第09話 魔法
「レビア、早速だが頼みがある。おれと一緒にいた子――ルナの様子が見たい」
「かしこまりました。それではわたしについて来てください」
レビアは肩より少し長い水色の髪をはらりと舞わせ、こちらに背を向けた。
彼女のあとを追うように部屋を出る。
長い廊下があった。かなり大きな建物だと分かる。
廊下に人の姿は見えなかった。耳をすませてみたが、人の気配は感じられなかった。
赤い絨毯の敷かれた廊下をレビアに続き歩いた。
右へ左へと何度か通路を曲がったあと、ある扉の前でレビアが立ち止まった。
「こちらにルナ様が眠っておられます」
レビアが扉をコンコンと叩いた。
反応はない。レビアは扉を開いて、先におれに入るよう促した。
小さな部屋だ。
カーテンは閉められていて室内は暗い。部屋の奥にベッドがあり、ルナが眠っているのが遠目にも分かった。
静かに近づく。
ルナは小さな寝息を立てて眠っていた。
――よかった。大丈夫そうだ。
ルナが眠っている姿を見た時、心に温かいものがじんわりと広がった。
「ん、あれ……?」
何か違和感を感じ、ルナをじっと見る。
――耳がない。
あの獣の耳が消えている。
「どうかされましたか?」
レビアに言われ、思考を打ち切る。
「あ、いや。なんでもないんだ。――それよりルナはどういう状態なのか分かるか?」
「体内のマナが枯渇していたと聞いています。応急の手当は施されているので、三日以内には目覚めるでしょう」
またこの単語か。
「なあ、マナってなんだ?」
「……マナのこともお忘れなのですね。申し訳ございません。マナとは体内に流れる魔力のことです。マナを使い果たすと人間は昏睡し、措置が遅れればそのまま死んでしまう場合もあります」
魔力。またよく分からない言葉が出てきた。
記憶がないというのは面倒な症状だと我ながら思う。
「何をすると魔力を使い切ってしまうんだ?」
「高度な魔法を無理して使った場合や、高度でなくても連続して使い続けた場合はそうなります」
魔法、か。
仮面の女が何か唱えた時、地面から黒い帯のようなものが生えてきた。あれは魔法だったんだろうか。
ってことは、ルナも何かしていたということなのか?
何も感じなかったが……。
少し悩んだがルナの獣の耳がないことには触れないでおこうと決めた。無闇に口を開くと、ルナが追われていたことに繋がってしまうかもしれない。
「ルナのことを見れて安心した。起こしたらかわいそうだ。そろそろ出よう」
「かしこまりました。それでは部屋へ戻りましょう」
部屋を出て、レビアの後ろを歩く。
また来るかもしれない。道順を覚えておかなくては。
最初にいた部屋の前まで到着した。
「わたしは夕食の準備をしてまいります。部屋で待っていていただけますか」
「分かった」
おれが部屋へ入ると、レビアは小さくお辞儀をして静かに扉を閉めた。
おれは両手をぐいっと天井へ上げて背筋を伸ばした。
大きく深呼吸をする。
それからベッドへ座って窓の外を見上げた。もう間もなく日が沈むだろう。
おれはこれからどうするべきだろうか。
先導士、マナ、魔法――。ひとまず知識が足りていないことは明白になった。まずはそれを解消すべきだろう。
考えてみれば、おれはこの世界のことが何も分からない。
どういった歴史があるのか、どのような技術があるのか、国は、文化は、政治は、宗教は――。
分からないことばかりだ。なのに思考することだけはできる。
ベッドを降り、レビアが置いていった鏡を手に持った。
のぞき込む。見知らぬ青年が無愛想にこちらを見ている。
「おまえ、一体どこの何者なんだ?」
鏡の中の青年も同じように呟いた。
相変わらず自分の姿とは思えない。
本当におれは何もかも忘れてしまったんだな、と思った。
でも、これで自分の顔はもう分かった。他のこともこれから知っていけばいい。知りたいと思ったものを知ろうとすることから始めよう。
大分部屋が暗くなってきている。
天井を見上げると、天井に丸い窪みがあった。透明なガラスの球がはめ込まれているようだ。あそこに明かりが灯るのだろうか。
「どうやってやるんだろう」
椅子に乗れば手が届きそうだ。
でも触ってどうにかなるだろうか。
「あ、そうか」
魔法か。この世界には魔法がある。そういえば最初に森で急に明るくなったのは、魔法だったのかもしれない。
――よし、試しにやってみるか。
おれは顔を上げガラス球を睨みつけた。
おれは言葉が理解できる。つまり奥底の部分には記憶はあるはずなのだ。それと同様に、心の思うままに唱えてみれば、自然とそれは魔法になるかもしれない。
集中する。
「うぉぉおお! 天よ。我に力を与えたまえ! ライトニング!」
ばっと右の掌をガラス球へ掲げた。
しん、と静まり返る部屋。
何も起きない。
「駄目か……」
「何をされているんですか?」
「うわあ!」
突然声がしたせいで情けない声を出した。
レビアが食器の載せたトレイを持って、いつの間にか部屋の入り口に立っていた。