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最期の瞬間

 救急外来から少し急ぎ足で階段を上がり4階の南側にあるナースステーションの前で少し息を整えドアを開ける。

 朝のミーティングは始まっていた。

「おはようございます。」

 小さくあいさつしながらナースステーションを通り抜け、休憩室に荷物を置いた後すぐに戻ってミーティングの輪の中に入る。

「おはようございます。大変でしたね。」

 病棟夜勤だった後輩のともちゃんが、後ろから近づき小声で声をかけてきた。

「救急車、やばかったですよね。何台来ました?」

 南4病棟のナースステーションは救急外来の上に位置していてサイレンの音がよく聞こえる。

 この病院は市内で3つある二次救急対応の指定病院で、外来診療時間外の患者対応をしなければならない。救急車の対応は曜日ごとで分けられているが、おかまいなしに患者はやって来る。

「8台までは覚えてるけど。」

 私も小声で返事をする。途中から参加したミーティングは、おそらく5号室の松原さんのことを話しているのだろう。あとで記録を確認しよう。

「救急外来のストレッチャーが全部埋まったままで3時になったわ。4時にベッドで横になったけど、6時前に2台ほぼ同時に来たの。」

 ともちゃんは大きな目をさらに大きくして言った。

「きっつ。それ死にますね。」

 声まで大きくなっていたようで、隣に立ちミーティングに集中していた井川さんがちらりと私たちに視線を向けた。少し声がうるさかったか・・・。私は声のトーンを下げてともちゃんに返事をする。

「ほんとに、私仕事に殺されるわー。」

 日々の仕事の中で、たくさんの生き死にに立ち会う看護師として『死ぬ』や『殺される』という言葉は不謹慎に聞こえるかもしれない。最近ではコンプライアンスや倫理綱領がどうとか、同僚であっても軽い発言は注意が必要だ。ましてや主任という立場上、若い後輩たちには特に気を遣う。ともちゃんは、彼女が新卒入社で来た時以来の付き合いで、気を許せる数少ない同僚の一人だ。

「病棟は?寝れた?」

 夜勤から日勤への交替時は残り業務があってバタバタすることが多いが、今日はナースコールも少なく落ち着いている。ともちゃんも心なしかスッキリした顔をしていた。

「今日はめっちゃ静かな夜でした。全員休憩も仮眠もしっかりとれたんで。なんか、すいません。」

えへっと笑顔で私の顔を見たともちゃんは、いつもなら夜勤明けに濃くなる目の下のクマが今日は確かに薄い。

 私は昨日の朝から働き、ほぼ眠れないままここにいる。

「あー、今日は無理かも。時間休で帰らせてもらうわ。」

当直で一晩泊っても、翌日は午前中を担当部署で働かなければならない規則だ。

「その方がいいですよ。ほんと、ブラックですよね。ここ」

 と話していると、ナースコールが鳴り始めた。受話器を取って「今行きますね。」と明るい声で対応するともちゃんは足早にナースステーションを出ていった。私はミーティングに耳を傾ける。話題は今日の業務振り分けに移っていた。


 看護師の仕事はキツイ。それは昔から言われていることだが、それでも昨今、労働条件や環境の見直しや改善が図られている。この病院でも『働き方改革』以来、それまでは看護師がメインで働いていた病棟で、介護士や補助者などの人員が増やされ、業務の見直しや分業の徹底、それによって残業の時間数は格段に減っていった。ただ、労働条件の改善の余地はまだあると思っている。当直という勤務体制で、日中勤務後に引き続いて、夜間病院に宿泊し仮眠室で待機をするというグレーな勤務が導入されている病院も少なくない。その多くは医師の勤務として知られているが、ここの病院では看護師にも当直の勤務体制が強いられていた。

 昼夜問わず救急外来の対応の窓口は基本的にHCUが中心となって行うが、夜間は人員を補うため日中外来勤務の看護師や、師長・主任の役職がつく看護師が月に2~3回振り分けられて当直勤務をすることになっている。

