番外編:その頃の平戸や豊後
さて、天文16年(1547年)薩摩に上陸したフランシスコ・ザビエルやコスメ・デ・トーレスなどは高山国から帰ってきた島津義久等によって問答無用で斬り殺された。
そしてその情報がインドのゴアに伝わるまでにはしばらくの時間を要したが、それで日本への布教を諦めるほどイエズス会は諦めは良くなかった。
天文20年(1551年)ゴアからバルタザール・ガーゴ神父らを載せたジャンク船が先ずは明のマカオに向けて出港、マカオに到着した彼等は倭寇の船に紛れて、日本の五島や平戸を本拠地としている王直に使者を送りコンタクトを取ることに成功。
中国人に紛れて平戸に渡ることにした。
もちろん高山国や琉球、坊津には近づかずに平戸への直行を目指すわけだが、明の沿岸地域に拠点を持つ王直の案内で彼等は皆殺しの島津に関わること無く、翌年の天文21年(1552年)平戸に到着する。
種子島に西洋式のマッチロックマスケットを持ち込んだように王直はポルトガルと組んで日本へ鉄砲や火薬を売りつけてボロ儲けするつもりだったわけだが、最初に持ち込んだ場所が悪かったといえよう。
この頃の五島列島や平戸は博多や坊津と同様に明の商人や密貿易商人兼海賊の中国人倭寇が多く住んでいたが、その地域を支配している平戸松浦氏の松浦隆信は、大内義隆から偏諱を受けて隆信と名乗り肥前守に任じられていた。
そして王直の手引によりポルトガル人宣教師を乗せた船が平戸に来航すると松浦隆信はこれを主君筋にあたる大友義鎮に報告した後に、ポルトガル船との交易並びにキリスト教の布教の許可を得て、ポルトガルとの貿易及び平戸でのキリスト教の布教が開始された。
バルタザール・ガーゴら一行は修道院と大聖堂を平戸に建築し、大聖堂には大きな十字架が掲げられ、松浦隆信は鉄砲や大砲などの武器を購入し、その代金として日本人奴隷をポルトガル商人へ大量に売りさばいた。
しかし彼はキリスト教の宣教師を厚遇したが、自身は熱心な曹洞宗宗徒であったためキリスト教への改宗は行わなかった。
だが、松浦隆信の命令により自宅でバルタザール神父の面倒を見ている木村家や当時家老だった籠手田家と弟の一部家はキリスト教に入信し、彼らの領土に住む人々はすべてキリスト教へ強制的に一斉改宗させられたことでキリスト教信者の拡大が起こり旧来の宗教を信仰するものとの軋轢を生み、寺院や教会への焼き討ちが起こった。
だが松浦隆信の改宗の拒否に失望したバルタザール・ガーゴら一行は彼の主君である大友義鎮のもとへ向かう。
連絡を受けた大友義鎮はバルタザール・ガーゴらを府内に招き、キリスト教布教の許可を与えポルトガル船との交易をおこなった、この頃はすでに明国や朝鮮などとの交易には名義上は大友の看板を利用した対馬国の国人や博多の豪商らに実利は移ってしまっており、またそれらの国からの輸入品は食料や武器など経済・軍事的に影響する物は少なく大友に利益をもたらすものでなかったからポルトガルより与えられた鉄砲・大砲・黒色火薬は島津との戦いに大きく役に立つものと考えられた。
そして先ずは豊後の府内、そして五ヶ瀬川の戦いの後には丹生島城の城下に修道院と大聖堂が立てられ、やはり大聖堂には大きな十字架が掲げられたのだった。
そして彼はキリスト教の教義を聴き、領内での布教を許可し、自らもキリスト教に改宗したことから、領内でキリスト教の信仰が拡がって行くことになる。
しかし彼の正妻である奈多夫人は八幡奈多宮の大宮司・奈多鑑基の娘であり、天文19年(1550年)に嫁いできたばかりであったから夫婦の間で亀裂が生じたのは言うまでもない。
しかし府内・臼杵にキリシタン寺院が建てられそれとともに宣教師の住宅も構えられ、学校や病院・孤児院といったキリスト教の付帯施設も立てられ、病院では豊後の風土病であるらい病(ハンセン病)の治療を行うとともに、身分や貧富を問わず無料で診療したため、大友家の有力家臣もキリスト教へ改宗するものが出ると改宗を拒む家臣やその配下の民衆との間で軋轢が生じていくのは平戸の松浦氏と同様であった。
大友義鎮がキリスト教へ改宗した理由は二階崩れの変、他姓衆の離反、五ヶ瀬川の戦いの大敗などによって心が弱っているところに宣教師によって付け込まれたのもあるし、ポルトガルにより与えられる武器がどうしても必要であったからでもある。
端的に言えば大友は島津によって追い詰められていたためポルトガル人の助力を欲していたし、ポルトガル人としても大友を支援して島津をどうにかせねば日本の布教は難しいという認識に至っていたのだ。




