第59話 3分間の脱出
《02:59》
赤い数字が、通路の壁に浮かんでいた。
警報音が鳴り続ける。
ピピピピッ。
ピピピピッ。
黒いキャンディが床で割れ、そこから黒い煙が吹き上がる。
パリン。
パリン。
パリン。
煙はうねり、牙を持ち、爪を持ち、次々とノイズの形へ変わっていった。
「来る!」
ひまりが炎をまとわせる。
リノは灰色リボンを構えた。
通信機からノアの声が飛ぶ。
『全員聞こえる!?』
「聞こえる!」
『帰還ゲートは搬入口付近に開く!』
『ただし、商会の封鎖が始まってる。壁の構造も変わってる!』
ラピスの声も重なる。
『こちらで道を維持できるのは三分です!』
『それを過ぎれば、皆さんを現実世界へ戻せなくなります!』
「三分……!」
るりがこはくを支えながら息を呑む。
こはくはまだ顔色が悪い。
それでも、るりの手をそっと押し返した。
「平気。」
「平気じゃないよ。」
「代表なめないで。」
そう言って一歩踏み出した瞬間。
こはくの身体がぐらりと傾く。
「こはくちゃん!」
るりが慌てて支えた。
こはくは悔しそうに唇を噛む。
「……っ。」
「今は、頼って。」
るりの声は優しかった。
「逃げることも、戦いだから。」
こはくは言い返そうとして。
できなかった。
代わりに、小さく呟く。
「……ありがと。」
るりはふっと笑う。
「うん。」
パチルがこはくの肩へしがみつく。
「こはく、無理しすぎ禁止!」
「……それ、私が言う側なんだけど。」
「今日はボクが言う!」
こはくは少しだけ目を細めた。
「はいはい。」
その声は弱かったけれど、確かに戻ってきた声だった。
* * *
「リノ、右!」
ひまりの声。
リノが身をひねる。
黒い値札が頬のすぐ横をかすめた。
「っ……!」
灰色リボンを伸ばし、値札へ触れる。
絡まった糸のような感覚。
リノは息を整える。
「ほどけて。」
灰色の光が走る。
黒い値札が、ぱきんと音を立てて割れた。
しかし、その向こうからノイズが二体、三体と飛び出してくる。
「多すぎる!」
ミミルが叫ぶ。
「リノ、後ろ!」
「分かってる!」
リノが振り向くより早く。
赤い炎が横から走った。
「フレア・リボン!」
ひまりの炎がノイズを押し返す。
赤い光が通路を照らした。
「リノ!」
「ありがとう、ひまり!」
ひまりは一歩前へ出る。
「私が先に――」
「待って!」
リノが叫ぶ。
ひまりの足が止まる。
「一緒に進もう。」
その言葉に、ひまりははっとした。
また。
一人で走ろうとしていた。
誰かを守らなきゃ。
早くしなきゃ。
間に合わなきゃ。
その気持ちだけで、前へ飛び出そうとしていた。
ひまりは深く息を吸う。
そして、リノの隣へ戻った。
「……うん。」
炎が、今度はリノを追い越すのではなく、リノの横に並ぶ。
「今度は、一人で走らない。」
リノは頷いた。
「私も。」
「一人で決めない。」
二人は目を合わせる。
その間に、言葉はいらなかった。
「行こう!」
「うん!」
* * *
『左の通路へ走れ!』
ノアの指示が飛ぶ。
『二十秒後に壁が閉じる!』
「二十秒!?」
ひまりが叫ぶ。
『正確には十八秒!』
「減ってる!」
『走れ!』
リノたちは走った。
後ろからノイズの群れが迫る。
黒い煙。
割れるキャンディ。
壁から伸びる値札。
通路そのものが、まるで生きているみたいに形を変える。
前方の壁がゆっくり閉まり始めた。
「間に合う!?」
るりの通信が入る。
『こっちも合流地点へ向かってる!』
「分かった!」
リノは灰色リボンを伸ばし、迫る値札をほどく。
ひまりが炎でノイズを押し返す。
ピリカが叫ぶ。
「あと少し!」
壁の隙間が狭くなる。
リノが飛び込む。
ひまりも続く。
ミミルとピリカがそのあとに滑り込んだ。
直後。
ガコン!!