 救急患者が来なければ当然対応もないわけで、病院内の仮眠室で一晩宿泊するだけの夜もあるのだが、 そんなラッキーな夜に当直勤務が当たるかどうかは『運』次第だ。何かしら対応が必要な患者はほぼ毎日のように運び込まれてくるのだ。医師も同様に日中どんなに忙しく働いても、当直で引き続き忙しく働くことは同様で、看護師よりも人数が少なく替わりがいないという点では、本当に身体が丈夫じゃないとできない仕事だなとつくづく思う。まあ、当直をしなければならないのは研修医から新人、中堅くらいまでで、一定の年齢を超えると医師の当直は免除される仕組みになっている。ただ、看護師に年齢制限は設けられていない。体力が必要なのは看護師だって同じはずだ。若い時には夜勤明けに仮眠することなく同期と一緒にドライブに行ったり、旅行に行くことも平気で出来ていたが、今ではもう普通の生活を送ることでも”やっと”だ。

 ダイエットや健康のためにジムに通っていたこともあるが、もともと運動が嫌いな私は1年で行かなくなってしまった。「いつか再開する」と退会手続きせずにいたが、会費だけを2年引き落とされ続けた挙句、結局そのいつかは来ることなく1年前に退会した。無駄に支払った会費を計算することは、精神衛生上よくないから目を瞑る。疲労が溜まり過ぎて家に帰るとジムに行く気力も体力もない。病院の中で走り回っていると言い訳を続ける間に、筋力・体力は確実に落ちていった。

「・・・以上です。よろしくお願いします。」

 今日のリーダー業務担当の佐藤さんが声を出しミーティングは解散され、それぞれの担当業務のため一斉にみんなが動き始めた。注射係は注射台、薬剤・物品カート、冷蔵庫を行ったり来たり、検査係はワゴンに検査のための物品を準備し、その他のスタッフも担当患者の薬や処置を確認したり、電子カルテの端末を載せ、血圧計や体温計を準備していたり、ナースステーション内は混雑していた。その混雑を通り抜け、師長席で書類を整理している師長のもとへに近づいていく。私に気づいた師長が手を止めて

「あ、小川さん聞いたよー。ひき逃げだって?お疲れ様。大変だったね。」

 私はすかさず

「そうなんですよ。昨日、当直開始時間から満床でノンストップで3時まで働いて、朝方のあれですもんほんとに、過去一かもしれないです。なので、今日は時間休もらって帰って良いですか?」

 私よりも2歳上の師長も最近になって当直明けの午前は半休で帰ることが多くなっていた。

「いいよいいよ、無理しなくて。今日は人数もいるし大丈夫。帰って休んで」

 若いころは、怖い先輩方に目を付けられないように、私用で有給休暇をもらうなんてもってのほか、熱があっても自分の勤務に穴をあけてはいけないという無駄に強い責任感と、恐怖政治の中で、体調が悪くともほとんど休むことはなかった。

 年齢を重ね、時代は変わった。『働き方改革』ありがとう。有給休暇を年に最低5日は消化することが規則となった初めのころは、休むことに罪悪感を感じたものだったが、休む権利を主張できるようになったことは本当にありがたい。

 昨日から深夜・朝方だって私はよく頑張った。胸を張って休ませていただきます。

 リーダー担当の業務である医師の指示確認のため、電子カルテとにらみ合っている佐藤さんに声をかける。

「今日、帰らせてもらうことにしたから、ごめんね。注射係とリーダーサポートでついてたけど、フリーで橋本さんもいるからお願いしていくね。」

「あ、わかりました。大丈夫です。お疲れさまでした。」

 佐藤さんは今年で4年目の看護師だ。淡々と仕事をするタイプの彼女の笑顔をあまりというかほとんど見たことがない。ベテラン医師のお寒いギャグや多少の下ネタも表情を変えることなくスルーできる技術を持っている。病室で患者と話している様子を見たこともあるが、無駄なおしゃべりをすることもなく、患者にすら笑顔を見せることがなかった。部署の飲み会が減ったこともあるが、そもそも彼女が飲み会に参加しているのを見たこともないため、仕事を離れたときの様子も知らない。ただ、仕事ぶりは真面目で患者のために一生懸命できる限りの看護をしていることはわかる。それは患者にも伝わっているのか、笑顔もなく一見冷たそうに感じる彼女に対する苦情などが寄せられることも一切なかった。誰が話しかけても笑顔を見せず淡々と返答するのは、彼女が新人の頃からで、「可愛げがない」「なんか生意気」と年齢が上の世代からの評判は悪かった。若いのだからもう少し愛想があっても良いとは思うが、愛想や愛嬌だけでなんでも切り抜けられると思っているような、胡麻すりがうまい新人ちゃんよりも、よっぽど裏表がなく私は好感が持てる。

