第七章 皇豪輝 Gouki’s Boot Camp⑤
カランカランカランカラン
鳴子が鳴ったのだ。
これは加藤が仕掛けた物。
理由は侵入者が来訪した際にいち早く察知する為だ。
鳴った位置は山小屋より北西。
静かに絵馬型の木の板が揺れていた。
一瞬何が起こったか理解できなかった豪輝。
それもその筈。
豪輝がここに来てそろそろ半年が経つ。
その間、鳴った事が無かったから。
ただの一度たりとも。
真冬で平均気温が氷点下の極寒な乗鞍岳に出向く者など皆無。
しかも加藤が建てた山小屋の位置は登山コースから大きく離れている。
普段暮らしていて鳴る訳が無いのだ。
その鳴子が鳴った。
もちろん対処方法など加藤から聞いていない。
加藤も聞かれていないから答えていない。
「え……
えと……
こう言う時、どうしたら良いんだろう……?」
未経験な事だから戸惑っている豪輝。
確かに半年もの間、強いられた加藤からの無慈悲なサバイバル生活は確実に豪輝の血肉となり成長はしていた。
知識も加藤の蔵書で大量に蓄え、受動技能の蓄積魔力、スキルの不等価交換を習得。
現時点の豪輝に敵う者はそうそう居ない。
だが、それは同年代の竜河岸と比べての話。
もう少し成長した竜河岸だと話が違って来る。
スキルの熟練度、魔力技術が劣っている訳では無い。
圧倒的に足りないのは経験値。
人との出会いによる経験値が圧倒的に足りてない。
いくら技術が高くとも人との出会いが少ない豪輝は状況状況でどう対処して良いか解らないのだ。
一般的な竜河岸は豪輝の年齢前後で竜儀の式を終え、竜と主従関係を築く。
その後は父親のツテや友人の竜河岸繋がりでその子供の竜河岸と知り合って交友関係を築いていくものだ。
お互い竜儀の式を終えたばかりなら異能を授かったばかり同士の悩みを話し合ったり、少し年上なら先輩後輩の関係となり経験で得た事を聞いて自分の糧としたりする。
もちろんソリが合わないケースもある。
その時はケンカと言う名の力比べを行って成長して行く。
本編の竜司の場合は幼少期に同年代の丙種竜河岸の友達が居たりもした。
共に立派な竜河岸になろうと夢見ていたものである。
が……
残念ながらその友達の竜河岸は竜司とアルビノ(暮葉)が引き起こしたドラゴンエラーにより帰らぬ人となってしまうが。
少し長くなってしまったが現在の豪輝は状況経験、対人経験が乏しい為、戸惑っても無理が無いのだ。
「はっ……
もしかしたら遭難した人かも……」
だが、豪輝は気付いた。
もしかして遭難してしまったのでは無いかと。
■遭難
生命に関わる様な災難に遭う事。
特に山や海などで生命を失う様な危険に遭遇する事を指す。
山で生死に関わる難、危険に遭遇する事を山岳遭難と呼ぶ。
日本の山岳においては道迷い、滑落、転倒、怪我、急激な天候の変化、雪崩などによって毎年多くの遭難者が出ており、死者も多数出ている。
八ヶ岳、白馬岳などの整備した山でも同様。
人気のある北アルプスでは特に多数発生している。
豪輝は考える。
もし滑落などの事故で遭難した人なら緊急事態だ。
早く助けに行かないと。
だが、ここで考えを改める。
滑落や転倒の怪我による遭難だったら鳴子が鳴る訳が無い。
鳴子は仕込み紐を踏むか引っ掛けないと鳴らないから。
と、言う事は動けていると言う事。
ならば道に迷った可能性がある。
どちらにせよ誰かが居ると言う事。
「あ……
そう言えば……」
ここで一つ思い出した事がある。
今まで一度だけ。
たった一度だけ鳴子が鳴った時があった。
その事を加藤に告げると……
「……これは野生動物でござる。
とりたてて何かする必要はござらん」
「何で解るんですか?」
「音の大きさでござる。
これぐらいの鳴りであれば、おそらく体重の軽い物。
従って野生動物となるのでござる」
「なるほど」
こう言ったやり取りがあった事を思い出した。
もしかして野生動物が誤って引っ掛けてしまったのかも知れない。
カランカランカランカラン
さっき鳴った音を思い出してみる。
が、過去に鳴った時の音は思い出せない為、比較にならない。
ええい迷っていてもしょうがない。
気にもなるし向かおう。
誰も居なかったらそれはそれで良しとする。
しかし、ここで更に決定的な問題も想起される。
鳴った鳴子が何処から鳴ったかわからないのだ。
確かに鳴ったのは北西に設置された鳴子。
だが、北西方向に向かって合っているのだろうか?
豪輝は少し考えた。
加藤の今までの行動や言動などを加味した上で考える。
加藤は忍者になりきっている(厨二病)。
忍者と言う者は忍び、隠すもの。
且つ加藤の性格は偏屈。
鳴子を素直に同方向に設置するだろうか?
それは否である。
加藤の事だ。
素直に設置する訳が無い。
何故だと問いただしても……
「同方向に設置するとイザ敵に知られてしまった場合利用されてしまうでござろうが。
このうつけものが」
と、こう言われるのが関の山。
「グルヤ、ちょっと出かける用事が出来た。
ついてきて」
【うん、いーよー】
ダンッッッ!
強く地を蹴って向かう方向は南東。
真逆の方向である。
あの偏屈な加藤の事である。
鳴子を真逆の位置に設置していてもおかしくはないと考えたのだ。
ビュンッッ!
網の目の様に遮る木々の枝の間を駆け抜ける豪輝。
狩りの度に蓄積魔力を使用して移動。
更に加藤との組手の時も使用。
豪輝の受動技能の熟練度は上がっていた。
もうこの辺りで使ってもぶつからなくなっている。
が、何も見当たらない。
大分山小屋から離れた。
それでも誰も居ない。
「間違えたかな……?」
ザザァッ!
豪輝着地。
【豪輝ー、何も無いよー。
何があったの?】
追い付いたグルヤが尋ねて来る。
「多分方向を間違えた……
山小屋に一旦戻ろう」
ダンッッッ!
強く大地を蹴り、豪輝発進。
元来た道をUターン。
【もー何やってんのか全然解んないよー】
ぼやきながら後を追うグルヤ。
すぐに山小屋に辿り着く。
山小屋付近は静まり返っていた。
鳴子はピクリとも動いていない。
いつも通りの風景。
まるでさっき鳴ったのが嘘の様。
たださっき鳴ったのは確か。
鳴ったのであれば何かが踏むか引っ掛けたのは間違いない。
このまま放っておいても良いのかも知れないが、それは出来ない。
もし道に迷った遭難者なら救助しないといけない。
南東の方角には誰も居なかった。
「ちょっと考え過ぎてたかな……?
グルヤ、行くよ」
ダンッッ!
豪輝は方向を定め、再び発進。
大地を強く蹴る。
今度向かう方向は北西。
鳴子が鳴った方角。
自分の考えを改めたのだ。
素直に鳴子が鳴った方角へ向かった。
だが誰も見当たらない。
ビュンッッ!
白と茶色、緑の混在色が超速で後ろに流れる。
まだ何も見当たらない。
移動しながら、魔力を両眼に集中。
視力を強化する為だ。
遭難者は救助するのに時間がかかるとそれだけ生命に危険が及ぶ。
三月になり、少しは温かくなったとは言え、まだまだ寒い乗鞍岳。
早く見つけないと。
気が早った為に出た行動。
見逃す訳にはいかない。
生い茂る木々の枝の間を駆け抜け、目を皿の様にしてくまなく辺りを散策。
「ん……?」
誰か倒れている。
居た。
早く助けないと。
ズザッ
豪輝着地。
ダダッ
【あれ?
誰か倒れてるよ?】
追い付いて来たグルヤ。
その人はうつ伏せで倒れていた。
服装は紺のオーバーにカーキー色で厚手のズボンを履いている。
場所は国道158号線付近。
何故こんな所に倒れているのだろう?
完全に登山ルートから外れている。
しかも荷物は軽装。
リュック等も背負っていない。
おかしい。
明らかに奇妙。
だがその人物は動かない。
「大丈夫ですかっっ!?」
目先の危機に気持ちを奪われた豪輝。
感じた異質感は何処かに霧散し、救助する方を優先させた。
グアッ
勢い良くその人を抱き起こす豪輝。
その人は男性だった。
中年男性。
生え際にソリコミ痕があり、黒くて太い眉に両頬がゴツゴツとしている。
ドキッ
少し驚く豪輝。
遭難者の風体に迫力があったからだ。
「ミ……
水…………
ク……
食い物……」
震えながらポツリポツリと遭難者の口から言葉が漏れる。
この男は喉の渇きと空腹で倒れてしまったらしい。
加えてこの寒さだ。
しまった。
豪輝は今食糧と水を持ってきていない。
山小屋に戻らないと。
「グルヤッ!
この人を載せてっっ!」
【この人、ペラペラだよ?
大丈夫なの?】
ペラペラの意味は良く解らないが、今は緊急事態。
そんな事に構っている暇は無い。
「大丈夫じゃ無いから急いで欲しいんだっっ!」
【うん。
じゃー載せてー】
蓄積魔力の魔力を両腕に集中させた豪輝。
軽々と遭難者を持ち上げ、グルヤの背に乗せた。
「山小屋に戻るぞっ!」
【うんっ!】
バンッッ!
