好きな女
【第42話】
阿修羅王もまた、帝釈天同様に怒りの気をまとっていた。
「舎脂は儂のもの」
「ついにボケたか」
「色惚けしているのはお前だ。舎脂はお前の命を儂に引き渡すため、天界へ転生してお前を誘惑した。すべて儂のためだ」
帝釈天が咲千を振り返る。
「嘘ですっ、違います」
慌てて否定するが、阿修羅王の言葉を追い打ちをかける。
「琴が阿修羅族だと気づいたお前ならわかっただろう。舎脂が普通の天女ではないくらい」
(そうだった。わたしはほかの子と違うって何度も言われてきた。でも)
阿修羅王が言うことは絶対に違う。
咲千は打算的に帝釈天に近づいたわけでもなければ、阿修羅王のために動いていたわけでもない。
首を激しく横に振って否定する。
「言わせておけば」
帝釈天は金環の瞳をぎらつかせた。
これまで見たことがないほどの激しい怒りがそこにあった。
「阿修羅王、お前は俺を本気にさせた」
「本気だと」
「完膚なきまで叩き潰し、二度と転生できぬようにしてやる」
言うなり、後ろ手に稲妻を放つ。
目を灼くほどの光がほとばしった。
光は蛇のごとくうねり、阿修羅王の身体に巻きつく。
「う……く、ぐ、ああ……」
苦しげな阿修羅王の声が漏れる。
敵を拘束して動けなくさせた隙に、帝釈天は咲千へ指示を出してきた。
「増長が天女たちを救い先に脱出する手はずとなっている。お前はそれに合流しろ」
「帝釈天さまは」
「俺はこいつを気が済むまで痛めつける」
「は!? キャラが変わってますよっ」
「もともとこんなだ」
たしかにドSで鬼畜ではあったが、ここまで残虐ではなかったはずだ。
「違います。だっていつも、その目には聖なる光が宿っていました。なのに今は……、どうしちゃったんですか?」
ぎらついた帝釈天の瞳が咲千を貫く。
「好きな女を奪われたのだ。まともでいられる男はいない」
雷に打たれたかと思った。
咲千の胸で、甘い想いがぶわっと膨れる。
こんな状況なのに。
(嬉しいだなんて……だめだよね?)
阿修羅界の穢れに侵食されて弱っていた身体や心が、見る間に強い炎をまとって燃え上がる。
(わたしも、帝釈天さまが好きなんだ)
過去なんて、前世なんてもうわからない。どうでもいい。
今の咲千は、この孤高の戦神の傍にいて、彼の心に寄り添いたいのだった。
「お前の目の前で阿修羅王を痛めつけるわけにはいかない。だから、先に天界へ戻れ」
「だめ、行かない」
とっさに咲千は帝釈天の背中にしがみついた。
「シャチ、聞き分けろ」
咎める声にもひるまず、強く首を振る。
「わたしも一緒にいます、帝釈天さまと。だって、離れたくないから」
「……っ、シャチ」
一瞬、帝釈天の目から怒りの炎が消える。
代わりに甘い光が宿って、咲千を見つめた。
だが刹那、もっと色濃い憤怒に塗り替わる。
「くそ! なぜそれを殊勝院で言わなかった。寝台の上でめちゃくちゃにしてやったものを」
「ひっ、もう絶対言わないって今決めました!」
「ならぬ。両手両足を縛ってでも言わせてやる」
上司はやっぱり鬼畜だった……。
「舎脂、目を覚ませ……、その男は、最低、最悪、外道中の……外道だぞ」
拘束されてもなお、苦しげな声で阿修羅王が忠告してくる。
今なら全力でうなずきたい気分になった。
「そういえば琴さんも帝釈天さまのことをよく『外道』って言っていました。なにか悪いことをされたのでは?」
――『あいつは光の中だけを歩いてきた男 切り捨てた闇には一切目もくれない』
憎々しげに吐き捨てられた言葉が脳裏によみがえる。
しかし、帝釈天は心外だとばかり眉を吊り上げる。
「あの女と話したのは挨拶に来たとき一度きりだ。手をふれたこともない」
「本当ですか?」
「なんだその疑いの目は。言ったはずだ、お前以外に興味はないし、ふれたことはないと」
「っ」
堂々とした言い草に、咲千はかあっと赤くなる。
だが、そんな甘いムードを破ったのは張本人の琴だった。
まだ威圧された余波に震えながらも、気丈に立ちあがって物を申してくる。
「嘘よ! 忘れたとは言わせないわ。わたくしはお前と忉利天の北で相対したことがある」
「いつのことだ」
「百八年と十二ヶ月三十一日前よ」
(あ、意外と新しい)
億とか万とか千単位ばかりだったので、感覚が麻痺している自分がいる。
数字がややおかしいところはもはやどうでもいい。
「そのときわたくしは言ったわ、忉利天に育つ作物を千日分よこせと。そうしたらお前、なんて言った?」
「知らぬ」
「最低。代わりに美女を千人寄こせと言ったのよ!」
(それマジですか?)
振り向けば、帝釈天は眉間をぽり、とかく。
(あ、これ絶対言った顔だ)
琴は興奮に顔を真っ赤にして続ける。
「それだけじゃない。ならば百日分よこせと言ったわたくしに、百人の選りすぐりの美女と交換だと」
「……最低ですね」
「最低でしょう!」
「最低史上最悪な外道です」
口角を引きつらせる咲千に、悪びれない帝釈天の言葉が降ってくる。
「単なる売り言葉に買い言葉だろうが」
「言っていいことと悪いことがあります」
「仕方がないだろう! 阿修羅はいつもいつも戦いを挑んできてばかりで、心底うんざりしていのだ」
(そうか、わかったかもしれない。全部終わりにする方法が)
咲千は、はっとして顔を上げた。




