第一章8 『オペラ座の――』
呑まれる。
「マズい、マズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズいマズい!」
コレはヤバい。何がどうとかではなく、感覚で、肌でわかる。
相対してはいけない相手。同じ土俵に立ってはならず、その能力すらも認識してはならない。
そんな相手と相対してしまい、尚且つ能力まで使用されている輝義の状況を一言で表すのなら――詰み。
ギシギシと迫る蜘蛛は生理的嫌悪を感じさせる。だがそれ以上に忌避すべき何かが、あの蜘蛛にはある。
思い出したくない何か。それをこじ開けられそうな――
「あ、そうそう。ファントムぅ、今日のご馳走はぁ――物理的に喰って良いよ」
ゾクゥッ――全身に走る寒気が、今度こそ危険信号を発する。生きるために、この場にいてはいけない、と。
「クソ、がぁ……!」
咄嗟に身体を捻り、恐怖に支配された足腰を無理やりに動かす。その際にどこか筋が伸びたのか激痛を伴ったが、今はそんなことを言っていられない。
「――ハァ、ハァッ!」
「あぁ、ちょっとぉ。何逃げてんのぉ?」
間違いない、相手はヒーローだ。それも『神』クラス。
広大な空間で行われる能力行使は『結界』だろう。この暗闇に閉じ込め効果を発揮する……あの蜘蛛は、その能力か?
どんな能力かは知る由もない。が、男か女かもわからない相手は言った。物理的に喰っていい――と。
「このまま、じゃ……喰われる、死ぬ!」
もはや声すらも声として機能していないほどに掠れている。喉は渇き、張り付き、パリパリと剥がれそうになる度に喉に激痛が走った。
「違う、走るのは激痛じゃなくて俺! クソォ!」
なんでこうなった。何がいけなかった。
穴だらけの計画か?
輝義の無鉄砲さか?
違う、そんなものは大した問題にならない。これまでもそうして、何事もなかったかのように生きてこられたのだ。
ならば何を間違えた。
「――さぁ、後悔して、懺悔しなよぉ。『成り損ない』さん?」
――俺は、あの日に全てを間違えた。
==================
「あ、ぁああああ!!」
誰かと同じ、燃えるような紅の髪を振り乱しながら彼は叫んでいる。おそらく『オペラ座の英雄』の影響下に入ったのだ。
『成り損ない』は総じて英雄因子が弱い。中途半端な力は完成された英雄の力には敵わないのだ。
だから、彼はこの力に抗うことができない。
「……このまま飲まれてぇ、死んじゃえぇ」
先ほど言った『物理的に喰っていい』というのは単に、彼に見せる幻覚の濃度を上げて擬似的な五感を植え付けることを言う。
そうすることにより、彼はより鮮明な『後悔』を味わうことになる。
今彼がどんな『後悔』を見ているのか、於菟にはわからない。しかし、紫色の髪をなびかせる於菟はそれが甘いものではないことを知っている。
自分の力は誰よりも醜悪で悪辣で、悪趣味であると、他の誰でもない於菟自身がわかっていることだ。
――ヒーローなのに、悪い能力。
「こんな皮肉もぉ、慣れちゃったねぇ」
誰かを助けることに自分の価値を見出していた『幻神』は、今や誰かを苦境に立たせ助けるというマッチポンプでしか自らを肯定できない。
こうなったのも、世界から『悪者』がいなくなったせい。
こうなったのも、全部『成り損ない』が生まれたせい。
於菟は、彼ら『成り損ない』を許さない。
「ウチらから力を奪うお前らはぁ……押し潰されて、死ねばいいんだよぉ。クヒ、フハハウヒャヒャ!」
==================
燃える。揺れる。息苦しい。なんでこんなことになった……?
