砥石の音の中のQOL
いつもの、宿の窓から昼の暖かい日差しが部屋の中を照らす。
シャーッ、シャーッと砥石の音が窓から外に漏れ出ている。
薄い黄色の部屋着の上に汚れないように布を引いて自らが作ったナギナタの刃を研ぐリュンヌの姿がある。
「……あーあ。もう、そのストイックさだけは、どんなに高度な計算式を持ってきても解析不能だわ」
ルナは、ベッドに寝転んで帳簿を検算するのをやめ、大きなため息をつきながらリュンヌの方を向いた。
窓から差し込む暖かな陽光が、集中するリュンヌの横顔を柔らかく縁取っている。
シャーッ、シャーッという規則正しい砥石の音。
それは、先週までの貴族院の罵声や権力闘争の汚れを、一枚ずつ剥ぎ取っていくような清冽な響きを持っていた。
「ねえ、リュンヌ。せっかく王家から『天文学的数字』の慰謝料を分捕ったのよ?」
ルナは意味不明という顔でリュンヌに声をかける。
「武器の手入れなんて、街で一番の研ぎ師に外注すればいいじゃない。」
至極当たり前の提案をルナはリュンヌにしてみる。なにせ金銭には不自由していないのだ。
と言いつつここは前のまま何も変わっていない。
「わざわざ部屋着を汚すリスクを冒してまで、自分でやるなんて非効率だと思わない?」
口では毒づきながらも、ルナはベッドから起き上がり、リュンヌの傍らまで歩み寄った。
部屋着の黄色が日差しに透け、彼女の纏う空気も、「ツキ」という影を脱ぎ捨てた「ミツミ・リュンヌ」という少女のものになっている。
「……自分、でやる。……ルナの、……護衛するため、……私が、……研ぐ」
リュンヌは手を休めず、けれどもしっかりとした口調で答えた。
研ぎ澄まされていく刃に、窓からの光が反射して、ルナの碧色の瞳をチカッと刺す。
「……ふん、相変わらず一途すぎて、私の合理主義が入り込む隙間もないわね」
そう言いつつ、リュンヌの作業を眺めるルナ。
「……でも、そうね。その刃が曇っていたら、次に私が誰かの顔を札束でひっぱたく時に、格好がつかないもの」
ルナはリュンヌの頭を、乱暴に見えて、壊れ物を扱うような優しさで撫でた。
「おじいさんに言われた通り、私は『効率』を失った」
言ってる内容に反してルナの声は明るい。
「だから、これからは無駄に高いお茶を飲んで、無駄に長い時間をかけて、あんたがそのナギナタを研ぐのを横で眺めててあげるわ」
しかし『銭導士』は現役のためいつものセリフが飛び出る。
「……あ、でも、その部屋着に鉄粉がついたら、洗濯代はあんたの取り分から差し引くからね?」
やはり銭ゲバである。
「……うふふ。……ルナ、……やっぱり、……優しい。」
そんなルナの言葉をリュンヌは余裕で受け流した。
「うるさいわね。これは『友情』なんて不透明な資産じゃないわ。将来に向けた『先行投資』よ!」
砥石の音は、再び響き始める。
昨日までの血の匂いも、権力の腐臭も、もうここには届かない。
二人の少女の新しい「帳簿」の1ページ目は、昼下がりの穏やかな日差しと、ただ静かに刃を研ぐ音だけで満たされている。
「そうそう、おかしな話よね。月に一度の低成長期まで一緒に来るなんて。」
ルナは笑う。
リュンヌはぶっ放した。
「……結婚……も同時……だったりして。」
「な、ななな……なんですって!? 結婚!? ちょっと待ちなさい、今の発言は聞き捨てならないわよ!」
ルナは水色の部屋着の裾も構わず、ベッドの上でまるで獲物を逃した投資家のように激しく手足をバタバタさせた。
枕を掴んでリュンヌに投げつけようとするが、研ぎ澄まされた刃の輝きに一瞬怯んで、そのまま枕に顔を埋めて叫ぶ。
「同時!? 何が同時よ!」
