08.品川埠頭ダンジョン、地下 ー 三郎、発熱。しかし、生還報酬百万円
灰音は私を社員食堂に案内した。
正直、先ほどの衝撃がひどすぎて、お茶かコーヒーをもらえると嬉しかった。
カロリーセロの炭酸水の気分ではない。
カフェインが多少必要だった。
「これはフリーよ」
灰音は私の目の前に、温かいお茶を淹れたコップと、温かいコーヒーを淹れたコップを置いた。
「圭さん、どちらもお好きな方を飲んで」
「私はアイスコーヒーをいただきますから」
灰音はそう言って、氷をじゃらじゃら入れたアイスコーヒーのカップを自分の前に置いて、座った。
私も座って、ありがたくいただくことにした。
温かいコーヒーが私の喉を通り、ゆっくりと体内に染み渡った。香りはしないが、味は悪くない。ただの飲み物に文句をつける気は一切ない。
「帰りもあそこを通るんですよね」
分かりきっていることを灰音に聞いた。
「えぇ、美華斗様が結界を緩めてくださっている間だけ、通れます。ですが、あの道を通れる人はそういないです。圭さんで初めてです」
――うっ……。
――私が初めの成功者じゃないよな?
私は怖くてその先は聞けなかった。
「よお、灰音さん、今日は何?」
その時、目の前に現れた男がいた。
ボサボサの髪、丸めがね、ヨレヨレのシャツにシワだらけのチノパン姿で、しかし歯だけは真っ白で歯並びが良かった。
過失係数ゼロ。
――は……?
――ゼロ?
「0」の文字を私は見つめて、動きが固まった。
――そんなことあるか?
およそ保険会社では見かけない類の風貌だ。歯はともかく、服装も髪型もあり得ない。だが、ここは国家の演算所なのだから、国家公務員なのだろうか。
何が公務員らしいのか分からないが、公務員らしくもない、と私は思った。
「このかた、美華斗さんに採用された方です」
灰音は勝手に私を採用済として男に紹介した。
「へぇ。よろしく!」
少し不気味だ。
いや、少しどころではない。
相当に変だ。
――過失係数0の大人がいるのか。
――何かしら、人間は過ちを冒すものではないのか?
――私だって、10だ。
――灰音ですら、2だ。
私はふっと背中の毛が逆立つような違和感を覚えた。
どこで見たのか思い出せない。一瞬だけ、ほんの一瞬だけ、一郎の笑う顔がよぎった。
でも、この男となんの繋がりがあるのか分からないその一郎の笑顔だけで、私は、過去にこの男を見たことがあると確信した。
次の瞬間、スマホが振動した。
保育園からお迎えの通知だった。こんな地下演算区画まで電波が通じているのだ。私はそこに感動した。
「三郎君のお熱が少し高く、38度になりました」
連絡の内容に、がっくりと項垂れる。
「灰音さん、残念です。保育園からお迎え要請が来ました。発熱です」
私はスマホを掲げて、灰音に詫びた。
「いいんですよ。ここまで来れたので、今日のミッションクリアです」
灰音はそれだけいうと、立ち上がった。
私も慌てて、残っていたお茶を飲み干して、空になったカップを重ねた。
「あぁ、もういくの?仕方ないね。お子さんお大事にね。俺の名は七条。またね」
髪の毛ボサボサの男は、手を振って去って行った。
私は紙コップをゴミ箱に片付けながら、灰音に再び謝った。
「本当にすまない」
前髪がメガネに被さって表情が全く読めない灰音の口元は綺麗に口角が上がっていた。
「いえー。目的は達しましたよ」
私は灰音と一緒に結界を超えた。
今度は、最初から灰音の赤い数字2だけを見つめて飛んだ。一心不乱に。
三郎が熱を出しているのに、地塊で蠢く得体のしれないものに捕まるわけにはいかなかったから。
神社の祠の隣のエレベーターで私は大きくため息をついた。
すぐに、美華斗がスーツ姿で上がってきた。
「で?七条の数字はなんだ?」
「ゼロ」
私は即答した。
美華斗が固まったように思った。
「助かった。迷う相手だった」
それだけ綺麗な瞳の男は言った。
「じゃ、私はこれで。今日は三男が熱を出したそうで、迎えにいく必要がありますので」
私が告げると美華斗は黙って私を見た。首をかすかに傾けた。
高貴な血統のお方が、家臣に褒美を遣わすかのように。
「今日の報酬です」
灰音から分厚い封筒を渡された時、私は目を見張った。
中身を開けて、綺麗なお札が束ねられているのを見つめて固まった。
――100万か……。
一郎、二郎、三郎……。
私は目をつぶった。子供たちの顔がよぎった。
対価が100万だと知っていても、あのダンジョンの上空を飛ばないだろう。
とんでもないリスクがあった。
だが、今は生還した後だ。
背に腹は変えられない。子供達も生きていく必要がある。
受領した。
――闇バイトかよ。
私は保育園までの道のりを走った。




