ひえた毒/後
それからだ。
ろくろを廻していると声がする。
八田みやこの、「浩平くん」と呼ぶ声だ。
そいつはヒルみたいに俺の耳にひっついて離れない。聞いていると、背筋がぞわぞわと粟立ち、俺は居ても立ってもいられなくなる。
声のヒルは耳だけじゃあ、おさまらない。俺の躯のあらゆる所にへばりつく。
そっから、どくどくと俺の一部は吸い込まれていく。そのうち俺は吸い尽くされて、うすっぺらになっちまうんじゃないか。そんな考えがふと頭に浮かんでくる。
このままじゃあいけない。
俺はやにわに立ち上がった。
みょおおんと伸びていた粘土は掌を放した途端に、へにょんと歪み、ろくろの上で崩れていった。
「おい、こら! なにやってるんだっ」
隣でろくろを廻していた宮地さんが、叱責の声をあげる。
俺は首にかけていたタオルを放り投げると、宮地さんに向かってがばりと頭を下げた。
「鈴木浩平。重要問題解決の為、早退いたします!」
叫び終わるなり、俺は誰とも目を合わせないようにして駆け出した。
「おい、コラ!! コーへー!!」
宮地さんが背後で俺を呼んでいる。きっと青筋たてて怒っている。
すんません。宮地さん。でも今は決着をつけなきゃ、器なんざ造ってられないんです。
俺は八田みやこの職場に向かって走って行った。
結論からいえば、教わった事務所に八田みやこは居なかった。
八田みやこはとっくに仕事を辞めていた。
出て来た所長さんの話しでは、寿退職だと言う。
「なんでも婿にはいって実家のお寺を継いでくれる人が、みつかったとか言ってねえ」
いやあ目出たい。めでたい。
頭の禿げた所長さんが朗らかに言う。
俺は顔が引きつって、同意もできなかった。
何故って、八田みやこの辞めた時期は、俺らが付き合い始めた時だったからだ。
こりゃあ、あのおんな。最初から俺をハメるつもりだったのだ。
……女って怖い。いや、違う。コワイのは八田みやこだ。
なにもかも計算ずくかよ。
しかもそこに俺の意思はなしってどういう事だ。
俺は話しを聞いて、なかば業腹になった。
それまではどこか心の片隅で、八田みやこに悪い事をしたって思っていた。
八田みやこは俺が初めての男だと言っていた。そんで家付きだ。焦る気持ちもあっただろう。俺がもうちっと懐の深い大人の男だったら、ほいほいと結婚してやれたのかもしれない。俺のびびりのせいですまない。そう思っていた。
ところがどうだ。
なんだ。そういう事かよ。
八田みやこの欲しいのは寺を継ぐ男であって、もしかしてそれは俺である必要はないのかもしれない。
俺はたまたま釣り上げられただけじゃあないのか? 俺であってもなくても、問題ないんじゃないのか?
ふざけるな。冗談じゃあねえ。
俺は腹をたてながら、悔しかった。
惨めだった。
優しくしてくれたのも。
告白も。全部寺の為であって、俺の為じゃない。二人の為じゃない。
そう思うと、やりきれなくなった。
だからかもしれない。
俺はあれだけ毛嫌いしていた寺まで、素っ飛んで行ったのだ。
※ ※ ※
まっ昼間の空の下。
黒い瓦を乗せた寺の屋根は、まろく反り返って、秋の日差しをびかりと反射させている。門は大きく開いて、境内へと続く砂利道はたった今清められたように、整然としている。
俺は門に手をあて、中を覗いていた。こっそりとだ。
思ったよりも、でけえ寺だ。
なんていうんだろ。
眺めているだけで敬虔な気持ちにさせられる。
どうにも痴情のもつれで、騒ぎ立てにいくのが非常識に思える雰囲気がある。
俺がしばし夏の蝉みたいに門にへばりついていると、後ろから肩を叩かれた。
驚いて振り返ると、作務衣姿の小僧っこがいる。やたら背が低い。背丈だけみたら小学生並みだ。けどいくらなんでも今時の小学生が、寺に勤めたりはしねえだろう。
小僧っこは手に帚をもって、ちんまりとこちらを見上げている。
「どなたさまですか?」
小僧っこが聞いてくる。
その目がどうにも離れている。
鼻もあるんだか、ないんだか分からぬ程に低い。随分変わった顔立ちの小僧であった。
