表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
62/176

番外編:そのころの日本各地の様子

 さて島津が肥前を残して九州の殆どを制圧下においた頃の日本各地における様子であるが……。


 肥前は龍造寺・少弐・千葉・波田・松浦・後藤・大村・西郷・有馬・平戸・宇久などの小勢力が狭い領地を巡って争っていた。


 肥前は地形的に狭隘な場所が多く、大軍を展開しづらい場所でもあり、大友の手をはなれた途端に争いが再発したのであった。


 その頃畿内では近江朽木に滞在していた細川晴元が近江の朽木元綱くつきもとつなや六角義賢、丹波の波多野晴通はたのはるみち、阿波の香西元成こうざいもとなりらが三好長慶を山城から排除するために兵を起こし、前年度に京に戻った足利義藤は結局のところ将軍の地位が有名無実で、三好長慶とその家臣・松永久秀の傀儡でしかなかった状況を変えるために山城から脱出して細川晴元と和解して合流し近江・丹波・摂津より東西からの挟撃を行った。


 これにより三好長慶は絶体絶命の危機に陥ったが松永久秀の奮戦により細川軍の撃退に成功。


 三好と同盟していた畠山高政はたけやまたかまさの援軍によって細川晴元・足利義藤の軍が敗北し、義藤は近江朽木に逃れたが、三好長慶は将軍に随伴する者は幕府よりの知行を没収すると通達したため、将軍の随伴者で側近である相伴衆や内談衆の多くが義藤を見捨てて帰京した。


 これにより少しだけ集められていた戦力も権力も将軍義藤はほぼ全て失ってしまったのだ。


 またこの戦いは畿内において初めて大規模に鉄砲が投入されそれによる損害もお互いに大きなものとなった。


 そしてこの戦いの勝利により足利義藤と細川晴元の権威は山城では地に落ち三好長慶の権力がほぼ確立された。


 また三好は丹波を制圧後は細川氏綱を丹波守護として実効支配し、阿波守護である細川持隆ほそかわもちたか三好実休みよしじっきゅうによって見性寺において殺され、その子である細川真之ほそかわさねゆきが傀儡として擁立されると三好の阿波における権力は更に強まった。


 播磨では赤松義祐あかまつよしすけの要請により東播磨を制圧下においた。


 東讃岐は十河一存そごうかずまさが抑えていたのだが、西讃岐の細川家家臣である香川之景かがわゆきかげは三好には従わなかったため三好の勢力は西讃岐には及ばなくなったとは言えその勢力はいよいよましたのであった。


 一方中国地方では大寧寺の変で主君大内義隆を自害に追い込んだ陶晴賢であったが、応仁の乱以来より長年敵対していた石見の吉見正頼よしみまさよりは反隆房の急先鋒として挙兵。


 更には島津が豊後・豊前・筑前を制圧したことで山口での海外との交易も減少することで陶晴賢は追い詰められていた。


 また、安芸の支配権を確立していた毛利元就は大寧寺の変においては陶の行動に同意しており、隆房は元就に安芸・備後の国人領主たちを取りまとめる権限を与えていたが、元就は速やかに安芸と備後を支配下に起き、毛利は尼子晴久の安芸への侵入を撃退した。


 この際に防衛した城に陶が直属の代官を入れようとしたため戦後処理は大いにもつれたうえに毛利氏の急速すぎる勢力拡大に危機感を抱いた陶隆房は元就に支配権の返上を要求したが元就はこれを拒否したため、徐々に両者は対立していくことになる。


 信濃では第一次川中島の戦いが行われ痛み分けに終わるが、武田は村上氏の本領である埴科郡を完全に掌握し、信濃における勢力を着実に広げていた。


 関東では後北条氏が伊豆・相模・武蔵・上野・下総・上総と常陸の一部を専有し、かっての古河公方や関東管領の支配地をほぼ制圧していたが、上野などの状況ははなはだ不安定なものであった。


 能登では大寧寺の変後に畠山義続はたけやまよしつぐが隠居したことによる温井総貞ぬくいふささだ遊佐続光ゆさつぐみつとの権力争いに温井総貞が勝利して能登の実権を握った。


 畠山義続の隠居には大寧寺の変での大内という超大国の守護が家臣によって討たれてしまった衝撃があったと言われている。


 尾張では太原雪斎率いる今川勢が三河と尾張の境を支配していた水野信元みずののぶもと佐治信方さじのぶかたを軍事力で臣従させ、東尾張に勢力を拡大した。


 また織田伊勢守当主である織田信安おだのぶやすは織田信清との所領争いも有って美濃の斎藤義龍と呼応し清須の織田信友と対抗しようとしたが、斎藤義龍により背後を突かれ織田伊勢守家は滅亡した。


 尾張下四郡を統一したはずの織田大和守家の織田信友は籠城戦で今川に抵抗するがジリジリと今川に尾張下四郡を侵食されているところであり明らかに劣勢であった。


 東北や肥前、紀伊半島の伊勢・大和・紀伊のように小勢力が入り乱れている場所もまだまだあるが、概ね日本各地において大名の勢力は統合されつつ有った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