ダダッッ!
豪輝は地を強く蹴る。
グルヤも後を追う様に駆け出す。
目的地は加藤の塒。
師匠は居ないけど、緊急事態だし許してくれるだろう。
そんな甘い事を考えていた豪輝。
この遭難者こそ近畿、中国でスナックママを殺害した痛ましい事件。
スナックママ連続殺人事件の犯人である酉冊正勝その人だった。
この男は京都で四番目の殺人を犯した後、北東方向に逃走。
翌日、全国に特別指名手配。
逃亡生活を送る事になる。
京都から滋賀県に渡り、滋賀から福井県、石川県、富山県と各県を三ヶ月もの間逃亡を続ける。
滞在する先は過疎が進んでいる様な人口が少ない町。
人が少ない町を選んでいるのは強盗に適しているから。
過疎地と言う場所は得てして老人が多い。
抵抗される危険も少なく比較的潜伏しやすいと考えたからだ。
まずは滋賀県の朽木村に向かった酉冊。
狙ったのは人里離れて山に建つ大きな屋敷。
ここはシイタケ農家で老夫婦が暮らしていた。
そこをターゲットとした。
呼び鈴を鳴らし、出て来た老婆にすかさず口づけを敢行。
突然の出来事に戸惑い、酉冊を突き放そうとするも非力な力。
とても引き剥がせない。
強い力で顔を離そうとしない酉冊。
その時間、約一分。
ようやく口を離した酉冊。
離れたと同時に力無く玄関先に倒れ込む老婆。
身体をピクピクと痙攣しながら物を言わない。
これは酉冊のスキル、吐毒である。
スキルを発動すると吐く息が強力な神経ガスに変化する。
キスする時間はおよそ30秒から1分。
毒が回ると5分程で呼吸筋麻痺による窒息死を引き起こす。
極めて殺傷能力が高い危険なスキルだが、欠点がある。
その神経ガスは外気に混じると途端にその毒性は失われ、無毒化してしまう。
従ってキスをしないと被毒させられないのだ。
これが老婆にキスをした理由。
老婆にキスをするなんて生理的に気持ち悪いと考える方もおられるかも知れないが、酉冊がするキスと言う物は世間一般で考えられるキスとは次元が違う。
酉冊がするキスは殺意の塊。
殺意しかない。
有無を言わさず吐毒を喰らわせたのは…………
殺すつもりだったから。
無慈悲に。
一片の容赦すらかけず。
躊躇も無く。
殺すつもりだったのだ。
老婆が倒れたのを確認した酉冊は物陰に隠れる。
遅いと心配した老人が居間から顔を出した。
すると倒れている妻が目に映る。
何事かと駆け寄った所を再び吐毒。
前述の通り、酉冊にとってキスは殺人の為。
相手が老人だろうと男だろうと関係が無い。
駆け寄って来た老人男性に1分程キスを仕掛ける。
老婆と同様に力無く倒れた。
ピクッピクッと玄関で倒れ込み痙攣している老夫婦。
そんな二人を気にせず家に上がり込む。
季節は1月。
外は寒波が吹き荒び、肌を刺す様な冷たさを感じていた。
が、家の中は暖房が効いていて暖かい。
そう、酉冊の目的はこの農家の占拠。
占有である。
台所には食料もある。
しばらく潜伏しようと考えていた。
滞在期間は一週間。
一週間もの間、居座っていた酉冊とゴルドフ。
もちろん玄関に倒れた老夫婦はそのまま。
既に二人共、呼吸筋麻痺により窒息死していた。
だが酉冊は全くもって気にしない。
トイレに行く度に目端に映る2人の死体。
生命の欠片も感じない。
まるで人形の様に死んだままの体勢で倒れているにも関わらず。
酉冊の心には波一つ立たない。
死体が側にある環境で自分は食べ物を口にし、命を繋いでいたのだ。
異常。
異質。
常軌を逸している。
これが殺人犯の心境。
その心は既に黒く重く深く歪んでいた。
正常な人間からすると理解できない程、歪みに歪みきっていた。
ならば、何故一週間で出て行ったのか?
それはニュースで自分が全国特別指名手配になっている事を見たからだ。
もちろん顔も公開されている。
加えてこの老夫婦の家。
現金は発見できなかったのだ。
発見できたのは通帳と金庫のみ。
もちろん暗証番号を解読する様な頭は持ち合わせていない。
更に玄関に置き去りにされていた老夫婦の死体から異臭が漂い始めていた。
それらの理由から潜伏先を変える事を決めたのだ。
外が寒い事は解っている。
屋敷にあった防寒着を着込む酉冊。
老人男性のものだ。
紺のオーバーと厚手のカーキー色ズボン。
豪輝が発見した時に来ていた防寒着はこの屋敷から強奪した物だった。
腹いっぱい食事をした後、防寒着に着替え潜伏先を変える為、外に出る酉冊とゴルドフ。
出て行く際に腐乱臭が漂う老夫婦の死体をいとも容易く踏み付けながら。
一瞥もせずその場を去った。
死者への冒涜以外の何物でも無い。
ゴルドフに跨った酉冊は朽木村から北へ逃走。
向かった先は福井県。
辿り着いた先は足羽郡美山町。
過疎が進んでいる土地である。
ここを次の潜伏先に決めた酉冊。
次にターゲットにしたのは二階建ての一軒家。
ガレージには車が止まり、補助輪がついた子供用自転車も止まっている。
地方に転勤になった一家と言った所。
この家を選んだ理由は隣の家からかなり離れていたから。
間は見晴らしのいい畑が広がっていた。
季節柄農業は行っていない。
潜伏するには好都合と言う訳である。
物陰から住人の動きを確認。
朝早く車に乗って主人が出かけて行った。
その後、母親と一緒に子供が出て来た。
幼稚園に向かうのだろうか。
笑顔で手を振る母親と子供。
二人共笑っている。
幸せな家庭だったのだろう。
この幸せが無惨にも粉々に打ち砕かれようとはこの時、二人は考えもしなかった。
母親が子供を送った後、犯行開始。
裏側に忍び寄った酉冊は中を確認。
部屋に明かりがついていない。
誰も居ない事を確認した酉冊は滋賀の農家屋敷から持ってきたガムテープをガラス窓の鍵付近に幾重も張り付ける。
割った時の音を抑える為だ。
何枚も貼った後、懐から出したナタの柄で一撃。
ガシャ
小さな破砕音が響く。
出来た穴に手を差し入れ、ゆっくり鍵を回す。
空いたガラス戸。
ゆっくりと。
静かに。
侵入する悪魔二人。
遠くから小さく掃除機の音が聞こえる。
母親が掃除中なのだろう。
侵入した部屋で掃除が終わるまで静かに待つ酉冊。
やがて音が止んだ。
静かになった所で置いてあったテーブルに思い切りナタの柄を叩き付けた。
ガンッッ!
大きな衝撃音が鳴る。
家の中に響く音。
母親をおびき出す為だ。
音を鳴らした後は襖の影に身を潜めた酉冊。
何の音かとやってきた母親が目にしたのは…………
竜。
くすんだ黄赤の鱗を持つ竜。
何故?
何でこんな所に竜が?
そこに居たゴルドフの姿に戸惑う母親。
網膜に映る光景が信じられない様子。
それもそのはず。
母親は竜をあまり見た事が無かったから。
福井県も奈良県に並ぶほど竜河岸分布が少ない県だった。
竜がこの世で共存している事は知っている。
TVや街に出かけた時に見た事あるが全然生活に根付いていない状況だったのだ。
酉冊は戸惑った隙をつき、キスを敢行。
スキルをかける為だ。
戸惑っている所に強烈な力で抱き寄せられ唇を重ねられた。
逆らおうにも逆らえるものでは無い。
息苦しさに酉冊の胸を叩き、振り解こうとするが…………
無駄。
だんだん毒が回り、抵抗する力が弱まって行く。
まるで命の灯が消えかかる様に。
45秒後
瞳孔が収縮。
全身が痙攣。
毒が完全に回り切った証。
口を離すと床に倒れ伏す母親。
【マーサよう、次の塒はここか?
狭い所だな】
瀕死状態の母親の事は全く気に掛けず、家の大きさに関して愚痴を零すゴルドフ。
ちなみにマーサと言うのは酉冊の事。
酉冊正勝でマーサである。
このゴルドフの言葉に対して無言の酉冊。
竜を使役する様になったのは去年の秋。
まだゴルドフとの距離感を掴みかねているのだ。
緊急時は指示を出したりはするが、普段はあまり話さない。
そんな酉冊に何故ゴルドフが付き従っているのか?
それは面白いから。
酉冊の我欲のままに同種を殺しているのが面白くてしょうがないのだ。
B.G出身の竜は得てして危険な性格。
こいつこのまま殺しまくって一体どうなるのだろう?