「あ、どうも」
俺は頭をひとつぺこりと下げた。
「どうもでございます。それでどなたさまですか?」
「あ、鈴木浩平です」
思わず名を告げると、「おおっ」喜色の滲んだ声をあげ、小僧がのけぞる。
何だ。なんだと訝しく思っていると、「たいへん! 大変ですよ、皆みな様!」
言うなり帚をぽおおんと投げ出し、境内へと走って行く。
おいおい。帚このままで大丈夫かねと、手にとると、さっきのとは別の小僧がやって来る。
しかも一人二人じゃあない。一気に十も二十もやって来る。
その十も二十もが、やはり揃いも揃って珍妙な顔立ちをしている。
「これは、これは」
「おお、鈴木殿」
「さ、こちらへ、こちらへ」
そう言ってわさわさと、俺の背中やら腰やらを押す。
俺は小僧たちに押し出される格好で、境内へと足を踏み入れた。
「俺を知っているのか?」
「おお、鈴木殿」
「勿論。もちろん」
「お嬢さんなら、裏のお庭におりますので。へい、こちらへ」
一番最初に門前で会った小僧が、俺から帚を受け取ると案内役をかってでた。
小僧の後に続いて、ずんずん歩く。
奇麗に整備された庭は、爺ちゃんの所の廃寺とは比べ物にならないくらい。だんちに奇麗だ。
ここは明るくって、なんていうのか空気が凛としている。
大丈夫。だいじょうぶ。問題なんざいっこも、おこりゃあしない。俺は自分にそう言い聞かせる。
「こちらです」
そう言って小僧が指し示した場所には何故なのか。支柱をたてて、蚊帳がつってある。まるでテントのようだ。俺は小僧に促されるまま、蚊帳を持ち上げてなかを覗いた。
地べたに畳が四畳と半、ひいてある。
そこにちんまりと正座しているのは八田みやこであった。
八田みやこは俺を見ると、「虫がはいるから早くはいって」とせかせる。
確かにそれは道理であるので、素直になかへと一歩進む。
小僧が「どうぞごゆるりと」そう言い残し去って行く。
去り際の、その目つきがどうにも妖しい。
まるで含みわらいをしているようだ。まさか子どもがそんな目つきをするわけがない。俺の考えすぎなのだろう。それでも何故か背筋がぞわぞわとする。この感覚はアレだ。器から、俺を呼ぶ声を聞いた時と同じだ。引き返そうか。まずい予感がどっと押し寄せてくる。
俺のそんな気持ちを見透かすように、「さ、はやく」
八田みやこが更にせかす。俺は諦めて、すっかり中へと入った。
畳の隅に布団が折り畳まれている。他にあるのは三面鏡と、ちいさな和箪笥くらいだ。
八田みやこは奇妙な場所にいるにもかかわらず、やつれた様子もない。優雅に茶など飲んでいる。手前にある朱塗りの盆には菓子まである。
「和三盆。美味しいわよ。浩平くんも食べる?」
俺は首を横に振った。
暢気に茶などしていい訳が無い。まずは話し合いである。俺は八田みやこの前に胡座をかいた。膝がこつんと箪笥にあたる。
「狭い場所でしょう」
八田みやこが言う。
何だってこんな所にいるのかと聞くと、なんでも寺の住職である父親に追い出されたというではないか。
それもこれも結婚もできないような男とねんごろになった娘に、かんかんの勘助だという。
「……」
俺は頭を抱えた。
参った。まいっちまった。
これじゃあ文句を言いたくとも酷く言いづらい。
「それで家をだされたってわけか?」
「ええ。そう」
すました顔で八田みやこは答える。あまり難儀しているようには見えない。
俺は話題を変えた。
「実は造っている器の口から、お前の声が聞こえてくる」
「まあ……そうなの?」
「そうだ。それでえらく困ってる」
「まあ。どうして?」
八田みやこは小首を傾げる。
可愛らしい所作だが、騙されてなんかやるもんか。俺を罠にかけよって算段なんだ。
絆されるな。俺。
「どうって、こっちが聞きてえよ。おかげでろくろもまともに廻せねえ。師匠にがっつり怒られる」
「あらあら」
八田みやこは肩をすくめると、「それはお困りで」しれっとそんな事を言う。
「お前がしてんだろう」
