情へと。しかも自ら進んで。
「分からないって顔をしているな。まあ当然かもな。でもさ……知ってしまったら放っておけないというのが本音だよ。俺は真冬の力になってやりたい」
思考に没頭している雫に向けて藤堂が語る。藤堂の言葉が嘘ではない事は表情を見ればすぐに分かる。先ほどまでの陽気な笑顔はすでになく、彼の表情は真剣そのものだったから。そして、自らの命が掛かっている現状で嘘をつくなどとてもではないが考えられない。いつどこで監視者が聞いているか分からないのだから。今ここで雫と接触した瞬間に監視者が介入してくる可能性も捨てきれないこの状況で。
藤堂の言葉を胸の内で幾度か反芻した雫は一度深呼吸をして雑念を消し去り――
「ただ友人の危機を救いたいだけだと?」
藤堂へと問う。彼の意志を確かめるために。ここで揺れるくらいならば「足で纏いだ」と言うつもりである。迷った挙句に犬死などとてもではないが見たくはないのである。
「ああ。正確に言えば……雨月さんもな」
藤堂は再び陽気に笑い右手で拳銃を形作り、雫を指差す。そんなクラスメイトの姿を雫は呆然と見つめる。まさか雫まで含まれているとは思ってもいなかったからである。
「どうした?」
固まった雫を藤堂が訝しんで見つめる。慌てて頭を振って平静を取り戻した雫は一度咳払いをして誤魔化す。こんな失態をクラスメイトに見せる訳にはいかないのである。
「何でもありません。少し驚いただけです。ところで監視者も……そして、この地に現れる穢れも強大な力を持っています。戦えるのですか?」
藤堂から視線を外して元護士だと述べた老齢な男性へと視線を向ける。現役を引退した者にこの地の穢れは荷が重すぎると思ったのである。見た目や年齢で判断するのも問題だとは思うが、足で纏いであるならば無駄に命を捨てる事はないのだ。
「藤堂よ。お主もそうだが最近の若い者はちと生意気だのう」
老齢な男性は一度溜息をついて腰にある刀を引き抜く。まさかこの神聖なる場所で真剣を振るうとでもいうのだろうか。
雫が思考を走らせる事が出来たのはそこまでだった。背筋に氷を張りつけられたかのような悪寒を感じた雫はすかさず後方へと跳躍する。その間に右手に鉄扇を形成するのを忘れずに。
刹那、高速の銀閃が視界を埋める。向かってくるのは鋭利な殺気。
「――!」
雫は無言で鉄扇を振り上げる。一度金属が擦れる音が響くと共に火花が舞う。溢れる火花の先。溢れる鋭い殺気のさらに奥。そこにあるものは氷のように冷たい青い瞳だった。
(何なのですか、この人は!)
雫は心中で叫び鉄扇で刀を弾き飛ばすと同時に半歩下がる。だが、まだ刀の間合い。弾かれた刀は一呼吸の間もなく再び振り下ろされる。
回避はすでに不可能。残る選択肢は鉄扇で防ぐのみである。
鈍い金属音と共に伝わったのは重い衝撃。まるで鉄球を受け止めたかのような衝撃だった。押しつぶされるような錯覚を覚えた雫は全身に力を込める。
だが、そんな雫の抵抗は長くは続かなかった。一度、何かが割れるような音が鳴る。
(まさか割れるのですか!)
音を耳にした雫は目を見開く。音の発生源は雫が握る鉄扇。雫を守る唯一の物からの音だった。
「これで終わりかの」
老齢な男性が自らの勝利を宣言する。手に握る鉄扇が破壊されれば雫にはもう打つ手はない。すかさず針を形成したとしても防ぐ事は不可能だろう。
(何かないの?)
