第1話 邂逅(完全版)
夜の中華街は、昼とはまるで別の世界だった。昼間の喧騒は消え、赤い提灯の灯りだけが通りをぼんやりと照らしている。だがその光も、どこか不自然に歪んでいた。まるで世界そのものが薄い膜に覆われたような、現実と非現実の境界が曖昧になった空気。
それは「夜の帳」と呼ばれる現象だった。一般市民はそれに気づかない。ただ「少し暗い夜だ」と感じるだけで、その裏で起きている異変を認識することはない。
しかし、この世界にはそれを知る者たちがいた。
「出たな……」
ソウは低く呟き、目の前に現れた影を見据えた。壁を這うように現れたそれは、明確な形を持たない黒い塊だった。歪み、ねじれ、人の感情をそのまま押し固めたような存在――虚無獣。
その姿を見た瞬間、胸の奥がざらつく。理由はわからない。ただ、本能的に理解していた。これは放置してはいけないものだと。
「市民は?」
ソウの問いに、背後から落ち着いた声が返る。
「もう避難させた。結界圏外には出てる」
タジだった。大きな体で盾を構え、仲間の背を守るように立っている。その立ち姿には揺るぎがない。長年積み重ねてきた経験と、誰かを守る覚悟が滲んでいた。
「じゃ、さっさと終わらせよっか」
ルイが軽く笑いながら前に出る。気の抜けたような口調とは裏腹に、その視線は鋭く、虚無獣の動きを正確に捉えていた。
次の瞬間、虚無獣が咆哮するように空気を震わせた。
ソウは迷いなく踏み込む。
剣が光を裂き、影を断ち切る。
戦いが始まった。
虚無獣は単純な存在ではない。攻撃を受けても形を変え、感情のように揺らぎながら再構成される。だがソウはそれを読み、動きを見切りながら斬り込んでいく。タジが後方から支え、ルイが隙を突く。
連携は自然だった。言葉を交わさなくても、動きが重なる。
だが――その時だった。
空気が変わる。
どこからともなく、歌声が流れ込んできた。
透き通るような声だった。冷たいようでいて、確かに力を持つ旋律。夜の帳に触れ、わずかに揺らぎを生む。
「……なんだ、今の」
ソウの動きが一瞬止まる。その間にも虚無獣は形を変え、再び襲いかかろうとしていた。
だが次の瞬間、別の気配が現れる。
路地の奥。赤い灯りの下に立つ三つの影。
セイヤ。リョウコ。アキト。
互いに言葉はない。ただ視線がぶつかる。
「虚無獣の処理は、こちらが引き継ぎます」
セイヤが静かに言った。その声は穏やかで、丁寧だった。だが、その奥にあるものは冷たかった。
「は? 誰だよあんたら」
ソウが警戒を強める。
「……敵だ」
タジが短く言う。
その一言で、空気が決定的に変わる。
理由はない。だが確信だけがあった。
――こいつらは敵だ。
その感覚は、あまりにも自然で、疑う余地すらなかった。
ルイが一歩前に出る。
「おねぇさん、こんな素敵な夜なのにさ。血なまぐさいことして。モテないでしょ?」
リョウコの眉がわずかに動く。
「あら、ずいぶん失礼ね」
「そんなに男の尻追っかけて、独りでさみしいの〜?」
「てめぇ、リョウコさんに何言ってんだ!」
アキトが飛び出す。その勢いはまっすぐで、感情そのままだった。
ルイは肩をすくめる。
「へぇ、君はお友達かなぁ?」
軽口。しかし視線は鋭く、相手の反応を観察している。
一方で中央では、セイヤとソウ、タジが向き合っていた。
「退いてください」
「ふざけるな」
言葉が終わる前に、力がぶつかる。
剣と能力。衝撃が夜を震わせる。
戦いは短く、激しかった。互いに一歩も譲らない。だが決着には至らない。
虚無獣が消滅した瞬間、双方は距離を取った。
「……今日はここまでにしましょう」
セイヤの声が静かに響く。
そのまま三人は闇の中へ消えた。
戦場には、奇妙な静けさだけが残る。
ソウは剣を下ろし、遠ざかる背中を見つめた。
「……なんなんだよ、あいつら」
胸の奥がざわつく。
敵のはずなのに。
なぜか、懐かしいような感覚があった。
理由はわからない。
だが確かに、何かが始まっていた。
赤い提灯が揺れる。
夜は、静かに更けていく。
(続く)




