莉緒
例えばの話をしよう。
例えば、あなたは消したい物を持っている。けれどそれを消すことはできない。
例えば、あなたは消したい記憶を持っている。けれどそれを忘れることはできない。
例えば、あなたには消したい過去を持っている。けれどそれは他の人の記憶からは永遠に消えない。
例えば、あなたには消えてほしい人がいる。けれど人を消すなんてこと、できるわけがない。
さあ、あなたはどうしますか?
無理やりにでも燃やす?
記憶を持ち続ける?
その人から離れる?
その人を、その過去を手放す?
いいえ。そのためにここがあるのです。
「シキさん」
可愛らしい声が埃っぽい部屋に響いた。その声で、海の底から水面に浮かぶように意識が覚醒する。まだ眠たげに明るい茶の髪をかきながら、ソファーの上から起き上がった。
「こんなところで寝たら、風邪ひきますよ」
溜め息混じりにそう言う。腰に手を当てて仁王立ちする姿は、子供らしい見た目とは相反して面白い。
白いブラウスに、黒いワンピース。肩の少し上で切りそろえられた艶やかな黒髪は、リオが動くたびに合わせて揺れる。紅茶を淹れていたのか、ほのかな香りが鼻腔をくすぐった。
シキは、ふと笑みを広げた。
それを不思議に思ったのか、「なんですか?」とリオが怪訝な顔をする。
「いや、リオが初めて淹れた紅茶を思い出してね」
そう言うと、リオはむーと微かに頬を膨らませて横を向いた。白い頬が、刷毛を塗ったように薄く紅に染まっている。
その姿がまた妙に似合っていて、シキは湧き上がる笑いを必死に堪えた。これ以上リオの機嫌を損ねると、一日の楽しみである紅茶がお預けになりかねない。
「今日は…ダージリンかな?」
「ええ。私が初めて淹れた紅茶と同じ茶葉の種類です」
リオの髪から香った香りを機に、ここぞとばかりに話を変えたつもりが、どうやら更なる追撃になってしまったらしい。まだ頬を膨らますリオに、シキは困ったように笑った。
「リオ」
「何ですか?」
「…いや、何でもない。僕は自室に寄ってからそっちに行くよ」
「じゃあ、私は先に部屋に行っています」
リオは小首を傾げてシキの顔をのぞき込んだが、その微笑みの奥から何かを読み取ることは無理だと思ったのか部屋を出て行った。
誰もいなくなった部屋で、シキは扉とは反対の方向に歩き出した。そしてある戸棚の前で立ち止まった。小さな南京錠のついた透明な硝子戸の中には元は白かったのであろう黄ばんだラベルの付いた複数のビン―――しかも空のものが一定の間隔を空けて並んでいる。
どこからともなく―――そもそも一体全体どこに持っていたのか、大きな鍵の束を取り出すと、そのうちから一つを選んで南京錠の鍵穴にさし込んで回した。
カチリと音をたてて錠が外れる。
シキは硝子戸を開けると、一番上の棚の一番奥から、唯一ラベルの付いていないビンを手に取った。
「…本当の初めての紅茶もダージリンだったんだよ、リオ…」
目線までビンを持ち上げる。
空洞である筈の中身が、微かに揺れ動いた。
*
「ごめんください」
ここ一カ月程、僕が買い物に出る以外は全く仕事をしなかった重そうな木製の扉が、軋んだ音をたてて開いた。それと共にありきたりの挨拶が静かな店内の空気を震わせた。
「ごめんください」
さっきよりイラついた声の主が、店の奥に歩いてくる。そこでようやく、客が一人ではないと気付いた。
足音が二つ。一つは声の主であろう偉そうに音をたてる男性のもの。もう一つはそれより歩幅が小さく、ほとんど小走りになっている子どものもの。
僕の客に、複数人で来ること自体珍しい。しかもこのような組み合わせは、もしかしたら創業以来初めてかもしれない。
「いらっしゃいませ」
そう言って棚の奥から顔を出す。男―――黒いロングコートを着て高そうな皮の靴と履き、これまた高そうな皮の鞄を持った―――は店内に誰もいないと思っていたのか、随分と驚いたようだ。しかしすぐに偉そうな態度を持ち直して僕を見た。
「君はここの従業員か? すまんが店長を呼んでくれ」
またか。という顔は決して出さない。この反応にはもう慣れた。
「僕がここの店長のシキです」
男は絶句して次の言葉も出てこないようだ。
僕自身、自分の容姿は十分に理解している。十代でも通用する童顔。明るい茶の髪と瞳。サスペンダー。少年とまではいかなくとも、青年でも十分通用する。
…この間、とあるお婆さんに坊やと言われた時は本気で悩んだ。
息を詰めた男が帰ろうと回れ右をする。その背中に呼びかけた。