壁が閉じた。
「危なかった……!」
ひまりが息を切らす。
その時。
通路のスピーカーから、明るい声が響いた。
『あらぁ。』
『せっかく来てくださったのに、もう帰っちゃうんですかぁ?』
「メイ……!」
リノが顔を上げる。
壁に映像が浮かぶ。
メイがにこにこと手を振っていた。
『お友達ごっこ、もう少し見せてくださいよ♪』
別の映像にはリゼ。
『逃走経路、遮断。』
『灰色リボン、再捕獲開始。』
さらにユキノの柔らかな声。
『焦らなくても大丈夫ですよ。』
『疲れた心は、こちらで丁寧に包んで差し上げますから。』
ひまりの目が鋭くなる。
「誰が渡すもんか……!」
ユキノは微笑んだまま、静かに言った。
『赤代表さん。』
『また、誰かに守られたんですね。』
ひまりの足が止まった。
『次は、誰があなたの代わりになりますか?』
胸の奥を、冷たい針で刺されたようだった。
小春。
こはく。
守れなかった。
守られた。
自分のせいで。
「……。」
「ひまり!」
リノの声が聞こえる。
けれど、ユキノの声はさらに甘く沈んでいく。
『あなたが弱いから。』
『誰かが傷つく。』
『そう思ったことはありませんか?』
「聞いちゃダメ!」
ピリカが叫ぶ。
ひまりの手が震えた。
でも。
今度は。
その言葉に飲まれなかった。
ひまりはゆっくり顔を上げる。
「……思ったよ。」
ユキノの笑みが止まる。
「何度も思った。」
「私が弱いから。」
「私が間に合わなかったから。」
「そうやって、自分を責めた。」
炎が、ひまりの足元で揺れる。
「でも。」
ひまりはリノを見る。
そして、通信の向こうにいるはずのこはくを思う。
「もう、その言葉じゃ止まらない。」
炎が大きく燃え上がる。
「私は、弱いままでも進む。」
「怖いままでも助けに行く。」
「今度は一人じゃないから!」
赤い炎が通路いっぱいに広がり、スピーカーを焼き切った。
ジジッ。
ユキノの映像が消える。
リノは笑った。
「ひまり。」
「行こう!」
「うん!」
* * *
《01:36》
合流地点。
二つの通路が交わる広い空間へ、リノとひまりが駆け込んだ。
同時に、反対側からるりたちも現れる。
「リノちゃん!」
「るりちゃん!」
「こはくちゃん!」
リノの声に、こはくが顔を上げる。
一瞬。
二人の視線が重なった。
「……。」
こはくは何か言おうとして、でもすぐに顔を逸らした。
「……ほんとに来た。」
リノは息を切らしながら笑う。
「約束したから。」
こはくの頬がほんの少し赤くなる。
「遅い。」
「ごめん!」
「ほんと。」
一拍。
こはくは小さく息を吐く。
「でも……まあ、許す。」
リノの顔がぱっと明るくなる。
「ありがとう!」
「そんな嬉しそうにしないでよ!」
「えっ、だって許してくれたから。」
「そういうとこ!」
こはくはますます顔を赤くする。
その様子を、ひまりがじっと見ていた。
「……。」
胸の奥が、また少しだけもやっとする。
けれど。
今はその正体を考えている場合ではなかった。
るりは、ひまりの横顔を一瞬だけ見た。
気づいた。
でも、何も言わなかった。
「みんな、帰るよ!」
リノが叫ぶ。
パチルが泣きながらミミルとピリカに飛びつく。
「こはく助かったぁ……!」
ミミルも泣きそうになりながら笑う。
「よかった、本当によかった!」
ピリカが耳を立てる。
「でも、まだ終わってないよ!」
その通りだった。
床が揺れる。
天井から黒いキャンディが降ってくる。
パリン。
パリン。
パリン。
ノイズの群れが再び生まれる。
ノアの通信が響く。
『全員、正面通路へ!』
『帰還ゲートまで一直線だ!』
ラピスも叫ぶ。
『残り一分半です!』
「走るよ!」
リノたちは同時に駆け出した。
* * *
帰還ゲートは見えていた。
淡い星の光。
現実世界へ続く出口。
「見えた!」
ひまりが叫ぶ。
けれど、その直前。
通路の床が黒く盛り上がった。
巨大なノイズが姿を現す。
全身に黒い値札を何枚も貼り付けた、歪な怪物。
腕は長く、背中には割れたキャンディの殻のような翼。
ゲートの前に立ちはだかる。
「最後にこれ!?」
ひまりが炎を構える。
ノアの声が切迫する。
『正面突破は無理だ!』
『あの値札が装甲になってる!』
ラピスの声も震えている。
『残り四十秒です!』
「四十秒……!」
るりがこはくを支え直す。
こはくはリノを見た。
「灰色。」
リノも頷く。
「分かってる。」
「値札をほどけばいいんだよね。」
「でも、数が多すぎる!」
ミミルが叫ぶ。
ひまりが一歩前へ出る。
「じゃあ、集める!」
るりも頷く。
「私が動きを止める。」
こはくは、るりの腕からそっと離れた。
「私が一点に引き寄せる。」
「こはくちゃん、無理しないで!」
リノが叫ぶ。
こはくは少し笑った。
「無理するでしょ。」
「……あんたが来てくれたんだから。」
リノの胸が、少しだけ跳ねた。
「こはくちゃん……。」
「ぼーっとしない!」
