第一章5 『主人公不在で進む舞台裏』
主婦の一人は神に祈っていた。この場合比喩表現でもなんでもなく、心の底からぞろ『助けてください神様』と。
突然闇に覆われた商店街の一角。そして空が割れ、巨大な蜘蛛が現れた。この瞬間思い出されたのは十五年前、まだ二十歳前後だった自分を襲った悪意――ヒールの存在。
あの時の自分は脅威を嘲笑っていたはずだ。そんな存在が本当にいるわけがない。何かのイベント、催し――そう考えて、家族を失った。
結婚したばかりの夫を殺されて、両親が心中し、叔父家族も狂って殺し合い。
本当の意味で一族でたった一人の生き残りになってしまった主婦は、泣いて、泣いて、泣いて――ヒーローの登場に喜んだ。ああ、神様が助けに来てくれた、と。
そしてヒールは掃討され、再び平和な世の中が訪れて……忘れてしまっていた。世界はこんなにも残酷なのだと。
あっさりと、奪われてしまうものなのだと。あんなにも痛感したはずなのに、こんな時に何もできず、どうすることもできない。役立たずな恐怖のみが、脳を、身体を蝕み動きを止めてしまう。
――助けてください。
――誰でもいいから、助けてください。
「早く、私を殺してぇ!」
こんな世界、生きるくらいならば死んだ方がマシ。
新たな家庭を築き、もう一人ではないにも関わらず――主婦は生きる気力を失っていた。
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――なんと息苦しいことか。
騒ぎから一歩引いた場所でそんなことを思う。人々が押し合いへし合いし、ある物から逃げている。
空から降る災厄そのものを受け止めきれず涙をこぼす者。絶望する者。痛みを訴える者。
「趣味の悪い能力ですね……まったく」
かくいう自分も、去るところでは『悪趣味な能力』と評されているのだが。
「……本当、この世にある不思議な力は全部、悪趣味なのか」
漏れる声は誰に向けたものでもない。言うなれば自身に、そして世界中のヒーロー、そしてその成り損ないに向けて。
蔓延する不思議。そしてその不思議を当たり前のように受け入れる世界。狂ってしまったものを直すには、少し時間が経ちすぎた。
――今からでも間に合うのなら。
「……そんな仮定は無意味」
諦観を極めたかのようなため息は、騒ぎに埋もれて消えていく。
一歩ずつ騒ぎから遠ざかる。そしてある地点で景色がガラリと変わった。
宵闇が支配していた世界は途端に開け、騒ぎは鳴りを潜めてしまう。振り返ればそこにあるのは日常を彩る商店街があるだけで、逃げ惑う人々の姿などない。
「本当に悪趣味で、醜悪で――なんとも汚らしいものですね」
その呟きを最後にし、その場を離れようとして――ゾクゥッ――行き過ぎた違和感が全身を包んだ。
今すぐ横を通り過ぎた人。背格好はマトモとは言えぬ見すぼらしいもので、中肉中背。中年の禿頭は日の光に輝いていて妙な存在感を放っている。
片手に握られた酒の瓶。中身は空っぽだ。
普通に考えれば、何の変哲も無い……いや、変哲ありまくりだが、ただの中年オヤジである。しかし圧倒的な存在感と威圧感を失っていない。
その理由を自分は知っている。つい先ほど視たから。
「――早く離れた方が良さそう」
この男の力が振るわれる前に。
巻き込まれるのは、ゴメンだ。
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違和感に気づいたのは足を踏み入れてから数歩進んだところだった。
いつ頃からなのかは知らないが、周囲がやや暗いのは夜目が効きすぎるため気づかなかったし、一見バーゲンセール中の商店街に見えないこともなかったからだ。
だが、どうにも主婦達の様子がおかしい。それに気づいた元ヒーロー――中年オヤジは、担いだ酒瓶をダラリと降ろし、
「あー……もう誰の仕業かわかったわ。にしても、なんだってこんなことするのかねぇ?」
この現象……つまるところ、暗いだけの商店街で大勢の主婦や店員がさめざめと泣いている現象からして、誰が引き起こしているかの見当がつく。
だが、問題の動機の方はまったく見当がつかない。無差別に人を襲うような奴だとは思わなかったが。
「まー、人には人の事情ってのがあるんだよな。オレも人のこと言えねえし……大した被害も無さそうだし、帰ろ帰ろ」
どこに帰ると言うのか……帰る場所もない自分に嘲笑し、元いた公園へと歩みを引き返す。
そのつもりだった。
「――あぁ?」
急に全身の力が抜け、膝が折れる。地に着いた衝撃で激痛が走るが、それ以上の『不可解』が中年オヤジを襲う。
激しい動悸に苛まれ、掻き毟りたくなるほどの頭痛が現れ、そして思い出したくもない過去が鮮明に――
「ぁ、ぁああああ!!」
手に握っていた酒瓶を地面に叩きつけ、尖った破片を足に刺した。
「ぐ、ぅ……ぁ!」
久しく感じたことのない激痛。だがそれは、彼を正気に留める。
「あららぁ、まーた強引な手で……」
「テメエ……何しやがる」
英雄因子のお陰で傷の治りは早い。とはいえ、治るまでの痛みは相当のものだ。こんな痛みを味わう、その原因を作った人物が語りかけてきている。
相手が誰かの見当はついている。だがやはり、どうしてこんなことするのかはまったくわからない。
