第七話『笑顔』(前)
六月。鬱陶しい梅雨の足音がすぐそこまで近づいているはずの時期でありながら、その日の下町には、季節外れの乾いた風が吹き抜けていた。
日本列島をすっぽりと覆った巨大な高気圧の影響で、空には雲一つなく、どこまでも高く澄み切った青色が広がっている。強い陽射しを受けて路地の端に咲く紫陽花の蕾は、まだ色づく前の淡い緑色を静かに輝かせていた。吹き抜ける風には湿気が含まれておらず、肌に触れる空気は初夏というよりも、まるで秋晴れの日を思わせるような心地よい感触を持っている。
そんな爽やかな午後の陽光に包まれた古物商『時洲堂』の店内は、外の明るさとは対照的に、古いモノたちが呼吸する静寂と薄暗い琥珀色の時間に満たされていた。
店主の時洲美波は、店の奥にあるカウンターに座り、木箱に収められたアンティークの装飾品の手入れを行っていた。
窓から差し込む光の帯が、彼女の透き通るような白い肌を淡く照らし出している。肩口で綺麗に切り揃えられた艶やかな黒髪は、開け放たれたガラス戸から風が吹き込むたびに、柔らかく靡いた。大きな黒縁の丸眼鏡の奥で、琥珀色の瞳は澄み切っており、どこかあどけなさを残した可憐な顔立ちは、息を呑むほどに美しい。本日は少しだけ気温が上がるという予報に合わせて、涼しげなラベンダー色のリネンワンピースに身を包んだその清楚な佇まいは、古いモノたちに囲まれた静謐な店内で、まるで一枚の名画のように調和していた。
美波は柔らかな専用のクロスを手に取り、真鍮の台座に嵌め込まれた古いラピスラズリのブローチを丁寧に磨き上げる。
金属のくすみを取り除き、石の表面に付着した長年の汚れを拭き取ると、深海のような青色が鮮やかに蘇る。美波は満足げに小さく息を吐き、それをベルベットの敷かれた木箱の定位置へとそっと戻した。
ふと、美波の視線がカウンターの端に置かれた筆立てへと向かう。
それは先日、鑑定界の重鎮である神谷宗珠から、戦国末期の大泥棒・土岐半次郎が盗み出した国宝級の幻の茶器であると、恐ろしい来歴を明かされたばかりの代物だった。しかし美波は、あえてそれを金庫に仕舞い込むような真似はしなかった。祖父の仙次郎が遺したこの茶器が時洲堂にあることの真の因果を、自分の手元で必ず見極めると決意していたからだ。ただし、神谷の警告を受けて内部を傷つける金属のハサミなどは抜き取り、今は傷のつかない古い万年筆だけを数本、そっと立てている。
美波はその茶器の中から古い万年筆を一本抜き取り、手元の革の手帳に棚卸しの記録を書き込んでいく。
戦国末期の大泥棒が盗み出した国宝級の茶器が、数百年の時を超え、下町の古物商で文房具入れにされているという事実の異様さは、相変わらずであった。ただ密やかに、ペン先が紙を擦る心地よい音だけが店内に響いていた。
その矢先のことである。
入り口の飴色のガラス戸が、横へと滑るように開いた。金物屋の幸一が見事な腕前で調整を施した引き戸は、開閉の際の不快な引っ掛かりを一切生じさせず、頭上の真鍮のベルだけが涼やかな音を立てた。
「いらっしゃいませ。時洲堂へようこそ」
美波が万年筆を置き、柔らかい笑顔を向けて立ち上がる。
敷居を跨いで店内に入ってきたのは、六十代半ばほどの初老の男性だった。仕立ての良い上質なグレーのサマースーツに身を包んでおり、一見するとどこかの企業の役員や、品の良い大学教授のような知的で落ち着いた風貌をしている。
しかし美波の眼は、男性が纏っている異様な空気を即座に見抜いていた。
