1プロローグ
鼻先に突き刺さる独特な刺激臭。
獲物の気力を奪うために放出される、コカトリスの特殊な吐息だ。
巨大な怪鳥の濁った眼が、地面にへたり込む私の姿を至近距離で覗き込んでいた。
「あ……はは」
壊れたように、乾いた笑いが漏れた。
無駄だと分かりながら、細かく震える手を動かして、足を動かして距離を離そうとする。
全部、知識としては知っているのに。
田舎から王都へ出てきて、死に物狂いで勉強して、魔物の生態には誰よりも詳しくなったはずだった。
獲物をすぐには襲わない慎重さも、逃さないために見据える真っ直ぐな眼光も。
(本当に、馬鹿だ)
いつもならこんなドジを踏むはずがないのに、どうしてこんなことになってしまったのだろう。
ゆっくりと近づく巨体を前に、覚悟を決め、諦めるように瞼を閉じる。
どうせ無事だったところで、私にはもう──。
「どけっ!納品に間に合わねえだろうが!」
「ひゃああっ!?」
突然背後から轟いた怒声。
同時に、私の小さな身体をすっぽりと覆い隠すほどの巨大な影が差した。
耳に入った意味不明な言葉を理解するより先。
硬直しかけていた身を反射的に捩り、横へ転がるように避ける。
「ハッ!!」
背後から現れた“大男”が、その背丈に匹敵する特大の剣を高く掲げていた。
そして、コカトリスへと一切の躊躇なく剣を振り下ろした。
『ギャッ?!グワアアアアア!!!!』
劈くような悲鳴が上がった。
私の目の前には、巨躯の男が佇んでいた。
怪鳥コカトリスだったものは、首を完全に吹き飛ばされて地面に倒れ伏した。
「ふぅ……間に合ったか?」
その魔物の恐ろしさを知っている私からすれば、あまりにも現実離れした光景だった。
「あ、え……えっとっ、ありがとう……ございます……っ!」
助けてくれたんだ。私が襲われているのを見て、この人は駆けつけてくれたに違いない。
まるでお伽噺の勇者のように───。
「いいから、手伝ってくれないか」
───に?
聞き間違いでなければ、「手伝って」と聞こえた。
きっと「大丈夫かい?」と爽やかな笑顔で手を差し伸べてくれることを想像していた私は、不格好な笑みを浮かべながら硬直してしまった。
「ええと…?」
「その格好、魔工ギルドだろ。ほら、これ貸してやるから、『解体』」
「え…?かっ、解体っ!?解体って…?」
放り投げられた妙に重厚感のある肉切り包丁を、私は慌てて両手で受け取る。
というか…冷静になって気づいたけど…ずっとエプロンを付けてる…?!
包丁の重みに身を引きながら、不相応な緑色のエプロンを見つめていると、男は背を向けたまま手際よくコカトリスに刃を入れ始めた。
「ふう。今から三十分後に、『コカトリスの羽』を納品しなくちゃならねえんだ。全然見つからなくて手間取っちまったが……これで間に合ったか」
男はふっと息をついて、そんなことを語り出した。
……あれあれ、じゃあさっきの「間に合った」っていうのは、コカトリスの素材の『納品』の話だった?!
いや!でも、私は助かったんだ。
例え最悪の現実に引き戻されるとしても、苦しんで死ぬよりも、いくらかはマシかもしれない。
私は重たいに区切り包丁を手に、おずおずと立ち上がった。




