第三十二話
「まったく、タイミングが悪いったらないわ!」
寮の自室に入った途端、アンナが憤慨したように言った。
「焦る気持ちはわかるけど、何も今言わなくたっていいのに」
「……」
「レティ、大丈夫?」
心配そうに訊かれて、ベッドに腰を下ろした私は小さく苦笑する。
「なんか、びっくりしちゃって……」
ラウルは返事は急がないと言った。
『俺は前世とは何の関係もねぇけど、でも俺はレティの許婚だから』
そして、考えて欲しいと彼は続けた。
その間リュシアン様は何も言わず、ただ薄い笑みを浮かべそんな私たちを見つめていた。
「ラウル、許婚のこと真剣に考えてくれてたんだなって思って」
彼は昔から女の子が好きで、これまでに色んな女の子と付き合っているのを見てきたから、親同士が決めた『許婚』のことなんて全く気にしていないのだと思っていた。
将来はきっとこのまま誰か良い人を見つけて、私との関係なんてさっさと解消してその人と結婚するのだろうと思い込んでいた。
だから私はラウルと結婚する未来なんて想像したこともなかった。ただ漠然と、また違う誰か、親の決めた人と結婚するのだろうと考えていた。
「私が軽く考えすぎていたのかな」
そういえば、いつかそんなことをユリウス先生に言われたことを思い出す。
イザベラだってそうだ。ユリウス先生の話をするまで彼女は何度違うと言っても私のことをラウルの許嫁として見ていた。
私だけが、軽く考えていたのだろうか。……だとしたら。
「ラウルに申し訳ないことしちゃった?」
「え?」
顔を上げると、彼女はいつかのように呆れた顔をしていて。
「ほらやっぱり。そう考えてるって顔してたもの」
「あ……」
アンナが向かいのベッドに腰掛けて怒ったように言う。
「これに関しては全部ラウルがいけないのよ。これまでのあいつの言動見てたら誰だって今更何? ってなるわよ。レティが悪く思うことは全くないわ」
「……」
「……でも、」
そこでアンナは困ったような、でも優しい顔をして続けた。
「タイミングはほんと最悪だけど、あいつもやっと本気になったみたいだし、レティもこの機会にラウルのこと本気で考えてみるのもありかも?」
「え?」
私は目を見開く。
「前世のことは勿論気になると思うけど、でも今はレティなんだから。私はレティ自身に幸せになって欲しい」
そうして私の一番の親友は綺麗に微笑んだ。
⚔⚔⚔
その夜もなかなか寝付けなかった。
昼間医務室でたくさん寝てしまったからかもしれないけれど。
また、あの夢の続きを見てしまいそうで眠るのが怖かった。
どう考えてもあの後、セラスティアの最期は幸せなものではなかっただろう。
これ以上、真実を知るのが怖かった。
――それに。
(ラウルと、結婚……?)
ラウルのことは勿論嫌いではない。幼い頃から近くで見てきて、きっとお互い良いところも悪いところもわかっていて、あまり社交的とは言えない私にとっては気兼ねなく接することの出来る数少ない大切な存在。
この間だって彼は私のせいで大変な目に遭って、彼がいなくなると思ったら恐ろしくてたまらなかった。聖女の力で彼が助かって、涙が出るほど嬉しかった。
でもそれは、彼がアンナと同じ大切な幼馴染で友人だから……。
今日彼のあの言葉を聞いても、驚きと困惑ばかりで胸が高鳴ったり嬉しいという感情は湧いてこなかった。
それにイザベラのこともある。
私がラウルの気持ちを受け入れるということは、同時にあんなに彼を強く想っている彼女を悲しませるということで……。
(やっぱり、今はまだ考えられない)
目を瞑って何度目かの寝返りを打つ。
すると瞼の裏に浮かんだのは先生だった。
(ユリウス先生……)
先生は今どこにいるのだろう。
いつ学園に帰ってくるのだろう。
体調はもう平気なのだろうか。最後に見た先生はとても疲れている様子だったから心配だった。
(先生に、会いたい……)
もう前世のことは思い出さなくていい。
……本当は憶えていて、私に何かを隠しているのだとしても。
それでもいい。
あの声で、いつものように「ミス・クローチェ」と呼んで欲しかった。
――!
すぐ近くで、けたたましく音が鳴り響いている。
知らない音楽なのに妙に耳に馴染む旋律。
でも大き過ぎて少々、いや、かなり耳障りだ。というかはっきり言って煩い。
どうすればこの音は消えるのだろう。その方法を知っているはずなのに頭に靄がかかったように思い出せない。
と、今度は別の音が近づいてきて――。
「ひより! ひーよーり!」
「……え?」
ぱっと目を開けると、知らない女性が私を覗き込んでいた。
「やーっと起きた。もう、早くしないと新学期早々遅刻しちゃうわよ!」
その40代ほどの知らない女性は腰に手をやり呆れたふうに言った。
――知らない……?
いや、私は彼女をよく知っている。
「……お母、さん……?」
「まだ寝ぼけてるの? 早く降りてきてご飯食べちゃいなさい。それと起きたんならその意味のない目覚まし早く消しなさいね。下まで響いてるわよ、全く……」
そうしてお母さんはぶつぶつ言いながら部屋を出ていった。
遠ざかっていく足音を聞きながら私はのそりと起き上がって今も大音量で鳴っているスマホに手を伸ばす。
画面をスワイプすると目覚ましとして設定していた曲はぴたりと途切れた。
途端静かになって、私はふぅと息を吐く。
……なにか、長い夢を見ていた気がするけれど、内容はよく覚えていなかった。
まぁ、よくあることだ。
ぐーっと伸びをしてからベッドを降り遮光カーテンを開けると一気に部屋の中が明るくなって目が眩んだ。何度か瞬きをして目が慣れると少し霞んだ青空が見えた。
(うん、今日はいい天気!)
昨日まで雨続きだったから心配だったのだ。
何せ今日から新学期。今日から高校3年生!
雨も嫌いではないけれど、こういう始まりの日は晴れていた方が気分が上がる。
(新しい出逢いとかあるかもだし)
そんなことを思いながら掛け時計を見上げ、私は目を剥いた。
「ヤバっ! もうこんな時間!?」
そうして私、花咲ひよりは慌てて自分の部屋を飛び出した。




