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迷宮(めいきゅう)のシャーロット  作者: 有馬 泉貴
持たざる者たちの狼煙

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第十八話:呪詛の結末【後編】

「犯人はいったい誰なんですか……?」


ルイの切実な疑問に、シャーロットはぶ厚いヘルメットをわずかに左右に振った。どうやら直球の答えを否定しているらしい。


「犯人の名が分かったというわけじゃない……。正確には、犯人像が浮き彫りになったと言うべきか。犯人が秘匿していた魔法の本質、そして二つの事件を引き起こしたトリックの全貌――それらが完全に解けたんだ。そして……」


そこでシャーロットは言葉を切り、部屋の出入り口に立ちすくみ、こちらを冷徹に凝視していたルミエールへとヘルメットのバイザーを向けた。


「共犯者もね」


「えぇっ!?」


まさかの宣告に、ルイは驚愕のあまり弾かれたようにルミエールを振り返った。団員たちにいつも優しく接する温厚な教官が、この凄惨な一連の事件に関わっていたなど、夢にも思わなかったからだ。二人から視線を浴びせられたルミエールの美貌に、一瞬だけ躊躇いと深い悲しみの色がよぎる。しかし、それも次の瞬間には、いつも通りの穏やかな優男の仮面によって冷徹に塗り替えられた。


「私が共犯者とは、一体どういう意味ですか?」


あくまでもその声は平穏だった。どこまでも静かにたゆたう、凪のような声が室内を通り抜けていく。何かを墓場まで隠し通すと心に決めた人間の声だ。その裏にある本音は、もう何一つとして感じ取れなかった。そんな教官を前に、シャーロットがルミエールの細い腰に吊り下げられた短剣を、防護服の指先で鋭く指さす。


「あの落下事故があった当日、お前は短剣の柄の表と裏を逆にして鞘に収めていた。いまは宝石が飾られた美しい面が外側に出ているが、あの日は装飾の一切ない武骨な面が表に露出していたんだよ」


「……何故、そちらが裏面だと断言できるのですか?」


「先生、自分の格好をよく見てみろ。お前はあの日も今日も、その上質な葡萄酒色の上着を羽織っている。短剣の柄は常にその上着の生地と密着するように下げられている。長年愛用していれば当然、衣服の天然染料が柄の片面にだけ、繊維と共にうっすらと色移りするはずだ」


ルミエールがハッとしたように腰の短剣を手に取り、柄の裏側を覗き込む。確かに、そこには上着の染料が染み付いた、うっすらとした明るい赤みが帯びていた。動かぬ証拠を前に、シャーロットが淡々と冷徹に言葉を重ねる。


「多くの実戦用短剣は、順手で握った際に手のひらの形状に完璧にフィットするよう、左右非対称に設計されている。お前は一級の弓兵だ。かつては苛烈な戦場を生き抜いた経験もあるとバウアー教育長から聞いている。先生である前にプロの兵士であるお前が、自らの命を守るための大切な武器の表裏を、平時に間違えて戻すものか。間違えるとすれば、それは――心を大きく揺さぶられる異常な出来事が、その直前にあったからじゃないのか?」


「……あの日は、私の目の前で訓練生が落下する凄惨な事故がありましたからね。恥ずかしながら、気が動転して間違えてしまったようです」


「そうじゃないだろ」


ルミエールの苦しい反論を跡形もなく叩き潰すかのように、シャーロットがやや被せ気味の、圧倒的な圧力を孕んだ声でその言葉を遮った。


「お前の短剣の表裏が逆転したのは、あの落下事故が起きた直後だ。事故の報せを受けて現場に駆けつけた際、私は『やけに派手で目立つ格好をした教官がいるな』と観察していた。その際、お前の細い腰に吊られた短剣が目に入った。実戦の道具にしては、手のひらに馴染む位置に大層ご立派な宝石が飾られているな、と印象に残っていたのさ」


「……そんな細部までご覧になっていたのですね。失礼ですが、シャーロットさんは治安維持局の警察官ではないのでしょう?グソクの仕事というのは、それほどまでに異常な観察力を必要とされるものなのですか?」


ルミエールの静かな問いかけに、シャーロットのヘルメットがわずかにうつむいた。そのぶ厚い防護服の背中からは、微かな哀愁と、やりきれない諦観のような滲み出た感情が伝わってくるようだった。