最終的な興味はここ。
酉冊が人を殺しまくって最終的にどうなるのか見てみたいのだ。
これがゴルドフが付いて来ている理由。
下劣で醜悪で悪辣な興味。
邪竜に分類される訳である。
【…………ケッ……
相変わらずしゃべらねー奴だぜ】
とりあえず酉冊が今、解消したいのは空腹と眠気。
滋賀県から福井県までゴルドフに跨って移動。
かなり道に迷い、迷走した上で美山町に辿り着いた。
人通りの多い街にはなかなか出向けない。
TVで顔写真を公開され、全国特別指名手配されているからだ。
農家屋敷で見た時はまだ竜河岸であると言う事は報道されていなかった。
しかし慎重な酉冊。
出来るだけ人里は避け、山間を進んで逃走していた。
喉の渇きは畑の水道で潤し、空腹は畑から大根を勝手に掘り起こし貪り食っていた。
だがその大根は伊吹大根と言う種。
■伊吹大根
滋賀県坂田郡伊吹町の伝統野菜。
葉と首が赤紫色を帯び、根は太短く丸みを持ち先端はネズミの尾の様に細長い事からねずみ大根とも呼ばれる。
伊吹大根の特徴は普通の青首大根の二倍と言われる辛みの強さである。
かじった途端口内を強烈な辛さが襲う。
何の味付けも無い、生の大根。
それも辛さが二倍の伊吹大根。
飲み込むのが苦痛。
しかし空腹には勝てず頑張って飲み込む。
何とか腹の虫が治まるまで飲み込めたが、代わりに心中で膨れたのは猛烈な不快感。
圧倒的な不快感である。
そして農家屋敷から移動後、眠っていない。
眠った時に見つかる可能性を危惧してだ。
これらがこの家を占拠しようとした理由。
占有して腹を満たし、眠りにつきたいのだ。
母親の瀕死の重体に追い込んだ後は痙攣して横たわる身体を跨ぎ、台所へ向かう。
冷蔵庫を開け、食べれそうなものを片端から貪り始める。
酉冊が食欲のままに貪り食っている間に…………
倒れていた母親は息絶えた。
だがそんな事は全く気にせず貪る酉冊。
ひとしきり食べ終え、満腹になる。
その後は家を物色。
金目の物を探す為だ。
現金は10万。
あと母親の貴金属がいくつか見つかった。
それを懐に突っ込む酉冊。
更に何か武器になる様なものが無いか家探しを続行。
だが特に目ぼしいものは見つからなかった。
現在、獲物は農家から持ってきた鉈のみ。
ここからは少し割愛させて頂く。
書くのも憚られる。
反吐が出る様な惨状だからだ。
結果だけ話すとこの家の人間は皆殺し。
主人、子供も酉冊によって殺害された。
そのまま家に居座る事、一週間。
また塒を変える羽目になる。
朝のニュースでスナックママ連続殺人事件の続報が放映されていたから。
追加情報として自分が竜を連れている事。
滋賀の老夫婦殺害も余罪として報道。
さらに福井方面に逃走した事も。
逃走経路が完全にバレていたのだ。
だが、福井と言っても広い。
この美山町に潜んでいるとまでは解らないだろうと思っていた。
が…………
ピンポーーンッッ!
ピンポーンッッ!
けたたましく呼び鈴が鳴る。
「○□さーーんっ!
居るんですかーーっ!?
○□さーーんっ!?」
続けて若い男性の声が聞こえる。
○□さんとは今、酉冊の足下で転がっているほのかに腐乱臭を放ちつつある死体。
かつてこの家の主人だった男性の事。
「ゴルドフッ
移動するぞッ!」
ここで観念した酉冊。
この場を離れるのだ。
【ヒャハッ
おもしれぇ。
また逃げんのかよ。
声上げてる奴、殺しゃあいいんじゃねえか?】
「そんな事をすれば更に面倒になるだろ。
いいからとっとと行くぞ」
【わかったよ】
ガシャーーンッッ!
大きな破砕音。
ゴルドフに跨った酉冊が裏手のガラス戸をぶち破り、外へ飛び出したのだ。
そのままさらに北へ逃走。
石川県珠洲市、富山県朝日町と日本海沿岸を転々としながら二ヶ月もの間、逃亡生活を続けた。
いつしか金品強盗を止めた酉冊。
金を得ても使えないからだ。
石川県の過疎地にある古びた平屋。
そこには老人が一人で暮らしていた。
老人を吐毒で殺害し、家を占拠。
その家にあった古いTVでは連日、酉冊の事が報道されていた。
過疎地である為、人通りは皆無だったが外出する事が出来ない。
酉冊は怯えていた。
再逮捕に怯えていた。
酉冊は法律等に詳しくない。
が、スナックママ4人に加え、石川県に来るまで殺害した人数は二桁に及ぶ。
今度逮捕されたら死刑は免れない。
それぐらいは解っている。
だから怯えていた。
怯えて外に出られなかった。
従って外には極力出ない。
食糧は占拠した家屋にあるもので賄う。
食べる物が無くなれば、別の家屋に移る。
その度、屍を築きながら。
こんな逃亡生活をずっと続けられる訳が無い。
二月末
酉冊は富山県朝日町に潜伏していた。
そこでニュースを見ていたらついに富山県朝日町に潜伏しているのが報道された。
現在酉冊が居る場所である。
逃走経路の足取りも全てバレていた。
滋賀の朽木村から福井の美山町。
石川県の珠洲市。
更に細かい逃走経路まで全て明るみになっていた。
そしてついにリアルタイムで潜伏している場所まで報道されてしまった。
これが酉冊が山に逃げ込んだ理由である。
報道を見て、自分の再逮捕が現実味を帯びて来たのだ。
身の毛がよだった酉冊は山に潜伏する事を決断する。
今居る位置から南下。
白馬岳に入山する。
そのまま立山、飛騨山脈、穂高岳と山を越え、ついに持参した食糧や飲料水も底を尽き、豪輝が暮らしている乗鞍岳に侵入。
加藤が仕掛けた紐に引っかかった段階で力尽き、倒れたと言う訳である。
先程挙げた白馬岳や立山、飛騨山脈等は有名で整備されている山々である。
ホテルや温泉、ヒュッテや山小屋なども点在している。
何故そう言った場所を襲い、食糧や飲料水を補給しなかったのか?
原因はいくつかある。
まずは季節。
二月の冬。
山小屋などは閉鎖されていた。
温泉旅館やホテルなどは人数が多過ぎる。
一人でも逃がし、通報されたらその段階でアウト。
だが、酉冊は吐毒と言う殺人スキルを扱える。
ならば何とかなるのでは?
と、思われるかも知れない。
だが、否。
現在、酉冊はスキルを扱えない。
使用不能になった訳では無い。
怖くて使えないのだ。
恐怖を感じたのは報道が原因。
連日ニュースで放送されていた内容は警察発表が主となっている。
酉冊の逃走経路も完全に把握されていた。
長期潜伏した箇所から一日二日の短期潜伏まで全て詳らかに報道されていた。
この吐毒にはこと殺人に関して大きなメリットがある。
吐毒で殺害すると証拠が出ないのだ。
神経ガスによる呼吸筋麻痺で窒息死。
血痕が付く訳でも無い。
指紋なども見つかる訳では無い。
死因も検死しなければ判明しない。
これが異能で殺害すると言う事。
だから妙だと思った酉冊。
ここまで何故逃走経路がバレているのかと。
そこである事に気付いたのだ。
報道された場所は全て吐毒を発動した所。
どう言う訳か知らないが報道されている地点は全て吐毒を使用した場所だった。
これがスキルを使用出来ない理由。
ここで使ってしまえば居場所がバレてしまう。
となると再逮捕確定。
死刑コース確定。
怖くて使えない。
一緒に山へ入ったゴルドフは何を考えていたのか?
それは興味が別に移っていたのだ。
入山前から顔が真っ青に青ざめていた酉冊。
その表情の変化に興味が湧いたのだ。
【おいマーサ。
何でオメー同種を殺さねぇんだよ。
いつもみたいに口を付けて殺せよ。
殺して奪えよ】
「そんな事出来る訳無いだろうぅっっ!!
どう言う訳か吐毒を使うと警察に居場所がバレるぅっ!
嫌だぁっ!
捕まるのは嫌だァッ!
次に捕まったら俺は死刑…………
死刑確定だ…………
嫌だ……
死ぬのは嫌だァッ!!」
ガタガタ怯えながら叫ぶ酉冊。
周囲に二人だけしかいない山中で響く叫び。
酷く狼狽している。
その狼狽えぶりに興味が湧いたゴルドフ。
自分自身は同種を何人も殺しておいていざ自分に死の危険が忍び寄るとガタガタ震えている。
何て身勝手で浅ましく、醜い下種な生き物だろうと興味が湧いたのだ。
ゴルドフは酉冊に対して情など無い。
ただルールと興味に従って付いているだけだ。
生きようが死のうが全く気にしない。
逆にこのまま進んで最終的にどんな惨めな死に方をするのか楽しみですらある。
だから不平を述べず付いて来ている。
これが邪竜と竜河岸の関係。
そして現在に至る。
何故、酉冊が倒れている場所にゴルドフが居なかったのか?
それは川に水を汲みに行ったからだ。
もちろん酉冊に飲ませる為である。
前述の通りゴルドフには酉冊に対して情など無い。
ならば何故助ける様な行為をしているのか?
