4 家族
「注文は。」
どんっと、ワインの入ったグラスを机にぶつけながら、私は言いました。
なんともつっけんどんですが、内心は何を言われるのかとひやひやしています。
目の前に客として現れた男は、際立った容姿の男でした。
長いまつげが、憂いのある瞳にかぶさって
さらさらと流れるようだった髪は束ねて背に流れていました。月の色を湛えたまっすぐな髪がランプの光を反射して輝いています。
「5ギーグで何が食べられる?」
男はこちらを見ませんでした。
「晩御飯よね?だったら、山猪の串焼きかシチューを選んで。これがそれぞれ2ギーグよ。それにパンをつけるなら1ギーグ。食後に果物を付けるて1ギーグ。今出したワインが5ギラ。食後にもワインかお茶を出して5ギラ。これでどお?」
「なら、シチューとパンに、酒の肴につまめるものを。食後にワインをもう一杯」
「わかったわ、つまみだったら果物よりもスパイスで炒った胡桃がいいかしら。全部で5ギーグきっかりよ。」
「ならそれで。ちなみにこの店はいつまでやってる?」
からんっと、硬貨が一枚机の上に置かれました。
私は、さっとテーブルの上に指を滑らせます。
「客がひけるまでが店を開ける時間よ。いつもはまだ、あと3刻は開けてるわ」
「君と話がしたい」
美しい人は言いました。
「……残念だけど、私に話したいことはないわ」
「いやならば今ここで……」
「やめてちょうだい。私はここで幸せに暮らしているの。伝えられることはそれだけよ。」
「…………。」
「食べたらすぐに出て行って。お客さんはあなただけじゃないんだから。」
私は騒がしい喧騒の中でに戻りました。
軽口をたたく男たちの間をすり抜け、卑猥な野次を笑い飛ばして働きます。
粗野で明るい男たちの中は不思議と居心地がよく、忙しさの中で美しい男のことはすっかり忘れていました。
いえ、忘れようとしていました。
背筋を伸ばして食事をとる姿一つとっても、筋肉の薄い体躯ひとつとっても、まるで店になじんでいません。店の端で一人座る男の周囲は、しんと静まり返っているように空気が違って見えました。
*****
仕事が終わり、泥酔した客を外におっぽり出しで、皿を片付けているとお上さんが手招きしました。
「あんた、いい人待たせてるんじゃないか。今日はもういいから、早くお行き」
呼ばれて覗いた裏口の扉には、美しい男が立っていました。
私は吸い寄せられるように、勝手口をくぐりました。
戸口に立った私を見ても、彼は何も話しません。
何から話せばよいのか、お互いに分からず、ただ会話もなく黙って遠くの地面を見ていました。
しかし、その沈黙も長くは続かず。最初に口火を切ったのは、彼でした。
「大きくなったね」
ぽつりと、夜に響く声は艶を帯びたテノールです。声だけ聞けば、まったく見知らぬ男性と話しているような気になって、私は酒場の男たちにするように薄っぺらい言葉を返すことしかできませんでした。
「それはそうでしょ。私も19歳よ。いっぱしの働き手でわ。」
「きれいになった」
「看板娘だもの、綺麗にしなくちゃお客さんも来てくれなくなるわ。」
「今は幸せかい」
「ええ。とっても。毎日働いてるの。楽しいわ。」
私が言葉を押し出すたびに、兄の知らない私の姿が現れてきます。
なぜかそれが寂しく、私はただただ話し続けました。
「ここの奥さんに気に入ってもらったの。厨房にいた息子のダジーニと所帯を持てって、発破かけられてるのよ。」
何をどう答えても、相手の声は穏やかでした。
「その息子と、結婚するのかい」
「できれば、したいわね。どうなるかはまだ分からないけど。」
「その男を愛しているのか。」
「そんなの分からないわ。でも、不器用だけど大切にしてくれると思うから、私はそれに応えることができたらいいと思ってるの。」
「どうして、僕ではだめだったんだい?」
「………………。」
「僕と結婚してほしいって、昔言ったことがあったね。僕は気遣ってもらってばかりで、何も返せるものがなかったから、それがもどかしくて歯がゆい思いでいたけれど、精一杯大切に思っていたよ」
「知ってるわ」
「だけど君はその日を境に、突然いなくなってしまった。僕の体が弱かったからだめだったのかな、それとも寝てばかりいた僕は頼りなかった?」
