社畜なアイドル
【第12話】
「主」
持国天が雷にでも打たれたように膝をつき、頭を深く下げる。
咲千は目を白黒させて、自分を背後から優しく抱える帝釈天を見た。
初日にはっとさせられた、清浄な光をたたえた瞳が見つめ返してくる。
(なんで? 助けてくれたってこと?)
後片付けは咲千に任せて、自分はさっさと部屋へ戻ったのではなかったのか。
まさかのまさか、新人がかわいそうになって、様子を見に戻ってきたとか?
(そんないい人だったっけ……?)
持国天にひねられた手首の痛みなんてすっかり忘れて、茫然としてしまう。
「なぜこいつに手を出そうとした?」
咲千を背に庇い、厳しい声で帝釈天が尋ねる。
まるで守られているような状況だ。
不覚にも、胸がとくんと高鳴ってしまう。
(いやいや、待ってわたし! この人は鬼畜な上司なのに)
ときめきを必死に否定する咲千の目前で、二柱の神のあいだには緊張感が漂う。
「主、先ほど我は、魔の匂いを嗅ぎつけここへ来ました」
「魔の匂いか」
「はい。この娘、いささか臭います」
(は……!?)
今、この神サマはなんていった?
――『この娘、いささか臭います』
――『臭います』
――に・お・い・ま・す!
「ひっひどい!」
くさいって言われた。
いくら社畜でも、くさいなんて批難されたことはなかったのに。
とはいえ、慌てて袖やら襟もとやら髪やら、匂いを確かめる。
自分ではよくわからないが、南天から飛んできたし、掃除もして身体を動かしたし、冷汗をかくような状況だったし、臭う要素は十分ある。
たしか天女は汗をかいてもいけないし、腋が臭ってもいけないと柚有から聞いた。
つまり、咲千は転生二日目にして天女失格の烙印を押されたのである。
(最悪だ……)
青ざめている咲千に、持国天は追い打ちをかけてくる。
「しかもこの者、さきほどから呪文めいた独り言をつぶやいておりました」
(それはため息だってば……)
「主に仇をなす前に、この我が打ち取りまする」
鼻息荒く宣言する持国天を、帝釈天は右手で制す。
「こいつは怪しい者ではない。名は、社畜なアイドルシャチ」
「ちょ! 余計な言葉が入ってますよっ」
思わず突っ込んでしまうが、帝釈天は構わず続ける。
「そして、俺の天女だ。すなわち手出し無用」
「いや待ってください。いつの間に所有物みたいになっているんですか」
二度目のツッコミに、ようやく帝釈天は振り向いた。
あっけらかんとした口調でとんでもないことを言ってくる。
「俺は忉利天の主神。ここに住む天女はみな俺のもので間違いない」
(めちゃくちゃ大きく出たー!)
衝撃のあまり卒倒しそうだ。
(うん、神サマって偉い存在だもんね……、ギリシャ神話とかでもこういう感じの人、いた)
まったく悪びれず自信満々な態度を取られると、反論できないのだった。
「それに『魔の匂い』というが、こいつからはしないぞ」
「ひゃっ」
バックハグからのうなじへ鼻先を押しつけられて、咲千はびくびくっと背を反らす。
「昨日も嗅いだが、まっさらな無の匂いしかしない。そそられはするが、悪臭ではない。だから持国、お前の思い違いだ」
かばってくれたのは助かるが、さすがにこの体勢は困る。
「は、放してくださいっ」
「放さぬ」
しかし、あっさりと拒否された。
帝釈天はそのまま咲千を抱き込み、その場へ胡坐をかく。
咲千は幼子のごとく広い膝の上にちょこんと座らせられた。
「ひゃあぁっ」
完全なる酔っぱらったセクハラ上司である。
しかし、腹をがっちりとホールドされて、抜け出せない。
暴れれば暴れるほど拘束はきつくなる。
「それより琵琶はどうした。聞かせてくれないのか」
帝釈天が言うと、持国天は険しかったまなざしを一転させて、明るく輝かせる。
「もちろんお聞かせいたします! ここでよろしいので?」
弾きたくてたまらないとばかり、返事を聞かないうちに背から楽器を下ろし、構えている。
「ああ。外で聞くのもまた一興」
どうやら演奏会が始まりそうな雰囲気だ。
この機会を逃すべきではない。
「あの、それではわたしはこのあたりで……」
おずおずと申し出る。
だが、許されはしなかった。
「お前もここで共に聞け。持国の楽は夢幻の奏だぞ」
「そうだ。おぬしも聞くがよい」
「いえいえ、神サマたちの演奏会に同席だなんて恐れ多いですぅ……。わたしには片付けも残っておりますし」
「先ほども言っていたが、片付けとはなにを片付けているのだ?」
琵琶を構えた持国天が問いかけてくる。
「散華の花びらです。今すぐ片付け始めないと、日が暮れてしまいます」
帝釈天はともかく、この人ならば折れてくれるのでは、という一抹の期待を込めて訴えかける。
しかしながら、持国天は首を傾げた。
「花びらを片付ける? なぜそんな必要がある?」
「はい?」
「花は西風に乗って東天へ運ばれ、我が眷属の食香がすべて食う」
「!?」
眷属だの食香だの初めて聞く言葉が多くて難解だったが、咲千にもわかったことがある。
(花びらの片付けなんて、最初からしなくてよかったんじゃないの?)
悟った瞬間、背後から高らかな笑い声が漏れた。
「はっはっは! シャチ、お前は本当に面白いな」
(騙された……!)
一連の命令は、すべて咲千をからかって楽しんでいたってわけだ。
完全なる新人いびりである。
神サマが!
「ひどいですっ」
抗議すれば、帝釈天はますます興に乗る。
「許せ。心配して見にきてやっただろう?」
「絶対違いますよね? 面白いものが見れると思って観察してたんですよね?」
「そうとも言う」
ひときわ楽しそうな笑い声が背後で漏れる。
腕の拘束は緩まない。
正面では、早くも待ちきれないとばかり持国天が琵琶を奏で始めていた。
天界は、とても美しく……賑やかなところだった。




