月下に舞い降りた復讐者
夜半、物音ひとつしない廃屋の一室。
クロードはふと目を覚ました。理由はわからない。ただ、肌を撫でるような、外気とも魔力ともつかない気配が、浅い眠りから彼を引き揚げたのだ。
窓辺に、誰かが腰掛けていた。
月を背に、黒い翼を広げたその影は、輪郭だけがやけに鮮明だった。長い髪が夜風に流れ、片側だけを結わえた髪が、月光を吸ってわずかに白く光る。
――天使、か。
場違いなほど静かにそう思った。頭のどこかが冷えきっていて、驚きも恐怖も湧いてこない。ただ、ようやくか、という安堵に似た何かが、胸の奥に薄く広がった。
(やっと迎えが来たのか。これで、楽になれる)
そう思いながら、クロードは瞼を閉じた。抵抗する気は、微塵も起きなかった。
「……なんじゃ」
苛立ちを隠さない声が、静寂を切り裂いた。
「せっかくやっと見つけ出したというのに、その今にも死にそうな面は」
クロードは、ゆっくりと目を開けた。
窓辺に座っていたのは天使などではない。悪魔の角が、結い上げた髪の間から覗いている。背に広げた翼は、月光を通さぬ漆黒だった。整いすぎた幼い顔立ちに、年齢不相応な酷薄さを宿した瞳が、こちらを見下ろしている。
「……お前」
声が掠れた。何年も、感情らしい感情を込めて言葉を口にしていなかったせいだ。
「妾のことを覚えておらぬのか? まぁよい、無理もない。お主にとっては、その他大勢の一人だったのじゃろうからな」
少女は窓枠から音もなく降り立つと、ゆったりとした足取りで近づいてきた。歩くたびに、翼の先が床板を掠める音だけが響く。
「魔王ヴォルドが娘、マオじゃ」
その名を聞いた瞬間、クロードの中で何かがわずかに動いた。反応というほどのものではない。ただ、遠い記憶の底で、何かが軋んだ。
「……魔王の」
「そうじゃ。お主が、妾の父を殺した」
抑揚のない声だった。憎悪を叫ぶでもなく、涙を流すでもない。ただ事実だけを、刃物のように置いていく。
マオはベッドの傍らに膝をつき、クロードの顎に指をかけた。爪の先が、皮膚に軽く食い込む。冷たい指先だった。上向かされた顔を、じっくりと検分するように見つめてくる瞳には、隠しきれない愉悦の色が滲んでいた。
「あの旅の間、幾度もお主に試練を与えてやったのを覚えておらぬか? ……まあ、その度に可愛げもなく跳ね返されておったからのう。忌々しいことじゃ」
指先が、頬をなぞる。焼けた鉄のような熱さと、氷のような冷たさが同時に存在する、奇妙な感触だった。
「父を殺された妾が、お主に何を望んでおると思う?」
答える気力すら、クロードにはなかった。ただ、目の前の少女の瞳を見つめ返していた。そこに映る自分の顔がひどく生気を欠いているのを、どこか他人事のように眺めていた。
「……殺してくれていいぜ」
低く、掠れた声で、クロードは言った。
「どうせ、生きていても仕方ない」
一瞬、マオの瞳が揺れた。それは驚きにも、失望にも見えた。
「……なんじゃ、その顔は」
顎にかけた指に、ぐっと力が込められる。爪が皮膚に食い込み、鈍い痛みが走った。だが、クロードの表情はぴくりとも動かない。
「殺してくれと、そう言ったな。妾に、望み通りにしてほしいと」
マオの唇が、三日月のように歪んだ。それは笑みと呼ぶには、あまりに冷たいものだった。
「断る」
指が離れる。マオは立ち上がり、見下ろす形でクロードを睥睨した。
「死にたがっておる者を殺したとて、何が復讐じゃ。そんなものは、慈悲を与えてやるようなものではないか。妾が望むのは、そんな生温いものではない」
翼が、ゆっくりと畳まれる。月光を背負っていた輪郭が、部屋の暗闇に溶けていく。
「お主のその、今にも死にそうな面。それが気に入らぬ。父を殺した男が、こんな腑抜けた顔で朽ちていくのを、妾は許さぬ」
マオは、クロードのすぐ隣――寝台のふちに、当然のように腰を下ろした。
「これでは、殺しがいがないではないか」
窓の外で、雲が月を隠した。部屋が、いっそう暗くなる。
「せいぜい、震えて眠るがよい。妾は、お主が絶望する顔を、心の底から見たくなった。……それまでは、殺してやらぬ」
暗がりの中で、マオの瞳だけが、獲物を見据える獣のように光っていた。
クロードは、何も言わなかった。ただ、天井を見つめたまま、目を閉じることすら、しばらくの間できずにいた。