 私は状態が気になっている患者のカルテを開き、夜間の様子の確認を始めた。

 夜勤だったともちゃんと3年目の高橋さん、2年目の片桐さんが荷物をもってナースステーションを通り抜ける。

「お先に失礼します。」

と声を揃えていうと、ともちゃんが私に近づいてきて

「久美さんもお疲れさまでした。お先します。」

と清々しい笑顔で声をかけてきた。私も笑顔で頷き

「私ももうすぐ帰るよ。お疲れ様。」

と手を振って見送った。


 患者の状態を確認し、自分宛のメールボックスを確認した後、雑務を片付けている間に、毎朝の師長ミーティングに行っていた師長が戻ってきた。電子カルテをログアウトして、私は帰る準備を始める。

 手指消毒液のボトルやボールペンなどを入れているケースを休憩室の個人用の引き出しにしまい、荷物を持って師長席へ向かう。 

「明日の主任会議の資料、持ち帰りでやってきます。では、すいません、お先に帰らせていただきます。よろしくお願いします。」

 と声をかけると、師長は

「はーい、お疲れさん、ゆっくり休んでね。」

と明るく声をかけてくれた。

 気がつくとナースステーションには、リーダーの佐藤さんと介護士の村上さんだけで、さっきの混雑が嘘のように静まりかえっている。みんなそれぞれの持ち場で働いていた。

「お先に失礼します。」

 私は誰にともなくあいさつし、ナースステーションを後にした。





 今日も眠れなかった。


 こんな働き方、この先10年以上も続けられるだろうか。


 正面玄関を出ると太陽の光が目を突きさすように眩しい。

 目の奥が痛くて、ぎゅっと目を閉じる。なかなか開かない目を細めながら駐車場に停めてある自分の車に乗り込むと、思わず「はあ」と溜め息が漏れた。昨日の日勤が終わり、そのまま当直に突入してから救急車の搬入は治まることはなかった。尿管結石の痛み、肺炎を起こして高熱と咳が治まらない、胸の痛みと息苦しさ、右半身に力が入らない、子どもの熱性けいれん。呼吸困難と心肺停止。次々と運び込まれる患者の中で、2人が亡くなった。

 救急センターが静かになったのは深夜3時を過ぎてからだ。感染性廃棄物を捨てるボックスやごみ箱はいっぱいで、処置台に準備されている注射器や針の箱や薬剤・輸液の引き出しもスカスカだ。乱雑に積みあがったリネン類、血液まみれのワゴンや床が一晩の惨状を物語っていた。それらの後片付けや、物品の補充、記録やコストのチェックを済ませ、仮眠室のベッドに倒れこんだのは4時を回ってからだった。

 ベッドが変わると熟睡できない。当直の仮眠室は特にだ。横になって身体を休められても、頭の中は冴えていてシャットダウンされない。身体は疲れているのに、目を瞑っても自宅とは違う空調や冷蔵庫の音が頭の中で鳴り響く。意識が途切れては目が覚めて時間を確認し、2~30分程度しか経っていないことにがっかりする。そんなことを繰り返しているうちに意識がなくなって深い眠りに入ったころ、6時前に救急搬送の電話で起こされた。道で倒れていた女性。外傷性ショックで意識レベルはJCSで300、心拍も落ちているという連絡。おそらくひき逃げだろうということで警察官2名も一緒に到着した。到着時にはすでに自発呼吸も心拍も停止ししていた。



 病院の南側に位置する駐車場の周辺には高い建物がなく、日光を遮るものがない。直射日光が当たって車内の温度は暑くなっていた。それが少し心地よく眠気と同時に全身の力が抜けハンドルを握ろうとする腕が重たくなる。このままここで眠ってしまいたいが、数十分程度の仮眠で回復はできないだろう。エンジンをかけて窓を開けると外の空気が入ってきた。エアコンを冷房に切り替え風量を最大に設定する。