男性の背中はひどく丸まり、歩幅は狭く、足元はおぼつかない。綺麗に整えられた白髪の下にある顔は土気色に沈んでおり、目の下には濃い疲労の色がこびりついていた。そして何より、その双眸には生きる活力が全く感じられず、まるで魂の半分をどこかに置き忘れてきてしまったかのような、底なしの深い虚無と悲哀が満ちていた。
男性は店内に並ぶ骨董品には一切目もくれず、真っ直ぐにカウンターの奥にいる美波の姿を捉えると、縋るような足取りで近づいてきた。
「あなたが、こちらの店主さんですか」
男性の声は掠れており、砂を噛むような乾燥した響きを持っていた。
「はい。私が店主の時洲美波です。古いモノの買取や販売、そしてモノにまつわる探し物や迷い事を紐解くお手伝いをさせていただいております。どうぞお掛けになってください。少し歩き疲れたお顔をされていますよ」
美波は男性の纏う張り詰めた悲しみを感じ取り、声のトーンを一つ落として、丁寧に応えた。
カウンターの前に置かれた丸椅子を勧め、すぐに奥の台所へ向かう。よく冷えたグラスに氷をたっぷりと入れ、心を落ち着かせる効果のある冷たいペパーミントティーを注ぐ。爽やかな薄緑色の液体から立ち昇る清涼感のある香りが、男性の強張っていた肩の力をわずかに抜いた。
「ありがとうございます。私は高木と申します。少し離れた住宅街の方に住んでいます。今日は、この店で不思議なモノの謎を解き明かしてくれると聞いて、藁にもすがる思いでやってきました」
高木と名乗った男性は、出された冷たいグラスを両手で包み込むように持ち、ペパーミントティーをゆっくりと一口飲んだ。冷たい液体が乾ききった喉を潤すのを確認してから、彼は上着の内ポケットに震える手を入れた。
「時洲さん。単刀直入に申し上げます。このペンダントにかけられた呪いを解くか、あるいはこの店で引き取って私から永遠に遠ざけていただきたいのです」
高木がカウンターの上にそっと置いたのは、手のひらに収まるほどの小さなベルベットの箱だった。彼がゆっくりと蓋を開けると、真紅の布地の上に、一つの大ぶりなペンダントトップが鎮座していた。
それは、うずらの卵ほどの大きさがある美しい琥珀だった。
長い年月をかけて樹液が化石化した琥珀は、透き通るような深い蜂蜜色をしており、内部には古代の空気が閉じ込められた微細な気泡が黄金色の星屑のように散りばめられている。表面は職人の手によって滑らかに磨き上げられており、傷一つない無垢な状態を保っていた。琥珀を吊るすシルバーのチェーンだけが、何度も人の手に触れられたのか、わずかに黒ずんで酸化している。
「とても美しい琥珀ですね。カットも研磨も素晴らしく、内包物のバランスも申し分ありません。大切になさっていたのが一目でわかります。これが、呪われているのですか」
美波が琥珀を見つめながら問いかけると、高木は苦しげに顔を歪め、両手で顔を覆った。
「呪われているんです。妻の深い悲しみと、私に対する激しい恨みによって」
静寂に包まれた店内に、高木の悲痛な告白が響き渡った。
彼は深く息を吸い込み、途切れ途切れの掠れた声で、自身の身に起きた出来事を語り始めた。
「半年ほど前です。私の妻である紗衣子が、自宅で突然倒れました。急性の大動脈解離でした。救急車を呼んだ時にはすでに意識はなく、そのまま病院で、私に最後のお別れの言葉をかける間も無く、あっけなくこの世を去ってしまいました。私たちには子供がおらず、三十五年間、本当に二人きりで寄り添って生きてきました。紗衣子は私の人生のすべてでした。彼女のいない広すぎる家に取り残された私は、絶望と喪失感で正気を失いそうになっていたんです」
高木の視線が、ベルベットの箱の中に横たわる琥珀に落ちる。