「……昔、私がいた孤児院にな。恐ろしく頭の切れる一人の女の子がいたんだ。この世のすべてを知り尽くしているのではないかと思えるほど豊かな知識を持ち、それらを瞬時に繋ぎ合わせて応用する圧倒的な思考力に長けた子がね。彼女は近隣で起こる一見不可解な事件や怪奇現象を、まるで手品を暴くように、たちどころに解決してみせていた」


そこで一度言葉を切り、ヘルメットの奥から小さな溜息が漏れる。喉の奥につっかえている重苦しい記憶を、必死に吐き出そうとしているかのようだった。


「その子と私は、とても仲が良くてな。……最高の親友だった。私はその子の『探偵ごっこ』の助手として四六時中付き合わされていた。周囲の細部を偏執的に観察する私の癖は、その時に叩き込まれた副産物に過ぎないよ」


そこまで一気に語ると、彼女は自身の未練を断ち切るように言葉を区切った。気持ちを切り替えたように硬質なグローブを腰に当て、ルミエールを真っ向から見据える。その声は、いつもの冷徹で容赦のない響きへと完全に変貌していた。


「話を戻そう。その後、お前が地下の遺体安置室に現れたときには、既に短剣の柄は『武骨な裏面』が外側に向いていた。つまり、お前は事故直後の混乱から地下室に現れるまでのわずかな隙に、その短剣を確実に抜いて使用したということだ。一体、何のために?一級の弓兵であるお前が、接近戦用の短剣を抜く場面など限られている。命を狙われて応戦したか、あるいは、何らかの切断作業を行うためだ。だが、お前を襲った不審者などどこにも現れなかったし、事故の後は全員が互いを厳重に監視し、現場の遺留品には指一本触れられない状態だった。となれば――この学園内で、人知れず刃物で切り刻まれているものが、ただ一つだけ存在するな?」


「……っ、分かった!サンジェルの腰に残されていた、あの滑らかな断面の命綱ですね!?」


ルイが弾けたように声を上げる。


「そうだ。あの太いロープが、スパッと鋭利に断ち切られていた。切ったのが犯人だとすれば、理由は一つ。命綱の先端に、自分に繋がる決定的な手がかりが残されていたからだ。あの日、命綱の先で砕け散っていたのは鉄製のカラビナ(金具)だった。犯人はそこに何らかの細工をした。だが、そこから先、私の推理は一度行き詰まった。犯人が『魔法』を使っているのか、それとも『近代科学』のギミックを用いているのかが判別できなかったからな。……けれど、立て続けに起こる不気味な事件のなかで、犯人はその正体を自ら明かしてくれたよ」


そう言い放つと、シャーロットは床に転がっていた、白く濁った木床の上からボロボロの鉄製ダンベルを片手で乱暴に掴み上げた。その鉄の塊は、床にパラパラと崩壊した金属の破片をまき散らしながら、じっとりと冷たい水分を滴らせていた。


「それに関係するのが、この部屋で起きた失神事件だ」


「もしや、第二章の幽霊屋敷で起こった『一酸化炭素中毒』と同じ原理ですか!? あの、幻覚が見えたり頭が割れるように痛んだりした……」


ルイの言葉に、シャーロットはヘルメットの奥で首を横に振った。


「いや、違う。今度の事件を引き起こしたのは『酸素消失』だ。――それも、金属が引き起こす急激な酸化反応によるね」


「どういうことですか、一体……!?」


驚愕するルイの目の前に、シャーロットは先ほどの鉄製ダンベルを突きつけた。裏返されたその底面は、おぞましい赤錆がびっしりと埋め尽くしている。そしてその表面からは、今も大量の水分が滴り落ちていた。


「鉄などの金属は、酸化して錆びる瞬間に、空気中の『酸素』を激しく消費する性質がある。さらに、金属が急激に酸化する化学反応の過程では、周囲に多量の『結露』が発生するのさ。これほど大量の水分が滴っているということは、犯人は何らかの手法で、この部屋の鉄製品を一瞬にして、かつ広範囲に強制酸化させたということ。つまり――この部屋の空気中にあった酸素濃度が、一瞬にして生命維持が不可能なレベルまで急降下したんだ」


