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IRIS-Log-Archive  作者: IRIS
機械仕掛けの法廷_IRIS.log

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133/258

犯人らしい男

 法廷に立つ前から、人には顔がある。


 実際の顔立ちではない。もっと曖昧で、もっと厄介なものだ。真面目そう、粗暴そう、気弱そう、狡そう。そういう印象の積み重ねが、まだ罪も判決も出ていない人間に先回りして張りつく。私はそういうものを嫌っていたし、自分はそれに左右されないつもりでいた。


 だが、バルドという男の記録を読み進めるほど、その“顔”は紙の上でも濃くなっていった。


 裁判初日、私はいつもより少し早く法廷記録席へ入った。傍聴席はまだ半分ほどしか埋まっていなかったが、それでも空気は妙に重い。一家四人が殺された事件だ。しかも子どもが二人。誰もが胸の内に、それぞれの怒りや恐れを持ち込んでくる。


 私は机上の筆記具を整え、裁判進行表を開き、被告人欄に改めて名前を確認した。


 バルド。


 まもなく廷吏の声が響き、ざわつきがすっと引いていく。人々が立ち、判事が入廷し、すべてが決められた順序で始まる。法廷は好きだ。余計な情を削ぎ落としてくれる。この場では、私情は形式に従わされる。


 被告人が入ってきた時、私は初めてその男を自分の目で見た。


 大柄だった。肩幅が広く、首も太い。日に焼けた皮膚に、浅く刻まれた傷が幾つもある。手は節くれだっていて、爪の間にまで落とし切れなかった黒ずみが残っていた。仕事柄のものだろう。だが、そうと分かっていても、清潔には見えない。目つきは鋭いというより重い。睨んでいるのではなく、元から人に愛想よく向く顔ではないのだと思えた。


 私はその瞬間、自分の中で何かがすっと収まりのいい位置へ落ちるのを感じた。


 なるほど、と。


 記録の上で想像していた男が、そのままの姿で現れた気がしたのだ。


 被告人は俯きもせず、かといって正面を睨み返すでもなく、ただ前を向いて座った。態度に開き直りがあるようにも見えたし、何も考えていないようにも見えた。そういう、解釈の余地が広い無骨さは、かえって印象を悪くする。


 起訴状の朗読が始まる。


 被害者四名の氏名。死亡推定時刻。損傷の概要。凶器は鋭利な刃物様のもの。被告人は一家の父親と以前より諍いがあり、怨恨の末に犯行へ及んだ可能性が高い――その文言が法廷に響くたび、傍聴席の空気は少しずつ固まっていった。


 私は文字を追いながら、時折被告人へ目を向けた。バルドは動かない。表情らしい表情もない。そこがまた、不気味だった。無実を訴える人間なら、もっと顔に出そうなものだ。怒り、悔しさ、焦り。そういうものが乏しい。


 もっとも、人は皆同じように感情を出すわけではない。そう分かってはいる。


 だが、法廷という場所で感情をうまく見せられない人間は、それだけで損をする。私は記録の仕事をしているからこそ、その現実を知っていた。人は理屈だけで裁かれない。理屈へ辿り着くまでの道に、顔色も声も沈黙も混ざる。


 検察側の冒頭陳述は、実に整っていた。


 被告人は解体処理場に勤め、刃物の扱いに慣れていること。被害者家族の父親と口論していたこと。事件の夜、現場近くで似た男を見たとの証言があること。押収された衣類から血痕が認められたこと。供述に説得力が乏しいこと。


 並べられると、ひとつひとつは突出していなくとも、束になる。私は書き留めながら、やはりそうかと思った。法は印象で裁いてはならない。だが、印象と事実が同じ方向を向いている時、それを切り分けるのは難しい。


 続いて証人尋問に移る。


 最初に立ったのは、被害者宅の近隣に住む中年の女だった。黒い布を頭に巻き、緊張で声を震わせながら、それでも被告人を見た時だけははっきりと眉を寄せた。


「前から、あの人は怖かったんです」


 私はその文言を、そのまま記録へ落とした。


「夜に会っても挨拶もしないし、何を考えてるか分からない顔で。あの家の旦那さんとも、一度じゃない、何度か揉めてるのを見ました」


「揉めていた、とは」


「怒鳴ってました。すごく。道の真ん中で。何を言っていたか全部は分かりませんけど、あの家の旦那さんが、もう関わるなって……そんなふうに言っていた気がします」


 弁護側がすぐに立った。


「“気がします”とは、はっきり聞こえたわけではないのですね」


「……全部が全部では」


「では、あなたの証言には推測が含まれている」


「でも、雰囲気で分かります」


「雰囲気は事実ではありません」


 それはもっともだった。だが、もっともな反論ほど、人の心を動かさないことも多い。女は口ごもりながらも、最後にはこう言った。


「でも、あんなことをしそうな人には見えました」


 法廷の空気が少しだけ動いた。


 私はその一文を書きながら、胸の内で静かに整理する。これは証拠ではない。だが印象として強い。しかも、その印象は他の近隣証言とも通じる。無愛想、怖い、乱暴そう、何を考えているか分からない。紙の上でバラバラだった断片が、本人を前にしたことで急に輪郭を持ち始めていた。