今まで悪い子にしてきたことはなかったはずだ。馬鹿なほどに実直で、親に逆らわない、そんな良い子を演じてきたはずだ。
だからサンタは毎年自分の元へ来たし、周囲の大人は自分を持ち上げた。
子供相手には悪い子を演じてきたはずだ。
大人を馬鹿にして、隠れてコソコソと悪巧みをはたらいて、子供達のヒーローとして立ち回ってきた。
だから友達はたくさんいたし、誰も自分を虐めなかった。
――なのに、なぜ今自分は、こうして死の危機に瀕しているのか?
「ハッ、ハッ、ハッ、ハッ――」
息苦しい。視界が狭い。燃えている。踏み出す足は震え、踏みしめる大地は揺れ、吹く風は重心をズラしてくる。なればこそ、それは必然だった。
「――――ッ!」
足がもつれて派手に転倒する。手から着き、手のひら、膝を擦り剥く。それでも涙は出ない。枯れてしまったから。
背後から迫る足音が原因で。
「何をそこまで恐がるのさぁ、ボクぅ?」
「いや、嫌だ……嫌だッ!」
「あぁ。……うーん、何かしたっけぇ?」
パチン。
立ち上がり走り出す。走り出した。――はずなのに、身体は動かずその場に留まり続ける。まるで逃げる意思を失ったかのように、走り出そうと姿勢を維持したまま硬直してしまい、その間にも足音は迫り続ける。
脳裏を巡る数々の後悔。――裏切って裏切って裏切って、騙し続けてきたことの罪悪感。
「後悔の味はどうぅ?」
「――――」
声すらあげることができない。思考はそのまま時間を止められたかのような感覚に恐怖し、思う。
なぜこんなことになったのか、と……『後悔』する。
「つーかまーえたぁ」
背後から頭を掴まれて、本気で悟る。今度は自分が死ぬ番だ。殺されるのだ。
悪足掻きは意味を成さず、より恐怖を増す形で自分を捕まえた。いっそのこと、最初から死を選んでいればこれほどまでに恐がったりはしなかっただろうに。
――助けて。
――――助けろ。
「――誰かぁ!! 助けてっ!!」
――――――――そして、
助けは、誰も来なかった。
これが騙し続けた者への報いか。
誠実であれなかった悪ガキはここで――
「――安心しなよぉ。ウチは悪者じゃぁない」
その優しそうな声は、すぐ近くから聞こえてきた。
頭に乗せられた手が、ポンポン、と。まだ子供の、八歳の輝義の心を落ち着かせる。
「だからぁ、逃げられた時はショックだったなぁ?」
こんな戦場で、その人は余裕ぶって、ふざけているようにも見える。しかし違う。どこか痛ましげに眉を下げている。……何かを、後悔しているのだ。
「助けに来るの、遅れてゴメンね。怖かったでしょ? ――もう大丈夫だから。ウチらは……私達は、強いから」
「ああ、そうだぜガキ」
「あたし、確かにヒール専門だけど……意味が違うんですけど?」
「本来なら私の守護地域は北欧なんだが、……まあ、居合わせたついでだ」
すでに家族は殺され、街は燃え、手遅れなのもいい加減にしろ。
そう叫びたいのにできなかった。それはその四人の威圧感とかそういうのではなくて。
彼らが、本気で『後悔』しているからだ。
助けられなかった人達がいることを。何か一つ、正しい選択肢を選んでいればこんな惨劇は回避できたことを。
だから幼い輝義は訴える。
この最低最悪から、『すくい』出してくれと。
「――助けてよ、ヒーロー」
彼らは四人、声を揃えて『こたえ』た。
「――任せろ」
==================
「――……ぅうううぐ、がぁ!」
割れそうなほどの頭痛を突き破り身を起こす。ついさっきまで自分は何をしていたのか、それを記憶しているはずの脳は何か別のものを鮮明に脳裏に映し出す。
それは過去の記憶。輝義が激しく『後悔』した、『英雄に憧れた日』――
「あれぇ? なんで平気なのぉ?」