そこで言葉を切り、シャーロットは部屋の片隅にある割れた窓へと歩み寄った。


「酸素が急速に奪われ、真空に近い酸欠状態になった部屋で、被害者の生徒は凄まじい頭痛と息苦しさに襲われたのだろう。筋力が急激に低下し、意識が朦朧とするなかで、彼は本能的に新鮮な空気を求めて必死に窓を叩き割った。ガラスの破片で手を切るのも厭わずにね」


「だから、僕たちが部屋に飛び込んだとき、彼は窒息死せずにまだ息があったんですね……!」


「その通り。そして、もう一つの首吊り事件も根っこは同じだ。あんな物理的・科学的な計算が必要な大掛かりな仕掛けを、被害者自身の頭だけで作れるわけがないということは、先生が裏付けてくれた通りだしな」


「……そこまでのことを申し上げたつもりはありませんが」


壁際に背を預け、黙ってシャーロットの言葉を聴いていたルミエールが、重々しく口を挟んだ。その穏やかな声には、今や何か巨大な感情を必死に押し殺し、無理やりいつもの仮面を張り付けたような、奇妙な歪みが混ざり合っていた。


「それはすまない。だが、ただの首吊り自殺に、わざわざあそこまで巨大な鋼鉄のバネを用いる必要性がどこにある? ロープ一本を枝に結べば済むところを、なぜそんな無駄なギミックを噛ませたのか。その謎を解く手がかりを、ルイが草むらから持ち帰ってくれた」


「僕が見つけた、あのサビた針金ですね!」


ルイが弾んだ声を上げる。自分の執念が見つけてきた泥だらけの残骸が、シャーロットの推理の決定的な武器になっていることが嬉しくてたまらないようだ。


「ああ。あの針金の『裂けた口』に残されていた赤錆と、大木の上に取り残されていたバネの縦線のサビ――その太さと幅は寸分違わず一致した。つまり、バネがあの鉄の針金によって、強引に『束ねられていた』ことは物理的な事実だ。針金が酸化して千切れたことで、バネの拘束が解けた。……だが、私は最初、犯人がバネを『縮めた状態』で固定していたのだと思い込んでいた。だが、それは逆だ」


シャーロットはヘルメットのバイザーをルミエールへと向け、冷徹に言い放つ。


「ルミエール先生。お前が使っている大型クロスボウの構造を考えれば、答えは一つだ。あの武器に組み込まれている頑丈な鋼鉄バネは、弦を引いたときに縮むのではない。最初から『極限まで引き絞られ、縮んだ状態でセットされているバネ』が、引き金を引いた瞬間に一気に『本来の真っ直ぐに伸びた形状』へと弾け戻る反動を利用して、太い矢を撃ち出す仕組みだ。つまり、あのバネは『伸びている状態が正常(基本形)』なのだよ」


「……っ」


ルミエールの美しい喉が、微かに引き攣るように鳴った。


「首吊り死体が見つかったとき、木の上のバネはびよんと伸び切った状態だった。誰もが『被害者の体重の重みでバネが伸びた』と思い込んでいたが、それは違う。犯人は、あの正常な状態のバネを、ありったけの力で『縮めて』針金で固定していたのだ。 針金がサビて千切れた瞬間、バネが本来の姿へ戻ろうと上部へ猛烈に跳ね上がった。その強烈な急加速の衝撃で、被害者は一瞬で首の骨を折られて吊り上げられたんだ」


「つまり、最初はバネを『縮めて』固定してあって、それが解放されて『伸びる』勢いで、被害者を木の上へと釣り上げた、ということですか……!?」


ルイの驚愕の呟きに、シャーロットが深く頷く。


「そう。まず犯人は、巨大なバネを大木の太い枝に設置する。そして、ありったけの力でそれを極限まで『縮めた状態』へと押し込んだのさ。クロスボウ用のバネだ、元に戻ろうとする『張力』は凄まじかっただろう。犯人はなんとかそれを縮め、勝手に弾けないよう一本の針金を巻きつけてガチリとロックした。そして、バネの下端に、あらかじめ被害者の首に輪っかを掛けた太い大麻ロープを繋ぐ。この時点ではまだ、被害者は気絶させられるか何かして、地面に辛うじて足が付いた状態で――まだ、生きていたのだろうね」