それは面白くないから。
このまま誰にも見られず野垂れ死にされると面白くも何ともない。
ゴルドフは酉冊が同種に軽蔑の眼で晒され、惨めに哀れに情けなく殺されるのを期待していた。
こんなゲスが死ぬ時、一体どう言う表情をするのだろうと。
こうしてゴルドフが酉冊の側を離れた時に豪輝が訪れたと言う訳である。
ここで何故、酉冊の逃走経路がバレたのか語っておこう。
それはある竜河岸警官が捜査に加わったからである。
警官のスキルにより判明したのだ。
この竜河岸警官。
名を茨田銀司と言う。
使役している竜は陸竜。
くすんだ黄緑色の鱗を持つ。
名をジーパンと言う。
竜河岸警官が使役する竜は太陽にわめけと言うドラマのキャストが呼ばれるあだ名に改名する通例がある。
それに従いグルヤもボギーと名を改める事になる。
だがこれはあくまでも通例。
本編の2017年では特殊交通警ら隊の隊員のみに与えられる称号の様な形の改名となっている。
だが静岡の双截龍こと滝龍一、龍二両名の使役する竜の名はマカロニとスコッチ。
共に太陽にわめけで登場する愛称である。
静岡県警に勤めているのに何故なのか?
これは簡単。
二人共、所属としては公安五課の特殊交通警ら隊となるのだ。
迅速な対応をする為に静岡県警本部に常駐している。
竜司に名乗った時、自己紹介を常駐している部署で行ったのは自身の所属部署に関しては非公開だからである。
響が暮葉の護衛で訪れた際に特殊交通警ら隊の名を出したのは護衛対象だから。
それにしても何故、竜の改名が称号の様な恭しい扱いになっているのか?
単純に数が足りないのだ。
太陽にわめけキャストであだ名がついている者はボス、ヤマさん、ゴリさんを除いて21名しかいない。
2017年で竜河岸警官の数は全国で150名ほど勤務についている。
従ってこう言う扱いになっているのだ。
特殊交通警ら隊以外の竜河岸警官は竜の改名は行わず竜儀の式以降呼んでいる名を使っている。
そもそも警官になった竜河岸の使役している竜の名を改名する様になったのは茨田銀司が始めた事なのだ。
動機は何て事は無い。
銀司がジーパンを演じる名優、松田優作のファンだっただけである。
この銀司のスキル。
酉冊の逃走経路を完全に解明したそのスキルは一体どう言う物か?
名を辿臭と言う。
このスキルは魔力を使用した場所を特定出来るのだ。
■辿臭
銀司のスキル。
魔力を使用した場所を特定する事が出来る。
銀司は特定する時、鼻をスンスンと鳴らし匂いで特定する。
匂いの種類で竜河岸が使ったのか竜が使ったのか判別可能。
更に特定した箇所からどの方向に匂いが伸びているかも解る。
匂いが強く残っていると竜河岸、竜の人相も脳裏に強くビジョンとして想起もされる。
欠点は魔力を使用しないと匂いが発生しないのと辿る距離も限度があると言う点。
匂いを辿れるのは約50キロが限度。
滋賀県朽木村で老夫婦の変死体が発見される。
検死の結果、神経ガスの様なもので殺された事が判明。
現場には全く薬物反応が出なかったのにも関わらず。
捜査をしていた刑事が全く証拠が出ない事を不審に思い、竜河岸警官である茨田銀司に白羽の矢が立ったのだ。
吐毒と言うスキルで殺害すると証拠が全く出ない。
そこが裏目になった形。
現着した銀司がスキルを使用し、浮かんだ顔は見慣れた顔。
最近、全国特別指名手配されている顔だった。
それが判明した段階で全国の刑事に打診。
刑務所から出所した直後の酉冊の足取りも追われ、身を寄せていた岡山のヤクザ事務所まで容易に辿り着く。
そこの組長に事情聴取を敢行。
みるみるうちに酉冊が遅れた第一世代である事が判明。
そして警察発表で酉冊が竜河岸である事が発表される。
銀司は辿臭で匂いを辿り、途切れた所から周囲の町で行方不明や変死体事件が無いか調べる様、各署に通告。
報告があると現場に出向き、更にスキル発動。
魔力臭がすれば、使用したのが誰か特定し更に匂いを追う。
これが酉冊の逃走経路が割れた理由である。
現在、銀司は朝日町にてスキルを発動。
白馬岳方向に南下している所まで判明している。
何故数日前の警察発表で富山県朝日町に潜伏していると報道したのか?
これは変死体が発見される箇所の間隔が狭まって来たからだ。
最後に辿臭で感知した匂いは朝日町まで続いていた。
先んじて潜伏先と思しき箇所を報道し、周囲の住民に警戒を促す為である。
だが、ここで一つ誤算が産まれる。
匂いは白馬岳に入り、立山に侵入した段階で途切れてしまったのだ。
更にそこから変死体が見つかる報告はパッタリ途絶えてしまう。
それもそのはず。
酉冊は吐毒を使用するとバレる事に気付いてしまったので入山後、スキルは全く使用していないからだ。
更にもう一つ誤算がある。
酉冊は彷徨う様に山々を逃げ回っていた。
つまりルートとしては真っすぐでは無くジグザグ。
迷走する様に逃走していた。
これが思わぬメリットを産み出す。
辿臭の辿れる距離は50キロが限度。
ジグザグに逃げた為距離を稼ぎ、何処に向かってるか判別し辛くなってしまったのだ。
茨田側の捜査は一旦ここまでで停滞。
周囲の捜索に切り替わった。
だがそんな事を知らない酉冊であった。
ザザァッ
超速で空を滑空していた豪輝が着地。
山小屋に到着したのだ。
そのまま中に飛び込む。
「ええと……
確か師匠は長い棒みたいなのを使って……」
豪輝が探しているのはチャッカマン。
火を起こして室内温度を上げようと考えていたのだ。
が、まだ一度も火起こしは行った事が無い豪輝。
ドキドキしながら棚を探す。
あった。
白い取っ手部分に拳銃の引き金の様なスイッチ。
そこから細く四角く伸びた黒い火点口。
これだ間違いない。
「……あと新聞と……
薪だっけ……」
一生懸命、加藤の所作を思い出す豪輝。
新聞を捻って火をつけて囲炉裏の中央に放り込む。
火が付いた新聞紙の上に細い薪を折って上に重ねていた。
火が大きくなった所に普通の薪を置いていた。
加藤の所作通りにやってみる。
ボボウ……
パチパチ……
やった、火が点いた。
よし、あとは遭難者を運び込むだけだ。
踵を返し、すぐさま外へ出た豪輝。
「グルヤッッ!
早くっっ!
その人を中に入れてっっ!」
遭難者が酉冊正勝と言う殺人犯とは知らずに。
山小屋に運び入れてしまったのだ。
バタン
山小屋の扉が閉められる。
それはまるで現世と地獄の境が閉じられたかの如く。
だが、豪輝はそんな事を知りもしない。
扉を閉めたのは外気に触れて室内温度を下げない為だ。
救助している人間がまさか10人以上の人間をスキルや刃物で殺害した犯罪者だとは知る由も無かった。
現在、酉冊は気を失っている。
空腹と喉の渇きで体力が低下している所に外気で体温が下がった為だ。
酉冊を運び込んだ豪輝は囲炉裏の近くに寝かせ自分の使っている布団を被せた。
医療知識や緊急事態時の知識が無い豪輝はとりあえず身体を暖める事を優先させた。
寝かせる時に触った酉冊の身体が氷のように冷たかったから。
とにかく自分の出来る事は室内を暖かく保ち、目覚める事を祈るだけだった。
45分後
ムク
静かに身体を起こす酉冊。
その様を見た豪輝は晴れやかな笑顔になる。
「良かったっ
目覚めたんですねっ?」
グツグツ
燃え盛る囲炉裏の火の上には鉄鍋が置かれており、中で山菜やジビエ肉。
米が煮込まれていた。
ご存じ山賊雑炊である。
「こ……
これ……
僕が作った雑炊ですけど如何ですか?
温まりますよ」
器に盛られた雑炊。
暖かそうな湯気を大量に登らせている。
ゆっくり。
ゆっくりと布団の中から手を伸ばし、器を受け取る酉冊。
匙で雑炊を掬い、一口。
ガツガツガツガツ
途端に雑炊を貪り食い始める。
美味かったのだろう。
「ゴホッッ…………!
ゲホッゲホッ!
ゴホッ!」
激しく咽る酉冊。
「あぁっ!
すいませんっっ!
お水が先でしたねっ!
…………不等価交換」
ブンッッ
豪輝の手に持たれていた木の器が瞬時にガラスのコップに成り代わる。
これは真っ当に不等価交換を使った結果。
まずガラスのコップをイメージし、木の器を分解。
再構成。
材質は珪砂。
ガラスの主成分である。
これは加藤の蔵書から得た知識。
現れたガラスのコップはどこからどう見てもガラスのコップだった。
汚れ一つ付いていない。
コポコポ
コップに水を注ぎ、酉冊へ差し出す。
唖然とその様子を見つめていた酉冊。
目を丸くしている。
貪っていた雑炊の匙も止まっている。
無理も無い。
酉冊は他の竜河岸に会った事が無いのだ。
他人のスキルを見たのはこれが初めてだから。
異能と言うと自身の吐毒しか知らないのだ。
「わぁっっ!!?」
ガタンッッ!
急に声を上げながら、後ろへたじろぐ酉冊。
驚いたからだ。
何に驚いたのか?