「妻の気配が残る家にいると、どこからか彼女の足音や、料理を作る包丁の音が聞こえてくるような気がして、夜も眠れなくなりました。私はその苦しみから逃れるために、妻の痕跡をすべてこの家から消し去ろうと決意したんです。洋服も、愛用していた食器も、一緒に写っているアルバムも。業者を呼んで、家の中にある妻の私物をすべて処分させました。そうすれば、悲しみを忘れられると本気で信じていたんです」
「すべて、処分されてしまったのですか」
「はい。ただ一つ、この琥珀のペンダントだけを除いて」
高木は震える指先で、琥珀の表面をそっと撫でた。
「これは、私たちが結婚二十周年の記念に、ヨーロッパへ旅行に行った際に買ったものです。紗衣子はこれを本当に気に入ってくれて、外出する時はもちろん、家にいる時でも肌身離さず身につけていました。これだけは、どうしても捨てることができなかった。そして、家の中の整理がほとんど終わった先週のことです。私は最後まで手をつけていなかった、妻の書斎の扉を開けました」
高木の顔に、明らかな恐怖の色が浮かび上がった。
「妻は生前、黒い紙を刃物で細かく切り出し、それを貼り合わせていく切り貼り絵の制作を趣味にしていました。書斎は彼女が最も長い時間を過ごした特別な聖域でした。私はその部屋を片付けるのが恐ろしくて、半年間ずっと鍵をかけて封鎖していたんです。いよいよその部屋の荷物をまとめるために中へ入る時、私は自分を奮い立たせるために、この琥珀のペンダントを純白のシルクのハンカチでお守りのように念入りに磨き上げ、ポケットに入れて書斎に入りました。妻がそばで見守ってくれているような気がしたからです」
ペパーミントティーのグラスの表面に結露した水滴が、一筋、音を立てて流れ落ちる。
「書斎の中は、妻が倒れた半年前のあの日のまま、時が止まっていました。机の上には切りかけの黒い画用紙とデザインナイフが当時のまま残されていました。私は床に座り込んで、震える手で段ボール箱を組み立て、妻の作品や道具を次々と詰め込み始めました。その時です。妻がそばで見守ってくれているようにと、ポケットから出した琥珀のペンダントを、自分のすぐ傍の絨毯の上にそっと置いたんです。そして数分後、その琥珀を見て、私は声を上げそうになりました」
高木の声が、恐怖で上ずっていた。
「琥珀が、真っ黒に染まっていたんです。透き通るような蜂蜜色だった表面に、無数の黒い汚れや埃のようなものが、まるで黒い雪のようにびっしりとこびりついていたんです。私は慌てて手元のハンカチで琥珀を綺麗に拭い上げました。琥珀は元の輝きを取り戻しました。しかし、再び絨毯の上に置いて数分後に見ると、またしても真っ黒な汚れが琥珀の表面を覆い尽くしていたんです。拭いても拭いても、書斎にいる限り、琥珀はすぐに黒く汚れてしまう」
「書斎にいる限り、ですか」
「そうです。書斎を一歩出てリビングに行けば、琥珀は絶対に汚れません。あの書斎の中でだけ、琥珀はまるで自らの意志で黒い汚れを吸い寄せているように真っ黒になるんです。時洲さん。私にはわかります。これは妻の呪いなんです」
高木は両手でカウンターを強く握りしめ、充血した目で美波を真っ直ぐに見つめた。
「妻は怒っているんです。三十五年間共に生きた証を、私が自分の悲しみから逃げるためだけにすべてゴミとして捨ててしまったことを。私だけが生き残り、彼女の存在をこの世界から消し去ろうとしていることを。だから、最後に残されたこのペンダントを通して、私に激しい恨みをぶつけてきているんです。あの黒い汚れは、妻の絶望そのものです。私はもう、あの書斎に入ることも、このペンダントを持つことも恐ろしい。どうか、これを引き取ってください。私を紗衣子の呪いから解放してください」