「でも、どうしてそんな手の込んだ真似を? そもそも、最初から普通にロープで吊るしておけば済む話じゃないですか」


「それは、完璧なアリバイを作るためだ。被害者の死亡推定時刻、自分は絶対に現場にはいなかったと証明したかったのさ。つまりこれは、近代科学の盲点を突いた『時限式の自動首吊り装置』だ。ルイ、お前が拾ってきたあのサビた針金を見ただろう。犯人は針金に魔法を発動し、それを急激に酸化させてボロボロにした。針金が重みに耐えかねて引きちぎれた瞬間、拘束を解かれたバネが本来の姿へ戻ろうと、上部へ猛烈に跳ね上がる。その凄まじい衝撃の風圧で足元の椅子は転がり、被害者の身体は一瞬で宙へ吊り上げられ、頸椎がへし折られて即死する。……犯人が遠隔で魔法を発動させた瞬間こそ、昨夜、夜番が見かけたという『宿舎の窓でちらりと瞬いた不気味な紫色の光』の正体だ」


シャーロットは淡々と、しかし核心へ向かって言葉を加速させる。


「おそらく、最初の落下事故のときも同じだ。犯人は被害者のカラビナを急激に錆びさせ、同時に背後から重心を崩す足払いを喰らわせた。金具が外れて落下する身体を、太い命綱が受け止めるはずだった。だが、犯人の指先が触れた瞬間にボロボロの酸化鉄へと変わっていたカラビナは、被害者の体重に耐えきれずにガラスのように砕け散り、彼は奈落へと真っ逆さまに落ちていった。――つまり、この一連の怪奇現象を引き起こした真犯人は、『物質を急速に酸化させるサビ魔法』の持ち主というわけだ。そして……」


そこでシャーロットは言葉を切り、ヘルメットのバイザーをルミエールへと向けた。


「その人物が一体誰なのか、お前は知っているな、ルミエール先生」


ルミエールがハッとしたように美貌を強張らせた。その瞳の奥に、隠しきれない激しい迷いと動揺が浮かび上がる。その一瞬の沈黙こそが、何よりも明白な肯定の証明だった。だが、教官は返答に窮したように唇を噛み締め、固く口を閉ざす。その様子を見て、シャーロットはヘルメットの奥でふんっと冷たく鼻を鳴らした。


「この国の法では、貴族が平民を殺しても懲役はせいぜい5年程度。長くても15年で娑婆に戻れる。だが、平民が貴族を殺した場合、待っているのは終身刑だ。ましてや二人、三人殺していれば、確実に公開処刑が執行される。……反吐が出るほど不平等な身合格差だな」


「……そこまで分かっているのなら、犯人の名も、もうお気づきなのでは?」


「おおよその見当はついている。ただし、本当に彼がその特異な魔法の持ち主なのか、物理的な確証はない。何より、彼をそこまでの凶行に駆り立てた『動機』の全貌が、まだはっきりと断定できないんだよ」


「……たまたま、見てしまったのです」


ついに観念したのか、ルミエールが重い鉄の扉を開けるかのように、ぽつりと苦しい声を漏らした。


「あの日、皆で遠的の射撃訓練をしていたとき……彼は健気に、皆のために重い矢を何往復もして補充してくれていたのです。そのとき、サンジェルの位置から『やった! 的の真ん中に当たったぞ!』という傲慢な歓声が聞こえてきました。彼が的に当てるなど滅多にない珍事ですから、様子を見ようと、そちらへ視線を向けたのです。そしたら――」


「――犯人がサンジェルに高速の足払いを喰らわせる瞬間を、お前は完璧に目撃してしまった……と。犯人はおそらく、事前に魔法で命綱のカラビナを内側から激しく酸化させ、中身をスカスカにして体重を支えきれない状態に陥れていた。そこへ足元を鋭く掬われ、弾き飛ばされた身体の全体重が命綱へと一気にかかり、それに耐えきれなくなったカラビナがガラスのように砕け散って、サンジェルは奈落へと落下した。当時の位置関係を考えれば、あの瞬間に足払いを発動できる距離にいたのは、学園内であの少年しかいない。訓練に身が入っていない周りの傲慢な坊ちゃんどもの節穴の目では『人が勝手に前に跳んだ』ように見えたのだろうが、実際は初歩的な重心崩しの体術が使われたに過ぎない。一級の弓兵たるお前の動体視力ならば、それを見破るなど造作もないことだったろうな」