俺が問いただすと、「まさか」言下に否定する。
「わたし、そんな底意地の悪い女じゃありません」
「じゃあなんだって、お前の声が聞こえてくるんだよ」
「そりゃあ。決まっているじゃあないですか」
八田みやこはちらと上目遣いで俺を見る。
声に甘さが加わった。
途端。
悪寒がはしる。
八田みやこは若干躯をこちらへ傾ける。俺はその分躯をひく。気にせず更に寄ってくる。なにせ狭い場所だ。逃げようにも限度がある。
八田みやこは俺の組んだ足に、そっと指先を這わせる。
しろい指だ。
白くてほそい。
この指がどうやって、ねとんと俺の躯に絡みつくのかを思いだす。ヤバいヤバいヤバい! 俺は甘い思いでを消し去るように、頭を振った。
「お前……からくりを知っているのか?」
「からくりなんて、ありゃあしません」
八田みやこの指は俺の足を離れ、うえへ上へと這っていく。
「浩平くんの気持ちが、そんな声を聞かせるんです」
「俺の気持ちなんざ分かってたまるか」
威勢よく言ったつもりが、喉にからまるような擦れ声しかでてこない。
「分かっています。ぜんぶ。丸ごと分かっていますとも」
指は俺の脇腹を通り、とうとう肩にたどり着いた。八田みやこは躯をすり寄せると、そっと俺の耳たぶに唇で触れた。
「浩平くん。わたしを諦めきれないんでしょう? 嫌だと言いながら、好きですきでしょうがないんでしょう?」
そう言うと、八田みやこが耳に突然噛み付いた。
噛むっていっても、力いっぱいじゃあない。
やんわりと。
けれど歯の感触は感じるくらいに、耳たぶを食まれる。
「よせ!」
俺は咄嗟に八田みやこの華奢な躯を押しやった。
そうしながら噛まれた耳を手で隠す。どうにもそこからじんじんと、痺れてきて堪らない。俺の様子に八田みやこは、ふふふと唇の端で器用に笑った。
「俺のことなんざ、本当はなにひとつ分かっちゃいねえくせに。婿入りだの寺の跡目だの。手前の勝手にしたいだけだろうが」
「勝手じゃない」
「勝手だろう」
「勝手じゃないわ。浩平くんが好きなだけ」
そう言うと八田みやこは俺から視線を外して、うすい蚊帳越しに外を見た。つられて俺もそっちを見る。
しろくぼやけた蚊帳越しに、明るい日差しに満ちた庭が広がっている。池もある。でっけえ池だ。
そこには大勢の小僧がいる。俺をここまで連れて来た小僧もいるのかもしれないが、なにせ揃いも揃って坊主頭に作務衣姿だ。
遠目じゃあ区別がつかない。
「浩平くんはわたしが嫌いになったんじゃあない。お寺が怖いんじゃあない。池のなかの正体のみえないものが怖いだけ」
ほら簡単じゃあない。全部分かっていると、八田みやこは胸をはる。
外では小僧たちが、池の周辺にわらわらと集まって来た。
その様子がどうにも変だ。
首からうえがひとには見えねえ。
「おい、あいつら……」
俺が指さした方に、八田みやこはちらと視線を走らせた。
「お掃除しているの。わたしが浩平くんのお嫁さんになれないと、お寺は困るし、わたしも困る。わたしが困って悲しいと、あの子たちも悲しくなるの。だから浩平くんが来てくれて、皆すごくはりきってる」
小僧らは、我れ先にと池へ飛び込んでいく。
作務衣姿のまま戸惑いなく、するりするりと水面へ身を投げるのだ。
飛沫があがる。水に濡れるその顔は、遠目にも変だ。どうにも変だ。
真緑いろだ。あっちはてらてらしていて黒っぽい。
皆ひとの頭をしていない。
「ええ。だってお池の蛙と鮒の子だもの」
さも当然だと言わんばかりに、八田みやこは俺を見る。
宮地さんが怖いと言った、その目はひややかだ。
なのにひえた内に、とんでもない熱がある。
近づいたら、俺はその熱で変になっちまうかもしれない。そんな奇妙な考えが頭に浮かんだ。
蛙や魚のあたまをしている小僧たちは、池に飛び込んではせっせと掃除を始めている。
「蛙とか。鮒とか。あいつら人間じゃあないのかよ」
恐ろしさに顔がひきつる。声が震える。
まさかと思い問いただすと、八田みやこが妙に顔をゆがめて頷いた。
「ええ、そう」