何故にそこまで動揺すると呆れるリュンヌを横目にルナは真っ赤になっている。
「月に一度のブルーな低成長期が重なるのは……」
ルナは目を白黒させる
「まあ、衣食住を共にする『戦略的パートナー』として生理的な同調が起きていると説明がつくわよ。」
気づけばルナは耳まで真っ赤である。
「でも、人生最大の不確定要素まで同時なんて、そんなの、あたしの人生設計に一文字も書いてないわよ!」
ルナはがばっと起き上がり、髪を振り乱したままリュンヌに詰め寄る。
「あんた、誰かいるの!? どこの馬の骨よ! どこの不良債権があんたっていう優良資産を狙ってるのよ! 」
出会ってから一番の混乱ぶりだとリュンヌは認定する。
「言っておくけど、あんたの価値を正当に評価できる人間なんて、この世界にあたし以外にいるはずがないわ。」
他人が聞けば、これは愛の告白かとからかいたくなりそうなセリフを無意識にルナは言う。
「持ち主であるあたしを差し置いて、資産が勝手に市場流出するなんて、契約違反もいいところよ!」
リュンヌは、そんなルナの錯乱ぶりを、砥石の音を止めることなく、どこか遠い目で見つめている。
「……ルナ、……暴れすぎ。……ホコリ、舞う。……結婚相手……。……ルナみたいな、……うるさい人だったら、……毎日、楽しいかも……」
「あたしみたいな……って、それ、あんた、あたしと結婚するって言ってるの!? 」
ルナはあわあわした口調で続ける
「それともあたしに似た『代わりの物件』を探すってこと!? どっちにしろ論理破綻よ!」
ルナは顔を真っ赤にして、再びベッドに沈み込んだ。
「あー、もう! 効率! 効率はどこへ行ったのよ! 」
ルナは失くしたはずの効率を求め出す。
「リュンヌ、あんたはあたしの隣で、あたしが札束で世界を殴りつけるのを横で見ていればいいの。」
リュンヌは物騒な話だと思う。
「それが一番の『平凡』で、一番の『高利回り』なんだから。余計な『縁談』なんて、あたしが全部不渡りにしてやるんだからね!」
部屋着をはためかせて暴れるルナと、静かにナギナタを研ぐリュンヌ。
窓から差し込む平和すぎる日差しは、この「人生最大の計算違い」を、優しく笑うように照らし続けていた。
「……ふん。QOL(生活の質)の向上は、持続可能な幸福の追求における最優先課題だわ」
動揺が少しおさまってきたのかいつものルナの調子が戻って来た。
「お茶のグレードも、シーツの肌触りも、そしてあんたのナギナタのキレもね」
ルナはベッドの上でようやく暴れるのをやめ、乱れた銀髪の間から不敵な、それでいてどこか充足感に満ちた笑みを浮かべた。
窓の外では、街の喧騒が遠く響いている。
かつて「勇者」と呼ばれた男が破滅し、王家という巨大な不適合物件が再建の道を歩み始めたことなど、この部屋の平穏には何の影響も与えない。
「……ルナ、……お茶、……入った。……いい匂い。……お菓子、……前に……没収したやつ」
「当然よ。最高級の『償い』の味を堪能させてもらうわ」
そう言いながらベッドから立ち上がるルナ。
「……ほら、リュンヌ、あんたもナギナタを置いてこっちに来なさい。効率よく休息を取るのも、一流の『ミツミ』の義務なんだから」
砥石の音が止まり、湯気の立つカップが二つ。
計算高い銀髪の少女と、静かに微笑む黒い瞳の少女。
二人が手に入れたのは、奪われた過去の清算金だけでなく、誰にも邪魔されない「今日」という名の、最も価値ある無形資産。
帳簿に記されることのない、けれど何よりも重い幸せの数字を積み上げながら。
少女たちの「平凡」で「特別」な日々は、黄金色の日差しに包まれて、どこまでも穏やかに続いて