「ですが……落下した直後は、私も何かの不幸な事故だろうと自分に言い聞かせていたのです」


ルミエールが苦しげに声を震わせ、言葉を紡ぐ。


「何かの拍子に彼自身が転びそうになって、その手が、足が、偶然サンジェルに引っかかってしまっただけだと。ですが……あの凄惨な現場で、彼の顔を見てしまった瞬間」


そこでルミエールは一度言葉を区切り、その引き締まった両肩を大きく震わせた。


「サンジェルの遺体を見つめる彼の、剥き出しの憎悪と、氷のように冷たく濁った瞳を見た瞬間……私は確信してしまったのです。あの子が、明確な殺意を持ってこれを実行したのだと。そして、立ち尽くす彼の指先は、不自然に少し湿っていました。命綱の先端に目をやると、真っ赤に崩壊したカラビナが残されており、私は彼が水魔法を応用したのだと思ったのです。彼の魔法は酷く脆弱なことで有名でした。周囲の空気をわずかに湿らせる程度の、劣等な水魔法しか使えないと。水魔法を扱う生徒など学園内に何人もいます。ですが、いずれにせよ彼に容疑がかかることだけは防がねばと、私は居ても立ってもいられず、救助のドサクサに紛れて命綱のロープを自身の短剣で断ち切ってしまいました」


「ですが、おかしいですね?」


それまで黙って聞いていたルイが、鋭い警察官の目でルミエールを見据える。


「遺体をあの地下室へ運んだときは複数人の目が集まっていましたし、その後は全員が宿舎に集められて行動を共にしていたはずです。一体、いつロープを切り取ったのですか?」


「……遺体を安置室へ運び込んだ後、現場の片付けのために、私だけが一人あの地下へ残った時間があったのです。今思えばあまりにも浅はかで、愚かな選択でした。ですがあの時は気が動転しており、あの子の仕業である証拠を隠滅することしか頭になく……。暗闇の中で手探りでロープを切ったため、短剣を鞘に戻した際、柄の表裏が逆になっていることにすら気づきませんでした」


「切り取った方の命綱はどうした?」


「私の自室の、鍵のかかった引き出しの奥に厳重に保管してあります」


「動機は……やはり『いじめ』か?」


シャーロットが淡々と重ねる問いかけに、ルミエールは心底悔しそうに、美しい唇から血がにじむほど強く噛み締めた。


「そうだと……思います。信じたくはありませんでしたが、日頃の座学や訓練の最中、彼らがあの子に向けていた陰湿な態度には私も気づいていました。教官としてできる限り目を光らせ、連中を彼に近づけないよう努めてはいたのですが……。私の目が届かない死角で、彼らはあの子の心を完全に踏みにじっていたのでしょう」


「そうだな。でなければ、今まさに怪奇現象のターゲットにされている連中が、あのいじめっ子グループであることの説明がつかない」


シャーロットが淡々と連ねる言葉にルミエールが心底悔しそうに唇を噛み、すがるようにルイの目の前へと足を進めた。そして、祈るような必死の形相で、ルイの両手を自身のぶ厚い手のひらでがしっと力強く握りしめる。その大きな手が、わなわなと小刻みに震えていた。胸の奥から込み上げる激情を、教官としての理性で必死に抑え込んでいるのは明白だった。


「……あの子は、もし捕まったらどうなるのですか!? 貴族を二人も殺めていれば、極刑は絶対に免れませんよね! もちろん、どのような理由があろうと殺人を犯したことは悪いです。ですが……あなた方の推理も、まだ物理的な証拠のない机上の空論だ! あの子は、逆境の中でも決して腐らず、血の滲むような努力で成績を収めてきた、本当に勤勉で優秀な生徒なのです! 先に卑劣な手を出されても反撃すら許されない不条理な立場ながら、これまでどれほど懸命に耐えて生きてきたか……っ!」


「ルミエール先生……」


必死の懇願にルイが息を呑んだ、その時だった。


「私は警察じゃない」


背後から、シャーロットの氷のように冷徹な声が、二人の感情の交差を容赦なく切り裂いて割って入った。


「事件の正しい結末を白日の下に晒し、法で裁くことなど私の仕事ではないのさ。我々がバウアー教育長から依頼されたのは、学園に蔓延する『怪奇現象の解明と沈静化』だけだ。今回の顛末には、十分すぎるほどの因果応報の理由があったと私は思うね。何より、私は知識欲と独占欲の塊だ。自分だけが物語の真実の結末(チェック・アウト)を知れれば、それで満足なのさ。私の想像通りなら、今回の事件には大いなる情状酌量の余地がある。――というわけで」


