第三十三話
「ルシア、貴女は覚えていないかもしれませんが……私は貴女に二度も救ってもらいました。」
レオナルドの声は、夕暮れに染まる部屋に静かに響いた。
「え……私が、レオナルド様をですか……?」
ルシアはレオナルドの言葉に目を見開き、驚いた。
なぜならば、ルシアにとってレオナルドとの初めての出会いは婚約が決まって、ブランシュ公爵家に来た日だからだ。
「……申し訳ありません、レオナルド様。
私がレオナルド様を助けたという記憶が思い当たらないのですが……。」
ルシアは、誤魔化すことなく正直に答えた。
彼女の記憶の中には、公爵と個人的な接点を持った記憶はなかった。
「謝らないでください。
貴女が覚えていなくても無理はありません。
初めて会った日……あれは、もう随分と昔の……私がまだ……そう、十代そこそこの頃でしたから。」
ルシアの返答に苦笑を浮かべ、謝るなと告げるレオナルド。
そして、レオナルド遠い目をして語り始めた。
その声は、どこか懐かしさと、そして深い感情を含んでいた……
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ブランシュ公爵家の嫡子レオナルドは、幼い頃から人の醜さに晒され続けていた。
生まれつき容姿端麗で、学問も武術も努力を要さずに人並み以上の成果を上げた少年。
その周囲に集まる者は公爵家に取り入りたい教師や、権勢を求める友人候補ばかり。
幼いながらに「人は利己的でしかない」と結論づけ、世界を斜に構えて眺めるような少年へとレオナルドは育っていた。
そんな彼が転機を迎えたのは、とある誘拐事件の中でだった。
使用人の裏切りによって連れ去られたレオナルドは、人気のない地下牢に閉じ込められた。
そこには他にも貴族の子供たちが数人捕らえられており、すすり泣く声が響いていた。
「大丈夫だよ……お金を払えば帰してもらえる」
同じように誘拐された一人の子供が泣きじゃくる他の子を慰めようとした。
だが、そんな子供達へとレオナルドは冷笑する。
「馬鹿を言うな。
誘拐犯が顔を見せた俺たちを生かしておくはずがない。
親が金を払ったところで、殺されるか、他国に売られるかだ」
キツイ言葉を浴びせられた子供たちは一層声を上げ、狭い牢内は絶望の泣き声で満ちた。
レオナルド自身も助かる可能性など信じてはいなかった。
ただ諦めを他人にぶつけることで、自分の痛みを薄めようとしていたにすぎない。
……その時だった。
「それは違うよ」
小さな声が奥から響いた。
牢の隅にいた、茶髪の小柄な少女が顔を上げていた。
その声はか細いのに、不思議とその場の全員の耳を打った。
「確かに、ここから自分で逃げるのはムリだわ。
でも――必ず助けは来る。
だから、ぜったいにだいじょうぶ。
あきらめちゃダメだよ。」
そう言った少女は、こんな状況に似つかわしくないほど穏やかな笑みを浮かべていた。
翡翠色の大きな瞳が牢の暗闇で光を帯びている。
「……根拠は?」
レオナルドが睨み、吐き捨てるように問う。
「根拠なんてなくてもいい。
私が、みんなを守るって約束するから」
一瞬、牢の中の子供たちは泣くのを忘れた。
だがレオナルドだけは反発を隠さなかった。
「捕まってるお前に何ができる?」
鼻で笑うレオナルドに対して、それでも少女は微笑みを崩さない。
「くだら……っ」
その笑みが癪に障って、尚も言い募ろうとするレオナルドの言葉を遮るように大きな音が響いた。
激しい物音に子供達は怯えて、身を寄せあう。
「………」
少女だけが何かを知っているようにジッと地下牢への入り口の扉を見つめていた。
大きな音は、騎士団が賊のアジトに突入したがゆえのものだった。
激しい戦闘音が響き、喧騒が途切れることなく続く。
そして、地下牢の扉が乱暴に開かれた。
追い詰められた賊の一人が「死なばもろとも!」と叫びながらなだれ込み、子供たちは再び悲鳴を上げた。
その中で、真っ先に少女が前へ出た。
「みんな逃げて! 走って!」
小さな身体で賊の大男に飛びかかり、必死に立ち回る。
だが力の差は歴然で、振り払われた衝撃で壁に叩きつけられた。
逃げることを忘れ、呆然とするレオナルドに賊の刃が振り下ろされる――その瞬間。
血に濡れた少女が身を投げ出し、レオナルドを庇った。
「けが……ない?
まもるって……やくそく、したから……」
レオナルドを庇った少女の背中にできた大きな傷。
傷から溢れる血に濡れ、痛みに震えながらも微笑みを浮かべる少女の口からはレオナルドを気遣う言葉。
それは、少年にとって初めて「無私の心」に触れた瞬間だった。
……世界には、こんな人間がいるのかと――。
だが賊の追撃は止まらない。
自分を庇って気絶した血まみれの少女を抱きしめたレオナルドへ振り下ろされる刃。
しかし、賊の体は突如として横から来た衝撃に吹き飛ばされた。
床を叩きつけるような重い衝撃音。
賊の身体は壁に叩きつけられ、骨の折れる鈍い音を残して動かなくなった。
「だ、誰だっ」
暗がりに立っていたのは、漆黒の装束を纏う一人の男だった。
「やめろっ!
この子に触れるなっっ!」
その男は倒れ伏した少女へ手を伸ばす。
「やめっ……うっ……」
抵抗するレオナルドを一瞥すると、軽く打擲して気を失わせた。
そして、血塗れの小さな体を抱き上げた男は闇に消え去った。
レオナルドが再び目を覚ました時、戦いは終わっており、少女の姿も消えていた。
残されたのは彼女の名も、素性もわからぬままの記憶――そして背を庇って流れた少女の鮮烈な赤だけだった。
……以後、レオナルドは変わった。
人の醜さを憎み切っていた彼が、勉学にも武術にも真剣に取り組むようになった。
それは、ただ一つの誓いのためだった。
――あの翡翠の瞳を持つ少女を、いつか必ず探し出し、今度は自分が守る。
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「……皮肉なものです。
人を信じることのなかった私が、ただ一人の少女を求め続けていた。
あの日以来、探し続けてきたのは――貴女だけなのです……ルシア」
そう言い切ったレオナルドの声音は、誓いにも似た揺るぎなさを帯びていた。
「ルシア、あの時……あの時、私を助けてくれてありがとう。
そして、貴女という光に出会えて心より感謝しています。」
感謝を伝えるレオナルドの優しい微笑みと言葉に、ルシアの心の中で温かい感情が込み上げてくる。
これまで抱いていたレオナルドへの誤解が、音を立てて崩れていくのだった……。