「う、うん!」
《00:32》
「いくよ!」
ひまりが炎を放つ。
赤い炎が巨大ノイズの足元を囲み、動きを止める。
「ブルー・リボン!」
るりの水が渦を巻き、ノイズの身体を縛り上げた。
水が黒い煙を押さえ込む。
「今!」
こはくが歯を食いしばる。
指先に、琥珀色の雷が生まれる。
小さく。
弱く。
それでも、確かに光っていた。
「アンバー……」
膝が震える。
パチルが叫ぶ。
「こはく!」
こはくは倒れない。
「代表……なめんな……!」
雷が弾ける。
「ボルト!!」
琥珀色の雷が、ノイズに貼り付いた黒い値札を一か所へ引き寄せた。
ばちばちと音を立て、値札が重なる。
「リノ!」
「うん!」
リノの灰色リボンが伸びる。
重なった黒い値札へ触れる。
絡まった糸。
怒り。
悲しみ。
欲。
恐怖。
誰かの心を縛る、たくさんの結び目。
「ほどけて。」
リノは目を閉じる。
「もう。」
「誰の心も。」
「売らせない。」
灰色の光が広がった。
黒い値札が一斉に震える。
ぱきん。
ぱきん。
ぱきん。
音を立てて割れていく。
巨大ノイズの身体が崩れ始めた。
「今だ!」
ひまりが叫ぶ。
「走って!」
《00:12》
全員がゲートへ走る。
るりがこはくを支える。
パチルがこはくの肩にしがみつく。
ミミルとピリカとポルルが星の光をまとって進路を照らす。
背後では、崩れたノイズが最後の腕を伸ばしてくる。
「リノ!」
ひまりが振り返る。
リノは一番後ろだった。
灰色リボンで、追いすがる値札をほどいている。
「先に!」
「ダメ!」
ひまりが手を伸ばす。
「一緒に帰るって言ったでしょ!」
リノは一瞬、驚いた顔をする。
そして。
笑った。
「うん!」
ひまりの手を掴む。
そのまま二人でゲートへ飛び込んだ。
《00:01》
星の光が弾けた。
* * *
「――っ!」
リノは床に転がった。
見慣れた天井。
現実世界の部屋。
「帰って……きた……?」
ひまりがすぐ隣で息を切らしている。
るりはこはくを抱えるようにして倒れ込んだ。
パチルはこはくの胸にしがみついたまま、わんわん泣いている。
「こはくぅぅぅ!」
「泣きすぎ……。」
こはくは弱々しく笑う。
けれど、その手は優しくパチルの背中を撫でていた。
「おかえり!」
ルルが駆け寄る。
「みんな……!」
ミカは口元を押さえていた。
泣きそうな顔で、それでも笑っている。
「ちゃんと帰ってきた……。」
ノアは大きく息を吐き、椅子へ座り込んだ。
「本当に、ぎりぎりだった。」
ラピスも額に汗を浮かべている。
「帰還経路、閉鎖しました。」
「皆さん、無事で何よりです。」
リノはゆっくり起き上がる。
そして、こはくのそばへ近づいた。
「こはくちゃん。」
こはくは顔を逸らす。
「……何。」
「帰ってこられてよかった。」
「……。」
こはくは少しだけ沈黙したあと。
小さく言った。
「私も。」
「……帰ってこられて、よかった。」
リノは嬉しそうに笑う。
その笑顔を見て、こはくは慌ててそっぽを向いた。
「見ないで。」
「え?」
「今、変な顔してるから。」
「そんなことないよ。」
「あるの!」
ひまりが二人を見ている。
るりもそれに気づいて、そっと微笑んだ。
けれど。
その穏やかな空気は、長く続かなかった。
「リノ。」
ミミルの声がした。
「それ……。」
「え?」
リノは自分の胸元を見る。
灰色リボンの端。
そこに、小さな黒い欠片が付いていた。
値札の破片。
「いつの間に……。」
リノが触れようとした瞬間。
欠片に文字が浮かぶ。
《査定記録 保存完了》
部屋の空気が凍った。
ノアが立ち上がる。
「記録……?」
黒い欠片は、ぱきんと割れて消えた。
リノの胸元には、何も残っていない。
でも。
嫌な感覚だけが、確かに残った。
* * *
ノワール・キャンディ商会。
白い査定室。
黒須ミカドは、静かにモニターを見つめていた。
画面には、灰色リボンの解析データ。
数値は何度も揺れ、測定不能の文字を繰り返している。
メイが少し不満そうに頬を膨らませた。
「逃げられちゃいましたねぇ。」
リゼが端末を見る。
「黄色代表、回収失敗。」
「灰色リボン、捕獲失敗。」
ユキノは穏やかに微笑む。
「けれど、よろしいのですか?」
ミカドは静かに答えた。
「逃げられたのではありません。」
三人が黙る。
ミカドは画面へ指を伸ばす。
そこに映るリノの灰色リボン。
「観測を終えただけです。」
画面に、新しい文字が浮かぶ。
《灰色リボン解析率 17%》
《心修復反応 確認》
《再包装適性 仮確定》
メイの笑みが戻る。
「じゃあ、次は?」
ミカドはゆっくり目を細めた。
「灰色リボンは、やはり鍵になる。」
そして。
画面の奥。
もう一つのデータが表示された。
ひび割れた白いクリスタル。
その中に眠る、誰かの影。
ミカドは静かに呟く。
「封印も、そろそろ目を覚ますでしょう。」
白いクリスタルの奥で。
ほんの一瞬。
誰かの瞳が開いた。




