0.1の苦悩
『『やっべバレた!』』
わざとらしく驚く父さんの声が、無線越しに聞こえてきた。
ガチャガチャとしたノイズが耳に響く。
これは恐らく、無線機器と僕を置き去りにして逃げ隠れた音だ。
なんて薄情な大人たちだろうか。
僕はマシンをピットに入れ、停車させる。
そこには既にルイスさんと、彼に連れられたエリックが立っていた。
ルイスさんは僕の手を取りマシンから引っ張り上げてくれる。
「『ナイスラン。…うし。』」
そう一言だけ僕に告げると、ルイスさんは物置の影へと歩み寄っていく。
「『どこへ?』」
「『一応、形式上は叱っておかなければならんからな。』」
後ろ姿に親指を立て、父さんたちが隠れた物置へ。
「『本当に、いい走りだったぞ。凛くん。』」
ルイスさんの声色は、いつもとおんなじ。
とても優しくて、包容力のある声。
一つだけ違うところを挙げるとすれば…。
僕には、どこか浮足立った嬉しそうな声に聞こえた。
昨今の技術革新は凄まじいものがある。
対衝撃、G軽減レーシングスーツ。
ステアリング・ペダル操作はAIによる制御でこれまでにない軽さを実現した。
一般人がX1マシンに乗っても、安全面で言えば全く問題はない。
ただ、速く走れるかどうかは別問題。
電子制御が限りなく少ないレーシングカートは、ただ『速く走る』ことを習得するために最も効果的な乗り物だった。
ルイスが、私やその他の訓練生にカートでのトレーニングを行ったのも、そこが理由となっているはずだ。
…だとしたら。
だとしたら、ポンと乗って私とそう変わらないタイムを出した彼はなんなのよ。
…10年。
私が10年かけて築いてきた、自信。
自分の実力に対する、絶対的な信頼。
それが、ここ数か月で脆く脆く崩れていこうとしている。
まだ、早かったのか?
客観的に見ればよくやっているのかもしれない。
でも、自分の中では全くそんな風には思えない。
彼が去り残ったのは、表示板に99と刻まれたカートが一台。
いつの間にか、私はヘルメットを手に取っていた。
「『許可はとりなさい。断らないから。』」
「「「「『はーい』」」」」
全員が全員、何一つ理解していない顔をしている。
いい大人に、何ゆえ説教をしなければならないのか。
そしていい大人が、何ゆえ説教されているのだか。
物置小屋の中はほこりっぽく、あちこちに工具が転がっている。
その時。
ビリビリとした空気の振動が、小屋の中にまで達した。
小さなエンジンからは想像もできないような轟音。
まだ凛くんは走るつもりなのか…?
…いや、違う。
音から読み取れる情報は、思ったよりも多い。
このスロットルの開け方、回転数の上げ方は…。
「『…エリカ。』」
10年前。
小学生にも満たない幼い女の子が、両親に連れられこのサーキットの門を叩いた。
あの時からその子の眼には闘志が宿っていたように記憶している。
負けず嫌いで、男勝りで。
年上の子たちでも恐れる狂犬だった。
彼女が残したコースレコード。
あれは、彼女が12歳の時に記録したものだった。
裏を返してみれば、12歳以降はコースレコードを更新できていない。
その状況を知って、練習方針に待ったをかけた男がいた。
「『早熟型のドライバーに無理はさせるな。絶対に、だ。』」
いつもとは違うトーンの彼の言葉に、俺は背筋に冷たいものが走る感覚を覚えた。
それからは、無理にでも休憩を入れるように指示を出している。
その男は俺や彼自身に言い聞かせるように。
「『しなければならない、という思考は、自身を破滅へと追いやる。時間はたっぷりあるんだ。裕毅が示すように、な。俺は悪いお手本だよ。』」
彼も偉大なドライバーであることには変わりなかった。
だが、あの子はそんなところなど見向きもせず。
そのさらに上を目指して戦っている。
俺は苦悩した。
せめて、彼女と高め合える親友のような存在があれば。
ふとした時に力を抜いてくれる、仲間がいれば。
そんな仲間は、今のところ現れていない。
かつては俺がそうなろうとしていた。
だがやはり、歳が違い過ぎた。
俺は彼女に理解を示し、彼女も俺を認めてくれている。
俺は一匹狼に本当の名前で呼ぶことを許された、唯一の人間ではある。
しかし。
俺は。
俺では。
彼女の破滅を食い止めることはできない。
そう、考えざるを得ない。
コースレコードから0.1秒遅れの数値が、数えきれないほど羅列している。
あの日の私は、どうやって走っていた?
3年前の私は、どのラインを通っていた?
今となっては、全く分からない。
…体力の限界だ。
一度、ピットに戻ろう。
マシンを停め、シートベルトを外す。
すると、そこで待っていたのは。
「『お疲れ様!精が出るね!』」
結わいていた髪を解き、それを肩の辺りまで垂らした男の子。
私に向かって手を差し伸べる、伏見凛の姿がそこにはあった。




