第02話 耳と尻尾
茂みから飛び出した影が、おれの体に正面からぶつかった。
押し倒され背中から地面に落ちる。
なんだ。何が起きた。
体に何かが乗っている。熱と体重を感じる。ハァハァとおれの耳元に生暖かい息づかいが聞こえた。三角形をした獣のような耳が目の前で揺れている。
おれは咄嗟に体に乗った何かを掴んで、ぐいっと引きはがした。
「…………え?」
と、おれは間抜けな声を出した。
いや待て。待て待て。なんだこの状況は。
「……人間?」
おれが掴んでいるのは人――それも少女のようだった。
少女は逃げるように後ろへ飛びのいた。
おれは立ち上がって、少女をもう一度見た。
彼女は少し離れた場所に座り込んで、自身の足首に手を当てがっている。
「おい、大丈夫か」
「近寄るな!」
強い拒絶の言葉が、おれの足を止めた。
ふいに月光に照らされた少女の表情が見えた。
苦しそうな表情を浮かべながら、こちらを睨んでいる。少女の赤い瞳が揺れている。
少女は体をよじるようにして動く。が、小さな呻き声をあげ、ぴたりと動きを止めた。
顔を歪め、右の足首を掴んでいる。足を痛めたのだろうか。
ん、なんだ、あれ。
足の横に白い尻尾のような――いや、尻尾だ。猫のような細く白い尻尾が、スカートの中から伸びている。
人間に獣の耳や尻尾はあっただろうか?
ない。と思えるのだが自信はない。
まあいい。今はそれどころじゃない。
「なあ、ちょっと聞きたいことが――」
「く、来るな!」
少女は足をひきずるようにして後じさった。白い尾がゆらゆらと揺れている。
「来ないで……」
「分かってるよ。近寄ってないだろ。――なあ、君はおれのことを知っているか?」
少女は何も言わない。少女の怯えた顔を見て、ふと嫌なことに気がついてしまった。
ひょっとしておれは――。
「おれは、君の敵なのか?」
びくり、と少女の肩が揺れた。
「いや、やめて……」
彼女は座ったまま体を反転させた。這ったまま離れようとする。
だが動きは遅い。
こんな可憐な女の子を怯えさせていると思うと、ちょっと罪悪感がわいた。
というかおれの発言はなんだ? めちゃくちゃ不審者じゃないか?
おれは一つ息を吐いた。
このまま質問を続けても泥沼だ。
考えろ。おれに今できること。
君を傷つけるつもりはないと真摯に伝えるか? それとも記憶を失っていることを話してみるか?
いや、たぶん駄目だ。彼女の怯え方は普通じゃない。
おれはこの少女の敵。もしそうだとしても、それでも聞いてもらえるような。そんな話し方をしなくてはならない。
おれはいくつか考えを巡らせてから、口を開いた。
「――おまえ、足が痛むんだろう。おれから逃げたいけど、それができない」
彼女はこちらに背を向けたまま、這いずりを続けている。
おれは構わず言葉を続けた。
「おれはおまえから話を聞きたい。だからおまえを逃がしたくない。でも、質問を続けてもきっとおまえは答えない。だから――取引しよう」
少女の尻尾がびくっと跳ねた。
彼女はまだ動作を続けていたが、こちらに意識を向けていることは後ろからみても分かった。
「まずおれが一つ質問をする。おまえはそれに答える。次におまえは、おれにしてほしいことを一つ言う。おれは可能な限り努力する。これを一回として、終わるまで続ける」
少女は動きを止め、こちらへ体を向けた。
肩まで伸びた銀色っぽい髪。その頭の部分からぴょこんと飛び出した三角の耳。幼さの残る端整な顔立ち。彼女を照らす月の光。
場違いな想いではあるけれど、ちょっと幻想的だな、と思った。
「――そうだな。例えばここから消えろと言われればその通りにするし、他のことでもいい。努力する。……どうだ。これでお互い目的を達成できるんじゃないか?」
少女はわずかに間をあけてから、小さく「ほんと?」と言った。
「ああ」
「嘘、つかない?」
「つかない」
少女は険しい表情をわすかに崩した。
「分かった」
おれは心の中で拳を握る。
「質問って、何? 何が聞きたいの?」
よし、何を質問しよう。たぶん、一回だけしか質問はできないだろう。それを踏まえて考えなくては。
おれは思いついた中で一番よさそうな質問をすることにした。
「どうしておれはここにいるんだと思う?」
「……何よ、それ。そんなの知るわけないじゃない」
「じゃあ予想してみてくれ」
少女は少し考える素振りを見せてから、
「わたしを追ってきたんでしょう」
と言った。
「君を追ってこの森に?」
「……だって、変じゃない。こんな所で」
それはそうだ。
真夜中の森で出会うことがおかしいというくらいはおれにも分かる。
だからおれは、この子に偶然出会ったわけではないはずだ。
「おまえ、追われるようなことをしたのか?」
「してない。あーいや、ちょっとはしたけどぉ。でも、本当に何にもしてないの! あんた達が考えるようなことは何も」
「あんた達? 誰のことだ」
「……ねえ、質問一個だけなんでしょ。ずるい」
「……」
収穫はあった……と言えるのだろうか。どうやらおれはこの子を追ってこの森に入った可能性がある。
そして話ぶりからすると、たぶんおれはこの少女と初対面のようだ。
そこまで考えても、思いだせることは一つもなかった。
「……分かった。よし、じゃあ次はお前の番だ」
「聞かなくてもわかるでしょう」
くすくす、と少女が嗤う。造りものめいた顔をしていた。
彼女には似合わないな、と思った。
「ここから――」
消えろ。いなくなれ。次の言葉を瞬間的に予想する。
その時――。獣の耳がびくんと震えた。
「どうした?」
「追いつかれた……」
「……追いつかれた?」
少女がおれを見ている。
いや、どうも違う。おれじゃない。おれの後ろへ視線を向けているようだ。
振り返ってみる。
そこには鬱蒼とした木々と茂みが広がるばかりで、目をこらしてみても、木の奥の暗闇に何かあるようには見えなかった。
「何に追いつかれたんだ?」
少女がおれを見た。視線が交差する。
次に彼女は自身の足を見た。眉根を寄せ、首を小さく横に振った。それからもう一度おれを見た。
「ねえ。何でも言うこと聞いてくれるって言ったわよね?」
そうだっけ? なんかちょっとニュアンスが変わってる気がするんだが。
ま、いいか。
「頑張る」
少女が力強い眼差しをおれに向けた。
燃えているような赤い瞳に、吸い込まれそうな気分になった。
「ここから――わたしを逃がしてほしい」