「ええ、そうって……お前」
何だそりゃあ? 俺は寺も駄目なうえに、怖いのも好きじゃあない。やっぱ無理だ。俺は腰をあげかけた。そんな俺に八田みやこは、「大丈夫!!」なにやら必死な声で縋りつく。
「大丈夫って、なにがだよ! 全然大丈夫なんかじゃねえだろう」
俺は外の小僧っこ共を指さした。
「俺は得体の知れない小僧共なんて、気味悪くってしょうがねえ」
「アレらは、父の法力で操っているの。だから浩平くんにはゼッタイたてつかない。安心して。絶対よ。約束する」
「ほうりきい?」
「ええ、そう。立派に修行を積んだからこその力なの。仏さまの力だもの。浩平くんそれでも怖いの?」
ちょっと馬鹿にしたような。試すような目つきで八田みやこが聞いてくる。
「うん……まあ。それなら」
仏さんは確かにコワかあない。俺は再び腰を落ち着けた。
「本当に仏さんの力なのか?」
「当たり前よ。だってお寺だもの」
「ふーーん。そうか。そんであいつらなにやってんだ?」
「皆で池底まで奇麗にしているの。ここの池にはヒルなんて全くいない。だから大丈夫」
八田みやこは再び躯を寄せてくる。
切れ長の黒目が、俺の視界いっぱいに広がっていく。
その瞳を見ていると、どういうわけか躯から力が抜けたみたいになっていく。
手足が自由にならねえ。八田みやこを振り払えない。
「ヒルが怖いなんて、浩平くんは本当に可愛い」
そう言って抱きかかえた俺の頭を撫で回す。
段々頭がぼんやりしてくる。眠くなる。
それでも俺は懸命に八田みやこに問いつめた。
「待てよ。俺がヒルが苦手なんて誰に聞いたんだ」
「あなたの事は全部知っている。わたしも調べたし、あの子達も調べてくれた」
恐ろしいことを、しゃあしゃあと言う。
「初めてお店で会った時。なんて奇麗に丸い頭部なんだって思った」
俺の頭を撫で回す指先から、八田みやこの言葉が染み渡っていくようだ。
「お寺の跡目が欲しくて結婚するんじゃない。浩平くんが好きだから縛り付けたいの」
ね? わかって。そう言いながら、八田みやこが俺の額に唇をおとす。そこから熱がひろがっていく。あっちい。熱くてたまんねえ。
寺の鐘がぼおおんと鳴る。
昼九つを知らせる鐘の音だ。
小僧っこたちは池のなかで、嬉しそうに泥をかきだしている。
ああ、きっと。
驚く程澄んだ奇麗な水になるのだろう。
「好きよ。大好き」
八田みやこが俺に覆い被さってくる。いつの間にか、俺は畳みのうえに横たわっている。
「ほおおい。ほおい」
「それかけ。それかけ。泥をかけ」
「ほおおい。ほい」
小僧っこたちの奇妙なかけ声が、遠く聞こえてくる。
八田みやこの柔らかな躯が俺を包みこむ。唇が俺の線を確かめるように、ゆっくりと躯をなぞっていく。
見上げた蚊帳がしらじらとあかるい。
まるで水底に横たわっているようだ。
気持ち良いのに、息苦しい。
八田みやこの黒髪が、水草みたいに俺に絡みつく。
まるで毒だ。これは毒だ。
八田みやこは甘くて冷たい、俺を仕留める毒になる。
躯が痺れる。逃げられやしない。
俺は八田みやこに抱かれたまま、そっと目を閉じた。世界がしろから、淡い黒になる。
完
最期までお付き合いいただきありがとうございました。
初期プロットでは美術部所属の女子高校生と、陶芸家を目指す青年とのさわやか恋愛ものになるはずでした。どこいった、さわやか路線? 初期プロット?? という様変わりです。元来爽やか恋愛ものよりも、八田みやこのような得体のしれない女性を書く方が好きです。八田さんは得に動かしやすいキャラで大好物です。
「ひえた毒」の時点で、阿呆のコーヘー君は八田さんの正体に気がついていません。『法力』というのは、八田さんのでまかせです。騙されやすいコーヘー君です。
三部作の時系列は「ひえた毒」→「翡翠堂」→「こいし恋し」となります。尚さわやか系ならば、サイドストーリー「こいし恋しと夜になく」をどうぞ。こちらは間違いなく爽やかです。(ただしカラスウリ比)
原稿用紙換算枚数 約40枚