それは豪輝の後で丸まりながら百科事典を読んでいるグルヤを認識したからだ。
山小屋の中は薄暗い。
生活に電気を使わない為、照明が無い。
灯りと言えば囲炉裏の火だけなのだ。
起きた直後は気付かなかった。
ここに食べ物を与えられ、多少栄養が身体に巡った事で頭が回り始めたのだ。
頭が回り始め、視野が広がり、目に映ったのは黄金色の鱗を持つ竜。
驚いて当然である。
【うるさいなあ、ジッテンが読めないじゃないかー】
突然の音に読書の邪魔をされたグルヤがブー垂れている。
ちなみにジッテンとは百科事典の事。
後日談としてグルヤは一冊一冊が物凄く分厚い百科事典全45冊。
全て読了してしまう。
得た知識はほとんど抜けているが。
「ごめんごめんグルヤ。
驚かせてしまいましたか?
僕は竜河岸です。
後ろの竜は僕が使役している竜で、器をコップに変えたのは僕のスキル。
ちゃんとしたコップなので心配ないですよ」
ペラペラと饒舌に自分の事を話す豪輝。
スキルの事まで話して一般人が理解できるのか?
※この段階では酉冊が竜河岸だと知らない為
と、お思いの方もおられるかも知れない。
確かにスキルの話はしなくても良い事。
ならば何故豪輝は話したのか?
それは聞いて欲しかったからである。
竜儀の式以降、魔力を体内に蓄積できない体質の為に落ちこぼれかけていた豪輝。
竜河岸で良かったと思った事は一度も無い。
逆に竜を連れている事で一般人から腫れ物に触れる様な扱いを受けていた。
そんな豪輝が受動技能を身につけ、そのお陰で賜ったスキルも使える様になった。
この事を誰かに言いたかったのだ。
何せ豪輝のスキルの事を知っているのは師匠とフォエニャとグルヤの三人のみなのだから。
有体に言うと自慢したかったのだ。
こう言う所は年相応である。
ガッ
ゴッゴッゴッ
コップをひったくり、一息に飲み干す酉冊。
荒々しく鳴る喉の音。
水を飲んだ後、雑炊を食べ始めた。
読者の方々はお気づきだろうか?
まだ酉冊と豪輝は一言も言葉を交わしていない事を。
ガツガツガツ
汚らしく雑炊を貪る音だけが響く。
だんだん無言なのがキツくなって来た豪輝。
室内温度も充分。
忙しなく動いている酉冊の腕も問題なさそうだ。
「あ…………
あの…………?
貴方は何故あんな所で倒れていたんですか?」
意を決して問いかけてみる豪輝。
ガツガツガツ
無言で雑炊を食べ続ける酉冊。
やがて匙の動きが止まる。
「…………………………俺以外に……
……誰か居なかったか?」
ようやく口を開いた酉冊。
これは会話では無い。
何故なら豪輝の問いかけに対する返答では無いからだ。
意志の疎通が出来ていない。
“質問に質問で返す”
コミュニケーションの中でも下手と言われる手法。
その理由として……
1、人の話を聞いていない。
2、会話する気が無い。
3、無礼。
等が挙げられる。
会話と言う物はお互いが話そうと言う統一した意志を持って初めて成立するものである。
従って豪輝の質問に対して何ら関係無い質問で返したこのやり取りは会話では無い。
ちなみに質問を質問で返す人の心理としては……
1、会話の主導権を握りたい。
2、質問内容に対する怒りの表現。
3、嘘を付く為や不都合な事実を隠し通す為。
等が挙げられる。
おそらく酉冊の心理は3。
考えて見れば当然である。
人を殺して捕まりたくないから逃げている等と誰が言えようか。
「…………………………い……
いえ……
貴方以外は誰も……」
ガツガツガツ
しばらくするとまた無言で雑炊を食べ始める酉冊。
普通は遭難し、死にかけていた所を救助されたのであればお礼を述べるものである。
暖かい部屋を用意され、出来立ての食べ物と水まで振舞われ命を救われたのにも関わらず、ありがとうの一言も無いのだ。
酉冊の心境としては豪輝との会話などどうでも良かった。
とにかく現状を把握したい。
その事しか頭に無かったのだ。
ゴルドフが見当たらない。
一刻も早く見つけ出し、合流したい。
その事をずっと考えていた。
この少年は竜と二人で暮らしているのだろうか?
山小屋の広さは二人で暮らすには大きい。
誰か他に居るのだろうか?
まあそんな事はどうでもいい。
とりあえずこの山小屋は隠れるのに都合が良さそうだ。
しばらくここに居てほとぼりが冷めるのを待つとするか。
これが目覚めた後の酉冊の思惑。
何と傲慢で傲岸で驕慢な考え方なのだろうか。
酉冊の頭には助けて貰った恩義や感謝。
礼儀の心など微塵も無かった。
欠片すら。
そもそも一体どうやって山小屋に居座ろう言うのだろうか?
その答えは簡単。
酉冊は豪輝を殺すつもりなのだ。
殺して占有するつもりなのだ。
これが殺人を幾重も犯した人間の心境。
いとも容易く簡単に産まれる殺意。
既に酉冊の倫理や罪悪感は完全に機能していない。
麻痺状態。
普通の人間であれば、殺意を抱くまで時間がかかる物。
相手との距離や上下関係。
その他色々な要因が折り重なって初めて生まれる。
言葉では“殺す”や“殺すぞ”等と罵る状況はあれども本気の殺意と言う物はそうそう産まれるものでは無い。
それは各々が抱く倫理観や罪悪感。
命を奪う事の重大さから産まれる恐怖などが阻害するからだ。
なかなか一線を踏み越える事が出来ないものである。
だが……
稀にいるのだ。
その一線を躊躇いも無く跨いでくる人間が。
酉冊も初めからそうだった訳では無い。
悲惨な家庭環境やそこから今までの成長過程でこうなってしまった。
竜に関してはあまり気にしていなかった。
竜は人間に対して干渉はしない。
それが酉冊の認識だったからだ。
酉冊が触れ合った事のある竜はゴルドフのみ。
従って竜の認識はあくまでもゴルドフの振る舞いが例となっている。
だから例え豪輝が殺される様な事になっても傍観しているだけと思っていた。
だがそれは誤り。
グルヤは豪輝の事がある程度好きである。
好きと言う感情はまだ理解できないが、命の危機を感じたら助けようと動きはする。
マザーの言いつけで……
自身の主と定めた人間と出会った時は護ってあげなさい。
と、言う物がある。
護ってあげる。
いわゆる上から目線。
主と定めながら護ってやっている。
守ってあげている。
こう言う不思議なスタンスを保っている竜。
極々稀にダイナの様な十七の放つ胆力に圧倒され自ら従う事を選択する竜やバキラの様に使役する竜河岸(滋竜)に恋心を抱く竜なども居たりするが。
前述の主と言う言葉は生物として完全に人間の上位に立つ竜の戯れと言う事である。
戯れと言う事は毎回救うと言う訳では無い。
他に興味が移ったりするとスルーする事も考えられる。
だがグルヤは初期竜。
人間の事のみならず竜界の事ですらあまり知らない。
人間で言うと10歳から20歳ぐらいの若い竜。
言動から察するに10歳前後。
要するに子供なのだ。
子供だからマザーの言いつけはきちんと守る。
“ふーん、そーなんだー”と言った感じである。
やがて腹もいっぱいになった酉冊。
スッ
静かに空になった器を無言で豪輝に返す。
「お腹いっぱいになりました?」
その豪輝の問いかけに対して無言の酉冊。
囲炉裏の前で火を見つめ俯き加減でじっと。
酉冊からしたらこれから殺す相手と何の会話をする必要があるのかと言う事である。
囀る小鳥の鳴き声ぐらいにしか感じてなかった。
酉冊が考えていたのは犯行のタイミング。
殺害するタイミングを計っていた。
あの瞬時に物質を作り出すスキルは厄介かも知れない。
正面から飛び掛かってもそのスキルで武器とか使われるとこっちがピンチになるかも知れない。
見た所、そのスキルは手で発動するらしい。
ならば両手が塞がる瞬間。
そこを狙う。
酉冊は待つ。
ただただ無言で待つ。
豪輝は空になった鉄鍋を囲炉裏から外し、器を中に入れ隅に置く。
そして再び酉冊の向かいに座った。
パチパチ……
場には薪が爆ぜる音のみが響いている。
お互い無言。
師匠と対面していた時も同じ様なシチュエーションはいくつもあった。
が、今回の状況はそれとは違う。
何故なら酉冊に会話する気は無いのだから。
加藤の場合、豪輝が質問すれば内容等によってはくさしもするが、きちんと返答はする。
会話としては成立している。
しかし酉冊の場合は違う。
豪輝の言葉など小動物の囀りぐらいにしか思っていない。
だからこそ質問に対して質問で返したのだ。
全く関連の無い質問を。
返された質問が全く自分の問いかけに関連していない事は豪輝自身重々承知。
そしてその返答が意味する事も解っている。
だからこそ豪輝はもう問いかけない。
話しかけ辛いのだ。
もちろん豪輝はスキルの修練を積んでるとは言え年齢はまだ12歳の少年。
質問を質問で返す意図等を具体的に理解している訳では無い。
酉冊の振る舞いや放つ空気も手伝って感覚的に会話したくないのだなと判断した。