雫は鉄扇が砕けていく間にも思考を走らせていく。老齢な男性はただ己の力を証明したいだけである。雫が「参りました」と言えばすぐにでも刃を収めるだろう。
だが、これが実戦であったのなら。雫は刀で斬られて深手を負う事になる。そんなミスを犯して足を引っ張る訳にはいかないのである。
「まだです!」
雫は不可能だと頭では理解しているが左手に針を形成する。その瞬間に右手に握る鉄扇が音を立てて砕け散る。
迫るのは高速の銀閃。雫が降参するまでは手を抜かないつもりなのだろう。男から放たれる殺気を全身で受け止めた雫の頬に冷汗が流れる。
だが、雫は止まらない。見るからに頼りない針で刀を受け止める。
火花が散ったのは数瞬の事。
すぐさま両断された針を手放した雫は刀を避けようと半歩下がる。生きる道を探すために。春のように不可能だと思えた事を可能にするために。雫は迫る刃を睨みつける。
「その心意気は悪くないのう」
老齢な男はつぶやくと共に刀を止める。彼が振り下ろした刀は雫の首筋に触れる瞬間で止まっていた。実戦なら即死の一撃である。
「参りました」
雫は瞳を伏してつぶやく。視界に移るのは日を浴びて輝く刃のみ。
「師匠とここまで戦えるなんて。すごいな、雨月さん!」
雫の心が沈んだ瞬間に届いたのは陽気な声。伏した瞳を上げるとそこには笑顔を浮かべた藤堂がいた。彼はどうやらこの男に何度も打ち負かされているらしい。
「何もすごくありません。巫女の力を使ってこの有り様ですからね」
雫は溜息をつく。
雫は本来護士へと与える力を用いて戦っている。自らの身体能力だけで戦っている目の前の男からすれば公平な戦いではなかっただろう。だが、それでもこの男は雫に勝ってみせた。まるで便利な力に頼って戦うなと教えるかのように。
「巫女の力ってそんなにすごいのか? 神力だったか?」
巫女の力という言葉にやや興奮気味につぶやく藤堂。そんな藤堂へと雫は言葉を探していく。説明するにも、まるでその力を手にした事がない者にどう説明すればいいのだろうか。
「神力とは以前にもお主に説明したが……神社にて身を清めし乙女が使える神聖なる力の事。この常月で生まれた女性であれば少なからずその身に宿している力ではある。じゃが、穢れと戦う程の力を得ている者は稀かのう」
言葉を探している内に老齢な男性が代わりに説明する。内容としては概ね正しいため雫は余計な事は言わない。あえて訂正するのであれば身を清めるのではなくて、過酷な修行を裏で行っているという事くらいだろうか。
雪月の修業は冷水へと身を投じ、心を無にする事である。世間一般に広まっている滝行と内容はさして変わらないだろう。だが、神力を開花させるのであれば全身の感覚がなくなるまで修行は継続される。素質によって様々らしいのだが、雫が開花するに至るまでには半日の時間を要した。身に宿る微かな神力で寒さに耐えながらの時間は苦痛以外の何ものでもなかった。修行が終了した瞬間の痛みは今でも思い出したくないほどである。
奇跡の力を行使、または維持するためにはそれだけの労力が必要となるという訳である。
「ふーん。護士というのも特別なのか?」
藤堂が次の疑問を口にする。彼が指差しているのはもちろん元護士である老齢な男性である。
「護士は特別でも何でもありません。巫女の力を受け取って戦う者ですからね。何か特別な力が使用出来る訳でもありませんから」
藤堂の言葉に応えたのは雫。影で拷問に近い修行を経験した雫は護士という存在がどこか羨ましいと思う時があるのである。それが表に出てしまったのか言葉の端々には棘があったに違いない。
「そうじゃの。護士は巫女の力を受け取って代わりに前へと進む者。あえて何か素質がいるかと問われれば巫女との相性かの」
老齢な男性は一度自らの顎鬚に触れて遠い目をした。自らに力を与えてくれた巫女の事を思い出しているのだろう。
(相性……か)
雫は心中で老齢な男性がつぶやいた言葉を反芻する。
巫女は護士の痛みを引き受ける。そのおかげで護士は与えられた人外の力を際限なく振るう事が出来るのである。多少の傷では倒れる事はない巫女が信じる絶対の刃。それが護士なのである。その力を成り立たせているのは二人の信頼関係である。
信頼関係がなければどうなるのかと問われれば結果は目に見えている。例えば護士が身勝手に突撃して痛みの全てを巫女へとぶつければ、すぐにでも巫女は力の供給を断つだろう。そうなれば護士は生身で化け物と戦う事となり待つのは死のみである。
逆に巫女を信じられずに消極的に攻めるような護士は巫女の刃とはなり得ない。そんな護士に頼るより自身で刃を持って戦った方がましなのは言うまでもないだろう。自身で刃を形成した場合は護士に渡す力の半分しか発揮出来ないとしても。
「相性か。なら真冬と春はばっちしかな」
藤堂の何気ない言葉。特に意味などなく仲の良い兄妹を思い出して述べたのであろう言葉。そんな些細な言葉が雫の心、いや魂を揺すっていく。
(今の私には関係ありません)
雫は心中で否定する。前世では巫女と護士として戦い抜いた真冬と雫。互いを信じあい想い合っていたであろう前世の二人。
だが、今は違う。
真冬の巫女は春であり。また春の護士は真冬なのである。彼らはお互いを大切に想い必要であれば命を掛けてでもお互いを守る事だろう。以前の戦いのように雫すら巻き込んで。巻き込まれた雫も春を守るために納得して力を貸したのである。死んだ方がましだと思えるような痛みを左肩に受けてでも春のために。
(頭で理解してもあなたは納得しないの?)
雫は胸に触れる。胸の中に潜んでいる前世の雫へと問いかけるために。彼女はまだ織部真冬の中に潜んでいる前世の彼を求めている。もう触れられないと分かっているというのに。
「ふむ。そちらはいいが……こちらは大丈夫かのう」
浮かれる藤堂を制して老齢な男がつぶやく。
そんな彼へと視線を向けた雫は薄っすらと微笑んで――
「私は大丈夫です。弱くはないつもりですから」
言葉を返す。迷う自分を律するために。前世の自分とは違う道を歩むために。
「いざとなったら俺達が介入する。それまでは……負けないでくれよ」
藤堂は雫の意志を受け取ってもう一度陽気に笑う。
「はい」
雫はそんな彼の瞳をしっかりと見て一度頷いた。