そこで言葉を切り、シャーロットは防護服の手袋でパチンと小気味よく指を鳴らした。


「取引をしようか、ルミエール先生。幸いにも、まだ怪奇現象の牙にかかっていないいじめっ子は、残り一人だ。これまでの事件はすべて『原因不明の呪い』によるものという扱いにしよう。本部から高名な霊媒師でも派遣して、お祓いで沈静化したことにすれば、上層部も納得する。その代わり――私たちは次の犯行を阻止するべく、あの子を捕まえに行く」


「……っ、それは、一体」


「あの子の犯行を見逃し、隠滅の手助けをしたのなら、お前は最後までその人生に責任を取るべきだ。捕まえた後は好きにすればいい。二人で身分を捨て、どこぞの異国へでも亡命して兵士として雇われるのも悪くないだろう?」


「ちょっと、待ってくださいシャーロットさん! 僕は魔導治安維持局の警察官です! 罪を犯した者を捕まえるのが、僕の職務ですよ!」


ルイが鼻息を荒くして叫び声を上げた。プロの警察官としての誇りがある彼が、ここで犯罪の見逃しを黙認するなど、到底あり得ない選択だった。


「なら、ここからは別行動だな」


シャーロットはヘルメットをルイに向け、冷淡に言い放つ。


「私とルミエール先生は、これから犯人の元へ向かう。お前には散々、推理の手がかり(ヒント)をくれてやったはずだ。不満があるなら、自分の足で犯人を探し出し、自分の正義で捕まえてみせるがいい」


「――ッ! もしかして、さっきからあなたがあの少年の名前を一度も明言しなかった理由って、僕に現行犯逮捕させないためだったんですか……!?」


「さあ、行こうか。ルミエール先生」


「え、ええ……」


シャーロットはルイの追及を受け流すと、そっとルミエールの肩を抱き、部屋から連れ出すように歩き始めた。教官が困惑しながらもその誘導に従って出ていくなか、無機質な訓練生の部屋には、ルイ一人だけが取り残された。


「~~~~~~~っつ、もどかしいなもうっ!!」


ルイは声にならない悔しさを叫び、制帽の下に乱暴に手を突っ込んで、一つ結びにした艶やかな長髪をぐしゃぐしゃと掻きむしった。しかし、その瞳はすぐに、鋭い決意の光を宿して前方を睨みつける。彼は意を決したように、部屋を飛び出してシャーロットとルミエールの背中を猛烈な勢いで追いかけた。


「シャーロットさんの理論を逆手に取るなら、僕が勝手について行って、僕の目の前で犯人を現行犯で捕まえる分には何の問題もないはずだ! 警察の職務にも、あなたの取引にも反しないっ!」バタバタと大きな足音を響かせ、ルイは二人の後を追った。


「そこに、お前が探している命綱は落ちていないぞ」


静かな木立の間にシャーロットの鋭い声が響き渡る。びくりと不自然に肩を揺らし、這いつくばっていた人影が、むくりと草むらから身体を起こした。同年代の訓練生たちよりも頭一つ分ほど鍛え上げられた長身。しかし、その体格とは裏腹に、常に何かに怯えているかのような暗い陰を纏った少年――コリン・ヴァイルだった。


三人が向かったのは、あの最初の落下事故が起きた演習場のすぐ近くにある草むらだった。相次ぐ怪奇現象への恐怖から、現在、全団員が宿舎に引き籠っている。見張りの姿すらなく、現場は不気味なほど静まり返っていた。


「あの日、お前が残していった決定的な証拠は、ルミエール先生が既に切り取って回収している」


「ルミエール先生が……?」


コリンが驚愕に目を見開き、シャーロットの背後に立つ教官の姿を凝視する。ルミエールは気まずそうに、しかし覚悟を決めたように視線をわずかに下へ向けながら、少年の前へと一歩踏み出した。


