島津四天王の一人である新納忠元を従えて陶との山口決戦を行いつつ弟たちに本山との土佐蹂躙戦を行わせたぞ
さて、名目上は大内、実質的には陶の支配している中国地方西部の中でも長門の国人は陶に対する反発が大きかったのか、戦うことがあれば一番最初に島津と当たることが明確なためか内藤興盛、内藤隆春親子、杉重輔、江良房栄などは早々に島津の内通に応じた。
特に父を殺された杉重輔などは
「逆賊たる陶晴賢に従う義理はございません。
どうぞ先鋒は私におまかせください」
などと鼻息も荒く言ってきた。
彼の父の杉重矩は大寧寺の変には加担してるんだけどな。
とは言え結局は陶にうたれてるんで気持ちはわからなくもない。
「うむ、我々は長門や周防については詳しくないゆえよろしく頼みますぞ」
また内藤興盛は問田亀鶴丸を確保したようだ。
「問田亀鶴丸様のお命どうかお助けくださいますよう」
俺はそれに頷く。
「うむ、亀鶴丸殿は大内の正しき当主となるお方。
粗雑な扱いはせぬゆえ安心されよ」
「ははっ」
それを見たのか石見の吉見正頼や小笠原長雄も島津の傘下にはいることになった
「ふむ、陶晴賢の人望がないのか島津が恐れられているのか、どちらかな」
戸次鑑連がいう。
「おそらく両方でございましょうな。
陶晴賢は武将としては十分有能でしたが政治的に利害を調整したりするのは得意ではないようです」
「うむ、とは言え、内藤隆世や杉隆泰のように大内に従っておるものもおるし油断せずにゆこうぞ」
俺は征西大将軍として主君殺し公家殺しの陶晴賢を討伐することを周囲に布告しつつ本山の反乱を促すために噂を流す。
”3万の兵を持つ陶を討つために島津は南九州や四国からも兵を総動員するらしい”
という風に。
実際にはすでに周防一国に加えて安芸の弘中隆包くらいしか動員できる兵がいない陶の実働兵力は万に届かない程度とは思うが、南九州や四国からも兵を総動員して陶を叩くという噂を流せば本山はそれに乗じて動こうとするであろう。
そんな中で高山国より、明銭、米や麦、とうもろこし、砂糖などを満載した船とともに叔父島津尚久とともに新納忠元が戻ってきた。
叔父上が豪快に笑いながら言う。
「それにしても俺の弟子があっという間に九国二島と伊予、土佐を押さえちまうとは全くびっくりだぜ。
ほれ、交易の上がりの銭だ。
うまく使えよ」
俺は叔父上から銭を受け取り叔父上に頭を下げた。
ちなみにちゃんとした宋銭や永楽銭だ。
日本・明・アユタヤの三角交易で薩摩の軍資金を用意してくれてるのは叔父上だからな。
「ありがとうございます叔父上。
明国やアユタヤとの交易の上がりの銭があればこそ島津は躍進することができました」
「なに、俺に同じだけ銭があってもお前と同じことはできないさ」
がははと叔父上は笑っているが、これは事実なのだ。
大友や細川の銭の源泉は明との勘合貿易だったが、島津は南蛮への交易も加えることで胡椒などの香辛料や香料、宝石などを安価に手に入れて、明で高く売り飛ばすと言うのはものすごく利益が出る。
薩摩は貧しかったが琉球などの伝手で交易がしやすかったのは最大のメリットだったな。
更に新納忠元が言ってくる。
「若殿、昨年に高山国でとれた米などをお持ちしましたぞ。
また、首狩り族との交渉に私が仲介する必要性もなくなりましたので日ノ本にて若殿の戦の手伝いをするようにとの大殿のお言葉により私はこちらにて槍働きに戻らせていただきます」
俺は大きく頷く。
「うむ、それは心強い。
陶との戦いの時に槍の腕がなまっていないことを証明してみせよ」
「はは」
島津の場合だと俺の兄弟である義弘や家久の名が強すぎてあまり目立たぬがそれに劣らぬくらい戦場において武功を上げた四天王がいる。
川上久朗、新納忠元、鎌田政年、肝付兼盛の四名だ。
川上と新納は島津の庶流の一門衆、肝付兼盛は肝付家の庶流、鎌田は厳密には一門ではないが準一門衆扱いの名家だ。
加治木の領主である肝付兼盛には加治木銭の鋳造なども任せている。
尤も加治木だけでは間に合わないので博多商人に銭座を作らせて、太宰府の許可を受けたものに銭貨鋳造を民間の商人らに請負わせてもいる。
ただし期限を区切って鋳銭を命じ、時々一部を抜いて品質を確認したうえで鋳銭高が目標に達するまでではあるがな。
さらに銭座には1割を運上として上納させているがそれでも銭貨鋳造を請け負いたがるものは後を絶たない。
「罰を与えたとしても銭の私鋳を試みるものはあとを絶たぬしな。
ならばある程度許可したほうが良かろう」
さて、そういった準備ができたところで陶討伐の軍を動かす。
