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第149話 客の消えるブティック

ついに、というかやっと10章




 ◆





『客の消えるブティック』───そんな話を聞いたことがあるだろうか?



 街の片隅に、それはひっそりと佇んでいる。一見すれば何の変哲もない、上品なブティックだ。

 柔らかな暖色の照明に包まれた店内には、流行の最先端を行く洗練された洋服が美しく並び、店員は穏やかな微笑を浮かべて客を迎え入れる。



 だが、その店の試着室にだけは、決して足を踏み入れてはならない────古くから、この街ではそう囁かれ続けている。



「素敵な店ね、入ってみましょ!」



 妻が弾んだ声でそう言い、店内に吸い込まれていったのは、ほんの数分前のことだった。

 何気ない旅行のひとコマ…

 どこにでもある、特別な意味などないはずの光景だった。


 彼女は気に入った一着を手に試着室へと向かい、軽やかな音を立ててカーテンを閉める。

 夫は入り口近くのソファに腰を下ろし、スマートフォンを眺めながら彼女が出てくるのを待っていた。


 しかし、いくら時間が経過しても、カーテンが開く気配は一向にない。



「遅いな……」



 微かな不安に駆られた夫は、近くにいた店員に声をかけた。



「すみません、妻が試着室に入ってしばらく経つのですが……」



 しかし、店員は怪訝そうな顔をして首をかしげる。その瞳には、慈悲深い無関心が宿っていた。



「お客様は……一体どなたのお話をされているのですか?」



 心臓が一瞬、強く跳ねた。


 妻は確かにこの店に入った…

 自分と一緒に扉をくぐり、鏡の前で悩み、試着室へ向かう彼女の後ろ姿をこの目で見たはずだ。


 しかし、店員はまるでそんな客は最初から存在しなかったかのような、冷ややかな態度を崩さない。

 夫は焦燥に突き動かされ、試着室のカーテンを乱暴に引き開けた。

 