「すまない、コリン。不安にさせてしまったね。……あの日、遠的の訓練中、私は君がサンジェルに鋭い足払いを発動する瞬間を、この目で完璧に捉えていたんだ」


「先生、知って……」


コリンの顔から一気に血の気が引き、その強靭な身体が小刻みに震え始める。ルミエールは悲痛な面持ちで言葉を重ねた。


「君の手が触れた瞬間、あの頑丈な鋼鉄のカラビナが真っ赤に錆びつき始めたのも見えた。……君の魔法は、周囲が嘲笑うような、ただの貧弱な『水魔法』などではないのだろう? 私は君が殺人犯として処刑されるのを見たくなかった。だから、救助のドサクサに紛れて命綱を切り取り、君のサビの痕跡を隠滅したんだよ」


「先生が、僕を、庇って……?」


信じがたい真実を前に、コリンの瞳に激しい動揺と、耐えかねた涙が浮かび上がる。そんな少年の心の揺らぎを置き去りにするように、シャーロットの冷徹な口調が、科学の現実を突きつけた。


「そうだ、コリン。お前の魔法の本質は、水を出すことなどではない。金属の表面に触れ、その分子構造を急速に変質させる『急速酸化(サビ)の能力』だ。指先が湿って見えたのは、急激な化学反応によって周囲の空気が冷却され、結露が生じた副産物に過ぎない。お前はその科学特性を応用し、大型クロスボウのバネを鉄の針金で縮めて固定する、精密な『時限式首吊りタイマー』を作り上げた。針金が魔法でサビて千切れた瞬間、完璧なアリバイを持ったまま、レイナルドの首を自動で吊り上げる最悪のびっくり箱をね。――お前が犯人だ、コリン・ヴァイル」


「ひっ……う、嘘だ……っ!」


コリンは頭を抱え、獣のような悲鳴を上げた。シャーロットはヘルメットの奥から、淡々とした取引の声を投げかける。


「お前をここで治安維持局に突き出す気はない。お前を救おうとしたルミエール先生と共に、今すぐこの国を捨てて遠くの異国へでも亡命し、二人で最後まで責任を取り合って生き延びればいい。……だが」


「だめだ、捕まる……! 僕は、公開処刑なんて嫌だァァッ!」


極限の恐怖と焦燥に脳を焼き切られたコリンは、シャーロットの情状酌量の提案すらも「警察の罠」だと誤認し、完全にパニックに陥った。怯えきった少年の目は、自らを現行犯逮捕しようと背後で身構えていたルイの姿を捉える。


「退けぇぇッ!!」


「しまっ――うおっ!?」


逃亡を図るコリンが、凄まじい馬鹿力でルイの胸元を両手で突き飛ばした。いくらヘタレとはいえ、ルイの衣服の下には、過酷な警察訓練で培われた『硬質で実戦仕様の見事な筋肉』が文字通り凝縮されている。並の大男が体当たりしたところで、びくともしない頑強な肉体。――しかし、死に物狂いとなったコリンの放った一撃は、そのルイの分厚い筋肉の防御すらも強引に弾き飛ばすほどの、凄まじい衝撃を孕んでいた。


ドサァッ!と、体幹の硬いルイの巨体が草むらへと激しく突き飛ばされて転がる。


「ルイ!!」


「コリン、待ちなさい……っ!」


ルミエール先生の静止の声も虚しく、我を忘れて恐怖に駆られたコリンは、大木の死角を抜けて、宿舎の裏手へと脱兎のごとく爆走して逃げ去っていった。


「くそっ、やっぱり現行犯で確保しておくべきだったんだ……っ!」


草むらから泥だらけになって跳ね起きたルイは、衣服の下の筋肉を限界まで躍動させ、逃げる少年の背中を追って猛烈な勢いで地面を蹴った。それに遅れじと、シャーロットの防護服の金属擦れ音と、ルミエールの狂おしいほどの足音が追従する。猛然と追いかけっこを続けていた四人だったが、ふと前方を走っていたコリンの足がピタリと止まった。彼の視線の先には陽光を遮るように、黒いフードを異様なほど深く被った謎の人物が佇んでいた。その禍々しくも静かな姿を見た瞬間、コリンの土気色の顔に、砂漠で水を見つけたかのような、救われた安堵の表情がぶわっと広がった。