まだハッキリとしない意識の中で、その声だけは直接脳内に届いているかのように聞こえた。
それもそのはず、輝義はその声を、知っていたのだから。
「……アンタ、『幻神』だろ」
「んん、バレちゃったぁ? って、そんなことはいいのさぁ。――なんでお前は無事なの?」
無事なわけあるか。
脳は張り裂けそうで、できることなら今すぐにこの場を転げ回って全身をズタズタにして痛みを上書きして死にたい。
だけど死ねない理由がある。
「たしかアンタの能力……『オペラ座の英雄』――『後悔』を無理やり記憶の中から引っ張り出す、んだっけ」
「そうだよぉ? 後悔っていうのは逃れようとしても逃れられなくてねぇ。もうそんなつもりはなくても、心のどこかに罪悪感っていうのは残ってるぅ。悪者相手にはピッタリでしょう? ……そしてそれは、押し潰れずにはいられないほどの重圧のはずなんだけど」
「そんなことより答えろ」
「うん?」
声も掠れ掠れに、今さっき思い出された後悔が今も輝義を襲っている。
だがそんなものはどうでもいい。これまでに何度その後悔を後悔してきたと思っている。
「だから、そんなのはどうでもいい……アンタ、神クラスのヒーローだ。なのに、なのになんで――」
「――――」
「なんで俺みたいな! クソ弱え一般市民をなぶってんだよ!? あぁ!?」
――輝義の描く英雄の理想像に、そんな姿は存在しない。
彼らは気高く、誇り高く、全てにおいて最も高位である。
もちろん、それが単なる理想像であり、夢を見過ぎであることもわかっている。でも、子供の頃の輝義はそれを信じていたのだ。
初めて自分に、周りに嘘をつかずに彼らに憧れを抱いたのだ。
なのに今、ヒーロー達はメディアの道具となり、腑抜けとなり、一般人を襲うようなクズになっている。それをどうして認められようか――!
「答えろよッ、ヒーロー!!」
「お前達が悪いからだよ、この『悪者』」
パチン。
暗闇が割れる。
ドーム型の装丁を保っていた暗闇にヒビが入り、白光が隙間から漏れ出る。
ここは『幻神』の結界のはずだ。なぜそれを自ら崩すのか――
「能力的な問題かどうか知らないけど、どうにもお前には『オペラ座の英雄』が効かないみたいだし……次はお前に仮面を被ってもらうよ」
次に、ヒビ割れて落ちた暗闇の結晶が収縮していく。渦巻きたった一つの黒い何かへと変貌を遂げ
「……あれ?」
自分はなぜこんなところにいるのか。
見渡せばそこは見知らぬ公園で、つい先ほどまで何をしていたのか思い出せない。
たった一つ、鮮明な何かがあるとすれば、ここにはさる中年の男がいる、という漠然とした事実の記憶のみ。
その男と自分がどういう関係であったのか、思い出すことはできない。――できない、が。
「……まあいいか。家帰ろ」
どうでもいいや。
随分と投げやりに、結論を弾き出した。
ふと一歩踏み出した時の違和に気づく。どことなく身体全体が重いような……?
「……もしかして、俺、ここで寝てたのか? そんで寝すぎて身体が怠いとか。うわー、俺何やってんだよ……」
これ以上にない駄目人間っぷりである。
今日は平日だったはずだ。それなのに自分の格好は私服姿であり、真昼に公園で昼寝?
これはひどい。
「なんて親不孝な息子だ……どれ、ちょっくら帰って親孝行してみよう。ここで働く、ってならないところが俺の美徳!」
――待て!!
「ん?」
今、脳裏で何かが声を発したような。
「アレかな、何者かが俺の脳内に直接!?」
先ほど周囲を見渡した時には誰もいなかった公園だ。そんな声が輝義に届くはずもなく、
――――待てよぉおおおお!!
気のせいだとすることにしたその声は、やけに切羽詰まっているように聞こえた。