 そこには、誰もいない────。



 まるで最初から、その空間には誰も存在しなかったかのように。

 妻が持っていたはずの服も、試着室の床に落ちているはずの私物も、何一つ残されていない。

 ただ、鼻腔を微かにくすぐる彼女の香水の匂いだけが、確かにここにいたという唯一の、そしてあまりに儚い証だった。




 ────それから数年が経った。


 夫は諦めきれず、半ば狂乱しながら、何度目かの捜索のためにその国を再び訪れていた。

 しかし、どれだけ金を積み、街の隅々まで這いずり回っても、警察に縋り付いても、収穫は皆無だった。

 妻の痕跡は、この世界のどこにも見つからなかった。


 疲れ切り、絶望の淵で心が死にかけていたその夜。

 現地で知り合った男と安酒場のカウンターでグラスを傾け、虚ろな世間話に興じていると、その男は濁った瞳でこう言った。



「今日は面白いところに連れて行ってやるよ」



 誘われるがままに夜の闇を歩き、辿り着いたのは、街外れに設営された巨大な見世物小屋だった。

 外観は古びて剥げ落ちているが、夜の闇に鮮やかに浮かび上がる看板には、おどろおどろしくも好奇心をそそる言葉が躍っている。


 中に入れば、そこは異世界の混沌だった。


 奇妙な芸を披露する異形者、

 常識を疑うほど関節を曲げる曲芸師、

 不気味なほど精巧に作られた生気のない人形たち……。


 異様ではあるが、観客の熱狂的な歓声に包まれたその場所には、一瞬だけ現実の地獄を忘れさせる、毒々しい活気が満ちていた。


 ふと、人だかりができている一つのテントの前を通りかかる……

 そこには『日本のダルマ』という看板が掲げられていた。


 行列は長く、観客の期待に満ちた囁きが漏れ聞こえてくる。

 赤黒い布がかかった入口の奥からは、何かをすり潰すような不快なざわめきが漂っていた。

 夫は言いようのない胸騒ぎに襲われながらも、吸い寄せられるように中へと足を踏み入れた。


 テントの中央には、一体のダルマらしき『ナニカ』が台座に鎮座していた。

 だが、それは到底、無機質な人形などではなかった。


 まるで生きているかのように、ゆっくりと、力なく視線を動かしている。

 喉の奥から漏れる、獣のような呻き声を上げながら観客を見つめ返していた。

 その瞳には、剥き出しの意思と、深い絶望が宿っている。

 赤く塗りたくられた肌は、奇妙なほど艶やかに光り……そして、その輪郭にはどうしようもない既視感があった。



 鼓動が早鐘を打つ。



 頭の奥底に焼き付いて離れなかった愛しい記憶が、泥沼の中から這い出すように、じわじわと浮かび上がってくる。



 そして、次の瞬間────



 彼は、絶句した。

 目の前に鎮座する『ダルマ』は、四肢を無残に切断され、喉を潰されて声すら出せなくされた、あの日の妻であった────。





 ◆





 「中々興味深い都市伝説だと思わない?」



 クトゥルは、高級感の漂う店内をゆっくりと遊歩するように歩きながら、アザートへと冷ややかな視線を投げた。


 優雅に振る舞う店員たちの所作、計算された柔らかな照明…

 そして整然と洗練された服が並ぶこの空間。

 その完璧な静謐のどこに、『客の消える試着室』などという血生臭い噂が潜んでいるというのか。


 アザートは、眼前の陳列されたジャケットを一瞥しただけで興味を失ったように視線を逸らし、鼻で低く笑った。



「都市伝説なんてのは、暇を持て余した頭のイかれた奴らの妄想だ……信じるに値しないな」



 クトゥルはアザートの冷淡な言葉を聞き流し、白衣の袖から覗く細い指先を口元に当てて、微かな微笑を浮かべる。



「でも、その“イかれた人達”が騒ぎ立ててくれるおかげで、私達に仕事が舞い込んでくる。……それも悪くないんじゃないかしら?」



 今回の依頼内容は至極シンプルだった。

 この店の試着室で客が忽然と姿を消すという不気味な噂の真偽を確かめること。

 もしその原因が「異形者」によるものならば、その根源を排除する────それが彼らに与えられた役割だ。


 クトゥルは棚の一つから、無造作に一着の服を手に取った。

 光沢を湛えた、淡いブルーのドレス。

 彼女自身、その服のデザインにさして興味があるわけではない。

 ただ、怪異の入り口とされる試着室へ足を踏み入れるための「小道具」としては、それで十分だった。



「じゃあ、実際に私が試してみるわね」



 アザートは重々しく腕を組み、退屈さを隠そうともせずに店内を無機質に見回した。



「勝手にしろ。やってみろ」



 クトゥルは軽く肩をすくめて応じると、迷いのない足取りで試着室へと向かった。

 厚手のカーテンを音もなく閉め、密閉された空間へと身を投じる。

 正面に設置された全身鏡の前に立ち、手にしたドレスをゆっくりと自身の体に当ててみる。


 だが、そこにあるのは自分の冷めた眼差しを映し出す鏡面と、静まり返った空気だけだ。

 異変の前兆も、空間の歪みも、何も起こらない。

 そのまま、数分の時が虚無に流れた。

 彼女は何事もなかったかのようにカーテンを開き、アザートの待つ場所へと戻った。



「……消えなかったわ」



 アザートは期待外れだと言わんばかりに鼻を鳴らし、高く無機質な店の天井を仰ぎ見た。




「決まりだな、依頼人がイかれた奴だ」



 吐き捨てるように言ったアザートに対し、クトゥルが何かを言いかけ────その瞬間だった。



「おい、どうした? 長くないか?」



 別の試着室の前に立っていた一人の男が、苛立ちと不安の混じった声で戸を叩いた。

 返事はない。男はみるみるうちに顔色を変え、焦燥に駆られた様子で試着室のカーテンを勢いよく引き開けた。


 その中は────空っぽだった。


 たった今、連れの女性が入っていったはずの狭い空間には、人影はおろか、脱ぎ捨てられた服の一着すら残されていない。

 男の顔面は一気に血の気が引き、震える声が店内に響き渡る。

 異常を察知した店員が、音もなく滑らかな足取りで近づき、何事かと男に問いかけた。



「彼女が、試着室に入ったんです……でも、いなくなって……!」



 必死に訴える男に対し、店員たちは一様に美しい眉をひそめ、至極怪訝そうな表情を浮かべる。



「……申し訳ありませんが、当店にそのようなお客様は来られておりません」



 男は唖然として、激しく視線を泳がせながら店内を見渡した。

 そんなはずはない。彼女は確かに自分と一緒にこの店へ入り、目の前で試着室へと向かったのだ。

 カーテンを一枚隔てただけの場所から、煙のように消えるなどあり得ない。



「何を言ってるんだ! 彼女はここにいたんだ!」



 狂乱に近い叫び声を上げる男。

 しかし、店員たちは磁器のような無機質な表情を崩さず、「そのような方はおりません」という残酷な否定を繰り返すだけだった。


 その光景を、クトゥルは喧騒から切り離されたような静寂の中で眺めていた。

 彼女の薄い唇が、愉悦を含んだように僅かに弧を描く。




次回投稿は来週です。

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