本当のことなど言えるわけがありませんでした。
「あなたのことは、小さなお兄様のことは大切だわ。でも私たちは家族だったのよ。兄妹なの。」
ああ、なんて気持ちのこもらない言葉でしょうか。
兄が向ける視線も、私が向ける視線も、兄妹という関係で交わされるものではありませんでした。そんなこと、互いによく分かっていたはずでした。
兄は小さくため息をつきました。
「僕はね、あれからすぐに学校に通ったよ。賢いとね、学校は無料で教育を与えてくれるんだ。体はあまり強くはならなかったけど、大学まで出て小さな会社を立ち上げたんだ。順調に利益も上げて、今は小さな船を持つようになったよ。」
ただただ静かな声。
何かを耐えて生きてきた、男の声でした。
「ねえ、僕たちは確かに兄妹だけれど血はつながっていない。家の戸籍も血縁があるという表記は残っていない。」
「ええ、そうね」
「兄妹であるとか、僕たちの間で、そんなこと、関係なかっただろう。ただお互いを大切にしていた。僕はそれがずっと続くのだと、思っていたんだ。」
早口になって、兄はささやくように続けました。
「ずっと、一目だけでも会いたかったよ。僕はあの家を出たけれど、君のおかげで生きてこれたんだ」
私は、はっとして兄を見上げました。
熱に浮かされたような目を、もうしていませんでした。薄く細めた目は理性の光を持って微かに輝き、引き締まったほほは少し強張っていました。
兄は分かっているようでした。
私たちが、ただの兄妹という以上の想いで互いを縛っていたことを。兄は小さい家の中で当たり前の愛情に飢えており、私は兄の美しさに我を忘れて崇拝していました。
でも私の歪んだ思いなど関係なく、兄にとって必要なものを与えたのは紛れもなく私でした。そうして築かれた深い関係を、愛や恋というものだと勘違いさせてしまうほど、どろどろと甘やかしたのは私です。
私にとってそれは愛でも恋でもなく、薄汚れた欲望を押し付けただけだということは、とっくに自覚していたことでした。私は自分勝手に兄を甘やかし、自分勝手に兄を突き放しました。兄が救われたと言うならば、それは私の勝手な欲望によって、勝手に救われただけなのです。そして、私の裏切りによってひどく傷ついたであろうことは、間違いないはずなのです。
しかし、私の自分勝手に振り回されただけの兄は、すべてのことを飲み込んで、
恨み言など一言も告げず、ただ、私のおかげで生きてこれた言ってくれるのです。
呆然と言葉を返せないでいると、兄に目を覗き込まれました。
そのとき気づきました。兄はこれからの話しを何一つしていません。そして、私の裏切りについて無理に話をさせようとはしませんでした。
だからでしょうか。私は今、兄が自身の過去に決着をつけるためにだけにここに来たのだと、理解したのです。兄の人生に深く関わった私という人間と会い、自身の過去を真に過去のものにするために会いにきたのです。
このまま、兄が立ち去れば、きっと二度と会うことはない。
私は直感し、そしてうろたえました。
「まって」
「あの、わたし。」
「わたしっ……」
もう、私の前にいるのは王子様でもなんでもなく、ただ一人の男でした。
理知的な目でものを語り、落ち着きのある身のこなしで自分の人生について語ることのできる、ただの男。
浮世離れした美貌は健在でしたが、自分の殻に閉じこもって憂いばかりを瞳にのせる幼い王子様のような面影は鳴りを潜め、ただ実直に自分の人生を歩んでいこうとするつまらない、本当に、つまらない男になってしまったようでした。
私ももう、どろどろに甘やかすような言葉はかけません。閉塞した部屋で過ごしたときのような、物語の中の侍女のような甲斐甲斐しさはかけらも持っていません。下町に生きる口ばかりが達者な埃まみれの娘でしかありませんでした。
だから、ただ素直に言葉をつむぐことができました。
「会えてよかったわ。生きていてよかった。」
「私はあなたから逃げたのよ。なじっていいの。怖かったのよ。会って話して分かったわ。私はいつだってあなたにきちんと向き合ってこなかった。あなたに責められたかった、私の不実を糾弾してほしかった。」