「『預り屋』にようこそ」
振り返った男の顔が信じられないものを見るような表情で固まった。僕はそれをいつもの微笑みで返す。
そして、それまで男の長いコートに隠れていた子ども―――十歳くらいの黒いワンピースを着た少女が、感情のない瞳で僕を見ていた。
それが、リオとの出会いだった。
*
『預り屋』
預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも。
この言葉を聞いた途端、向かいに座る男は眉間にたいそう深い皺を寄せた。大方、こんなガキの言うことなんざぁ信じられるか、とか何とか思っているんだろう。
しかしながら、このうたい文句に嘘はない。
「あなたがここに来たということは、あなたには預って欲しいものがあるということなんです。ここは、本当にここを必要とする人しか入ることはできませんから」
正しくは「入れない」ではなく「認識できない」なのだが、どちらの説明でもこの客にとって大きな意味はなさないだろう。実際に、眉根を寄せて「そんなことはどうでもいい!」と怒鳴られた。声を張り上げることに慣れているようで、空気がびりびりと震えたように感じた。しかし男の横に座っている黒髪の少女は眉ひとつ動かさないどころか、瞬き一つしない。横に少女そっくりの人形を置いておいても区別ができないんじゃないだろうか。
「噂には聞いていたが、まさかこんな子どもが店長だとは」
「容姿が幼く見えるもので。よく間違えられるんですよ」
笑顔を絶やさないで言い返すと、男は口元を引きつかせた。
「…まあ、君がいくつだろうがどうでもいい。……本当に、何でも預ってくれるんだな?」
テーブルの上に身をのりだして、声を潜めて言う。いや、本人は潜めたつもりかもしれないが、僕達以外誰もいない部屋には十分響き渡った。もちろん男の隣に座っている少女にも十分に届いているはずだ。表情が変わらないから、実際のところはわからないのだけれど。
「ええ。…ところで、『噂』とは?」
「知人から聞いたんだ。まあその時は半信半疑だったがね」
何故か得意げに話す男。
「それで、あなたには預って欲しいものがありますか?」
「ああ、この子だ」
事もなげに言う男に、逆にこちらが返答に詰まってしまう。
そもそも、そんな半信半疑の噂を信じてまでこの店に訪れたのだからよほどの事情だろうとは思っていたけれど、さすがにこれは予想外すぎる。
「なんだ。無理なのか?」
「先ほどの言葉に嘘はありません。しかし…どういうことでしょうか…?」
「もちろん今すぐにという話じゃあない。この子が我が家系の血をひく後継ぎを産んだ後の話だ」
「……」
話が見えない。
自信満々に言い切る男に、これは僕の認識と理解が間違っているのだろうかと思ってしまう。
「今日はこれで失礼するよ。あと五年もしたら、またこちらにうかがうだろう」
僕が返事をできぬ間にも、男の中では商談が進んでいく。
「その時には謝礼もいくらか渡そう。その代わり、このことは他言無用にしてくれ」
そう言って立ち上がる男を視線だけで追った。少女も一緒に立ち上がる。
目の前で自分を預けると、いや、もっと酷いことも男が言っていたにも関わらず、少女の瞳にはなにも映っていなかった。
*
ギィ―――――――
昨日働いたばかりの木製の扉が、今日もまた開いた。二日連続で客が来るなんて創業以来初めてだ。
「いらっしゃいませ」
棚の陰から顔をのぞかせると、見覚えのある瞳があった。
「君は昨日の…」
昨日の少女が、一人で扉の前に立っていた。
昨日とは異なるデザインだが、今日も黒のワンピースに身を包んでいる。
「遊びに来たの?」
「…」
「昨日の男の人は?」
「……」
何も答えない。悩んだ挙句、
「…紅茶、飲むかい?」
そう言うと、初めて少女が、小さくだが、確かに頷いた。
*
「ダージリンでいいかい?」
昨日と同じ応接室に少女を案内し、机の上にポットやティーカップを準備する。少女は黙っていたが、ふとその顔を見ると、視線は僕の手元にそそがれていた。その瞳が昨日やさっきまでとは違い、好奇心が微かに見え隠れしている。
「もしかして、見たことないの?」
少女は横に首を振る。このまま、また黙っているのだと思って顔を伏せると、可愛らしい声が僕の耳に届いた。
「見たことはあるけれど…こんなに近くで見たのは、初めて」
どうして。と聞く前に、少女が言葉を続けた。
