第三十一話
「……ねぇ、クラウス」
「はい」
「本当に良いのかしら」
「良いに決まっています」
前を行くクラウスがこちらを振り返る。
「姫様はこれまでこの国のために多くの奇跡を起こしてこられたんですよ。皆も、陛下もわかってくださいます」
私の大好きな優しい声と微笑み。
いつもなら、その笑顔を見れば安心出来るのに……。
用意されていた真っ黒なローブを身に纏いふたり真っ暗な森の中を進みながら、私はもう一度心の中で呟く。
(本当に、良かったのだろうか)
聖堂を出てからずっと消えない不安。
物心ついた頃から今日死ぬのだと思って生きてきた私には、今クラウスとふたりこうしていることがまるで夢の中の出来事のようで。
――私にはやはり姫様を手に掛けることなどできません。
あの言葉。そして見たこともない必死な表情。
嬉しかった。
クラウスが私のために初めて見せてくれた本当の顔。
騎士や従者としてのものではない、クラウスの言葉だとわかったから。
嬉しくないわけがなかった。
だから、言われるまま彼について来てしまった。……でも。
(本当に、良かったのだろうか)
聖女たちはこれまでこの国で多くの奇跡を起こし、そして18歳の誕生祭の日に命を捧げてきた。
なのに、私だけが生きてしまっていいのだろうか……?
クラウスは皆わかってくれると言うけれど。
本当に国の皆は……お父様はわかってくれるだろうか?
「ねぇ、クラウス」
「はい」
「これからどこへ行くの?」
先ほど彼は国を出ると言っていたけれど。いま一体どこへ向かっているのだろう。
クラウスはもう一度こちらを振り返る。
「不安でしょうが私にお任せください。必ず姫様をお守りしますから」
変わらない、私の大好きな声と笑顔。
けれどやっぱり不安は消えなくて――。
「ねぇ、クラ」
「姫様」
ぴたりとクラウスが足を止めた。
「足元が悪くなってきましたから、手を繋ぎましょうか」
「え?」
目の前に大きな手が差し伸べられて、私は驚く。
クラウスと手を繋ぐなんて、小さな頃以来かもしれない。
「え、えぇ……」
その大きな手におずおずと触れると、思った以上に強く握り返されてどきりと胸が跳ねた。
辺りが暗くて良かった。きっと今私の顔は真っ赤になっているだろうから。
クラウスはそんな私に微笑んで、また歩き始めた。
(あたたかい……)
彼の体温に触れたからだろうか、心に小さな火が灯ったようだった。
ほんの少しだけ、不安が消えた気がした。
……どこだっていい。
クラウスと行けるのなら、どんなに遠い国だろうと構わない。
クラウスと一緒なら、クラウスがこうして傍に居てくれるのなら、私はどこでだって生きていける。
――彼と共に、生きたい。
そう思ってしまった。
それから、彼に手を引かれどれくらい歩いただろう。
自分の足でこんなに歩くのは、もしかしたら初めてかもしれない。
天を見上げると、真っ黒な木々の隙間に満天の星空が見えた。……月は見えない。
そろそろ日付が変わる頃だろうか。
それとも、もう変わっただろうか。
私の誕生日は――。
「姫様」
「え?」
呼ばれて視線を戻すと、クラウスが私を見つめていた。
「もうすぐです。あと少しだけ頑張ってください」
「えぇ。私は大丈夫よ」
「そこで、ルシアン様がお待ちです」
「――え?」
自分の喉から、声にならない音が漏れた。
彼は今、なんと言っただろう。
大好きな声で、大好きな彼の口から出た言葉なのに、私の頭は受け入れなかった。
そんな私に止めを刺すように、クラウスは酷く優しい声音で告げた。
「これからはルシアン様が、姫様を守ってくださいます」
――!!
目の前が赤に染まって、私の意識は急浮上した。
ゆっくりと目を開けると淡くオレンジ色に染まった天井と白いカーテンが見えて、また医務室だとわかった。
と、誰かが私を覗き込んだ。
「レティ? 大丈夫?」
「……アンナ」
「レティ、さっき突然倒れたのよ。覚えてる?」
(そうか、さっきクラウスの話を聞いて――)
頷くと、アンナは気遣うように小さな声で続けた。
「ショックよね、あんなの聞いちゃったら……。今午後の授業が終わったから様子を見に来たの。目が覚めて良かったわ」
「……今ね、また前世の夢を見ていたの」
「え?」
夢の内容を話すと、アンナは口元を手で覆い涙声で言った。
「セラスティア姫、可哀想……」
……あの後、セラスティアはどうしたのだろう。
でも大体想像がついた。
セラスティアが受け入れるはずがない。だからきっと――。
「レティシアさん、目が覚めた?」
そのときカーテンを開けて入ってきたのはソニア先生だった。
先生は少し怒ったような呆れたような顔をしていて。
「だから無理しちゃダメって言ったでしょう。痛みはどう?」
「すみません、もう大丈夫みたいです」
起き上がりながら答える。
随分長いこと眠っていたからか、胃の痛みはすっかりなくなっていた。
「本当に?」
「は、はい」
疑わし気な目つきでもう一度訊かれて私はこくこくと頷く。
すると先生はひとつ息を吐いてから優しく言った。
「なら、今日はもう寮に戻って早く休みなさい。もう無理はしちゃだめよ」
「はい!」
先生にお礼を言って、私はアンナと一緒に医務室を出た。
途端のことだ。
「レティ!」
「レティシア!」
ラウルとリュシアン様から同時に声を掛けられてびっくりする。
廊下でずっと待っていてくれたのだろうか。マルセルさんも一緒だ。
「もう歩いて平気なのかい?」
「もう大丈夫なのかよ」
これもまた同時に訊かれて、私は精一杯の笑顔を作る。
「ありがとう、ございます。もう大丈夫です。すみません、何度もご心配をお掛けして」
「はいはい、レティはこのまま寮に戻って休ませるから、話はまた明日ね」
アンナがそう続けてくれた。
ふたりはまだ何か言いたそうな顔をしていたけれど、私はもう一度すみませんと謝罪してふたりの前を通り過ぎようとした。――と。
「レティ!」
「え?」
振り返るとラウルが怒っていた。いや、酷く強張った顔をしていた。
それを見て、そういえば放課後に大事な話があると言われていたことを思い出す。
明日でも大丈夫かと訊こうとして、それよりも早く、彼は真っ赤に染まった顔で告げた。
「俺、もう他は見ないから。一生お前だけを愛すから。だから、この学園を卒業したら、この俺と結婚して欲しい」




