記憶
普段から人通りの少ない通りだが、今はしきりに降る雨も相まってなおさら閑散としていた。いつもは塀の上で体を伸ばしている野良猫ですらどこかになりを潜めている。
バシャッっと水溜りが跳ね上げられた。砂の混ざった水滴が空を飛んで近くの鉢植えに植えられた植物の葉にかかった。
「っ…はっ…」
水溜りを跳ね上げた張本人である男が立ち止まって息をついた。
一体どれだけの間この雨の中にいたのだろう。この国では異質とされる陽の下で透けるように輝く明るい茶の髪は雨に重たく濡れて、今は沈んだ色をしている。髪からこぼれた滴が肩に落ちたが、すでに色の変わった服に染み込まれていっただけだった。
「璃乃…」
冷えた唇から白い吐息と共に零れたのは、大切な人の名。愛しい人の名。
水溜りに落ちた雨粒はゆっくりと波紋を広げ、そして消えていった。
ここは「預り屋」
預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも。
それが、この店の存在意義だから。
そう言って微笑んだ彼の表情を、私は今でも覚えている。
目覚めてから私が初めて見たのは、明るい茶の髪と、それと同じ色の瞳だった。
「僕の名前はシキ。この『預り屋』の店主だよ」
ベッドの上で首だけを捻って彼の方を向いた私の髪を撫でながら微笑んでいた。まるで大切なものを扱うように頭に触れる暖かいその手がくすぐったい。
くすぐったくて、暖かいと感じると共に、何故か寂しくなった。
「君はリオ。今日からここがリオの家だ。これからよろしくね」
でも、そう言って微笑む彼の方が、ずっと寂しそうだった。
*
もうどれだけ走ってきたのか分からない。どこに向かおうとしているのかも分からない。
けれど足は止まることを知らず、すでに悲鳴を上げている肺を無視して動き続ける。
バシャッという音と、足に感じた不快な冷たさでふと周りを見る。
分かっていた。
分かってはいたんだ。
璃乃と僕が違うなんてこと、分かっていたんだ。
けれど彼女との時間が心地よくて、彼女の隣が暖かくて、ずっと目を逸らしていた。
いつかこんな未来が来ることを、知らないふりをしていた。
「あ…」
どこに付いていたのだろう。桜の花びらが足元に落ちた。
それを見て、桜の花びらをまといながら踊る黒髪が目の前をよぎった。
―――――識。
暖かい彼女の声が頭の中に響く。
――――識。
璃乃…
―――ほら、こっちよ、識。
ああ、そう言えば彼女に手を引かれて甘味屋に行ったことがあったけ。
―――もう、シキったら意地悪よ。
いつも僕が持っていったお菓子をいつまでも眺めているから、その度に何度もからかっていたな。
――――識。
桜の下で何度も寄り添って眠ったこともあった。
「璃乃…」
吐息と共に吐き出した言葉と一緒に足元の波紋が広がる。それと同時に、周りの音が急速に遠ざかって消えた。
目の前には一枚の扉。木製のそれは古くもなく新しくもないが、どこか温かみを感じる。
その扉の取っ手を掴むと、僕は何の迷いも考えも無くその扉の中に一歩を踏み出した。
すぐに目に入ったのは何も置いていない大きな棚。同じものが一定の間隔でいくつも並んでいた。その棚の間を通って奥に進むと、今入ってきた入り口と反対側に同じような扉があった。
そうしなければならないような気がして、僕はその扉を開ける。
暗い廊下。左右に全く同じ扉が一定の間隔で並んでいる。
何故だか分からないけれど、その一つ一つの板の向こう側に何があるのか分かる気がした。けれどそれに疑問を持つ余裕はなく、僕はその暗闇の中に足を踏み入れる。
不思議と、怖いとは思わなかった。
先の見えない廊下を歩くと、ある一つの扉があった。
ここだ、と断言できた。
古めかしい音をたてて扉が開く。
