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預り屋  作者: 蒼斗
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パンドラの箱

 この世界には、触れてはならないこと、開けてはならないものが存在する。

 それは形あるものだったり、形無いものだったり。

 けれど人間は、禁じられたことに、ものに手を出したがるのだ。

 それはずっと昔も、そして今も、変わることはない。







「『パンドラの箱』ってなんですか?」


 少し古い装丁だが立派な、その小さな手には少し大きい本を開いて膝に抱えながら、視線をこちらに向けてそう言った。

 肩の上で切りそろえられた黒髪が小さく揺れる。強くもなく、弱くもなく、何とも言えない光が揺らめいている大きな瞳が、長い前髪の奥で僕を映し出していた。


「『パンドラの箱』…ギリシア神話、だね」


 自分が開いていた本を閉じて、クッキーの入った皿の横に置く。リオが頷いた。



 *



 パンドラ―――パンドーラーとも言われる、ギリシア神話に登場する女性です。彼女は神々から様々なパンドーラー(贈り物)を与えられました。

 アポロンからは音楽と癒しの力を、アフロディーナからは男を苦悩させる魅力を、ヘルメースからは狡猾な心を。

 そして神々は、彼女に決して開けてはならないと言って箱を持たせ、エピメテウスのもとに送り込んだのです。

 エピメテウスは彼女を妻に迎えましたが、兄のプロメテウスに一つだけ言われていたことがありました。それは彼女が持ってきた箱を決して開けてはならないということでした。

 ところがパンドラは、好奇心からその箱を開けてしまったのです。



 *



「駄目だと言われたのに開けてしまったのですか?」

「そう。パンドラは神々から様々なものを与えられていたけれど、その中でも、ゼウスからは好奇心を与えられていたからね」



 *



 箱を開けた途端、中に閉じ込められていた疫病、悲嘆、欠乏、ねたみ、憎しみ、犯罪などの様々な災いが世界に飛び出し、人々は厄災が満ちた世界で苦しむこととなったのです。

 しかし、箱の中に唯一、「エルピス―――希望」が残りました。どんな酷いことが起きても、人間が希望を捨てないのはこのためです。



 *



「この神話から、『パンドラの箱』は『開けてはならないもの』、『禍をもたらすために触れてはならないもの』の意として使われているんだ」


 少し冷めてしまった紅茶を一口飲む。溶けきっていなかった砂糖がざらざらと舌に残った。


「ギリシア神話には諸説あってね、パンドラの箱は実は箱ではなかった、という説や、箱は神々からパンドラに贈られたものではなく、兄のプロメテウスが残していったものだった、という説もあるんだよ」

「パンドラは何故神々に送り込まれたのですか?彼女が世界に来なければ、世界に災いはあふれ出なかったはずです」

「パンドラは人類に災いをもたらすためにゼウスが命じて作らせた女性だと言われていてね、それを考えると、ゼウスは好奇心を与えたパンドラと厄災の入った箱を送り込むことによって、人間を滅ぼすための計画の布石を打ったとも言えるね」


 それともう一つ、と人差し指を軽く立てる。見慣れた明るい茶の髪が視界の中で揺れた。


「パンドラは人類に災いをもたらす女性であるとともに、僕ら人間の始まりともされている。この『好奇心』も僕らに受け継がれていると考えられているんだ」


 そう、だから―――


「だから人は、禁じられたことにこそ手を出したがる」


 それがどんな結果を招くかも分からずに、考えずに。

 ただ、心の奥底に眠る声を聞いて、本能のままに。

 それが触れてはならないもの、開けてはならないものであっても。


「触れてしまう。開けてしまうんだ」


 それは、人間だから。



 *



 そう呟いたシキは、長い前髪の奥で髪と同じ色の瞳に影を落とした。

 その表情は微笑んでいるようにも、悲しんでいるようにも見える。

 リオは手元の本に視線を落として考えた。


 禁じられたこと、ものについて。

 人間について。

 この店の存在について。



 *



 この世界には、触れてはならないもの、開けてはならないものが存在する。

 それは形として存在し、形として存在しないかもしれない。

 それは目に見えるもので、目に見えないものかもしれない。

 それでも人間は、禁じられたことに、ものにこそ手を出したがる。

 それはずっと昔も、そして今も、変わることはない。


 それは、『パンドラの箱』を誰しもが持っているから。

 パンドラと同じ、好奇心を持っているから。


 この店も『パンドラの箱』なのかもしれない。

 預っているものは『厄災』のようなもの。箱からあふれ出してしまったら、何が起こるのか分からない。

 けれど『パンドラの箱』には『希望』が残った。

ならば、この店の『希望』はどこにあるのだろう。どんなものなのだろう。



 *



 リオは本を閉じると、テーブルの上のカップを見つめた。琥珀色の液体がゆらゆらと揺れている。

 そして視線を上げて、机越しにソファーに座るこの店の主を見た。

 この主の全てを、リオは知っているわけではない。

 けれど、この店を作ったのが、この主であることは知っている。

 かのゼウスは、人間を滅ぼすためにパンドラの箱を存在させた。


 ならばこの店は、いったい何のためにあるのだろう。


 リオはテーブルの上の皿に手を伸ばして、甘いジャムののったクッキーを一つ手に取った。



 *



 ここは「預り屋」。

 預けたいものなら何でも預ります。それが形あるものでも、無いものでも、何でも。


 ご来店の際にはお気を付け下さい。

 この店は『パンドラの箱』。

 預り物が店の中に詰められているのです。

 今はまだ閉じたままの空間。

 不安定なこの店が、いつまで箱を閉じたままでいられるのか、それは誰にも分からないのですから。

 そして、最後に何が残るのかも、誰も、何も分からないのですから。


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