無題2
闇夜の奇術師として、強固な蔵から一切の痕跡を残さず至宝のみを奪い去る。
そんな狂気にも似た盗みの美学に行き着いた後も、京の都の人々が土岐半次郎を恐れることはなかった。それどころか、裏長屋で身を寄せ合うように生きる貧しい者たちは、彼を親しみを込めて半次郎さんと呼び、密かに庇い続けたのである。
彼が悪党として憎まれず、それどころか抗いがたい魅力を持った義賊として愛され続けた理由。
それは、半次郎がどれほど緻密で芸術的な盗みに傾倒しようとも、その根底にあった弱き者への温かな眼差しだけは、決して失われることがなかったからだ。
彼を狂わせた、モノの真贋を見極める圧倒的な眼力。
その鋭い眼は、権力者がひた隠しにする高価な美術品に対してだけでなく、名もなき泥民たちが大切に握りしめている想いに対しても、等しく向けられていた。
ある酷く冷え込んだ、雪の夜のことである。
半次郎は、飢饉の年に米を買い占めて莫大な富を築いた、京の豪商の屋敷に忍び込んだ。
彼は降り積もる雪に自らの足跡を静かに掻き消させながら見張りの目をすり抜け、蔵の複雑な和錠を無音で解き放った。そして、大判小判の詰まった長持には目もくれず、主が最も愛蔵していた天下の名物と呼ばれる見事な青磁の茶碗ただ一つだけを木箱から抜き取り、錠前を元通りに掛け直した。
ここまでは、己の美学に殉じる孤高の怪盗の仕事である。
しかし、屋敷を立ち去ろうとした半次郎は、裏手の薪小屋で足を止めた。
隙間風の吹き込む粗末な小屋の隅で、ひとりの幼い丁稚が、薄いむしろを被って寒さに激しく身を震わせながら眠っていたのだ。主から満足な布団も与えられず、凍死寸前の状態だった。
丁稚のしもやけだらけの手には、小さな布の欠片が固く握りしめられていた。それは、口減らしのために奉公に出される際、母親が不器用な手縫いで作ってくれた、中身の入っていない空っぽのお守りだった。
豪商の主から見れば、丁稚の命も、その薄汚れたお守りも、路傍の石以下の無価値な塵でしかない。
だが、半次郎の眼には違って見えた。
彼には、その擦り切れた布切れに宿る我が子を想う母親の痛切で温かい愛情が、先ほど盗み出した天下の茶碗よりも、遥かに純粋で尊いものとして真っ直ぐに視えてしまったのだ。
半次郎は、音もなく丁稚のそばにしゃがみ込むと、自分が着ていた上等な防寒の羽織を脱ぎ、幼い身体を包み込むようにそっと掛けた。そして、懐から小判を一枚取り出すと、その空っぽのお守り袋の中へと丁寧に忍ばせた。
『一切の痕跡を残さない』という己の絶対の美学を破り、この夜だけは『自らの羽織』という決定的な痕跡をあえて残して。
寝顔が安堵に緩むのを見届けると、半次郎は雪降る闇の中へ、羽織を持たない身軽な姿で軽やかに消えていった。
翌朝、豪商の主は、荒らされた形跡のない蔵の中から自慢の至宝だけが跡形もなく消えていることに気づき、半狂乱となって腰を抜かした。
一方で、温かい羽織に包まれて目を覚ました丁稚は、お守り袋に入っていた一枚の小判を見て大粒の涙をこぼした。その金で、彼は病床の母親に腹一杯の飯を食わせ、薬を買うことができたという。
半次郎のこうした振る舞いは、やがて風の噂となって都中を駆け巡った。
追っ手である奉行所の捕り方たちが長屋に聞き込みに入っても、誰一人として口を割る者はいなかった。町人たちは皆、白を切って彼を匿い、逃走の手引きすらした。
当時の町奉行が、半次郎の捜査記録の末尾に、深くため息をつきながら残したとされる一文がある。
『奴は法を犯した大泥棒に相違なし。然れど、奴に盗まれたと喚く者たちの顔は一様に欲に歪み醜く、奴が去った後に涙を流して拝む者たちは皆、救われた顔をしている。あれを絶対の悪と断じて斬首することは、果たして天の理にかなうのであろうか』
法の番人でさえ、彼を悪と断罪することに首を傾げた。
一切の痕跡を残さず、究極の美学のもとに至宝を奪い去る、底なしに孤独な闇夜の奇術師。
しかしその素顔は、理不尽に虐げられた者たちの悲しみに寄り添い、モノに宿る温かい想いを誰よりも理解し、愛した男。
法という規律に照らし合わせれば、紛れもない犯罪者である。
だが、孤高の美学の裏側で、不器用なまでに人間臭い優しさをこぼし続けたその生き様こそが、土岐半次郎という男の抗いがたい魅力であった。
善悪の二元論では到底割り切れないその深い業と情の対比が、彼を単なる大泥棒から、時代を超えて語り継がれる愛すべき義賊の伝説へと昇華させていったのである。




