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「連載版」「地味で退屈な女」と婚約破棄されたので、鍵束と管理簿だけ置いて静かに去りました。……禁書庫が開かないのは私のせいではございません  作者: 夢見叶
第2章 氷の公爵、迎えに来る

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第7話 返書の山が、恋の言い訳になる?

 進路を変えたのは、王宮の正門を出て最初の辻を曲がる、その手前だった。


「伯爵領へ」


 御者に告げた瞬間、隣に座っていたエルンストが書類を持ったまま固まった。


「……確認ですが、閣下」


「聞こえた通りだ」


「条約の第一審議は三日後でございます。帝都への帰路を取れば——」


「変更した」


 エルンストは小さく息を吐いた。深く、腹の底から引き絞るような音だった。私は窓の外へ視線を戻した。王宮の塔が遠ざかっていく。外交条約より先に、筋を通すべき相手がいる。それだけの話だ。業務として正当な招聘がある。手順が残っている。それを踏まずに条約だけ進めるのは、筋が通らない。


 馬車が石畳を滑り出す。揺れに合わせて、座席の隣に積んであった束が崩れかかった。エルンストがとっさに押さえる。


「閣下、これを全部お持ちになるつもりで……」


「返書だ」


「存じております。ただ、その——」


「エルンスト」


 私は振り返らなかった。


「言いたいことがあるなら、言え」


 またあの、胃の奥からしぼる息の音がした。


「……閣下、今月だけで、これが3——」


 眼鏡の位置を直す。それだけで十分だった。エルンストの声が、音になる手前で死んだ。


 束の表紙が、座席に差し込む光の中でわずかに揺れる。厚さは4指分ある。そのすべてが、同一の差出人からの書状への返書だ。照会の内容は正当だった。文書管理制度の照会、魔法錠の設計記録の確認依頼、帝国の整備方針に関する参考見解——全部、業務の範囲内だ。


 業務の範囲内、だ。


 繰り返さなければならないほど、自分に言い聞かせている気はしない。


 馬車が揺れた。束の一番上がめくれ、書き出しの行が一瞬見えた。整った細い筆跡で、横線に芯のある文字が並んでいた。私は目をそらした。


 それでも1行が、頭の中に残った。


 ——承知いたしました。


 指先が動く前に、窓の外へ視線を引き戻す。木々が切れ、街道に出た。伯爵領まで馬車で半日強。この速度なら夕刻前には着く。


 問題は、到着してからだ。


 身分差がある。面会規定がある。同席者なしに二人きりにはなれない。それは承知している。エルンストがすでに段取りを組んでいることも承知している。それでも伯爵領へ向かうのは——


 私は口を閉じた。


 理由を言語化する習慣はない。言語化した瞬間に、それは証拠になる。証拠は、後から自分を縛る。


「閣下」


 エルンストが静かに呼んだ。


「招聘状を正式に整えるべきかと思います。次の宿場に書店がございます。停車できますが」


 私は小さく頷いた。


 正しい。建前が整っていなければ、彼女が困る。招聘は業務の形をとらなければならない。感情を先に走らせるのは、私の悪い癖だ。


 自分が悪い癖を持っているとは、去年まで思っていなかった。


 宿場の書店は小さかった。帝国公爵が立ち入るような店ではなかったが、羊皮紙の質は悪くなかった。エルンストが封蝋皿と印章を用意する間、私は棚を一列だけ確かめた。


 文書管理の専門書が1冊、斜めに差してあった。背表紙が日に焼け、ページの縁が薄く黄ばんでいる。誰かが長く手に取り続けた本だ。


 買わなかった。必要はない。


 ただ少し、立ち止まった。


「肩書を確認します」


 エルンストが羽根ペンを構えた。


「宮廷文書官長で」


 短い沈黙が落ちた。


「……帝国で最高位の文書管理職でございますが」


「わかっている」


「前任が3年で倒れた職です。加えて、招聘対象が王国の——」


「彼女ならできる」


 エルンストは返事をしなかった。ペンを走らせ、封蝋を押す。蝋が固まる音が静かに響いた。外は薄暮で、風が少し冷たかった。


 馬車に戻った。傍らの返書束は変わらずそこにある。


 走り出してしばらく、エルンストが向かいの席で目を閉じた。気を遣っているのか疲れているのかは判断しなかった。どちらでも構わない。


 暗くなった窓の外を見ながら、私は手を束の上に置いた。開くつもりはなかった。それでも指が止まる。


 何かの拍子に、一番上がまたずれた。今度は明確に行が見えた。


 ——承知いたしました。ご照会の件につきまして、下記のとおり——


 指でその行の端をなぞった。インクの盛り上がりはない。乾ききっている。筆圧は均一だ。1文字ずつ、丁寧に引いた横線が文字の骨になっている。


 書いた人間を想った。


 王宮の書庫で5年間、誰にも正当に評価されないまま仕事を積み上げてきた人間を。「地味で退屈」と切り捨てた声を、表情一つ変えず聞き流し続けた人間を。上申書を出すたびに赤い文字で返され、それでも翌月また出した人間を。


 そのたびに、どんな顔をしていたのだろう。


 私は一度だけ、謁見の間でその場面を見た。婚約破棄を告げられた後、鍵束を音を立てずに外し始めた指を。泣かなかった顔を。「承知いたしました」と平坦に言い、業務連絡だけを口にして背を向けた人間を。


 あの声が、今も手の中の紙に残っている。


 私は返書を静かに束へ戻した。


 声に出さず、笑ったかもしれない。誰も見ていないので、構わない。


 業務だ。


 ……業務の、はずだ。


 馬車が大きく揺れた。エルンストが目を薄く開けて、何も言わずにまた閉じた。


 木の間から、夜の空が見える。伯爵領まで残り2時間ほど。


 招聘状に記した肩書は——宮廷文書官長。


 それを彼女が読んだとき、どんな顔をするのか。


 私はまだ、見ていない。


読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。


第8話より2日に1回12時頃の投稿を予定しております。

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