南九州の又四郎忠平を大将として水軍で山口を攻めさせるとの噂を流しつつ、俺が総大将、島津の直轄兵は新納忠元が率い、内藤興盛、内藤隆春、杉重輔、江良房栄ら大内の反陶派の国人を案内役として、原田隆種を筆頭とした豊前や筑前の前大内系の国人らも引き連れて20000の兵を持って長門に上陸し、一路山口を目指した。
石見では吉見正頼が益田藤兼の動きを封じ、安芸では毛利が弘中隆包を攻撃している。
そしてどうやら杵築大社に寄進として銭と米をおさめた結果も有ったか、西出雲の新宮党も尼子本家に対して反旗を翻したらしい。
俺は石見、出雲、安芸の動きを気にせずに周防の攻略に取り掛かれた。
大内軍は、本拠地山口に大内義長と内藤隆世の兵3000、杉隆泰の鞍掛山城の兵2000、陶晴賢の富田若山城兵3000などそれぞれの城に城兵が籠り、我々を撃退するつもりであったろう。
島津や元大友の若林、佐伯などの水軍が大内方の三浦房清ら宇賀島水軍を討伐するなかで富田若山城の陶を内藤興盛、内藤隆春、杉重輔、江良房栄、原田隆種らが激しく攻め立てて石見守護代の問田隆盛、陶晴賢、嫡男の陶長房、陶の忠臣である野上房忠などを自害に追い込み、救援に来た内藤隆世は新納忠元が伏兵を用いて撃滅、それにより内藤隆世は討ち取られた。
これをみて他の国人衆は次々に降伏し残るは大内義長と杉隆泰の軍勢のみとなった。
そして彼らは京の都と同じく防御に向かぬ山口の大内屋敷から脱出して古城ヶ岳城に籠城したがこの山城はなかなか堅城であった。
そこで俺は二人の離間を図る矢文をうち入れさせることにした。
”陶晴賢に荷担した謀反人である杉隆泰を許すわけにはいかないが、大寧寺の変に関わったわけではなく陶の傀儡であった大内義長には罪はない。
杉隆泰が自刃すれば大内義長は助命する”
と勧告する矢文を入れたのだ。
これによってこの矢文を受け入れた杉隆泰は自刃し、大内義長は降伏した。
俺に平伏する大内義長に俺は言った。
「大内義長殿、あなたの命は助けるが家督は問田亀鶴丸に譲って隠居していただくぞ」
「……かしこまりました。
家督を正式に相続させたあと私は頭を丸めて隠居いたしましょう」
現状の人気の無さではこのあと隠居した大内義長を担ぎ上げて反抗しようというものもいまい。
一方、俺たちが陶討伐の兵をおこして長門に渡ったとの情報を得た、本山と土佐一条の中でも島津と一条本家に家を乗っ取られたと不満を持つものが四国は手薄になるという噂を信じて反乱を起こした。
が、西土佐一条の領地に上陸した忠平・家久と一旦土佐をはなれたように見せかけて再上陸した歳久、土佐中央の長宗我部国親・久親・久貞、香宗我部秀通らが東西より大軍を持って挟撃しあっさり反乱は鎮圧された。
本山茂宗、本山茂辰親子や京都の一条家の意向に反発する土佐一条家の家臣など反乱に加担したものは皆戦場で討たれるか捕らえられて処刑され、本山の領土は土佐一条、長宗我部、香宗我部により分割された。
長宗我部久親・久貞兄弟らは初陣でかなりの武功を立て、川上久朗をつけて戦に参加させた家久の兵も島津に名に恥じぬ働きを見せたらしい。
川上久朗の能力故か家久の能力故かはわからぬが。
これにより四国の反一条勢力は一掃されたがその後の統治に少々苦労するのは日向の伊東氏を滅ぼした時と同じであろうな。
とは言え島津に逆らったものがどうなるかという見せしめには十分であろう。
俺は周防の山口へ入った。
山口の街は島津の直轄領として当然押さえる。降伏したものの所領はそのまま認め、大内義長から家督を譲られた問田亀鶴丸を元服させ、大内義教と名乗らせて名目上の君主として大内の家を継がせる。
「しかしながら、さすが山口は西国一の大都市であっただけあるな」
大寧寺の変で焼き払われる前は山口は人口8万と呼ばれる西国随一の大都市であり、京の都の10万に継ぐ大都市であった。
しかし8万人とされた人口は大寧寺の変で激減し1万人とまで減ったという。
この頃の博多が3万人程度、堺も3万人程度、大坂本願寺が2万5千程度と人口3万程度の都市が多いのだがその中では京と山口は別格だったのだ。
それは遣明船によるものが大きかったのだがな。
「こりゃ街の再興が大変だな」
その山口の街は大寧寺の変で焼け人間も大量に逃げ出した。
とはいえ、博多も一度炎上した後復興してるしなんとかなるだろう。
そして山口を押さえることで大内が明から得た灰吹法や硫化鉱物の精製法、高品質な絹の製造法などを島津が手に入れることもできるはずだ。
灰吹法ばかりが目立つが硫化鉱物の脱硫ができるようになるのは実は結構大きい。
硫化銅は今まで使えない銅とされていたがそれが使えるようになるからな。
硫化鉄なども同様で鉄の原材料が増えればかなり楽になるはずだ。




