神様の隣への細い糸
領主夫人は笑顔をおさめて真顔で二人をみた。
「この品は素晴らしいわ。ただ、一点改良をお願いしたいわね。戻ってくるのを防いでほしいのよ。」
「……戻ってくる、防ぐ。……それ、……すごく、難しい?」
リュンヌは、ルナが息を呑んだのを見て、事の重大さを肌で感じた。
これまでの「吸い込む」という機能に加えて、「一度吸ったものを閉じ込める」という全く別の次元の要求。
「……ルナ、……顔、怖い。……考え、追いついてない?」
「……っ。夫人様、それは、圧力がかかっても表面を常にさらっとに保つという、極限の構造をお求めなのですね」
ルナの瞳が、これまでにないほど激しく揺れている。損得勘定を忘れるほどの、純粋な「開発者としての壁」に直面した時の目になっているらしい。
「ええ。馬車に揺られる時、あるいは主人と並んで長時間座る時……」
夫人は想像するように一呼吸おいて続けた。
「私たちが一番『不安』を感じるその瞬間を、この布で解決してほしいの。できるかしら、銭導士?」
領主夫人の真剣な眼差しに対し、ルナは拳を握りしめ、そして不敵に笑った。
「承知いたしました。難易度が高いほど、独占した時の利益は跳ね上がりますわ」
選択肢に『断る』というのはこの場ではないに等しい。
「リュンヌ、私たちの『ひょうたん』を、もう一段階進化させてご覧に入れるわよ!」
「……やっぱり、そう来る。……ルナ、……やる気。……でも、どうやって?……水苔だけじゃ、足りない」
リュンヌは自分の指先を見つめた。
より細い繊維か、あるいは水の流れを一方通行にする「弁」のような仕組みが必要になる。孤独な夜の針仕事では辿り着けなかった、未知の領域。
「それが成功した暁には、この品を社交界へ持参できるわ」
領主夫人はそう言って第二夫人夫妻へも笑みを向けた。
そして、更にもう一つ衝撃情報をつけ加えた。
「銭導士さんが開発者ならこちらもお伝えできるわね。この要望はルス教の副光主様もお望みよ」と。
副光主とはルス教全体のナンバー2。権力者中の権力者の一人だ。
「……ふく、……こうしゅ。……教会の、偉い人。……空の上、……どころか、神様の隣」
リュンヌは帰路の馬車のシートに深く沈み込み、あまりの衝撃に言葉を失ったままだった。
ルス教のナンバー2――それはこの国の、いや世界の秩序を司る頂点の一角だ。
自分たちが宿屋の隅っこでガニ股になりながら作っていた試作品が、まさかそんな雲の上の存在の耳にまで届いているなんて。
「……ルナ、これ、大変。……副光主さま、怖い。……失敗、許されない」
「っ、ふ、ふふっ。副光主様ですって? 最高のクライアントじゃない! 」
若干の強がりも入りつつ?ルナはリュンヌに先の希望をぶつける。
「これでもし『逆流防止』に成功したら、私たちの『ふかふかの安心』は、教会の公式な『聖遺物』にだってなれるわよ!」
ルナは興奮で顔を紅潮させ、震える手で空中に架空の金貨を数えるように指を動かしている。
だが、その瞳の奥には、かつてないほどのプレッシャーに対する鋭い光が宿っていた。
「……ルナ。声、裏返ってる。……銭ゲバ、……通り越して、……震えてる」
「うるさいわね! これは『恐怖』じゃなくて『武者震い』よ! あんた、いい? 今までの水苔をただ詰めるだけのフェーズは終わりよ」
そして高い開発目標を掲げた。
「副光主様に献上するからには、絶対に肌を濡らさない、汚さない、完璧な『防壁』を構築しなきゃいけないんだから!」
馬車が第二夫人夫妻宅へと向かって走り出す中、リュンヌは窓の外を流れる景色を見ながら、自分の指先をじっと見つめた。
「……副光主様の、……肌。……私たちの、……布。……逆流、させない。……一方通行のからくり」
物理的な「弁」を作るのか、それとも繊維の密度で差をつけるのか。
ルナの頭脳と、リュンヌの生活の知恵が、今、人類未踏の「衛生革命」という高い壁に挑もうとしている。
「……帰ったら、……すぐ実験。……おばちゃんたちの、……茹でた苔。……もっと、細かく、選ぶ」
「ええ、やるわよ! 聖女と護衛の意地、見せてやるわよ!」
第二夫人夫妻とリュンヌは『聖女』でなく『銭ゲバ』と思ったがツッコミはやめておいた。