 二人目の証人は、現場近くで夜に人影を見たという男だった。酒場帰りで時刻は曖昧、灯りも乏しかったと前置きした上で、それでもこう言った。


「背丈と歩き方が、あの男に似てた」


「似ていた、ですか。顔は見ていない?」


「暗かったんで」


「では別人の可能性もある」


「そりゃ、絶対とは言えませんが……」


 ここでも“絶対ではない”が続く。だが、傍聴席はその曖昧さをあまり気にしていないように見えた。人は完全な確かさを求めると言いながら、実際には“らしさ”の積み重ねで納得してしまう。


 被告人はその間ずっと無言だった。


 証人の言葉に食ってかかるでもなく、首を振るでもなく、ただ黙って聞いている。まるで、自分についての話をされている実感が薄い人間のように。私はその沈黙を、良いとは思えなかった。裁かれる側にとって、無言は潔白の証明にならない。むしろ“言い返せないのだ”と受け取られやすい。


 昼の休廷が入る頃には、私は頭の中でほとんどひとつの像を作り上げていた。


 血に慣れた無骨な男。近所から恐れられている。以前から被害者家族と軋轢がある。夜に現場近くで目撃される。問い詰めても否認しかせず、弁明は拙い。


 犯人らしい男だった。


 休廷中、同僚が記録席の後ろから小声で言った。


「もう決まりだろ、これ」


 私はすぐには答えなかった。机上の紙を揃え、午前中の証言の要点を欄外へ整理してから口を開く。


「まだ初日です」


「そうだけどな。あの被告人、顔がもう」


「顔で決まるわけではありません」


 自分で言っておきながら、その言葉が綺麗すぎることは分かっていた。同僚は苦く笑った。


「分かってるさ。でも、あるだろ。こういうの」


 私はそれ以上返さなかった。


 ある。確かに、ある。


 法の文面には書かれないが、裁きの場にはいつも“こういうの”が混ざる。記録係である私にできるのは、それを紙の上で少しでも薄めることだけだ。見た目の印象は記さず、証言の言葉だけを残す。顔つきではなく発言内容を書き留める。そうして形式を守ることで、私情を減らそうとする。


 だがその私自身が、今まさに被告人の風貌に納得していた。


 午後、検察側は押収衣類の血痕について説明した。被害者のものと断定には至らないが、血液反応は確認されたという。弁護側は、解体場勤務であれば血の付着自体は珍しくないと反論する。それもその通りだ。だが“珍しくない”は“無関係”を意味しない。


 そこで初めて、被告人本人への問いが向けられた。


「事件の夜、どこにいた」


 判事の問いに、バルドは低い声で答えた。


「家だ」


「それを証明できる者はいるか」


「いない」


「被害者の父と揉めていたのは事実か」


「揉めた」


「何について」


「向こうが、臭いだの血だのうるさかった」


「腹を立てたか」


「立てた」


「殺したいと思ったことは」


 そこで初めて、バルドは少しだけ顔を上げた。


「ねぇよ」


 その言い方は、無実の訴えとしては不器用すぎた。もっと別の言い方があっただろうに、と私は思った。悔しさも、悲しみも、怒りも、その一言には薄い。ただ不機嫌に否定したように聞こえる。


 弁護側が助け舟を出す。


「被告人は、被害者一家を殺害していないと一貫して供述している」


「してねぇ」


 バルドは短く言った。


「やってねぇ」


 それだけだった。


 その一言を記録しながら、私は妙な気分になった。薄い。あまりにも薄い。これほど追い詰められてなお、“やってねぇ”しか出てこないのか。無実なら、もっと喋ることがあるはずだと思ってしまう。だが同時に、こういう人間なのかもしれないとも思った。言葉で身を守ることが致命的に下手な者。


 それでも、法廷にいる多くの人間には、前者として映っただろう。


 休廷が明けてまもなく、その日の審理は打ち切られた。私は記録をまとめながら、証言の繋がりを整理する。


 近隣から恐れられていたこと。

 被害者父との諍い。

 夜の人影。

 血に近い職。

 不器用な否認。


 綺麗に並ぶ。綺麗すぎるほどに。


 法廷を出た後、私は回廊で被告人の移送を遠目に見た。衛兵に挟まれて歩く背中は広く、鎖の音さえ似合ってしまう気がした。そう見えてしまう時点で、私はもう中立ではないのかもしれなかった。


 だが、それでも私は自分に言い聞かせた。


 これは印象ではない。

 印象に裏打ちされた事実が、今のところ、そう並んでいるだけだ。


 そう整理した方が、机に向かいやすい。


 夜、宿舎へ戻ってからも、私は午前の証言を読み返した。どこかに無理がないか、検察の組み立てが飛躍していないかを確かめるためだ。だが読めば読むほど、むしろ被告人の不利は強まって見えた。


 特に“怖かった”“しそうだった”という近隣の言葉が、私は厄介だと思った。


 法としては弱い。だが人としては強い。


 そして裁判は、法だけでできているわけではない。


 私は蝋燭の灯りの下で最後の整理線を引き、余白に小さく書き込んだ。


 被告人像、悪い。


 記録として提出する文ではない。ただ、私自身の作業用の覚え書きだ。後で消すつもりだった。それでもその文字を書いてしまった時、私はもう半ば、この事件の行き先を見ていた。


 犯人らしい男は、犯人として裁かれる。


 少なくとも、この日の私は、それをほとんど当然のことのように思っていた。

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