棚も、椅子も、本もない。
あるのは小さなテーブルと、その上の二つの空の瓶。
その瓶を手にとる。
僕が何をすべきなのか分かった気がした。
*
この気持ちも、思い出も、全て消え去ってしまえばいいのに。
そう思う反面、消えてほしくないと願っている自分がいる。
ああ、そうだ。
この気持ちをどこかに詰めて、仕舞ってしまおう。
この思い出を何かに入れて、置いておこう。
決して誰も入れない。
決して誰も気付かない。
そんな場所。そんな空間。
*
まず両親の記憶を預った。
次に、日本で僕の世話をしてくれた父の兄である当主様の記憶を預った。
そして屋敷の使用人たちの記憶を預った。
町の人たちの記憶を預った。
僕の記憶を彼らの中から全て消した。
全てを瓶に閉じ込めて蓋をする。
あと一人。
「璃乃」
艶やかな黒髪を空に躍らせながら彼女が振り返る。桜が散ってしまったことを残念に思った。
瞳は大きく見開かれ、蓋の開いた空の瓶を手に持った僕を映し出していた。
「え…」
「さよなら、璃乃」
僕はちゃんと笑えていただろうか。
「し…き…」
彼女は一筋の涙を流してその場に崩れ落ちた。
瓶の蓋を閉じる。
「…ごめんね」
僕がこの世界から消えた瞬間だった。
*
預り屋には部屋がある。
きっとシキさんは、私がそこを知っていることを知らない、一つの部屋。
その中には棚も、椅子も、本もない。
あるのは小さなテーブルと、その上の二つの瓶、そして優しい蒼の石のペンダントだけ。
瓶の一つは蓋が開いている。
もう一つは、何も入っていないにもかかわらず、蓋がされている。
蒼いペンダントは窓からの光を受けて瓶へと反射し、何も入っていないはずの瓶の中身を揺らめかせる。
きっとここはシキさんの大切な場所。
そして、「預り屋」が存在するための要。
それにこの店は私にとっても大切な場所。
だから私は、この店を壊したくはない。
*
「リオ」
私の名を呼ぶ聞きなれた声。読んでいた本から顔を上げると、部屋の入口にシキさんが立っていた。
「さっき新しくできたお店でお菓子を買ってきたんだ。リオの好きな甘いシフォンケーキだよ。調度良い時間だし、一緒に食べようか」
そう言って、ケーキの入った小さな箱を掲げる。私は反動をつけてソファーから降りると、シキさんの横に並んだ。手を伸ばして彼の左手に触れる。
突然の私の行動に少し驚いた顔をしていたけれど、微笑んで私の右手を包みこむ。暖かい体温が手のひらを通して伝わってくる。
「リオ…?」
不思議そうに私の名を呼ぶ。
大丈夫。
この人が私の名を呼んでくれる限り、
私の手を握ってくれる限り、
私の頭を撫でてくれる限り、
私を必要としてくれる限り、
私はこの人のそばにいよう。
私はこの人のそばにいたいから。
私はシキさんに比べて小さな自分の手で、暖かな大きな手を握り返した。
*
僕の手には二つの瓶があった。
一つは中に何も入っていないように見えるのに、蓋の閉じられたもの。
もう一つは蓋の開いたもの。
僕はその二つをしばらく見つめた後、静かにテーブルの上に置いた。
僕には必要ないと思ったから。
僕のこの記憶を預るべきではないと思ったから。
璃乃のことを。
「僕」がこの店の、最初の「預りもの」だということを。
きっと僕は忘れてはいけない。覚えていなければならない。
*
ここは「預り屋」。
預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも。
これが私の知っている物語。
シキさんの、
そして識さんの物語。
今日も預り屋はここにある。
酷く曖昧で、不安定なまま、それでもここにある。
その扉を開けられるのはある人たちだけ。
識さんのような人たちだけ。
ならば私は、どうしてここにいるのだろう。