「誰も、教えてくれなかったし、見せてもくれなかった。皆、私には近づかないから。私は娼婦の子だから」
ポットに茶葉を入れようとした手が止まった。
「紅茶…淹れてみる?」
また頷いた。
紅茶を淹れながら、ポツリポツリと話す少女の言葉を総合すると、少女の家はある華族の一つであるらしい。そしてあの男はこの子の父親で、少女は父親と娼婦の間に生まれた子どもだそうだ。少女以外に子どもはおらず、しかし血を絶やさないために少女は後継ぎを産むためだけに育てられているという。
初めて少女が淹れた紅茶は、長く時間を置きすぎて少し苦くなっていた。
気づくと、もう外が暗くなり始めていた。それに気付いたのか、少女がソファーから腰を上げる。
「帰る」
そう言った少女を、外に通じる扉まで送る。扉を開けてあげると、
「ありがとう」
と言った。
出て行こうとする少女を呼びとめる。
「名前は、なんていうの?」
基本的にここにしょっちゅう出入りする者はいない。そのため、僕は客から名を明かさない限りあえて聞くことはしない。
けれど、この少女の名は必要だと思った。
「……莉緒」
くるりと背を向けると、すぐに人ごみの中に消えていった。
「またね、莉緒」
その言葉が届いたかどうかは、僕には分からない。
*
「遅かったじゃないか!」
家に帰ると、お父様に怒鳴られた。
「お前にもしものことがあったら、我が家系の血が途絶えてしまうと何度言ったら分かるんだ! お前は我が血をひくものを産むことだけを考えていればいいんだ!」
ああ。お父様の心配は私じゃないんだ。
そういえば、私は何年ぶりに名前を呼んでもらったのだろう。昨日初めて会ったのに、あの人、シキさんは私を名前で呼んでくれた。またね、と言ってくれた。
けれど、お父様にとっての私は『莉緒』じゃない。
「他の子どもがいればお前なんぞいらないのに、我が家系の者として生かされているだけマシだと思え!」
そう聞いた瞬間、私は今入ってきたばかりの部屋を飛び出した。
周りの驚いた人々には目もくれず、凍るような空気の中を走った。
どこを走っているのか分からなかったが、たどり着けると確信を持っていた。
だって、あそこが私のいるべき場所だから。
そうでしょう?お父様。
*
バタンッ―――と突然音がしたかと思うと、廊下を駆けてくる音。そして僕のいるこの部屋の扉が荒々しく開けられるやいなや、何事かとソファーから立ちあがった僕の腰の辺りに何かがぶつかってきた。支えきれずに勢い余って後ろに倒れる。
「っ! 君は…」
「消して!」
ほとんど叫ぶように息を吐き出した。
「消して! 私なんかいらない! 消えてしまえばいい! すべて消えて! 存在なんていらない! 私を消して! ……私をっ…預って…!」
そうか。
昼から何かが引っかかっていたのだ。
何故この子がこの店に一人で入れたのか、ようやく分かった。
この店を本当に必要としていたのはこの子の父親ではない。この子、莉緒自身だったんだ…!
僕のシャツに顔を埋めて泣きわめく莉緒の頭を優しく撫でる。
おそらく莉緒は自分が何を言っているのか分かってはいないのだろう。
「本当に、君を預ってもいいの…?」
昼間とは違う真剣な声色に、莉緒はびくりと肩を震わせる。僕のシャツを小さな手で強く握って、緩めて、また握った。ゆっくりとうつむいていた顔を上げる。涙で濡れた顔は、幼さの中に強い覚悟を含ませていた。
そして莉緒は言葉を返す代わりに、ゆっくりと確かめるように頷いた。その拍子に雫が頬をつたって落ち、僕のシャツに新しく丸い染みを作った。
僕は『預り屋』だ。
ここに来た者が預って欲しいと願うものを、僕は預らなければならない。
たとえその未来がどうなろうとも、僕は預らなければならない。
*
手元のビンを元の棚の奥に戻す。今度は外からは見えないように、他のビンをその前に置いた。
南京錠を閉めて、シキは廊下に出た。暗い廊下に並ぶ同じ形のたくさんの扉は、シキとリオのみがどこになんの部屋があるか分かっている。
シキは莉緒を消した。そして、リオを存在させた。
リオに、ここに来る前の記憶はない。
リオがここに来ると同時に、あの棚にラベルのないビンが一つ増えた。
「あの記憶を返す時は、いつか来るんだろうか…」
小さく呟いたシキの言葉は、ダージリンの香りと混ざり合って、そして消えていった。
ここは「預り屋」。
預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも。