エアコンの風が冷たくなってきてから、窓を閉めてシートベルトを締めた。当直明けのぼんやりとした頭で、一人で暮らすアパートに帰るため車を走らせる。

「今日はほんときつかったな。」

 昨日2人が亡くなり、朝方の女性も・・・。そのことが心の奥にずっしりと重くのしかかり、疲労感を2倍にしているように思った。救急外来では、人の”死”に立ち会うことも少なくない。救急外来での”死”は、本人も家族もその事態の急変に心の準備ができないため、病棟の看取りとは質が違う。機械的に業務をこなしていくことが自分のメンタルを守ることになるのだろうが、私にはその切り替えが難しい。

 当直明けの帰り道は必ず、今の働き方をいつまで続けるのか考えながら運転していた。独身、45歳。40歳で主任という役職に就いてから手当は増えた。その分病棟の夜勤の他に当直もしなければならないという負担も増えた。夜勤に加え当直の手当の分、年収としては家族がいたとしても大黒柱でやっていけるくらいの額はいただいている。しかし、私には養わなければいけない家族はいない。

 35歳を過ぎてから始めた老後のための貯金や資産形成もそれなりで、老後の資金というならば一人で生きる分には困らない程度の額にはなったと思う。

「老後ねぇ・・・」

 自分の老後の生活を想像してみるが、全くもって映像が浮かばない。こんな働き方を続けていたら、老後の前に早死にしそうだけど・・・。人生100年と言われる現代で、父は定年退職後3年で死んだ。癌が見つかってから半年も経たずに、あっという間に・・・。頑張って年金を収め老後の資金を貯めたところで、大した使わずに死んでいく人もいる。そういう人のお金が長く生きていく人に回っていくのか。母は今、父の遺族年金と残された貯金で生活している。

 年齢の順番で母と姉を見送った後、私は一人残されると考えているが、いくらあったら安心するんだろう。いつまで頑張らなくてはならないんだろう。頑張る意味ってあるのだろうか。明日死んだらこれまで貯めたお金はすべて無駄だ。母や姉が死んだあとに、私が死ぬとき、私が残したものはどこへ行くのか。毎月けっこうな額の税金と保険料を納めたとて、独身の人生を選んでしまった私には、そもそもその恩恵にあずかることもなくここまで生きてきた。さらに、私が汗水、涙も鼻水も垂らしながら働いて貯めたお金さえも国に持っていかれてしまうとしたら

・・・なんか、嫌だな。


 家族がいたら違っただろうか。

 父が頑張ってくれたおかげで母は持ち家で困らないくらいの生活ができている。そういう未来のために父は頑張ってきたのだろうか。生活に困らないお金があるのなら、仕事を辞めてもよさそうなものだけど・・・私は何のために心身を削って働いているのか。


 結婚し子どもがいて持ち家があって、そうした多くの同年代の同僚は、働く目的がはっきりしているように見える。

「給料もボーナスも、ぜーんぶ右から左に流れて行っちゃうだけ、ほんと寂しいわ。」

「うちなんて、来年、中学入学と大学入学でさ、大学も九州の大学に行くなんて言い出して」

 これから大学に入る子どもの学費とか、家のローンとか目の前の支払わなければならないお金のために働く人たちは、私の悩みなんか贅沢だとでも思うのだろうか。看護師の仕事は慈善活動ではない。もちろん患者さんのために最善を尽くしてきた。だけどそれは、私じゃなければならないわけではない。家のローンや学費は、その人が頑張らなくてはならない理由であって看護師という仕事は手段だ。


 ワタシハ?ナンノタメニハタライテイル?


 お金があって、それなりに生活できるのなら、仕事を辞めても良いのかな?仕事を辞めたとして、私は何をして生きるのか。お金があるといっても無駄を省いて計算している。ただ生きていくのに必要な生活費を基準に考えてということでしかない。ただ生きているだけの生活は楽しいだろうか。そもそもそんなに長いこと生きていたいなんて思ってないんだけど、死ぬまでは生きていかなければならない。なんてことを考えるのは、看護師としていかがなものか。思考がぐるぐるとまとまらない。今日は眠っていないから余計にネガティブな方向に振り切れている気がする。