美波の眼には、それが失った妻に対する巨大な罪悪感と、逃げ場のない後悔が生み出した哀しい妄想であると映った。しかし高木にとっては、目の前で実際に起きている黒く汚れるペンダントという現象がある以上、それは否定しようのない現実であり、呪いそのものとして彼を縛り付けていたのだ。
「お話は、よく分かりました」
美波は、すっかり氷の溶けきった高木のグラスをそっと手元に引き寄せた。
そして細い人差し指で、大きな丸眼鏡のブリッジを押し上げる。
その瞬間。あどけなく清楚な古物商の気配が霧散した。代わりに現れたのは、あらゆる人間の思い込みを剥ぎ取り、眼の前の事象と自然の理だけを見据える探偵の冷徹な琥珀色の瞳だった。
「高木さん。安心してください。奥様はあなたを呪ってなどいませんし、この世界に呪いや怨念が形を持つことなどありえません」
美波はベルベットの箱の中の琥珀に手を伸ばし、ポシェットから愛用の純銀製のルーペを取り出した。そして白く細い指先で琥珀のペンダントを持ち上げ、窓から差し込む陽射しに透かして、ルーペ越しに表面を観察する。
「素晴らしい透明度です。そして、非常に柔らかく温かい手触り。これは間違いなく、長い年月をかけて硬化した本物の天然樹脂の化石、本琥珀です。表面に黒い汚れがこびりついていたとおっしゃいましたが、琥珀の表面には汚れによる変色や、腐食の痕跡は一切見られません。つまり、琥珀そのものが黒く変質したわけではなく、外部からの何かが一時的に付着しただけという証明になります」
「外部からの物質。ですが、リビングでは汚れないのに、書斎に入った時だけ真っ黒になるんです。しかも拭いても拭いても、すぐに元通りに汚れてしまう。あんな異常な現象、妻の怨念以外にどう説明するというのですか」
高木が必死に反論するが、美波の揺るぎない視線は琥珀から決して離れなかった。
「人間の恐怖や罪悪感は、時として最も単純で自然なルールから目を背けさせてしまいます。高木さん。奥様の書斎は、現在どのような環境になっていますか」
「環境ですか。妻が切り貼り絵の画用紙や完成した作品を保管していた部屋ですから、湿気を極端に嫌います。なので、妻が亡くなってから半年間、私が部屋を開けるまで、あの部屋はずっと締め切ったまま、二十四時間体制で除湿機を稼働させていました。部屋の中は極度に乾燥しています」
「やはりそうですか」
美波の透き通った声が、探偵としての確信に満ちた響きを帯びる。
「高木さん。密室、極度の乾燥状態、切り絵の細かい紙の破片。そして、あなたが手入れのために何度もハンカチで拭い続けた、本物の天然琥珀。役者はすべて揃っています。この奇妙な現象を引き起こしているのは、奥様の呪いでも怨念でもありません。太古の昔から知られている、自然の理がもたらす引力です」
「引力。それは一体、どういう」
「この琥珀が教えてくれますよ。数千万年の時を閉じ込めたこの沈黙の石は、奥様の本当の想いを、誰よりも正確に記憶していますから」
美波はルーペをしまい、琥珀のペンダントをベルベットの箱に戻した。そして丸眼鏡の奥で真っ直ぐに高木を見据え、はっきりと告げた。
「高木さん。私はこの琥珀を買い取ることはできません。その代わり、あなたの抱えているその恐ろしい呪いの正体を解き明かしてご覧に入れます。ご自宅の、奥様の書斎にご案内いただけますか」
美波の足取りに迷いはなかった。
呪いと罪悪感に縛られた初老の男を救うため、そして、失われた妻の本当の想いを拾い上げるための、確かな証明が始まろうとしていた。




