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第B-8話・決心2

「真由のヤツ……二日も帰ってこないって事は、外泊してるって事だよな。友達のところだったらいいけど、そうじゃやなかったら、金銭的にも限界ってものがあるぞ」


 大は再びウインドウの外に目を向ける。

 こうして何度も何度もウインドウの外を眺めるのは、きっとただの退屈凌ぎや、人間観察ではなく、ある一人の女の子を捜しているから。

 雑踏の中で揺れる真由の陽炎。

 お気に入りの髪留め、お気に入りの黒いオーバーニーのソックス、お気に入りのNのアルファベットが入ったスニーカー、お気に入りのバッグに、お気に入りの黒いキーホルダー。

 大は、それら全てを雑踏の中に溢れる一人一人に重ねていく。犯人を捜す鑑識のように。指紋を照合するように念入りに。


「月曜日は大事な全校集会があるって言うのに……サボったらどうなるか分かったもんじゃないぞ。あれだけ先生方が厳しく言うんだから、きっとただごとじゃない」


 大は残ったウーロン茶をぐいっと一気に飲み干すと、テーブルに手をついて立ち上がる。


「おしっこ?」


 水の染み込んだコースターは、まるで由美自身を表すかのようだった。

 由美はそんな自分を嫌い、太陽のように明るく振る舞おうとする。出来るならば、濡れたコースターを、コースターごと蒸発させてしまおうと。


「……ああ、まぁ、そうだよ。……というかな、女ならせめてお手洗いと言ってくれ」


 大は残念そうにため息をつき、後頭部をぼりぼりとかく。


「ふ〜ん、じゃあ、大、だね?」


「……。名前ネタはもう耳が腐るほど聞いた」


 口を真一文字に結ぶと、憮然としたまま背中を向けようとする。


「小学校の頃、それでいじめられたりしたもんね〜、っていうか耳、もう腐ってただれてたりして」


 由美は自分の耳を引っ張って、猿のようにおどけてみせる。


「女の子なら、せめてもっとおしとやかになれ。ついでに言えば、身近なおしとやかである妹を見習え」


 今日で何度目か分からない。

 大の口から発せられた、真由、という固有名詞。


「おしとやか! 大、それは前時代的な考えというものだよ〜、今時、ジェンダーとか、男女雇用機会均等法とか、夫婦別姓とか、男女の垣根はなくなってきているんだから。ということで、私はおしとやかじゃなくても良いんです〜」


「真由が聞いたらきっと嬉し泣くぞ。姉が難しい言葉を覚えました、ってな」


 まただ。また言った。



 ――真由。



 今まで何千、何万回と聞いてきたはずなのに、なぜか今になって憎らしく思えてしまう。

 流麗な明朝体だったそのフォントが、おどろおどろしい字体へと変貌していく。


「それに、由美は由美。真由は真由。由美が由美じゃなかったら、大はきっと悲しむと思うな〜」


 大好きな妹。


 いつも私に振り合わされて困ったように付いてきた妹。

 泣かせたこともあった。喧嘩したこともあった。でも、どんなに怒っていても、そっぽを向いてしまっても、謝ればとびきりの笑顔をくれた。抱きしめたくなるほど可愛い……いや、何度も何度も両手で強く抱きしめた、たった一人の可愛い妹。


 なのに。


「口だけは一人前だな」


「あらやだ。一人前なのはカ、ラ、ダ、もですよ奥さん」


「誰が奥さ――……由美、俺をお手洗いに行かせない気か?」


「ばれましたよ?」


「俺に問いかける意味が分からん」


 なのに。


「……まったく、由美と話しているといつまで経っても目的が達せられる気がしない」

いつから。


「ふふ、用を足してらっしゃいな。こころおきなく、どばーっとね」


「真由が聞いたら妹であることを悔やむな」


 大は由美に背中を向けて店の奥へ。

 弓道を長年続けているせいか、その背中は真っ直ぐと伸びていて揺るぎない。由美は時々見かける大の執弓の姿勢を思い出す。

 由美はその姿勢の名前を知らない。


 しかし、その姿勢を持つ大を、その大の持つ瞳を、その大の瞳に映る少女を、その瞳に映る少女の持つ、澄んだ眼差しの先を、その眼差しに映る執弓の姿勢を……由美は知っている。


 そして、二匹の蛇は、互いの緒を食らい始めるのだ。

 メビウスの輪のように未来永劫終わることのない想いのどうどうめぐり。

 互いが互いを追いかける思恋のおいかけっこは、実はどちらかが振り返れば簡単に終わる。


 しかし、その二人の、本来絡み合うはずの視線を遮るように、この少女は立っている。


「……私のせいなのかな〜、やっぱり」


 喫茶店の天井で回るプロペラ空調機を眺める。レトロな映画に出てきそうなアンティーク具合。

 的に向かって一直線に飛んでいく矢のように潔い背中が、ドアの向こうに消える。まぶたの裏に思い描くのは、長身の大だからこそ表現できる大きな背中。

 広い肩幅も、たくましい腕も、大きな豆だらけの手のひらも。きっといつかは誰かのためだけに広げられるのだろうか。


「真由〜……ごめんね、こんなお姉ちゃんで」


 氷だけになったグラスの中。溶けてバランスを崩せば、繊細な音が胸に入り込んでくる。

 それは、今までずっと変わらず保ち続けてきた幼馴染みのバランスそのものだ。いつから、想いは熱を持ったのだろう。燃え上がり出したのだろう。


 例えてみる。


 きっと幼馴染み三人の足下は氷だったのだ。

 姉妹の思いが、大の想いが、淡いものからきちんとした熱を帯びるものに変わる頃、足下の氷は溶け出した。それが分かっていて、私達は幼馴染みというバランスを必死に保ち続けたんだ。