 職場から自宅のアパートまで車で約20分、同じ道を寄り道することなく、毎日毎日行ったり来たりしている。若いころには、同僚と夕食を食べに行ったり、居酒屋からカラオケに流れたりしたものだ。予定のない日の帰り道にコンビニでお弁当やお菓子を買ったり目的もなくショッピングモールで雑貨を見たり、レンタルビデオ屋で新作映画や話題になっていたドラマを探したりもしていた。寄り道ばかりしていたのに、今はとにかく早く帰りたい。足りない物があったとしても、「あれがあるからなんとかなるか」と寄り道をしない選択をしていた。それは節約にも繋がっていたが、年齢のせいか雑貨にも新作の映画にも興味が湧かなくなっていた。

 同年代の同僚の多くは結婚し、退職したりパートの短時間労働に切り替えたりと誘いにくくなった。そもそも体力的にも仕事の後や休日に出歩くことは控えたいと思うようになっていた。

 今はただ、一人でソファから動かず動画を観ることだけが至福の時だ。

 共働きで子育て真っ最中の人たちとお昼の休憩が一緒になると、話題は決まって家庭内での出来事でそのほとんどが愚痴だ。仕事を終えて帰ってから、子どものお迎え、夕食の支度と上の子の習い事、旦那は全然何もしない。子どもがやらかしたことで自分の睡眠時間が削られた。ただただ大変そうだなと思う私は口を開くことはないが、同じ室内にいて何も話さない私に気を遣うのか、時々

「ほんと、結婚なんて良いことないですよ。主任が羨ましいですもん。」

と年下の後輩から声をかけられることもある。

 人によってはマウントのように感じる人もいるだろうこの言葉、10年前の私だったら、ピリッとしたかもしれないが、今となっては心から

「羨ましいでしょ。」

と返せるようになっていた。本当に本心だ。

 病院でクタクタになるまで働いて、休みなく家庭のこともこなすなんて私にはできない。というか“やりたくない“が正直なところだ。休日だってすべての時間を家族のために使わなくてはならない。それらのことを愚痴りながらも頑張っている彼女たちは尊敬に値する。これも本心だ。

 今のアパートに引っ越した決め手はリビングに大きくて真っ白な壁があったことだ。これなら、スクリーンをセットしなくても投映できる。ずっと欲しいと思っていたプロジェクターを買った。まあまあの値段に多少躊躇したが、プロジェクター自体がネットとつながり、いろんな配信動画を観ることができることに感動し、この値段なら安いくらいだと思い切って買うことにした。過去の名作ドラマや映画だって、大きなスクリーンで悠々と楽しめる。まるで一人だけの映画館だ。映画館のポップコーンは美味しいけれど、好きな時に好きなように楽しめることが本当に快適だ。しかもプレイヤーと繋げれば、DVDも大画面で楽しめる。コンサートに行くことも最近は億劫になってしまったが、コンサート気分を自宅で楽しめるのが本当に良い。

 そうだ、今日の夜はコンサートのDVDを見よう。日本公演のDVDが3日前に届いたばかりだ。パッケージを開封してトレカやブックレットは確認したが、肝心の映像はまだ観ていない。目が覚めて気持ち少しだけアクセルを踏む足に力が入る。今の私の唯一の癒しであり楽しみは”推し”だ。今のタイミングで仕事を辞めてしまったら、確実に推し活にかけるお金は捻出できない。

 ダメだ。まだ辞めることはできない。

 でも、仕事を辞めたらストレスがなくなって、今ほど癒しを必要としなくなるのかな。

 あー、わからない。看護学校を卒業してからここまで、ずっと働き続けてきた。無職を経験していない私には仕事をしていない自分が想像できない。

 

 国道に入ってから十分ほど走ったころ、片側二車線の国道の右車線を走っていると、前方の車のスピードが緩やかになった。左車線の車が次々と何かを避けるように右のウィンカーを出して車線変更している。徐々にその何かに近づいていくが、私の車のすぐ左前方を走っていた車も右にウィンカーを点滅させて私の車の前方に入ってきた。さらにスピードを落として左前方の道路にに注意を向ける。落ちている白い塊。自分の車の前方に注意を払いながら、目を凝らして見るとその白い塊はどうやら猫だ。長い尻尾を真上に立ててゆらゆらと振っているが、車が近くを何台も通り抜けていくのに動かない。私は猫の横を通り過ぎてからゆっくりと左に車を寄せてハザードを点け、30mくらい徐行したところで車を止めた。後方から車が来ていないことを確認して車から降りて確認するために駆け寄った。