「我らが父……! お助けください、背後から警察の猟犬どもに追われているのです!」


「ふふふ、よく頑張りましたね、コリン。あなたは本当によくやってくれました。あの学園の害悪たる傲慢な貴族どもを排除してくれましたね」


フードの奥からあまりにも柔らかな女の声が響いた。その響きは、まるで極上のふかふかとした毛布のように心地よく、耳にした者の警戒心を一瞬で融解させ、心を優しくくすぐる魔力を含んでいる。


「はい……! 我らが父、大いなる真理の先駆者よ! 盲目の魔導に溺れた愚者どもに、私たちが世界から盗み出した『真なる火と理(かがく)』の裁きを下してやりました!これで僕も教団に入れてください!」


コリンは瞳に狂信的な輝きを宿し、女の元へ救いを求めて一歩、また一歩と近づいていく。……しかし、その足が、奇妙な痙攣と共に途中で凍りついた。


「……あ、え?」


「でもね、コリン。あなたは不合格(ドロップアウト)よ。――まだ、一人取りこぼしているわ。私の数式に狂いはないの。完璧な結果を出せない無能な人形に、我が教団の門を潜る資格なんて、最初から存在しないのよ」


「う、ぎゃ、あ、あああああああ――ッ!!」


「コリン!! 止めろ、何をしたァァッ!?」


次の瞬間、コリンの強靭な肉体中が、まるで内側から超高熱の赤錆に喰い荒らされていくかのように、急速に赤黒く発光を始めた。メリメリと音を立てて皮膚がめくれ上がり、衣服が消し炭に変わり、肉が炭化していく凄惨な異臭――凄まじい熱の匂いが辺りに立ち込める。ルミエールが絶叫し、形振り構わずコリンの元へと駆け寄っていった。しかし、彼の手が届くよりも早く、少年の身体は、物言わぬ黒焦げの炭塊となって地面にゴロンと転がり、その儚い命の灯火を完全に消し去っていた。


「なぜ……なぜこんな、こんなことが……ッ!!」


ほんの数秒前まで息をしていた教え子の無残な姿を前に、ルミエールは膝から崩れ落ち、血の涙を流すかのように激しく咽び泣いた。だが、そんな地獄絵図とは対照的に、黒いフードの人物は、退屈そうにルイとシャーロットの方へとその顔を向けた。本能的な危機を察知し、ルイが服の下の筋肉を強烈に引き締め、シャーロットを自身の肉体の盾で庇うように前に出る。しかし、


「――あなたたちは、邪魔よ」


女が細い指先をほんの少し薙ぐと、突如として大気を引き裂くような、暴虐的な質量を持った強風が吹き荒れた。オークの扉をも粉砕するルイの硬質な筋肉すらも、その超自然的な風圧の前には木の葉同然だった。ルイとルミエールの二人の身体が、一瞬にして遥か遠方へと吹き飛ばされる。


「ルイ……ッ!! ルミエール!!」


「大丈夫よ、ちょっと邪魔だから遠くに退かしただけ。あの林の方へ放り投げたから、木の枝がクッションになって大した怪我はしないわ」


「お前!!」


怒り狂ったシャーロットが防護服のグローブを震わせ、掃除機の先端を女へと真っ直ぐに向けた。しかし、女は一切怯むことなく、その場に立ち尽くしたまま、くすくすと鈴の音のような声を漏らして愉しそうに笑っていた。


「あら、シャーロット? ――まさか、もう一番の親友の声すら、忘れてしまったのかしら?」


「え……?」


シャーロットの指先が、凍りついたように止まる。ゆっくりと、神秘的な手つきで黒いフードが取り払われ、その奥から、息を呑むほどに美貌の少女が姿を現した。黒々とした艶のある美しい短髪。まるで猫のように好奇心旺盛そうで、同時に冷酷な知性を宿した、やや吊り上がった翡翠の瞳。白い磁器のような頬には鮮やかな紅が差し、赤いルージュが塗られた薄い唇を、妖艶に吊り上げて三日月のように笑っている。


「……モ、リー……?」


フードを脱いだ人物の顔を肉眼で捉えた瞬間、シャーロットの脳裏に、かつて孤児院で共に泥にまみれ、世界の仕組みを語り合った日々がフラッシュバックする。ぶ厚いヘルメットの奥、彼女の天才の顔が、生まれて初めて見るような驚愕と絶望の色に激しく染まった。それは――シャーロットがかつて心から愛し、共に育った、あの世界で一番大切な『親友の顔』そのものだった。

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