山口に戻って組織の再編成などを行おうか、そして但馬を制圧したぞ
さて、堺でやることが終わった俺は諏訪勝頼とその一行10名程度を引き連れて山口へ戻ることにした。
「これはなんとも変わった形の大きな船ですね」
大型ジャンク船を見た諏訪勝頼が感心したようにいう。
「ああ、でかけりゃいいってもんでもないが、大きな船が有ったほうが色々と便利だからな。
見た目的にも強いってのがわかりやすいし」
「なるほど、見た目というのは大事ですね」
「ああ、こっちのほうが圧倒的に強そうだと思えば、戦わなくても従うものが増える。
とはいえ権威とか家格とかいろいろあるからそう単純でもないけどな」
「ええ、そういうものですよね。
私は諏訪四郎勝頼……武田に生まれたにも関わらず武田と認められなかった男ですから」
「まあ、そのせいで命が助かったと考えればいいんじゃないか?」
「そうですね……」
諏訪勝頼の母親は諏訪頼重の娘だ。
そして武田晴信が諏訪氏を武力制圧した時に彼女を側室に娶ったが、彼女は諏訪氏の再興をのぞんだし晴信も諏訪を武田に取り込むために必要だと思ったのだろう。
そして諏訪勝頼は武田の重臣から彼が諏訪を再興して、武田から独立するのではないかとすら考えられていた可能性もある。
尼子晴久と新宮党の吉田(尼子)国久の例などもあるから、そういったことがないとも言えない。
諏訪に対して騙し討ちのようなことをしたこともあって、信濃にたいしての武田の支配はなかなか進まなかったのも事実だしな。
「当面の間は俺の直参扱いで兵は貸し与える感じになる。
武功を上げれば土地とか官位とか金を与えることも出来るようになるが、まずはお前さんが俺の下で役に立つということを周りに示すことさ」
勝頼は大きく頷いた。
「はい、ありがとうございます」
さて、俺は山口に戻った。
そろそろ内政や軍事の組織も再編成しないといけないだろう。
山口に重臣連中を集めて話を伝えて組織を構築していく。
まずは西征大将軍ということで組織のトップは当然俺。
俺は長門探題長官兼中国方面軍総司令官でもある。
そしてその他の方面司令は弟たち。
まず九州探題長官で紀伊方面軍の将軍は畠山義弘、四国探題長官で四国方面軍の将軍は一条歳久。
そろそろ家久にも一軍を任せてもいいかなとも思うが、現状では俺の親衛隊扱いだ。
諏訪勝頼も同じような扱いだな。
「こんな感じでどうだ?」
「俺は問題はないぞ」
「うむ、俺もだ」
俺の問に義弘と歳久は頷く。
義弘は最終的に尾張から今川攻めに当たることになるだろう。
歳久は三好の本拠地阿波に接してる地域を穏当に抑えることに意義がある。
一方の内政だが隠居したという毛利元就を出仕させて俺の側仕えとして働かせることにする。
「やれやれ、人使いが荒いですな」
「そういうがまだまだ元気なのだから問題はあるまいて」
「そうではございますがな」
現在俺の下にいる者で内政担当のトップを構築する。
まず島津の執事で有る伊集院忠朗には内政全般を見てもらい筆頭格とする。
「かしこまりました」
臼杵鑑速には今まで同様に主に国内外交を担当してもらう。
「うむ、わかりましたぞ」
大隅の禰寝重長には国内での商業を推奨させての財政改革を、種子島時尭には琉球方面の交易と外交を、宗義調には朝鮮方面の交易と外交を、波多隆には明や女真方面の交易と外交を担当させる。
日本各地に関しての情報収集や調略などは毛利元就に行わせ、俺の直属の軍師としては角隈石宗をおいておくことにした。
さらに木下秀吉は臼杵鑑速の下で外交の補助を、木下藤次郎は禰寝重長の下で財務の補助を、小寺官兵衛は伊集院忠朗の下で築城補助を、宇喜多直家は毛利元就の下で調略補助を、上井覚兼は伊集院忠朗の下で衛生補助などをそれぞれ行わせるようにする。
そろそろ真面目に金瘡医つまり戦場で刀傷などの処置をする衛生兵的な非戦闘員も増やさんとな。
それとは別に国府の長として清華家や大臣家の久我・三条・西園寺・徳大寺・花山院・大炊御門・今出川・中村といったものを送り、国府の実務官僚やその下の問注所・侍所・火消所・悲田院や施薬院と療病院などには、大臣家を長官と据え置き、羽林家には侍所の侍として働いてもらい、名家や半家は下級官司として実際業務を遂行してもらっている。
問注所の訴訟では土地の権利とかに関係ない貧乏公家のほうが公平に判断できる場合も多い。
そういった公的機関の運営費用は銀山の採掘とか直轄地からの税収で行っている。
現状の島津の統治は大宰府や国府という朝廷つまり中央集権政府の残骸を用いたものでもあるし守護所という封建制の権力体制を利用したものでもあるという奇妙な体制でもあるが、公家や守護に権力を取り戻させるつもりはない。
だが、治安維持を効率的に行わせるのにはやはり役所というのは大事だと思うのだ。
そして但馬の山名だが、山名祐豊とそれに従う田結庄是義と島津の調略になびいた垣屋続成、八木豊信、太田垣輝延の間で野田合戦と呼ばれる戦が起きたが、垣屋続成の兵が田結庄是義の兵をほとんど打ち取るという結果になり、山名祐豊は丹後の一色をたよって落ち延びていった。
そして彼の弟である山名豊定が俺たちに降伏してきたので但馬の名目の当主は彼に行わせることにした。
「では、これからよろしく頼みますぞ」
「は……かしこまりました」
島津の軍門に降るのは悔しいかもしれないが、名門であるというだけでは生き延びられないのが戦国という時代なのだ。