 近づくとやはり真っ白な猫だった。頭と体はぺったりと地面に横たえ長くまっすぐなしっぽだけはゆらゆらと振っている。傍らにしゃがんでみるが逃げるそぶりはない。「どうした?」と声をかけてみると、薄く目を開け私の方に視線を向けて小さい声で「にゃ」と短く鳴いた。真っ白な毛で首輪もしているからどこかで飼われているのだろう。血は出ていないが声をかけても起き上がらないところを見ると、どこかケガをしていることは確かだ。ゆっくりと猫に触れてみるがピクリとも動かない。私は両手で動かない猫の頭を持ち上げてから左のてのひらに頭を乗せ、ゆっくりと胴体を支え猫の体勢を維持するように抱き上げて立ち上がった。

 その瞬間自分の右側から大きなクラクションが聞こえた。






 今日の当直で亡くなった90歳の女性は、施設で夕食時に呼吸困難を起こして救急車で運ばれて来た。救急車内で心肺停止し、搬入時には胸郭圧迫の装置を着けられていた。この装置を着けて搬入された患者で、蘇生した人を私はまだ見たことがない。救急センターのストレッチャーに移動してからは、病院のスタッフが交代で胸郭圧迫を続ける。家族には施設から連絡がついていて五分後に到着するということだった。アドレナリン静注にも反応することはない。医師は「挿管しようか、チューブと気管支鏡」と指示を出す。しかし、気管支鏡を入れるまでもなく口を開かせると喉の奥には夕食の残渣物が大量に見えていた。それは、何かの塊ではなく飲み込み切れなかった物が溜まってしまったように見える。すぐに到着した家族を患者のもとに案内し、医師からの状況説明がされる。その間も胸郭圧迫は続けられていた。

 この状況での医師からの説明は、医療処置をどこまで希望するか家族の意向を確認することが目的となる。それは呼吸をしていない患者に対して、気管内にチューブを入れて人工呼吸器で延命処置をするのかどうか。しかし、彼女の喉の奥には飲み込まれなかった夕食の残渣が大量に詰まっていて取り除くことは難しい状態であることも伝えられた。

 女性の長女と長男は、説明を聞いてその場で延命処置は希望しないと決断し、胸郭圧迫も止めて静かに逝かせてあげたいと返答した。ただ、次女は納得しなかった。家族への説明後も二十分近く、母親に声をかけ「嫌だ」「かあさん、いやだよ」と泣き続けた。医療者としては納得しない家族を前に、処置を止めることはできない。医師と看護師の様子から、蘇生する可能性はないことを悟っている長女の声が聞こえているのかいないのか。取り乱す妹に長女も声をかけ続けた。その間も胸郭圧迫は続けられたが、心拍が再開することはなかった。最後に長女が「もう母さんが可哀そうだから、やめよう」と半ば強引に妹を納得させ、処置は中止された。

 90歳の女性は施設で生活していた。日常生活がどの程度自立して行えていたのか、なぜ施設で生活していたのか、詳しいことはわからないが、今日、突然、夕食を喉に詰まらせたことによる窒息で亡くなった。生前の親子関係がどのようなものだったのか、生前の彼女がどのように生きてきたのか。最後の瞬間に彼女は何を思ったのだろうか。彼女はもっと生きていたいと願っていただろうか。自分にすがり泣いている娘に対して何を思っただろうか。

 もしも、奇跡的に命を取り留めたとしたら、どうなっていただろうか。

 それぞれに事情を抱えながら、みんな生きている。

 彼女の人生にとって最期の瞬間、通りすがりに関わっただけの医療者である私が何かを言えるとは思わない。

 居たはずの存在が失われることの悲しみは私にも理解できる。

 ただ思うのは、家族がいても一緒にいられないことだってある。お金があってもなくても、死ぬときはみんな一人。何処でどうやって死んでいくかはわからないということだ。

 

 もしも今、私自身が命にかかわる病気になったとして、それを克服した先に何があるのか。

 ただ老後の生活のために仕事をして、自分を擦り減らしていくだけの毎日だ。四十歳を過ぎて漠然と考えることは、老後の生活と自分の死についてだ。


 死を前にして、果たして私は

 「死にたくない」と執着するだろうか。

 「これをしておけば良かった」と後悔するのだろうか。














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