だから豪輝からは話しかけない。
パチパチ……
依然として聞こえるのは薪が爆ぜる音。
だんだん無言がキツくなってきた豪輝。
ここに来たての頃が思い出される。
起きた時、囲炉裏の火の向こうに居たのは厳めしい顔をした加藤だった。
だが、今の状況はそれ以上にキツい。
加藤の時も初対面に近かったから距離的な部分では差は無い。
それよりも会話が成立しないのが辛くなって来たのだ。
時間ももうどれぐらい過ぎたか解らない。
すると目端に冷えた鉄鍋と酉冊が食べ終わった器が目に映った。
「あ……
あのっ……
僕、鍋を洗って来ますっ」
すっくと立ち上がった豪輝。
冷えた鉄鍋を持つ。
この場に居るのが辛くなって離れようとしたのだ。
遭難者を一人置いて行く事になるが、金目の物は全く無いし、グルヤも居るのだから問題無いだろう。
そんな事を心中で考えていた豪輝。
愚か。
愚行。
素性の知れない見ず知らずの人間を一人残して場を離れるなんて有り得ない。
そう考える方々も多いかと思われる。
これは豪輝が年端のいかない少年である事が原因。
対人経験、状況経験が圧倒的に足りていない豪輝は今、自分が行おうとしている事がどれだけ愚鈍で愚蒙。
浅短で軽忽な行為だと言う事を理解していなかった。
鉄鍋は片手で持っている。
右手だ。
確かこいつは俺に器を渡す時、右手を使っていた。
と言う事は利き腕は右手か。
出来れば両手が塞がっている時にしたかったが、利き腕が塞がっているのと背後から行ける点から良しとしよう。
さて…………
これが鍋を洗いに行くと聞いた酉冊の心中である。
全く豪輝を人間として見ていない。
感覚として近しいのは獣を狩る狩人の心境。
あと殺人が日常化している人間ほど殺すと言う言葉は使わない。
酉冊にとって殺人行為は一般人が食べ物を食するのと変わらない。
そのレベルまで堕ちていた。
囲炉裏を通り過ぎ、扉へ向かう豪輝。
がら空きの背中。
もう一度言う。
豪輝は酉冊が10人以上の罪の無い人間を殺害した凶悪な犯罪者とは知らない。
ただの遭難者と思っている。
音も無く立ち上がる酉冊。
懐からナタを取り出す。
細かい刃こぼれがあり、刃全体が赤みがほのかに混じった黒で染められていた。
これは被害者の血痕。
血が固まっているのだ。
ナタ本来の金属が見えない程その赤みを帯びた黒は刃を覆っていた。
一体どれだけの人にその刃を振り下ろしたのか窺い知れる。
攻撃を仕掛けるのは豪輝が扉を開けた瞬間。
外気と日光に身体が反応した瞬間。
豪輝は気付いていない。
全く。
物音一つ立たない。
音を殺し、呼吸を殺し、ゆっくりと近づく酉冊。
まるでベテラン看護師が何百回と刺した静脈注射の様に。
淀みなく。
自然に。
愛用の箸を持ち上げるかの様に振り上げられる固まった血で塗られた鉈。
無音で肥大した殺意が載った刃が豪輝の頭を捉えた。
ビュンッッッッ!
真っ直ぐ振り下ろされた鉈。
目標は豪輝の後頭部。
そのまま炸裂すれば、小学生の頭骨など簡単に叩き割られ山小屋の入り口は鮮血で真っ赤になる事だろう。
豪輝はもちろん即死。
物言わぬ死体と化す。
しかし酉冊の心は波一つ立たない。
至近距離に豪輝の死体が転がった状態で小屋内の食糧を貪り食うのだろう。
だが…………
鉈が振り下ろされる刹那。
ゾクゥゥゥゥゥゥゥゥゥッッッッ!
強烈な悪寒が豪輝の脊髄を超速で立ち昇った。
この感覚は覚えがある。
それは加藤との組手。
加藤が魔力注入を使用し、背後に回り込み一撃を放った瞬間。
それと酷似した感覚。
ダンッッ
その悪寒に身体が反応した。
取った選択は緊急回避。
豪輝は横っ飛び。
ガラガッシャーーーンッッッ!
身体を捻った為、遠心力により持たれていた鉄鍋が手から放たれ、山小屋の壁にぶち当たりけたたましい音を立てた。
捻った事により視界が変わり、豪輝の眼には信じられない絵が映る。
先程まで自分の布団にくるまっていた遭難者。
先程まで自分の作った雑炊を食べていた遭難者。
その男が至近距離まで近づいていて黒い刃の様なものを振り下ろし始めた絵。
え?
何で?
この人は何でこんなに近づいて僕に攻撃…………
いや、僕を殺そうとしているの?
この酉冊から感じられる圧には覚えがあった。
それはここに初めて来た時。
自分を殺そうと襲い掛かって来た加藤から感じた圧に似ていた。
感覚として解るのだ。
酉冊が自分を殺そうとしている事を。
加藤の圧と同種に感じたのは当然である。
加藤が向けていたものも今、酉冊が向けているものも殺意であるから。
突然。
唐突に湧いた危機に戸惑った豪輝はモロに背中を打ちつける。
「グゥッ…………!」
ドッドッドッドッドッドッドッドッ
動機が速くなる。
身体全体が緊急警報を発しているかの様。
数瞬、豪輝の動きの方が速かった為、酉冊の一撃は喰らっていないが精神的ダメージが大きい。
豪輝は数ヶ月前までは変哲の無い小学生。
横浜に住んでいた頃は争い事に縁の無いすこぶる平和な暮らしを送っていたのだ。
要は他人から向けられる殺意に慣れて無いのだ。
知識として人を簡単に殺せる人間がいると言う事は知っていたが半ば物語を聞いている様な。
全く現実味を帯びない話として認識していたのだ。
そんな豪輝が殺意を向けられた。
しかも加藤の時とは違う。
今さっき知り合ったばかりの見ず知らずの人間にだ。
到底理解が及ぶものでは無い。
豪輝の頭の中からハテナが消えない。
何で?
僕が何か気に障る事をしたからか?
それにしたって殺される程の事はしていない。
なら何故この人は殺そうとするんだ?
深く真っ直ぐ振り下ろされ空を斬った鉈。
その振り下ろしたポーズのまま数秒止まっていた酉冊。
クルゥ~~
淀みない動きで豪輝の方を向く酉冊。
まるで目標位置を修正する殺人兵器の様に。
その動きには何も人間味を感じない。
感情が全く載っていない。
それもそのはず。
酉冊は豪輝の事を人間と思っていないから。
いや、豪輝だけでは無い。
現在の酉冊にとって他人はヒトではあるが人では無い。
自分が殺そうとしている動物に向ける感情など持ち合わせてはいないと言う事。
ヤバイ!
豪輝に戦慄が奔る。
命の危険を感じた。
この山小屋の入り口は一か所のみ。
窓も豪輝がもたれている方向には無い。
逃げ場所が無いのだ。
更に豪輝は既に蓄積魔力の魔力残量が底を尽き始めている。
一刻も早く魔力補給をしないといけない。
それにはグルヤとの合流が必要。
だがグルヤが居る位置は酉冊を挟んだ向こう側。
しかも豪輝は初めて浴びた他人からの殺意に恐怖や疑問などのあらゆる感情が頭の中でグチャグチャと混ざり合い冷静な判断が出来ない。
だが、酉冊は知った事では無い。
自然と歩く様に間合いを詰めて来る。
動きは自然だが手に持たれている黒い鉈が異常。
常軌を逸している。
動きは自然だが持っている物が異常。
その二つが際立ち、より一層不気味さを醸し出している。
更に恐怖が膨れる豪輝。
ドッドッドッドッドッドッドッドッ
早鳴る鼓動。
酉冊が間合いにまで侵入して来た。
スッ
酉冊は眉一つ動かさず。
自然な動きで不気味な黒い鉈を振り上げる。
その時だった。
【お前、豪輝に何するんだよー】
パシッ
聞き慣れた声が豪輝の耳に入る。
グラァッ
バランスを崩した酉冊が前に倒れ込む。
眼前に近づいて来る鉈の刃。
「ウワァァァァァァァァァッッッ!」
豪輝の叫び声。
割れんばかりの大声が小屋内いっぱいに響いた。
フィンッッ!
ゴロッッ!
同時に山小屋の壁が霧散。
後ろへ転がる豪輝の身体。
これは不等価交換の分解。
身の危険を感じた豪輝は自然とスキルを使用していたのだ。
だが、再構成する物質を想像していた訳では無い為、触れていた壁が霧散したのだ。
蓄積魔力の魔力残量が少ない為、壁全体とはいかない。
あくまでも一部分。
瞬時にポッカリと壁に穴が空いた形。
小さい穴。
だが、小学生の身体なら充分。
そのまま後ろへ転がり、外へ逃げ出す事が出来たのだ。
さっき酉冊がバランスを崩したのはグルヤが長い尻尾で足を払ったからだ。
グルヤは後ろから何をやっているのかと見つめていた。
豪輝の怯える顔と向かいの酉冊が殺そうとしているのが解ったから手助けをしたのだ。
グルヤは初期竜。
竜目線で言うとまだまだ未熟な子供竜。
主を護れと言うマザーの言いつけ通りに動いたのである。
外に出た豪輝は起き上がる。
狩り時の装備はある程度装着していたが防寒着として纏っていた毛皮のチョッキと蓑は纏っていない。
小屋内との寒暖差でより一層寒さが肌を突き刺す。
「ハァッ……
ハァッ……」
ブルルゥッッ……
息を切らせて身震いする豪輝。
この身震いは寒さからか。
それとも狂人の刃への恐怖かは解らない。
それはともかく何とか酉冊の刃から逃れ、九死に一生を得た豪輝。
さあここから反撃か?