わけが分からない言葉ばかりが口から出ました。でもそれが本心でした。
糾弾し、断罪してほしかった。私の罪はそれでしか許されないのです。
そして、顔を合わせたからには、過去を清算しなければならない。そうしなければ、新しい関係を始めることができないのだと思いました。
私の視界はゆがんでいました。短い言葉でしたが、精一杯の言葉でした。ずっと一生抱えていなければならない罪をようやく白日の下に引きずり出したのです。
心が吹き零れるように目から涙があふれました。
ゆがんだ視界の中で、兄が私の顔を覗き込みました。
兄の眼の中には、ひどく取り乱した女の顔が写っていました。
「……あなたは、正しいことをしました。あの家で、僕は人の情に飢えていました。それを満たし、
人間らしい感情と生きることの希望を与えてくれたのは、間違いなくあなたでした。でも、そのまま僕が甘やかされてすごしていたとしたら、一生あの家に囚われて死んでいったでしょう。」
「あの時の私は、結婚という言葉であなたを縛り付けて、閉じた部屋の中で共に腐る将来しか見ることができなかった。でもあなたが部屋から出て行って、僕は外の世界を知りました。僕は働くことができるようになりました。」
「あなたに見放されて、混乱していた僕は人の心の機微を貪欲に知りたくなった。もう一度あなたに会いたいと思ったから外の世界に飛び出して、今ここにいるのです」
私はただ首をふりました。そうではない、そうではないのです。
未来を切り開いたのは兄の努力の結果です。私はただひたすら、ひどい裏切りをしただけの女なのです。
「だから、いいんです。」
言葉もなく泣き続ける私に、兄はぽつりぽつりと言葉を続けました。
「素敵な、女性に、なりましたね」
迷子になったような心持ちで見上げました。
「元気で、美しく、皆に愛される人になったのですね」
昔と同じ言葉遣いで、そう言葉を吐く美しい兄は、まるで知らない人のようでした。
「僕の妹にはもったいないほど、美しい人になりましたね」
涙が溢れました。
ああ、これで過去のねじくれた私たちの関係は許されたのだと思いました。
私にはそんな確信がありました。
最初から、兄にとって、過去、私がどうであったかなど関係なかったのです。ただ私を見ようとしてくれていたのです。現在を生きる私を見て、繋がらなかっら未来の先を、兄はきっと目で見て確かめたかったのだと、私は思いました。
私はもう、兄に自分の妄想と理想を押し付けようという気持ちは一かけらもありません。兄も、血縁関係を超えた愛情という言葉で私を縛ろうとは思ってもいないようでした。
放られて、ぽっかりと浮いてしまった過去はどこかに吹き飛ばされ、今確かに存在しているのは、私と兄。ただそれだけです。
どんな関係を作っていくのかは、これからの私たち次第なのです。そして、今度こそ、私たちは間違えないでいられるのだろうと確信していました。
私たちは幼くて、お互いにどんな感情や言葉を渡していいのか分からなかったのでしょう。私は小さな兄の美しさ目がくらんで、私の妄想を押し付け、小さなお兄様は与えられた愛の返し方が分からずに過剰に私を縛ろうとしたのです。でも、これだけは真実たがえることなく言うことができます。
「私は小さなお兄様を大切に思っていたの」
「知っています」
「本当に、大好きだったのよ」
「分かっていますよ」
兄は涙を流す私の、髪を撫でて抱きしめてくれました。
背中をなだめるように擦られ、暖かい体に包まれて私は子供のように口を尖らせました。過去、何度も繰り返した応酬です。
「いつだって、あなたは僕の大切な人です。」
私はぎゅうっと抱きしめる腕に力をこめました。
否定の言葉など思いつかないほど、嬉しくて。
****
それから、兄はちょくちょくと、私のいる店に顔を出すようになりました。
「今日はお疲れ様。ちょっと痩せたんじゃないかしら?」
「そうかな。今ちょうど、この辺りに支店を出そうか計画を立ているんだ」
「それは大変そうね。今日はゆっくりできるのかしら?」
「すぐに帰るよ。でも、もしよかったら仕事終わりに少し話す時間はあるかい?」
「いくらでも、作るわ」
いいお客さんでいてくれてます。