顔を上げればそこには、男とも女とも取れる容姿、格好をしている人物がいた。中年オヤジが知っているよりもやや小さいものの、間違いない。
「於菟……!」
「おんやぁ? 『幻神』の名前で呼ばないなんて珍しいんじゃないぃ? やっぱり久々に会うと変わるのかなぁ。どう思うぅ?」
やや調子の外れた、ともすればふざけているようにも聞こえる相変わらずな口調で中年オヤジと相対する者。
自傷の痛みが収まり立ち上がる彼に臆することなく、於菟は皮肉気な笑みを浮かべる。
「今のお前はどうにも、昔の幻神と同一人物だとは思えねえもんでな……!」
「ねえそれさぁ、チビになったって言いたいわけぇ? まったく、どいつもこいつも……ぶち殺されたいのかなぁ」
「そういう意味じゃないことはわかってんだろ、あぁ!?」
「おーおー、そういうアンタは……変わったけど、その血気盛んなところだけは変わんないねぇ」
まともに会話をする気があるのか。表面上は会話として成り立っていても、於菟の方は中年オヤジをのらりくらりとかわしているだけ。これでは会話ではなく、クレーマーと店員の応答のようだ。
「オレが知らないとこで何やってんだか、それこそ知らないが……オレにまで幻術かけようとすんのはどういうことだコラ」
「べっつにー? そんな気はまるでなかったしぃ。アレだよ、アンタの英雄因子も弱ってんじゃないのぉ?」
「――――」
「あ、思い当たる節あるんだぁ」
英雄因子とは、名前が表す通りヒーローであるための、もしくはヒーローとしての力を使うための大事な要素――言うなれば魔力のようなものである。
それが欠落、損失などすればヒーローとして戦ってはいられなくなる。しかし、普通にしていればそんなことはあり得ない。一度英雄因子を身体に宿せば、それは半永久的に体内に存在し続けるのだ。
しかし、彼――元ヒーローの中年オヤジは、普通ではなかった。悪者との戦争、その最前線で戦い、無茶な力を使いすぎた。その結果、英雄因子が弱り始め、ついにヒールを掃討したあの日、戦えるような状態ではなくなった。
「……うるせえ。それはテメエもだろうが、於菟」
今でこそ落ち着き、力を振るうのにも大した問題はなくなったが、戦う理由もなく、戦えなくもなったヒーローへの扱いは彼を変えてしまった。その結果が『現在』である。
そして、英雄因子が弱ったのは彼だけではない。
「オレや軍神、さらに幻神であるテメエと、癒神……みんな、あの日を境に弱る一方だったろう」
「ああ、それねぇ。別に四人だけじゃないんだよぉ? 世界中で活躍してた数多のヒーローが、何かに力を吸われるように弱っていった。くひひっ、急になんでだろうねぇ?」
楽しげに答えを勿体振るような於菟は、明らかに何かを知っている。そしてそれを、中年オヤジに隠すつもりは無いらしい――が、
「……言わなくてもいい。オレだって、なんとなく見当はついてる」
「おぉ、お得意の『勘』ってやつぅ? 本当なら女の子の方が鋭いはずなのにぃ、ケンちゃんってば乙女ねぇ」
「うるせえ気持ち悪い。オレをそう呼ぶんじゃねえよ」
酒瓶の破片を刺した足を見ると、すでに傷痕からして消えていた。この程度ならば修復してしまう、そんな人間離れした自分の身体に辟易としながら、
「――ああ、もしかして、テメエが暴れてる理由……それが原因なのか?」
今までにも何度か味わった英雄としての力が使われる感覚。この街で、於菟が何をしていたのか。
「本当に勘が良いんだからなぁ……ぶっ殺したくなるよ。まあでも? 流石に動機はわかっても、それと行動は結びつかないでしょ?」
「……ああ、さっぱりだ。なんで商店街のオバちゃん達に幻覚を見せる? それも、テメエの幻覚は――」
「――植え付けるためだよ。恐怖を。脅威を」
茶化すような態度は鳴りを潜め、目から色は失われた。嘘を言っている様子はない。
「世界にはもっとヒーローが必要だって、脅威はまだまだ去っていないって、そう植え付けるため。……まあ、この幻覚は、解いたら忘れちゃうようなものなんだけど」
「――――」
「でも、忘れても、その心根に刻み込まれた恐怖は消えない。今は神様に助けを求めていても、いつか必ず『ヒーロー』に助けを求めるようになる。……そのため、だよ」
中年オヤジと同じ元ヒーローが、
人々に恐怖を、脅威を、植え付ける?
「いつまで止まってんのか知らないけど……とうの昔に、時代と共に世界は動き出してるよ。――波に乗り遅れないようにね?」
パチン。
於菟が指を鳴らした瞬間、商店街を覆っていた宵闇は晴れた。
うずくまっていた主婦達は皆一様に目を丸くしている。
「あれ? 私、なんで……」
「なんか、すっごく怖い夢を見たような?」
「泣いてる!? なんで!?」
彼女らが魅せられていたのは『後悔』。
そして、中年オヤジが魅せられそうになったのも同様の『後悔』。
「……クソッタレが」
元ヒーローと言えども、いくら人間を辞めた身体であっても、彼だってまた、人の子であり、人生がある。
――そこに、ただ強いだけのヒーローの影なんて、存在しないのだ。
「簡単に逃がすと思うなよ、クソッタレが!」
瞬間、暴力的な力が振るわれた。




