その頃の東国:武田包囲網と武田の滅亡
さて、この頃の東国である。
まず天文22年(1553年)越後を統一した長尾景虎が初めての上洛を果たし、後奈良天皇および室町幕府第13代将軍・足利義藤に拝謁し、後奈良天皇に拝謁した折には、御剣と天盃を下賜され、朝敵を討伐せよとの勅命を受けた。
この上洛時に彼は堺を遊覧し、高野山を詣でている。
この頃尾張は庄内川を東西の境目として木曽川沿いの津島や清須を含む西部は斎藤義龍が、那古野や熱田を含む東部は今川が制圧し、織田信秀の策略で追放されていた斯波氏と姻戚関係のある今川氏豊が東尾張の代官となった。
これにより斎藤は領地として海と津島を手に入れ、今川は尾張の経済拠点となりうる大門前町である熱田を手に入れた。
さらに斎藤はもともとの家臣であった森可成や明智光秀に加えて丹羽長秀を臣下に加え、今川は織田信行やその重臣である柴田勝家を傘下に加えていた。
そして斎藤義龍は将軍足利義藤より一色氏を称することを許され、美濃守護代家である斎藤氏より改名して一色義龍を名乗ることになった。
一色は足利氏の一門であり九州探題に任じられたり侍所所司に任ぜられる四職の筆頭でもあった。
吉良家の分家である今川より家格は劣るとは言え、十分高い家格であり将軍足利義藤は一色義龍を三好を討つために使うつもりだった。
そして翌年天文23年(1554年)長尾景虎は尾張に向かい清須城にて一色義龍及び今川義元の名代である太原雪斎の三者による会談が行われていた。
「この度は会見の場を設けてくれたことありがたく思う」
長尾景虎がまずそういい言葉をつなげた。
「我々三家は同盟を持って武田を討ちたいと思うが如何か?」
それにたいして一色義龍が首を傾げた。
「武田を討つですと?」
太原雪斎は興味深げに聞くだけだ。
「うむ、武田の信濃への侵攻、信濃守護小笠原長時殿への攻撃には大義はござらん。
これについて今上様も公方様もたいへんお怒りだ。
故に我ら三家で共同して武田を討ち滅ぼす」
「ふむ、小笠原を攻撃した武田とは我々一色も境を接しているが……」
「盟約を結んでもあっさりそれを捨て去って攻撃するのが武田晴信という男です。
故に今上様と公方様よりの討伐の許可も頂いております」
太原雪斎が頷いた。
「なるほど、大義名分は我らにありですな。
そしてたしかにそれは言えますな。
して三家で包囲して滅ぼすとして今川は甲斐を押さえさせていただきたいが?」
太原雪斎の狙いは甲斐の金山である。
甲斐は貧しいが金山が手に入れば経済的利益は大きい。
「うむ、南信濃は一色が押さえてもよいのかな?」
長尾景虎は頷く。
「うむ、北信濃は我が長尾家が押さえさせていただく。
さすればともに西に進んで三好を討伐するための後顧の憂いもなくなろう」
一色義龍がうなずく。
「うむ、たしかに武田を放置しておくよりは滅ぼしたほうが良いであろうな」
太原雪斎も頷いた。
「そうですな、我が今川家も協力させていただきましょう」
こうして武田・北条・今川の甲相駿三国同盟ではなく長尾・一色・今川の越濃駿三国同盟が結ばれることになり、今川義元の正室で武田信虎の娘の定恵院は 天文19年に既に死亡していたが、天文21年(1552年)の今川義元の娘嶺松院が武田信玄の子武田義信に嫁ぐこともなく、その父武田信虎を甲斐へ追放し甲駿同盟は完全に破棄された。
とはいえ今川と後北条の駿相同盟が再び結ばれることはなかった。
甲斐の国を得たあとは武蔵や相模に今川義元は勢力を伸ばすつもりでいたからだ。
昨年天文22年(1553年)に今川仮名目録の追加法である仮名目録追加21条にて室町幕府が定めた守護使不入地の廃止を宣言している今川義元は将軍や管領がほぼ権力を喪失した室町幕府に従うつもりはなく、室町幕府政所執事である伊勢の血筋である、後北条が押さえている鎌倉をそのままにしておく気はなかったのだ。
一色は西を、今川は東を、長尾は上野の関東管領上杉の領土の回復を図りつつ一色同様軍を率いて三好を討つためにはこうするのが一番良いと考えていたのだ。
更には武田は信濃の攻略の際に同盟しても後にすぐ裏切りを繰り返していたので信用を大きく失っていたのも大きな原因だ。
こうして同盟が結ばれ、今川は甲斐の国へ、長尾は旧村上領の埴科郡へ、一色は旧小笠原領の下伊那へとそれぞれの兵を出し甲斐・信濃へ侵攻を開始する。
長尾景虎や小笠原長時と村上義清らの率いた5千は真田幸隆率いる2千を蹴散らして砥石城や真田本城を陥落させて葛尾城を攻略。
真田は長尾景虎の傘下に入ることになり長野盆地は長尾の支配下に入った。
一色義龍は木曾義康とともに1万兵を率いて武田信繁・山本晴幸(勘助)、遠山景任ら3千を敗走させて南信濃を攻略し、武田信繁・山本晴幸らは落ち武者狩りにより死亡、遠山景任は降伏した。
太原雪斎や朝比奈泰能を中核とし、尾張の柴田勝家や三河の松平元康らを先陣とした今川軍2万は武田赤備えの飯富虎昌や馬場信春、内藤昌豊、高坂昌信ら有力武将を率いて武田晴信自ら5千が迎え撃ったが、それぞれが所有する石高と兵力に圧倒的な差がありすぎた。
武田軍は奮戦したが武将たちは次々に討ち取られていき、武田晴信は要害山城へ移動して籠城したが落城し自刃、その嫡男の武田義信も初陣の戦場で捕らえられ処刑された。
次男である信親は盲目であったがゆえに許されたが、三男武田信之は昨年夭折しており、元服前の四男諏訪勝頼は勝頼側近八将によってなんとか逃亡に成功し後北条を頼って逃げていった。
かくして平安以来の源氏の名門で甲斐守護である武田家は大名としてはここに滅亡したのだった。
無論のこと長尾・一色・今川が信濃や甲斐の武田の残党を掃討して完全な平定を行うまでには暫くの時間が必要であったが。




