鏡の中の記憶と、影のような猫の想い
「事件起きなかったね」
早瀬ゆいは机に突っ伏したまま言った。
今日の依頼はなかった。
夕方、相馬と榊は喫茶店を留守にしていた。
窓の外で、ぽつりと小さな音がした。
乾いたアスファルトに雨の匂いが立ちのぼり、空は静かに崩れはじめる。
机の上で、キジトラがあくびをする。
クロは目を閉じたまま返す。
「いいことだろ」
「よくないよ。探偵なのに」
「探偵じゃない。助手だ」
いつものやりとり。
それが、この事務所の平常だった。
ゆいはふと、喫茶店の隅を見る。
そこに、いつからあったのかはっきり覚えていない古びた姿見が置かれていた。
「こんなところに鏡なんてあったかな……」
「ねえクロ」
「なんだ」
「あの鏡、ちょっと変じゃない?」
クロはすぐには見ない。
「どこがだ」
ゆいは少し迷う。
うまく言葉にできない。
「……見られてる感じ?」
クロはようやく鏡を見る。
そして短く言う。
「じゃあ、見てほしいんだろ」
その意味は、ゆいにはわからなかった。
その夜。
喫茶店の灯りは落ちていた。
静かで、雨の音だけが遠い。
ゆいは鏡の前に座っていた。
クロは少し離れた場所にいる。
鏡の中に、影のように真っ黒な猫が佇んでいた。
形は猫だが、輪郭の奥で冷たく光る二つの目だけがこちらを見つめている。
「ねぇ…クロ」
「なんだ」
「増えてるんだけど……」
ゆいが違和感に気づく。
鏡の中の影のよな猫は二十匹ほどに増えていた。
クロはすぐには答えない。
やがて静かに言う。
「数えるな」
「え?」
「揃う」
意味はわからない。
でも冗談ではない声だった。
鏡の中の無数の影の猫が、こちらを見ている。
動かない。
それでも確かに“そこにいる”。
ゆいは息をのむ。
「これ、何なの?」
クロは鏡を見ない。
ゆいを見る。
少し間を置いて言う。
「傷だ」
その瞬間。
鏡の中の猫が、同時に瞬きをした。
ゆいは小さく息を止める。
クロの尻尾がわずかに揺れた。
「今は…やめとけ」
「何を?」
クロは答えない。
ただ鏡を見続ける。
そこにはもう“増えているもの”ではなく、
「増え続けている途中」だった。
ゆいは小さく言う。
「え…ど、どうしたらいいの?」
クロはようやく言う。
「見なければいい」
ゆいは少し笑う。
「それは無理」
クロは目を細める。
「見ないふりはできるだろ」
その一言だけが、少しだけ優しかった。
『見ないふり』。
その言葉が、ゆいの胸の奥深くに鋭く突き刺さる。
(――見ないふりをしてきたのは、私?)
頭の中に、雨の音とともに見知らぬ記憶が薄い霧を破って蘇る。
それは今の自分のものではない。
はるか昔、遠い雨の日の記憶。
守りたかったのは、大切で愛おしい…なにか。彼らを遺して先立つ恐怖と悲しさに、あの日からずっと、幾度もの輪廻を重ねてもなお「見ないふり」をして逃げていたのだ。
自分が何百年も抱え続けてきた強い罪悪感と未練。
それが鏡の中の影を引き寄せ、う因果の形をとって現れていた。
鏡の中の無数の冷たい目は、じっとゆいを見つめている。
ゆいは息をのむと、鏡の中の影に向かって、静かに手を伸ばした。
「――」
言葉にしたのは自分なのに、耳を疑う。
気がつけば、唇が勝手に動いていた。
『……一度も、忘れたことはなかったよ』
紡ぎ出された言葉に、一番驚いているのはゆい自身だった。
(え……私、今、なんて……?)
戸惑うゆいの指先が、そのまま鏡の表面に触れる。
その瞬間。
鏡の中の無数の影が、温かな光の粒となって解け合い、雨音の中に優しく溶けて消えていった。
音もなく、鏡は元の古びた鏡に戻る。
そこにはただ、涙を流しながらも、どこか誇らしげな顔をしたゆい自身が映っていた。
夜が明ける。
窓から差し込む朝日は、昨日よりも少しだけ眩しかった。
ゆいはほっと息をつく。
「あれ?私何してたんだろ……?」
クロは答えない。
机の上で丸くなり、いつものあくびをする。
いつも通りのクロだった。
ゆいはもう一度、鏡をのぞき込む。
そこにはただ、普通の喫茶店が映っている。
もう、何かが揺れる気配はなかった。
ゆいはそれを言葉にせず、鏡に背を向ける。
その背後で、
クロの尻尾が一度だけ、愛おしそうに静かに揺れていた。
お読みいただきありがとうございました。
今回登場した「影猫」たちは、過去や今の登場人物たちとの間にある古い因果の断片だったりします。
次回のエピソードもどうぞお楽しみに!