 いつか。

 今ではない、いつか。

 すぐそばまで迫っているだろう、いつか。


 溶けてなくなった足下……落ちていく姉妹のどちらかの手を、大の手がつかむ時がくる。

 その手は、姉妹のどちらかを暗闇からすくい上げてくれる。


 確実に一人を救い。確実に一人を失う。


 そしてそれは……確実に、私達姉妹のどちらか。


 大の想いは、お菓子のように分け合ったり出来ない。いつまでも、仲好し小好しの姉妹ではいられない。子供のままではいられない。


 女と女の醜い感情が、大という男を取り合う。

 それが現実。



「……真由?」




 ――グラスの中の氷が全て溶ける。




 つぶやいたウインドウの向こうに、夢遊病者のように通りを歩く真由の姿があった。

 毎日の手入れを欠かさない整った髪は乱れ、少し脂ぎっていて鈍く外光を反射している。制服は薄汚れていて、スカートからのぞくオーバーニーのソックスにも、泥がこびりついていた。靴紐は解け、地面をなめている。まるで、鉄球を引きずる奴隷の如く。


 普通の真由ではないことは一目瞭然だった。


 由美は、腰を浮かして飛び出そうとする。


 ――どうしたの真由? 一緒に帰ろう?


 駆け寄りたい衝動が溢れ出る。ウインドウの向う側を、人波に流されるように歩いていく妹。ひどく痛々しい。


 ――お姉ちゃんが一緒にいるから。もう大丈夫だよ。


 ウインドウ越しの由美には気が付かず、真由はふらふらと幽鬼のように歩いていく。

 ブラジル系ストリートドラマーがそんな真由をいぶかしげに見上げていた。


 ――お姉ちゃんが助けてあげる。汚れを拭ってあげるよ。


 真由に駆け寄り、膝を、顔を、制服を、妹をハンカチで拭ってあげよう。


 ――ほら、遠慮なんてしない。そ、れ、に。そんなの当然だよ。だって……。


 真由はきっと恥ずかしがって、遠慮がちに顔を背けるだろう。

 でも私はそんな真由の正面に素早く回り込んで、無理矢理ハンカチを汚れた顔に押し当てるんだ。


 ――真由は、愛する妹なんだから。


「待たせて悪い、トイレがなぜか混んでてさ……」


 真由が人波にのまれて見えなくなった瞬間だった。


「大!」


 由美は大の声を聞き、音速で振り返る。

 演奏を始めたストリートドラマー。小刻みな高速スラッシュビートが、由美の心をせき立てる。


「……外に」


 ――外に真由がいるの。


「ん? どうした? 真っ青な顔をして」


「外を……」


 ――外を真由が歩いていたの! 今から向かえばきっと追いつける!


「お、すごいな。あのドラムさばき」


 ――大ならきっと……真由を助けてあげられる!


「大なら!」


 真由。真由。真由。


 たくさんの真由が溢れる。記憶が年月をさかのぼる。

 笑顔の真由。純粋な真由。心優しい真由。苦労性の真由。引っ込み思案な真由。努力家の真由。器用貧乏な真由。恥ずかしがり屋の真由。大好きな真由。


 窓の外、スラッシュビートは加速する。


 真由の温もり、真由の声、真由の涙、真由の瞳。真由の眼差し。真由の……。


「きっと!」




 ……大を見つめる眼差し。




「――練習すれば出来るようになるよ」


 何かが胸の中でつぶれた。


「いや、あれは無理だ。早すぎてスティックが見えないぞ」


 そこから流出する罪悪感。


「あはは……そうだね〜……あれはさすがの大でも無理かな〜……」


 罪悪感。

 私は確かに思った。

 真由がいなくなれば、大は私のものになる。


 罪悪感。

 私には確かに聞こえた。

 ガラスが割れるような、砂利を踏みしめたような、黒板をひっかくような、不快きわまりない音。心の潰れる音。


 胸なんかすぐに押しつぶされて、今では影も形も残っていない。心さえも圧搾され、砕け散って。


「大でも……無理かな」


 大を渡したくない。渡してはいけない。

 それがたとえどんなに大切な妹でも、決して譲れないもの。

 譲ってはいけないもの。


「さて、真由のことは気がかりだけど……あいつのためにもチケット無駄にするわけにもいかないよな」


 等価交換なんて言葉が実際に通用するのなら。

 いっそ私は、妹を犠牲にして、大を手に入れる。


「そうだね〜、張り切っていきましょ〜」


 私は大の腕に自らの腕を絡め、意図的に胸に押しつける。


「お、おい! 店内だぞ! ふざけるのも……!」


 真由、実を言うとね、お姉ちゃん……もう、疲れちゃった。

 考えることに。

 だから私、もう目の前の人だけを見ることにする。何も考えないことにする。


「……好きだよ、大」


 大の胸元でつぶやく。


「なんだって? 今なんて言った?」


 大だけを見ることにする。見ることにするの。

 こんな傲慢なお姉ちゃんでごめんね。

 でも。



 ――もう、決めたから。


興味を持ってくださった方、読んでくださった方、ありがとうございます。

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