そう思われる読者もおられるかも知れない。
だが……
豪輝の取った選択は……
「ウワァァァァァァァァァッッッ!!」
ダダッッ!
逃げ。
逃避だったのだ。
一目散に走り出す豪輝。
防寒もままならない格好で駆けだしたのだ。
叫び声をあげて脱兎の如く逃げ出した。
駄目だ。
山小屋に居たら殺される。
あの人に殺される。
嫌だ。
死にたくない。
せっかく魔力が扱える様になったのに。
何で殺されないといけないんだ。
僕が何かしたのか?
師匠はまだ帰って来ないのか?
ガサッ!
ガサガサガサガサッッ!
あらゆる思考か頭の中で混じり合う。
草木を掻き分けとにかく逃げる。
離れないと。
離れないと殺されてしまう。
この事しか考えられない豪輝だった。
蓄積魔力や不等価交換なんて異能が使える割には何と情けない事か。
そう思われる方もおられるかも知れない。
確かに豪輝はスキルを扱える。
だが、それと敵に立ち向かう勇気を持てるかはまた別の話。
いくら異能が使えると言ってもまだ小学六年生。
対人経験、状況経験が足りていない。
圧倒的に。
そんな豪輝が酉冊の様な凶悪犯罪者の純然たる殺意に晒されたのだ。
恐怖に駆られ逃げ出してもしょうがない。
ズデェッ!
地表に出ていた木の根に足を取られ、勢いよく転ぶ豪輝。
だが、すぐさま起き上がり駆け出す。
それだけ怖かった。
人生で二度目の殺気。
初めて感じた命の危険。
とにかく逃げた。
その様はかなり情けなかっただろう。
だがそんな事気にもしていられない。
豪輝はとにかく逃げたのだ。
やがて大木を背に身を隠す豪輝。
そろそろ体力の限界だったからだ。
「ハァッハァッハァッハァッ……」
とにかく息を落ち着かせようとする。
呼吸を整えないと。
とにかく落ち着いてどうするか考えないと。
どうするどうする。
何故かは解らないがあの人は僕を殺そうとしている。
何処かに助けを呼ぶか?
いや、駄目だ。
僕は人里がどちらの方向にあるか知らない。
師匠の帰りを待つ?
それも現実的では無い。
何故ならいつ帰って來るか解らないから。
師匠に連絡する手段も持っていない。
それとも………………
ここで死ぬ?
ブルルゥッッ!
再び身震い。
嫌だ。
死にたくない。
御覧の通り。
どうするか考えると言っても選択肢の中から決定的な物が抜けている。
そう、酉冊に立ち向かうと言う選択肢が。
これが恐怖に駆られた人間の思考。
ガサッッ
遠くで物音。
山中は空気が澄んでいる為、良く音が通るのだ。
ビクゥッ!
驚く豪輝。
背にしていた大木にべったりと張り付きながら恐る恐る覗いてみた。
ドキィィィィィィィィィッッッ!
豪輝の眼には遠くからこっちに向かって歩いて来ている酉冊の姿。
何故?
かなり走ったはずなのに!?
何で追いかけて来ている?
そんなにも僕を殺したいのか?
纏まりかけていた考えが再びグチャグチャに混濁し始めた。
酉冊が追って来ているのは当然の話。
自分は犯罪者だから。
豪輝が誰かに助けを求め、通報されたら一巻の終わり。
豪輝を殺し、口を封じないと酉冊の未来は無い。
更に豪輝が何処に逃げたかは一目瞭然だった。
何故なら豪輝が逃げた後には踏まれ倒れた草々や足跡が残っていたから。
痕跡を消して逃走なんて考えている暇は豪輝には無かった。
そして……………………
その足跡が何処まで続いているか酉冊は把握していた。
先の大木の後に標的はいる。
そこを目指し、ゆっくりと歩を進める酉冊。
ダダッ!
こちらに向かって歩いて来るのを確認した豪輝は真横に駆け出す。
やはりまだ恐怖に駆られている為、闘うと言う選択肢が浮かばない。
何の躊躇も無く刃を振り下ろす酉冊が怖いのだ。
怖くて仕方が無いのだ。
こちらに向かって来るのなら逃げないと。
相手が刃物を持っているのならその射程に入る訳にはいかない。
一目散に真横へ駆け出した豪輝。
だがその行為は……
豪輝の姿を晒す事になる。
もちろん酉冊も目撃している。
だが、鉈の射程外。
位置はまだ少し遠い。
豪輝は真横へ逃げようとしている。
どうやって殺そうか?
酉冊は少し考えた。
その結果……
ボコォッッ!!
「ヒィッ!!?」
唐突で巨大な炸裂音。
驚いた豪輝は身を屈め、動きを止めた。
キョロキョロと周囲を見渡すが何も変わった様子は無い。
訳が解らない。
はっ!?
動きを止めたら駄目だ!
早く!
早く逃げないと殺される!
ダダッ
また走り出そうと酉冊に背を向けた瞬間……
ボコォッッ!!
再び大きな炸裂音。
やはり身を屈めてしまう豪輝。
先程から二度鳴った炸裂音は一体何なのか?
これは投石。
酉冊が投げた石が大木に当たり炸裂した音である。
投石。
この原始的でシンプルな方法。
くだらないと思われる方もおられるかも知れないが、これが予想以上の大きなメリットを産み出していた。
大木に当たり、音を立てる事で標的の動きを止める事が出来た。
豪輝からしたら何の音か解らない。
解らないだけに動きが止まる。
周囲を確認。
物事の優先順位を思い出し、逃げ出す。
大きな音が鳴って更に逃げ出すまでのタイムラグが発生。
その分だけ距離を詰める事が出来るのだ。
投石と言う原始的で単純な方法だがこと今の状況ではかなり有効だったのだ。
だがそこまでのメリットを計算して酉冊は投石した訳では無い。
先の二発も豪輝に命中させるつもりで投げたのだ。
どちらかと言うと少し驚いたのは酉冊の方。
まさか石が粉々に砕けるとは思っていなかったから。
これには理由がある。
酉冊の体内にある残存魔力を投げる手に集中させたからである。
三則の集中では無い。
ただ単なる集中。
しかも酉冊が任意で行った所作では無い。
自然とそうなったのだ。
任意で行った訳では無い為、当の酉冊も気付いていない。
脆い石だったのか?
それぐらいの認識でしか無かった。
ボコォッッ!!
「グアァァァッ!!」
ドシャァッ……
豪輝の左足首付近に強烈な鈍痛。
瞬く間に全身に伝播。
転倒した豪輝。
左足に酉冊の投げた石が炸裂したのだ。
地に這い蹲った豪輝は立つ事もままならない。
悲痛な呻き声がそれを物語っている。
ズッキュンズッキュン
脈打つ様に巨大な鈍痛が左足から発生しているのが解る。
ズリィ……
ズリィッ……
「ハァッ……
ハァッ……」
這いつくばりながらも逃げようとする豪輝。
が…………
辿り着いていた。
すぐ真後ろに。
狂人が。
鉈の間合いに再び入ってしまった豪輝。
ドッドッドッドッドッドッドッドッ
早鳴る鼓動。
恐怖のあまり声を出す事も出来ない。
スッ
鉈を無言で振り上げる酉冊。
駄目だ!
もう駄目だ!
僕はここで死ぬんだ。
こんな訳の分からない人に。
理由も解らず。
不気味な鉈で頭を割られて殺されるんだ。
ビュンッ
鉈が振り下ろされた。
その瞬間。
【えいっ】
ドンッッッッッ!
バキバキバキィッッッ!
豪輝が耳にした音は鈍い音。
衝撃音と言うよりは打撃音。
そしてその直後、木が折れる様な音も聞こえた。
更に聞き慣れた声も耳に入って来た。
あれ?
音が聞こえると言う事は僕は死んでいない?
一体どう言う事だ?
観念した豪輝は目を瞑っていた。
その眼を恐る恐る開けて見ると飛び込んで来たのは黄金色の鱗を持つ竜。
グルヤの姿だった。
【豪輝ー?
だいじょーぶー?】
「グ……
グルヤ……」
さっきまで目の前に居た狂人がいない。
何処に行ったんだ?
「グルヤ……
一体何したの?」
【ん?
えっとねー
豪輝が何処かに行っちゃったからお外に出てー……
こっちの方に居るなーって思ってやってきたら豪輝があのヘンな人に攻撃されそーだったからー
邪魔したの】
クリクリと大きい眼を輝かせながら助けた経緯を説明するグルヤ。
「そ……
そう……
ありがとう」
体当たりでもかましたのだろうか?
横を向くと木が力任せに薙ぎ倒されていた。
結構な衝撃だったのだろう。
大丈夫なのだろうか?
一般人が竜の体当たりなんて喰らっても。
この時、豪輝はまだ酉冊が竜河岸である事を知らなかった。
まだ腹這いになっている豪輝。
左足が痛くて立ち上がれないのだ。
「グルヤ……
ちょっと魔力を頂戴」
ピトッ
黄金色の鱗に手を添える。
蒼白く光り輝くモヤが大量に染み出て、手を伝って豪輝の身体へ。
蒼い光に包まれた豪輝。
そのまま手を支えにゆっくり。
ゆっくりと右足で立ち上がる。
ここに来たての頃の要領だ。
軽々と片足で立ち上がる。
【豪輝ー?
だいじょーぶー?】
「うん……
まあ何とか……」
ガサッ
ここで物音。
何本も木が薙ぎ倒されている先で酉冊が起き上がって来たのだ。
木々を何本もへし折る程の衝撃だったにも関わらず平然としている様にも見える。
これはさっきの投石と同じ。
体内の魔力を集中させてダメージを軽減させたのだ。
「………………何で……
竜が邪魔をする……?」
酉冊が話しかけて来た。
【ん?
僕に聞いてるの?
だって豪輝は主だもん。
マザーが主と定めた人間を護ってやれって言ってたから】
質問の意図が解らず、ハテナを浮かべながら答えるグルヤ。
「……………………竜は……
自分が興味のある事だけしかしないんじゃねぇのか……?
……訳わからん……」
離れた酉冊の声はよく通り豪輝の耳にも入っている。
豪輝はここで気付くべきだった。
酉冊がグルヤと会話している。
これが紛れも無い酉冊が竜河岸である証。
ここに気付いたのであれば側に竜が居ない事に警戒出来たかも知れない。
だが豪輝は気付かなかった。
ただただ会話内容の意図が解らず唖然とするのみだった。
場に静寂が流れる。
お互いその場から一歩も動かない。
豪輝はグルヤと合流した事で対抗しようと言う気持ちは生まれていたがまだ攻撃を仕掛ける気にはどうしてもなれなかった。
何故なら酉冊は一般人。
蓄積魔力の魔力を集中させた一撃などを食らわせたら殺してしまうかも知れない。
さっきのグルヤとの会話や竜の体当たりを喰らって平然としている事は考慮に入れてない甘い考え。
だから動けず様子を伺う事しか出来ないのだ。
かたや酉冊は豪輝の変化に気付いていた。
豪輝の身体に纏わり付いている蒼白い光は多分魔力だろうと。
さっきの弱い殺されるだけの獲物とは違う。
何の考えも無しに襲い掛かれば返り討ちに遭うかも知れない。
だから酉冊も動けない。
お互い見つめ合ったまま数分の時間が過ぎる。
ガサッ
ここで場が動く。
最初に行動を起こしたのは酉冊。
茂みに身を潜める様に横へ移動。
あっ動いたっ
どうしようどうしよう。
戸惑う豪輝。
対人、状況経験の無さが露呈される。
このまま何処かに行ってくれたら。
そんな甘い考えも浮かぶ始末。
もちろん酉冊は逃げるつもりなど毛頭無い。
豪輝がこのまま生きていられると自分の身が危うくなるからだ。
豪輝は殺さないといけない。
これは確定事項。
決定事項。
覆る事は無い。
酉冊は大きく円を描く様に茂みの中を移動していた。
ガサッ
ガサガサッ
移動する音が響く度に怯えた挙動で振り向く豪輝。
その様子を見ていた酉冊は確信した。
この子供は弱いと。
何か魔力を纏っている様にも見えるが、あれはただのこけおどしだと。
ちょうど豪輝の背面辺りまで移動した酉冊。
茂みは思った以上に深くて大きい。
自分の姿は見えていない筈。
酉冊は静かに石を拾い、小さく斜め前に投擲。
ガサッ
ガサガサガサッッ
音のした方へ素早く振り向いた豪輝。
ガサァァッッ!!
目線が逸れた刹那、酉冊は飛び出した。
手の鉈を大きく振り被りながら。
今の投石は豪輝の注意を逸らす為だったのだ。
豪輝は片足を負傷している。
さっきの様な横っ飛びは出来ないと踏んだ。
且つ注意を逸らし、不意も付いた。
殺った。
そう確信した酉冊。
だが………………
ゾクゥゥゥゥゥゥゥゥゥッッッッ!
酉冊は甘く見ていた。
豪輝と加藤の日々の積み重ねを。
確かに豪輝は精神的にまだ未熟。
しかし…………
ドコォォォォォォォォンッッ!
巨大な衝撃音。
酉冊の身体が強く地に打ちつけられバウンドしたのだ。
ドシャァァッ……
豪輝もバランスを崩し、地に倒れ込む。
一体何が起きたのか?
確かに豪輝の注意は逸らされてはいた。
だが死角から迫る大きな殺気に身体が反応したのだ。
瞬時に倒れ込みながら身体を捻る。
右腕をくの字に構え、拳には蓄積魔力の魔力を集中。
強烈な一撃を酉冊の腹に叩き込んだのである。
こと殺気に関しては敏感に反応する豪輝。
これは加藤との組手の賜物。
一連の動作を鉈が迫る刹那的なタイミングで全て行ったのだ。
確かに精神的には未熟かも知れないが加藤との組手の日々は伊達では無かった。
ドシャァァッ……
勢い良く跳ねた酉冊の身体が落下。
お互い地に伏している。
「あ……
あれ……?」
ダメージを受けていない豪輝は顔を上げる。
何が起きたか解らない。
先程の一撃は無意識の内に放たれたものだったのだ。
「ぼ……
僕……
生きてる……?」
死んでいない。
自分はまだ生きている。
目の前には倒れてピクリとも動かない酉冊。
もしかして魔力を込めた一撃を叩き込んだのか?
殺してしまったのだろうか?
だんだん顔が青ざめて来る豪輝。
殺意を持たない人間が命を奪うとこう言う反応を示すものである。
ピョン
片足で立ち上がり、跳ねて酉冊の側へ。
近づいても動かない酉冊。
ゆっくりしゃがみ生死を確認しようとした………………
その時だった。
【オイ】
何処からか声が聞こえた。
その声は耳からと言うよりかは脳に直接響いた。
「えっ?」
声がした方に振り向いた刹那。
豪輝の両眼に映ったのは…………
影。
黄色を含んだ赤い影。
それが猛然と豪輝に迫る絵だった。
え?
何だこれ?
この六文字の思考を浮かべるのが精一杯。
それ程赤い影のスピードは速かった。
【危ないっっ!】
ズバァッ!
更に視界が変化。
瞬時に見慣れた黄金色の鱗が視界いっぱいに広がる。
同時に大きな斬撃音も耳に飛び込んで来た。
【いったぁ~~……】
グルヤの声。
ようやく状況が呑み込めてきた。
何かの攻撃にグルヤが護ってくれたのだ。
ボタボタァァッッ
大量の液体が滴り落ちる音。
見るとグルヤの腹に深く大きい四本の傷が刻まれていた。
先の液体はグルヤの血だった。
「グッ!!?
グルヤァァァァァッッ!?
大丈夫っっ!?
しっかりしてぇぇっっ!?」
酷く狼狽える豪輝。
それ程深い傷だった。
【豪輝ー?
だいじょーぶー?】
しかし平然としたグルヤ。
「僕なんかより自分の心配をしてよっっ!
そんなに深い傷でっっ!!?」
ボタボタ
依然として流れる血に酷く動揺する豪輝。
【ん?
大丈夫だよー。
だって僕は竜だもん】
パァァァ
話しながら傷口が眩い白色光に包まれる。
その光が止むと傷口が消えていた。
何事も無かったかも様に元通り。
【ね?
大丈夫でしょ?】
「う……
うん……
でも一体何が……」
そうだ。
さっき赤い影が物凄い速さで向かって来たんだ。
影が向かって来た方向に振り向くとそこにいたのは……
竜だった。
もう一人の竜。
豪輝と眼が合うとその竜はゆっくりと。
口角を持ち上げ笑ったのだ。
「お……
お前は……?」
【俺の名はゴルドフ。
オメーがぶちのめした人間に付いてる竜だよ。
それにしてもオメー…………
イイ顔スルナァァァァァァッッ……】
そう言いながらゴルドフの顔が更に歪む。
両眼は弧を描き、更に口角を持ち上げ笑みを浮かべる。
その笑みは禍々しく毒々しく悪意に満ちた表情だった。
何で?
何でこんな所に竜が?
……えっ!!?
ちょっと待って!?
僕がぶちのめした人間に付いている竜!?
って言う事は…………
この遭難者は…………
竜河岸!!?
次々と新たな情報が取り込まれ精査が滞る。
呆気に取られその場から動けない。
【ケッ…………
殺るなら早く殺れっての……】
ぽつりと呟いたゴルドフ。
何の話だ?
ガクンッッ!
呟きの意味を考える間も無く。
豪輝のバランスが大きく後ろに崩れる。
「ウワァァァァッッ!」
ズデェッッ!
突然の事に叫び声を上げる。
訳がわからないまま豪輝は後ろへ仰向けに倒れ込んだ。
両眼に映った景色は空では無かった。
映ったのは……………………
酉冊の顔。
至近距離の酉冊の顔。
状況把握もままならない。
訳が解らない状態のまま唇を重ねられる豪輝。
臭い。
中年男性の体臭が鼻につく。
だがそれよりも感じたのは体内に侵入して来る異物感。
そう、これは酉冊正勝が使用する殺人スキル、吐毒である。
続く




